『山形大学紀要(社会科学)』第12巻第1号、1981年7月発行

  

『経済学批判要綱』における利潤率
低下法則と恐慌         

 

松 尾  純

(人文学部 経済学教室)

 

   T はじめに
   U 『要綱』第3篇前半の概観
   V 『要綱』における利潤率低下法則論の基本的性格について
   W 『要綱』における「利潤率低下法則と恐慌」論
   X むすび  

 T はじめに
 マルクスの恐慌論体系の方法と内容を解明するために検討すべき幾つかの重
要な問題の一つに、利潤率低下法則と恐慌との関係をマルクスがどのように把
えていたかという問題をあげるとことができよう。というのは、以下に見るよう
な事情から考えて、マルクスは利潤率低下法則と恐慌との間にある重要な関係
が存在すると考えているように思われるからである。すなわち、『資本論』第
3部第3篇の第15章「法則の内的諸矛盾の展開」は、周知のように恐慌論に関
する諸命題・諸論点を『資本論』中もっとも多く含んでおり『資本論』を基礎
にして恐慌論体系を構築しようとする者にとっての最重要箇所の一つとされて
いる。ところが、この第15章は、「利潤率の傾向的低下の法則」という表題を
もつ『資本論』第3部第3篇を構成する3つの章の最後の一章をなしているに
すぎない。より正確に言うと、 『資本論』第3部「主要原稿」の第3章「資本
主義的生産の進歩につれての一般的利潤率の傾向的低下の法則」1)は、「マルク


1)佐藤金三郎「『資本論』第三部原稿について(1)」、『思想』562号、1971年4月、126
 ページ参照。

ー1ー

スによって節への区分はなされて」おらず「現行版の第3篇における三つの章
への区分と、それらの章の表題は、すべてエンゲルスのもの」2)であり、した
がって現行版第15章は、この「主要原稿」第3章の最後の部分をなしているにす
ぎないのである。しかも、マルクス自身、そこでたとえば次のように述べてい
る。すなわち、「利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがっ
て資本主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。それは過剰生産や
投機を促進し、 過剰人口と同時に現われる過剰資本を促進する」(Karl Marx
Das Kapital, MEW, Bd. 25, Dietz Verlag, 1964, S. 252)、「労働の生
産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法則を生みだし、この法
則は、この生産力自身の発展にたいして特定の点で最も敵対的に対抗し、した
がって恐慌によって克服されなければならない」(ibid., S. 268)、と。
ところで、『資本論』においてマルクスが利潤率低下法則と恐慌との関係をど
のように把えているかという問題を本格的に検討することが本稿の目的ではな
い。本稿では、まず、その準備作業として、『経済学批判要綱』3)(以下『要綱』
と略記する)においてマルクスが利潤率低下法則をどのような内容規定におい
て把握していたか、また、その利潤率低下法則と恐慌との間にどのような関係
が存在すると把えていたかを分析・検討することにする。このような研究手順
をわれわれがとるのは、『要綱』には、粗削りにではあるが、しかしそのため
にかえってより鮮明に、マルクスの、利潤率低下法則と恐慌との関係について
考え方が示されていると考えられるからである。
 『要綱』におけるマルクスの「利潤率低下法則と恐慌」論については、これ
までに幾つかの研究が行なわれてきたが4)、そこには、一つの共通した理解が見

2)同上論文、128ページ。
3)Karl Marx, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie , Dietz
Verlag,1953. 以下、この書からの引用に際しては、引用文直後にページ数のみを
(たとえばS. 225の如く)記すことにする。
4)『要綱』における マルクスの「利潤量低下法則と恐慌」論を取扱った主要な研究
論文として、次のようなものがある。
 @斎藤興嗣「利潤率の傾向的低下法則と恐慌」、『経済学研究』(東京大学)第12
号、1969年2月。
 A木村芳資「『経済学批判要綱』における利潤率低下法則論」、『経済と経済学』
第42号、1979年3月。  B高木彰「『経済学批判要綱』における恐慌と産業循環の理論について(U・完)」、

ー2ー

られる。すなわち、それは、『要綱』では、マルクスは、生産諸力の発展にと
もなって利潤率が低下するという法則を論証するだけでなく、利潤率の低下に
ともなって――「長期的傾向」として、あるいは、生産諸力の発展の「極限的
事態」として――利潤量が絶対的に減少するということを想定しており、そし
て、そのような論理[利潤率の低下→利潤量の減少]によって、マルクスは、
恐慌の必然性や資本主義的生産の崩壊の必然性を説明しようとしている、とい
う理解である。
 たとえば、 斎藤興嗣氏は次のように言われる。 すなわち、 『要綱』では、
「利潤率低下にともなう利潤総額の絶対的減少という事態は、資本の生産力発
展の極限的段階に必然化するものとして論定」(@42)されている。この『要
綱』での「シェーマからは、もちろん短期的循環現象としての恐慌を展開する
ことはできず、むしろ、それは性急に資本の歴史的性格とその止揚の必然性の
直接的論拠として措定されざるをえなかった」(@42)。「この念意において、
この法則は、すぐれて『歴史的見地』から、もっとも重要な法則であることが
主張された」(@42)。ところが『資本論』では、このシェーマは「資本の生
産力発展の極限的事態としてでなく、 労働力の短期的な需給の不均衡からもた
らされる労賃騰貴(労働力の価値以上への価格騰貴)→搾取率低下→利潤率低
下→利潤総額の絶対的減少、という論理におきかえて説明」(@42)されてい
る。この「『資本の絶対的過剰生産』の規定の展開によって、・・・・恐慌の発現
過程解明へのみちが『資本論』体系内部にすえられたのであり、この規定こそ
恐慌の必然性の基礎規定だといえるであろう」(@43)、と。
 また、木村芳資氏は次のように言われる。すなわち、『要綱』では、「資本
蓄積を研究対象から除外し、利潤率低下を、剰余価値の利潤率への転化に際して

   『岡山大学経済学会雑誌』第11巻第3号、1979年11月。
    なお、これ以外に、『要綱』における利潤率低下法則論そのものを主として取
   扱った主要論文として、次のものがある。
  C佐藤金三郎 「『経済学批判準備ノート』における Marx の利潤率低下論につい
   て」、『経済研究』第9巻第3号、1958年7月。
  D平野厚生「マルクスの『利潤率の低落法則』について――『経済学批判要綱』
   を中心にして――」、『経済学』(東北大学)第31巻第3号、1970年。
   以上の論文からの引用に際しては、引用文のあとに、論文番号とページ数を(た
   とえばA35のように略記して)示すことにする。

ー3ー

明らかとなる『直接的な法則』としてのみ扱ったがゆえに、利潤量は、単に増
大しうるとういだけでなく、増大しなければならないという観点を欠くことに
なった」(A146)。そのため、『要綱』には、「利潤率低下法則と恐慌との関係
についてのマルクスの接近方法は二様」(A148)である。 一つは「利潤率低
下自体が、その一定段階で、資本の自己増殖を止揚」し、それが「恐慌におけ
る資本破壊という形で現われてくるという・・・・見解」(A148)であり、もう一
つは、「利潤率低下を利潤量の増加で補償しようとする資本の運動が矛盾を先
鋭化させ恐慌に至る、という見解」(A148)である。『資本論』では前者の見
解、すなわち「利潤率低下が直接に利潤量の減少をもたらすことによって恐慌
を惹き起こすという見解は採用されてはいない」(A149)。それは、「その後
の研究の発展のなかで克服され、『資本論』では利潤率の低下法則と恐慌との
関係は、この法則の『内的諸矛盾の展開』として扱われることになった」(A
149)と。
 さらにまた、 高木彰氏は次のように言われる。 すなわち、 『要綱』では、
「長期的傾向としては利潤率低下と利潤量減少が想定されてい」る(B119)。
「『法則』を『利潤率低下と利潤量減少』として想定するということは、労働
の生産力増大の極限的状況において、 『資本の絶対的過剰生産 』を契機とし
て、資本主義そのものの崩壊を論じる余地を残すことになる・・・・。その点にお
いて、一面では『要綱』の『法則』が『資本主義の崩壊の必然性に解消』され
・・・・・・ることになるとする批判の余地も存しているのである」(B120)。しか
し、他方、「マルクスは、利潤率低下によって恐慌が惹起されるとするのでは
なくて、利潤率低下を阻止するための試みが諸矛盾を惹起こすが故に、恐慌が
生じるとしている」(B122)。「そこでは、利潤率低下と恐慌とは『直結』
されているわけではなく、 利潤率低下を惹起する 生産力の展開過程において
『矛盾』の形成をみて、その矛盾の恐慌としての爆発が不可避であるとされて
いる」(B123)、と。
 以上、見られるように、斎藤、木村、高木の三氏は、『要綱』では、マルク
スは、[利潤率低下→利潤量減少]という内容において利潤率低下法則を理解
し、そのうえで、利潤率低下法則を恐慌の必然性や資本主義的生産の崩壊の必
然性の説明に無媒介に適用しようとしている、と言われるのである。5)

5)斎藤、木村、高木の三氏のこのような『要綱』理解は、大内秀明、伊藤誠両氏に
よる次のような『要綱』批判を強く意識し、そのような批判が生じてくる余地が

ー4ー

 だが、われわれは、『要綱』におけるマルクスの「利潤率低下法則と恐慌」
論についてのこのような把え方に同意することができない。以下、その理由を
詳しく述べることにしよう。そのために、まず、『要綱』第3篇前半の叙述内
容を分析し、そこに展開されている利潤率低下法則論を分析・検討することに
よって、『要綱』の利潤率低下法則論の基本的性格を明らかにすることにしよ
う。

U 『要綱』第3篇前半の概観

 『要綱』では、利潤率低下法則論は、主として、「資本に関する章」の「第
3篇、果実をもたらすものとしての資本。利子。利潤。(生産費用、等)」の前
半(SS. 631-650)――この箇所は、 マルクスが「利潤」および「利潤率」に
関する議論を展開している主たる6)箇所である――で展開されている。そこで、
以下、利潤率低下法則論がどのような論派のなかに登場してくるかを確認する
ために、この第3篇前半の叙述内容を概観することにしよう。
 マルクスは、まず、資本の生産過程および流通過程論を終えて「いまやわれ
われが到達したのは、第3篇、果実をもたらすものとしての資本」(S. 631)
であると述べ、次に、この第3篇が2つの先行する篇に対してどのような位置
にあるかということについて、次のように述べている。「資本はいまや生産と


『要綱』それ自身の叙述のなかにあることを認めたものであると思われる。すなわ
ち、大内氏は次のように言う。『要綱』では利潤率低下法則が「資本主義の崩壊の
必然性に解消」されている(大内力・大内秀明「『資本論』以前の恐慌論――『要
綱』と『学説史』」、大内力編『資本論講座7』、青木書店、1964年所収、 34ペー
ジ)。また、伊藤氏は次のように言う。『要綱』での、「利潤率の低下傾向が『一定
の点をこえる』と恐慌や崩壊をもたらさざるをえないという推論には・・・・問題があ
る」(同氏『信用と恐慌』、東京大学出版会、1973年4月、71ページ)。
6)このように言うのは、 『要綱』の「資本の生産過程」篇や 「資本の流通過程」篇
においてすでに、マルクスはしばしば「利潤」および「利潤率」に関する議論を展
開しているからである。 たとえば、SS. 276ー289, SS.338ー339, SS. 447ー476 ,
SS. 489-491などを見よ。これらの箇所は、おおむね、ブルジョア経済学者たち(ケ
アリ、プライス、バスティア、リカード、マルサスなど)の剰余価値=利潤論に対
する批判が主として展開されている学説史的部分である。

ー5ー

流通との統一として措定され、それが一定の期間、たとえば一年間につくりだ
す剰余価値は、SZ/(P+C)・・・にイコールである」(S. 631)。「資本はいまやみず
からを再生産し、したがって年々生きつづける価値としてだけでなく、また価
値を生む価値としても実現されている」(S. 631)、と。
 これに続けてただちに、マルクスは、「利潤・利潤率」論に入って行く。そ
こで、 まず彼は次のように言う。 一定の期間に資本がつくりだす「剰余価値
は、それが一生産過程で生みだす剰余価値によってばかりではなく、生産過程
の反復の回数」によっても規定されている(S. 631)。いまや流通が「資本の
再生産過程にとりいれられることによって、剰余価値はもはや生きた労働にた
いする単純な、直接的なその関係によって措定されたものとしては現われな」
くなった(SS. 631-632)、と。 次に、このような Introduction を受けて、
マルクスは、利潤および利潤率とは何かという問題に入って行く。まず、利潤
について次のように言う。「資本は、もはやあらたに生産された価値をその現
実の尺度、すなわち剰余労働の必要労働にたいする割合によっては測らず、そ
れの前提としての自己自身で測る。・・・ 前提された資本の価値でそのように測
られた剰余価値・・・は――利潤である。・・・資本の生産物は利潤・・である」(S.
632)。また、 利潤率について次のように言う。「剰余価値の大きさは資本の価
値の大きさで測られ、 したがってまた利潤の率(Rate des Profits) は、資
本の価値にたいするその価値の比率によって規定される」(S. 632)。利潤・
利潤率について以上のような簡単な規定を与えたのち、それらのより一層の展
開を中断しているが、 その理由らしきことを次のように述べている。 すなわ
ち、「ここに属することの非常に多くの部分はいままでに(oben)展開ずみで
ある。しかし先取りしてあるものはここへもどしてこなければならない」(S.
632)、と。
 次に、先行する諸篇においてすでに「先取り」されていた論点を「ここへも
どして」きたと想定してか、マルクスは、次のように述べている。「これまで
に (vorhin) 展開した一般的諸法則は簡単に次のように要約できる。現実の
剰余価値は、必要労働にたいする剰余労働の割合によって・・・ 規定される。し
かし、利潤の形態における剰余価値は、生産過程に前提された資本の総価値で
測られる。したがって利潤の率は――同じ剰余価値、必要労働にたいする割合
で同じ剰余労働を前提すれば――、原材料と生産手段の形態で存在する資本の
ー6ー

部分にたいする生きた労働と交換される資本の部分の割合に依存する」( SS.
632-633)、と。ところが、このような簡単な利潤率の形態規定そのものから、
マルクスは、ただちに、――すなわち、生産諸力の発展にともなって「原材料
と生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする生きた労働と交換される資
本の部分の割合」が減少するという「資本の発展法則」(S. 633)を少しも考
慮に入れずに――利潤率の低下を説いている。すなわち、上述の利潤率の形態
規定そのものから、ただちに、マルクスは、「したがって生きた労働と交換さ
れる部分が少なくなればなるほど、それだけ利潤の率は小さくなる。したがっ
て資本としての資本が直接的労働にたいする比率でより大きな部面を占めれば
占めるほど、つまり相対的剰余価値――資本の価値創造力――が増大すればす
るほど、それだけますます利潤の率は低下する」(S. 633)、という結論を引
き出しているのである。したがって、ここではまだ、マルクスは、資本主義的
生産の進展・生産諸力の発展にともなって利潤率が低下せざるをえないという
「資本の発展法則」を説明してはいないと言えよう。マルクスがここで論じえ
ていることは、もしこれこれであれば、「利潤の率は小さくなる」であろうと
いう可能性にすぎないのである。
 しかし、このような利潤率低下法則論の不備を補うかのように、それにすぐ
続けて、マルクスは、「資本の増大」・「労働の生産力の増大」にともなって
「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換される資
本の比率」が「減少」する (S. 633) という 「資本の発展法則」を考慮に
入れたうえで、利潤率の低下を論証している。すなわち、「すでに見たように
(Wir haben gesehn )、すでに前提された、 再生産に前提された資本の大き
さは、生産された生産力としての、見せかけの生命を与えられた対象化された
労働力としての固定資本の増大において、特有のかたちに表現される。生産す
る資本の価値の総量は、その資本のおのおのの部分において、不変の価値とし
て存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換される資本の比率の減少と
して表現される。たとえば製造工業をとって見よ。機械装置等の固定資本が増
大すれば、それと同じ割合で原料のかたちで存在する資本部分はこのばあい増
大しなければならないが、他方生きた労働と交換される部分は減少する」(S.
633)。なお、念のために付言しておくと、「なるほど・・・原料および固定資本
の形態で存在する資本部分の割合が、生きた労働と交換される資本部分と均等
に上昇するばあいには、資本は増大しうるし、またそれと同じ割合で利潤の率
ー7ー

が増大しうる。しかしこの均等性は、労働の生産力の増大や発展のない資本の
増大を想定している。・・・・・・このことは資本の発展法則と矛盾」するのである
(S. 633)、と。このように、資本主義的生産の進展にともなって利潤率が低
下せざるをえないという「法則」を説明したのち、以下 S. 643 まで、マルク
スは、この「法則」そのものの一層の内容展開を行ない、さらにそれが資本主
義的生産の発展に対してもつ意義を検討し、最後にブルジョア経済学者たちの
利潤率低下論に対する批判を行なっているが、それらの立ち入った検討は次節
以下で行なうことにする。
 以上の利潤率低下法則論に次いで、 マルクスは、 「本題にもどろう」(S.
644)と言って、以下 S.648 まで再び「利潤」および「利潤率」の形態規定を
行なっている。いま、それらの形態規定のうち、新たな内容をもつものだけを
拾って見ることにしよう。「利潤」に関して、マルクスは、まず次のように言
う。「資本家は労働によって生きるのではないから、利潤によって、すなわち
わがものに領有した他人の労働によって生きなければならない。・・・・資本は所
得としての利潤に・・・・・関係する。・・・このように利潤は賃金と同様に分配形態
として現われるのである。しかし、資本はただ利潤の資本への――剰余資本へ
の――再転化を通じてだけ増大しうるのだから、利潤はまた資本にとっての生
産形態でもある」(S. 644)、と。要するに、利潤は、「賃金と同様に分配形態」
であると同時に「資本にとっての生産形態」でもあるということである。次に、
マルクスは、「利潤」を「生産費用 Produktionskosten」・「出費 Auslagen」
との関係で次のように規定している。「利潤は・・・・受けとられた価格のうち出
費をつぐなうだけの価格以上に出る超過分によって規定される」( S. 645)。
したがって 「個別資本にとっては、 利潤は必ずしもその剰余価値によっては
・・・制限されずに、それが交換で受けとる価格の超過分に比例している」 (S.
645-S. 646)。「利潤にたいして、生産に前提された資本の価値は前貸――生
産物で補填されなければならない生産費用――として現われる。生産費用を補
填する価格の部分を控除したのちの超過分が利潤をなす。剰余労働・・・・は、・・・
・・・資本によって前貸しされた価値のうちには・・・はいらないから、この剰余労
働は、生産物の生産費用のうちにふくまれ、剰余価値の源泉・・・・をなすもので
あるが、――資本の生産費用のうちには現われない。・・・ 生産物の価格のうち
生産費用の価格をこえる超過分は資本に利潤をあたえる。したがって資本の現
実の生産費用・・・・が実現されることなくして、資本にとっての利潤は実存しう
ー8ー

る。利潤・・・は、剰余価値・・・よりも小でありうる」(S. 646)、と。
 最後に、以上の「利潤」および「利潤率」に関する議論を踏まえて、マルク
スは、「剰余価値の利潤の姿態への変形に際して明らかとなる二つの直接的な
法則」(S. 648)なるものを提示している。
 一つは、利潤率の形態規定そのものから「直接」出てくる法則であり、要す
るに、 利潤率( 剰余価値不変資本+可変資本 )は不変資本がゼロでないかぎり剰余価値
(剰余価値可変資本)よりも小さいということである。それをマルクスは次のように
述べている。「利潤として表現される剰余価値は、つねに剰余価値の直接的な
現実性における実際の高さよりも小さい比率として現われる。なぜなら、資本
の一部分、生きた労働と交換される部分で測られる・・・ かわりに、それは全体
で測られるからである。・・・・・利潤または・・・利潤率は、資本が労働を搾取する
現実の率を表現するものではけっしてなく、つねにもっとはるかに小さな関係
割合を表現しており」(S.648)、「利潤率が現実の剰余価値率を表現できるの
は、 資本全体がただ労働賃金だけに転化されるというような場合だけである」
(S. 648 )、と。 したがって、 この第一の法則は、マルクスの言うように、
「剰余価値の利潤の姿態への変形に際して明らかとなる」、すなわち利潤率の
形態そのものからただちに導き出しうる、「直接的な法則」であると言うこと
ができよう。
 「剰余価値の利潤の姿態への変形に際して明らかとなる」「第二に重大な法
則 (Das zweite große Gesetz)」(S. 649)は、SS. 633-643においてす
でに明らかにされた利潤率低下法則論を総括したものであると考えられる。そ
の詳しい内容の検討は次節以下に譲るとして、ここではその主要な箇所を引用
しておくだけにしよう。すなわち「第二の重大な法則はこうである。資本が生
きた労働を対象化された労働の形態ですでに領有しおわっている程度におうじ
て、・・・・・・あるいは労働の生産力が増大する程度におうじて、利潤率は低下す
る。・・・利潤率は、相対的剰余価値・・・・・の増大に、生産諸力の発展に、そして
[不変]資本として生産に応用された資本の大きさに、反比例している。言い
かえれば、第二の法則は、資本の発展、その生産力の発展、ならびに資本が対
象化された価値として自己を措定した規模の発展、つまり労働および生産力が
資本化されている規模の発展、 とともに 利潤率が低下するところの傾向であ
る」(S. 649)。ところで、 この法則に関して問題になることは、はたして、
ー9ー

それが「剰余価値の利潤の姿態への変形に際して明らかとなる・・・ 直接的な法
則」であると言うことができるかどうかである。「剰余価値の利潤の姿態への
変形」論、 すなわち「利潤」および「利潤率 」の形態規定それ自体において
は、「生産諸力の発展」は不可欠な理論的要素ではない。しかし、すでに見た
マルクスの説明からもわかるように、利潤率低下法則論にとっては、「生産諸
力の発展」とともに「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた
労働と交換される資本の比率」が「減少」する ( S. 633)ということは不可
欠な要素を成していると思われる。したがって、この「第二の法則」は「直接
的な法則」ではないと言うことができるかもしれない。がしかし、いま、「剰
余価値の利潤の姿態への変形」を論じる論理段階では、「生産諸力の発展」と
いう契機がそれまでに展開されたすべての諸理論とともに当然前提されている
のであると考えるならば、 マルクスの言うように、 この「第二の法則」は、
「剰余価値の利潤の姿態への変形に際して明らかとなる・・・・直接的な法則」で
あると考えることができるであろう。
 以上、『要綱』「第三篇、 果実をもたらすものとしての資本」 前半の「利
潤」および「利潤率」に関する議論の大要を見てきたが、次に、この『要綱』
第3篇に展開されているマルクスの利潤率低下法則論そのものの内容を立ち入
って分析し、その基本的性格を明らかにすることにしよう。

V 『要綱』における利潤率低下法則論の基本的性格について

 (1)まず、『要綱』第3篇においてマルクスが利潤率低下法則をどのように
論証しているかを見ることにしよう。
 この問題について言うと、すでに若干見たように、マルクスは、資本主義的
生産の進展とともに労働の生産力が増大しその結果として「不変の価値として
存在する資本部分にたいする、 生きた労働と交換される資本の比率 」が「減
少」するという「資本の発展法則」を考慮に入れたうえで、利潤率は「資本の
増大」とともに低下していかざるをえないという「法則」を論証しており、け
っして、利潤率の単なる形態規定そのものからただちに(無媒介に)利潤率の
低下を論証しようとしているわけではない。以下、マルクスの論証方法を詳し
く見ることにしよう。
 利潤率の低下に関して、マルクスはまず次のように述べている。「利潤の率

ー10ー

は――・・・・必要労働にたいする割合で同じ剰余労働を前提すれば――原材料と
生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする生きた労働と交換される資本
の部分の割合に依存する。したがって生きた労働と交換される部分が少なくな
ればなるほど、それだけ利潤の率は小さくなる。したがって資本としての資本
が直接的労働にたいする比率でより大きな部面を占めれば占めるほど・・・・それ
だけますます利潤の率は低下する」(S. 633)、と。ここで述べられているこ
とは、剰余価値率が不変とすれば、利潤率は「原材料と生産手段の形態で存在
する資本の部分にたいする生きた労働と交換される資本の部分の割合」に依存
しており、したがってもしこの「割合」が小さくなればそれだけ利潤率は小さ
くなるであろうということにすぎない。もしこのように言えるとすれば、ここ
ではまだ、マルクスは、資本主義的生産の進展とともに利潤率が低下するとい
う「法則」を明らかにしたことにはなっていないと言えよう。というのは、剰
余価値率が上昇すればどうなるかということはいまは措くとしても、第3篇冒
頭からこの引用文までの叙述を見るかぎり、肝心の点、すなわち資本主義的生
産の進展とともに「原材料と生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする
発展法則」については、まだ何も説明されていないからである。7)
 しかし、このような利潤率低下法則論の不備を補うかのように、さきの引用
文にすぐ続けて、マルクスは、「資本の発展法則」を「すでに見た」こととし
て確認し、そのうえで「資本の価値の大きさに比例して」利潤率が低下してい

7)ところが、 平野厚生氏は、 さきに見たマルクスの叙述 (S. 632f.)を引用して
(D13ー14)、次のように言われる。「利潤率の低落が利潤率を表わす形式そのもの
から直接に論証されている」(D14)。「利潤率の低落が、c/v が増大する現実的な
根拠である労働の生産力の発展の問題とは一応きり離して、それとは無関係に、さ
しあたり単純に利潤率そのものから利潤率の性格として証明されている」(D14)。
これこそ『要綱』における「マルクスの『利潤率の低落法則』の論証における基本
的な立場」(D18.以上傍点は引用者のもの)である、と。しかし、資本主義的生
産の進展とともに「原材料と生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする生き
た労働と交換される資本の部分の割合」が小さくなっていくという「資本の発展法
則」がまだ提示されていない以上、ここでの「利潤率の低下」論をもって、平野氏
の言うように、利潤率低下法則が「論証」・「証明」されたとすることはできない
ように思われる。

ー11ー

かざるをえないという「法則」を論証している。すなわち、まず、資本の増大
とともに「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換
される資本の比率」が「減少」するという「資本の発展法則」をマルクスは次
のように確認している。「すでに見たように、8) すでに前提された、再生産に前
提された資本の大きさは、生産された生産力としての、見せかけの生命を与え
られた対象化された労働としての固定資本の増大において、特有のかたちに表
現される。 生産する資本の価値の総量は、 その資本のおのおのの部分におい
て、不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換される
資本の比率の減少として表現される。たとえば製造工業をとって見よ。機械装
置等の固定資本が増大すれば、それと同じ割合で原料のかたちで存在する資本
部分はこのばあい増大しなければならないが、他方生きた労働と交換される部
分は減少する」(S. 633)、と。次に、この確認を踏まえて、マルクスは、「資
本の価値の大きさに比例して」利潤率が低下していかざるをえないことを明ら
かにしている。すなわち、「したがって、生産に前提された資本――また生産
において資本として機能する資本部分――の価値の大きさに比例して、利潤の
率は低下する。資本がすでに獲得した実存の範囲が大きくなればなるほど、新
たにつくりだされた価値の、前提された価値(再生産された価値)にたいする
割合は、それだけ小さくなる」(S. 633)、と。
 以上のように、マルクスは、 まず、 剰余価値率が不変とすれば、利潤率は
「原材料と生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする生きた労働と交換
される資本の部分の割合」に依存するという利潤率の形態規定を行ない、次い

8)マルクスがこのように言うのは、 すでに「資本の生産過程」篇や 「資本の流通過
程」篇において、資本主義的生産の進展・生産諸力の発展に伴って資本の構成が高
度化するという「資本の発展法則」を確認しているからである。たとえば、彼は次
のように述べている。「生産力の増大は、資本の全価値が同じままであるとすれば、
資本の不変部分(材料と機械からなる)がその可変部分、すなわち生きた労働と交
換される、労賃の元本を構成する部分にくらべて増加することを想定している。こ
のことは同時にまた、より少量の労働がより多量の資本を動かすという形でも現わ
れる。生産過程にはいる資本の全価値が増大すれば、・・・ 労働元本(資本のこの可
変部分)は相対的に減少するにちがいない」(SS. 292-293)。「固定資本の発展は、
なお富一般の発展の、あるいは資本の発展の程度を示している」(S. 594)。「固
定資本の大規模な使用は生きた労働と交換される資本部分の減少(相対的)を前提
とする」(S. 603)。

ー12ー

で、その補足説明として、もしこの「割合」が小さくなれば利潤率は低下する
であろうと述べ、 次に、 「資本の大きさ[の増大]につれてこの「割合」=
「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換される資
本の比率」が減少していかざるをえないという「資本の発展法則」を「すでに
見た」こととして確認し、最後に、「資本の価値の大きさに比例して」利潤率
が低下していかざるをえないという「法則」を論証しているのである。
 ところで、ここ (S. 633)での利潤率低下法則の論証方法について、次の
ことを指摘しておかなければならない。すなわち、マルクスは、まず「必要労
働にたいする割合で同じ剰余労働」(S. 633)を、すなわち同じ剰余価値率を
前提したうえで、利潤率は「原材料と生産手段の形態で存在する資本部分にた
いする生きた労働と交換される資本の部分の割合」( S. 633 )に依存すると
述べ、以下、この「割合」の減少という側面だけから利潤率の低下を論定しよ
うとしており、資本主義的生産の進展・生産諸力の発展に伴って剰余価値率が
上昇した場合、利潤率の低下がはたして阻止されうるのかどうかという点につ
いては、少なくともこれまでのところマルクスは何も検討していない。しかも、
さきの引用文にすぐに続けて、マルクスは次のように述べている。「だから剰
余価値が同じ、 すなわち 剰余労働と必要労働との割合が 同じ前提されても、
利潤は不同であリうるし、またそれは諸資本の大きさとの割合では不同でなけれ
ばならない。現実の剰余価値」――これは、マルクスの規定によると、「必要
労働にたいする剰余労働の割合によって・・・・規定される」(S. 632)――「が
上昇しても、利潤率は低下しうる。現実の剰余価値が低下しても、利潤率は上
昇しうる」(S. 633)。ここで述べられていることは、剰余価値率が同じまま
であろうと、上昇しようと、 低下しようと――おそらく、 マルクスの考えで
は、「原材料と生産手段の形態で存在する資本部分にたいする生きた労働と交
換される資本の部分の割合 」の変化いかんでは――利潤率は低下もしうるし、
上昇もしうるし、同じままでもありうる、ということである。とすれば、ここ
ではまだ、マルクスは、剰余価値率が上昇する場合でさえも利潤率は低下して
行くという「法則」を論証してはいないと言えよう。因に、『資本論』では、周
知のように、 この点を考慮に入れたうえで利潤率低下法則が論定されており、
たとえば、マルクスは次のように述べている。資本主義的生産の進展とともに
「不変部分に比べて・・・・・可変部分が相対的に減少して行く」が、それにつれて
「たとえ労働の搾取度は変わらなくても、またそれが上がる場合にさえも、利
ー13ー

潤率は下がって行く」( Karl Marx ,  Das Kapital , MEW ,  Bd. 25, Dietz
Verlag, 1964, S. 230)。というのは、「生産手段につけ加えられる生きた労
働の総量が この生産手段の価値に比べ減って行くのだから、 不払労働もそれ
を表わす価値部分も前貸総資本の価値に比べて減っていく」( ibid,. S. 226)
からである、と。9)
 さらに、 マルクスは、 S. 649 f. でも、「剰余価値の利潤の姿態への変形
に際して明らかとなる二つの直接的な法則」のうちの「第二の重大な法則」と
して、利潤率低下法則[「利潤率が低下するところの傾向」(S.649)]につい
て論じているが、ここでも同様に、彼は、「労働の生産力の増大」を重要な契
機にして利潤率の低下を説いている。すなわち、次のように述べている。「第
二の重大な法則はこうである。資本が生きた労働を対象化された労働の形態で
すでに領有しおえている程度におうじて、 したがって 労働がすでに資本化さ
れ、それゆえにまたますます固定資本の形態で生産過程において作用する程度
におうじて、あるいは労働の生産力が増大する程度におうじて、利潤率は低下
する。労働の生産力の増大は、 a) 労働者が資本に与える相対的剰余価値ある
いは相対的剰余労働時間の増大と、 b) 労働力能の再生産に必要な労働時間の
減少と、 c) 一般に生きた労働と交換される資本部分の、対象化された労働お

9)なお、 参考のために指摘しておくと、 マルクスは、いわゆる「23冊のノート」
(1861−63年草稿「経済学批判―第3章 資本一般」)中の草案「第3章 資本と利
潤」の第7節とそれに続く箇所において(第16―17冊、 999−1028草稿ページ)利潤
率低下法則論を展開しているが、そこではすでに、第12―13冊でのリカードの利潤
率低下法則論の批判を踏えて、剰余価値率が上昇する場合にさえ利潤率が低下する
ことが確認されている。たとえば、次のように述べている。「総資本のうち労賃に
前貸される比例的部分の減少とともに、剰余価値率が上昇するにもかかわらず、剰
余価値の絶対的大きさは、前貸された資本に比べて減少する」(Karl Marx / Friー
edrich Engels Gesamtausgabe , Abt. U, Bd. 3, Teil 5 , Dietz Verlag,
1980――以下MEGA, U, 3/5と略記する――S. 1679)。「可変資本が資本の総額に
比べて減少するのと同じ割合では剰余価値率は上昇しない。・・・・それゆえ利潤率の
低下[が生じる]」(ibid., S. 1677)、と。さらに、S. 1638を見よ。そこでは、利
潤率の低下を妨げるためには、剰余価値率を上昇させなければならないが、しかし
「それは、一定の限界内でだけ可能であり」、経験にてらして見れば利潤率の低下
する傾向が「優勢であるにちがいない」、ということが述べられている。

ー14ー

よび前提された価値として生産過程に参加する資本部分にたいして[比較して
の]減少と、同意義である。それゆえ利潤率は、相対的剰余価値あるいは相対
的剰余労働の増大に、生産力の発展に、そして[不変]資本として生産に充用
される資本の大きさに、反比例している。言いかえれば、第二の法則は、資本
の発展、その生産力の発展、ならびに資本が対象化された価値としてすでに自
己を措定した規模の発展、つまり労働ならびに生産力が資本化されている規模
の発展、とともに利潤率が低下するところの傾向である」(S. 649)、と。こ
のマルクスの説明の主旨を 簡単にたどると、 次のようになろう。 すなわち、
「労働の生産力の増大」は、「一般に生きた労働と交換される資本部分の、対
象化された労働および前提された価値として生産過程に参加する資本部分にた
いして[比較しての]減少」と同意義である、したがって「労働の生産力が増
大する程度におうじて、 利潤率は低下する」のである、と。 なお、言うまで
もなく、ここには当然、利潤率は「原材料と生産手段の形態で存在する資本の
部分にたいする生きた労働と 交換される資本の部分の割合に依存する」( S.
633)という利潤率の形態規定が想定されている。
 ところで、以上のように、マルクスは、利潤率低下の主要原因を、資本蓄積
の進展とともに生じる資本構成の変化(「不変の価値として存在する資本部分
にたいする、生きた労働と交換される資本の比率の減少」)に求めているが、し
かし、彼は、利潤率低下の原因をそれだけに限定して他の諸原因を無視してい
るわけではない。 というのは、マルクスは次のように述べているからである。
「利潤の率に作用し、それを長短なんらかの期間押し下げることのできる他の
諸原因は、まだここには属さない」(S. 649)。 これによってわかるように、
マルクスは、これまで論じてきた利潤率低下の主要原因以外にもいろいろな原
因が考えられうることを十分承知しながら、それらはまだここ(「資本一般」)
には属さないと考えているのである。したがって、『要綱』第3篇での利潤率
低下の原因論は、あくまでも、資本の最も一般的・抽象的な「本性」を解明す
る論理段階での原因論であって、それによって、マルクスは、利潤率低下法則
が「競争にさきだって、また競争をかえりみることなくして理解できる」(S.
638)資本の内在的な法則であることを示そうとしたのである。そして、彼は、
他の論理諸段階へ移るにつれて、「資本一般」では取り上げられなかった「他
の諸原因」がつぎつぎと取り上げられるようになると考えていたと思われる。
 (2) 『資本論』では、資本蓄積の進展につれて利潤率が低下するが、それに
ー15ー

もかかわらず、「社会全体によって取得される利潤の絶対量は増大しなければ
ならない」(Karl Marx, op. cit., S. 229)ことが指摘されているが、『要
綱』では、利潤率の低下にともなってはたして利潤の絶対量がどのように変化
するとされているであろうか。『要綱』における利潤率低下法則論の基本的性
格を明らかにするために、次にこの問題を検討することにしよう。
 この問題に関して言うと、マルクスはまず次のように述べている。「総利潤
・・・は、・・・・・・平均して(im Durchschnitt)・・・・・・資本の大きさにともなって
増大する。したがって利潤の率が資本の価値に反比例する場合にも、利潤の総
額はそれに正比例するであろう」(S. 634)、と。これは要するに、資本蓄積
の進展につれて利潤率が低下するが、他方利潤の絶対量は増大する、というこ
とである。だが、すぐ続けて、マルクスは次のように述べている。すなわち、
この命題は、「労働の生産力の発展」の全段階にたいして正しいのではなく、
その「ある限られた段階にたいして正しいにすぎない」。たとえば、「10%の
利潤をあげる100の資本は、 2%の利潤をあげる1,000の資本よりもそのつくり
だす利潤総額は小さい」(S. 634)が、しかし、「もしも1,000の資本の利潤率
がただの1/2%にすぎななかったとすれば、利潤の総額は小さいほうの資本のそ
れにくらべて半分、 5にすぎないであろう」(S. 634)、と。ここで述べられ
ていることは、次のようなことであると理解することができよう。すなわち、
資本蓄積の進展につれて 利潤率が低下するが、 それにもかかわらず総利潤は
「資本の大きさにともなって増大する」。しかし、「労働の生産力の発展」の
全段階においてそのことが言えるのではなく、その「ある限られた段階」にお
いてだけそのことが言えるのである。言いかえれば、「労働の生産力の発展」
のある段階では総利潤は 「資本の大きさにともなって増大する」が、 しかし
「労働の生産力の発展」の他のある段階では総利潤は資本の大きさにともなっ
て減少する。そして、これらいろいろな段階を「平均して」見れば、総利潤は
「資本の大きさにともなって増大する」のである、と。
 まさにこのように考えていたからこそ、マルクスは、さきの叙述に続けて次
のように述べているのである。「したがって一般的に言えば次のようになる。
すなわち、もし利潤率が資本が大きくなるにしたがって減少するとすれば、と
いってもそれが資本の大きさに比例してでなければ、利潤の率は減少するにも
かかわらず、総利潤は増大する。もし利潤率が資本の大きさに比例して減少す
るならば、その総利潤は、小さい資本のそれと同じままであり、変らない。も
ー16ー

し利潤率が資本の大きさが増大するよりも大きな割合で減少するならば、大き
いほうの資本の総利潤は、小さいほうの資本と比べて、利潤率が減少するのと
同じように減少する」(S. 634)、と。要するに、利潤率の低下と資本蓄積、こ
の両者の程度いかんによって、総利潤が、増大したり、減少したり、同じまま
であったりする、というのがマルクスの立場である。
 このように、利潤率の低下と利潤量の増減の関係について述べたのち、すぐ
続けてマルクスは、利潤率低下法則が資本主義的生産においてもつ意義につい
て、次のように述べている。「これはあらゆる点で、近代の経済学の最も重要
な法則であり、そして最も困難な関係を理解するための最も本質的な法則であ
る。それは歴史的見地からして最も重要な法則である。それは、その単純さに
もかかわらず、いままでにけっして理解されたことがなく、まして意識的に言
い表わされたこともない法則である」(S. 634)、と。そして、以下S. 636ま
で、利潤率低下法則がこのように意義づけられる理由が述べられているが、そ
の詳しい分析は次節で行なうことにする。
 ところで、以上のように、マルクスは、一般的に言えば、利潤率の低下に利
潤量の減少が 伴うような段階もあれば、 利潤量の増大が伴うような段階もあ
り、また利潤量が増大も減少もしない段階もあり、これらの諸段階を「平均し
て」見れば利潤率の低下には 利潤量の増大が伴う、 と考えているようである
が、このような見地は、マルクスがバスティアやケアリの「調和論」の論拠の
一つをなしている彼らの利潤率低下論を批判するときにも(SS. 640-643)、貫
かれているように思われる。すなわち、マルクスによれば、バスティアやケア
リは、「生産的資本が増大するにともなって利潤率が低下する傾向がある」が、
しかしその際、「労働率(Arbeitsrate)、すなわち労働者が総生産物のうちか
ら受けとる比率、の価値は増大」し、「資本は総利潤の増大によって保全され
る」、したがって「不愉快な対立や敵対は、完全な調和のうちに把大化してい
く」(S. 640)、と主張しているが、このような主張に対して、マルクスは、リ
カードを援用しつつ次のように言う。「リカードは彼のバスティアを予知して
いた。総額としての利潤が利潤率の低下にもかかわらず資本の増大とともに増
大するということを強調しつつ――したがってバスティアの賢さのいっさいを
先取りしつつ――、 この累進はただ 『ある一定の期間だけ真実である』と述
べることを忘れなかった。彼は言葉どおりには次のように言っている。『・・・・
100,000ポンドの蓄積のくりかえしによって、 利潤の率が20%から19、18、17
ー17ー

%と低下すると仮定すると、われわれは、資本の相次ぐ所有者によって受けと
られる利潤の全総額はつねに累進的である、と予期することができる。・・・・し
かしこの累進はある一定の期間だけ真実である。・・・・資本が大量に蓄積されて
利潤が低下したのち、さらにそれ以上の蓄積は利潤の総額を減少させる。・・』
・・・・このことは当然のことながら、バスティア君が被乗数の増加をどんどん進
めて、その結果それが乗数の減少とともに生産物の増大を形成するという子供
臭い演算を行なうということを妨げない」(SS. 641-642)、と。ここで述べら
れていることは、要するに、利潤率の低下には利潤量の増大が必ず伴うという
ことは、 理屈のうえでの「子供臭い演算 」としては可能であるかもしれない
が、しかし、それは、「ある一定の期間」でだけ可能である、ということであ
ると考えられる。それゆえ、マルクスは、ここでは、利潤率の低下には必ず利
潤量の増大が伴うということを一般的法則と考えることを拒否しているだけで
あって、けっして、それとは逆のこと、すなわち利潤率の低下には「長期的傾
向」として利潤量の減少が伴うとか、利潤率の低下に利潤量の減少が伴うとい
う事態が資本蓄積の極限的段階として必ず到来するとか、ということを主張し
ているわけではないと考えられる。
 以上、われわれは、はたして『要綱』において、利潤率の低下に伴って利潤
量がどのように変化すると考えられているかを考察してきたが、その結果、次
のようなことが明らかになった。すなわち、利潤率の低下には必ず利潤量の増
大が伴うわけでもないし、またそれとは逆に、必ず利潤量の減少が伴うわけで
もない。利潤率の低下の度合と資本蓄積との関係いかんによって、いろいろな
場合がある。たとえば、利潤率の低下に利潤量の増大を伴うような資本蓄積の
「段階」・「期間」もあれば、利潤率の低下に利潤量の減少が伴うような資本
蓄積の「段階」・「期間」もあり、また利潤率が低下しても利潤量が増減しな
いような資本蓄積の「段階」・「期間」もあり、これらいろいろな資本蓄積の
「段階」・「期間」を「平均して」見れば、「総利潤・・・・ は、・・・資本の大き
さに伴って増大する」(S. 634)、と言えよう、と。10)

10)「23冊のノート」の第16―17冊における利潤率低下法則論においても、マルクス
は、この問題について『要綱』と同じような把え方をしているように思われる。一
般的利潤率の低下傾向の原因について考察(MEGA, U, 3/5, SS. 1633-1639)し
たのち、マルクスは次のように述べている。すなわち、「さて、この法則からひと
りでに、資本の蓄積が衰えるとか、あるいは、利潤の絶対量・・・・・が減少するとか、

ー18ー

 もし以上のように 理解することができるとすれば、 次のような『要綱』理
解、すなわち『要綱』では「利潤率低下にともなう利潤総額の絶対的減少とい
う事態は、資本の生産力発展の極限的段階に必然化するものとして論定されて
いた」(@42)とか、『要綱』段階では「長期的傾向としては利潤率低下と利
潤量減少が想定されていた」(B119)とか、という理解、はすべて、『要綱』
における利潤率低下法則論の理解としては不正確であると言わざるをえない。
 ところで、以上のように、『要綱』では、利潤率の低下の度合と資本蓄積の
関係いかんによって、利潤率の低下に伴って利潤量が増大する場合もあれば減
少する場合もあるということが、「一般的」(S. 634)な法則とされているわ
けであるが、このような見地は、『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低
下の法則」の第13章「法則そのもの」での把え方とは明らかにその基調を異に
している。というのは、『資本論』では、利潤率の低下に伴って利潤量がただ
増大することが「できる」( Karl Marx, op. cit., S. 228)というだけで
なく、増大し「なければならない」(ibid., S. 228)という見地が確立され、
しかもそれが「法則」(ibid., S.236)として定式化されているからである。
たとえば、『資本論』では次のように述べられている。「利潤の絶対量は、利潤
率の進行的低下にもかかわらず、増大することができるし、またますます増大
して行くことができるのである。ただそれができるだけではない。資本主義的
生産の基礎の上では――一時的な変動を別とすれば――そうならなければなら

という結論が生じてくるわけではない」(ibid., S.1639)。たとえば、総資本500
(不変資本100、可変資本400、剰余価値率15%)の利潤率は12%で利潤量は60であ
るのに対して、総資本10,000(不変資本8,000、可変資本2,000、剰余価値率30%)
の利潤率は6%で利潤量は600である。「リカードはすでに、利潤率の低下に伴う利
潤量の増大は絶対的ではなく、もしかすると資本の増大にもかかわらず利潤量が減
少することさえありうることに気づいていた。奇妙にも彼はそれを一般的に把握せ
ずに、ただ一つの例を与えただけである」(ibid., S. 1640)。「一般に、利潤率が
資本が増大するよりもゆるやかに低下するかぎり、利潤量は増大する・・・ 。もし利
潤が資本が増大するのと同じ割合で低下すれば、資本の増大にもかかわらず利潤量
は同じままであろう・・・・。最後に、もし利潤率が資本が増大するよりも大きな割合
で低下すれば、利潤率とともに利潤量もまた・・・減少するのであろう・・・ 」(ibid.,
S. 1640)、と。こう述べたのち、「付随的に」、マルクスは、「周期的に」生じる「過
剰生産」の問題に言及している(ibid., SS. 1640-1641)。

ー19ー

ないのである」(ibid., S. 228)。「生産・蓄積過程の進展につれて・・・社会的
資本によって取得される利潤の絶対量は増大しなければならないのである。・・・
・・・こうして、同じ[生産および蓄積の――松尾]諸法則が、社会的資本にとっ
ては、増大する絶対的利潤量と低下する利潤率とを生みだすのである」(ibid.,
S.229)。「一般的利潤率の傾向的低下を生みだすその同じ原因 [労働の社会
的生産力の発展――松尾]が、・・・・・・資本が取得する剰余労働(剰余価値、利
潤)の絶対量または総量の増大をひき起こすのである」(ibid., S. 235)、と。
 「一時的な (vorübergehende) 変動を別とすれば」という限定が付されて
いるところから推して、マルクスは、『資本論』でもなお、利潤率の低下に際
して利潤量が減少するような局面がありうることをまったく否定してはいない
が、しかし、『要綱』での把え方と『資本論』でのそれがまったく同じである
と見るべきはなかろう。 『資本論』では、 利潤率の低下に伴って利潤量が増
大するということが「法則」として意義づけられているのに対して、利潤量が
減少するという事態は――可能性こそ否定されていないが――あくまでも文字
どおりただ「一時的な(vorübergehende)」な事態として把えられている。こ
れに対して、『要綱』では、利潤率の低下に伴って利潤量が「平均して」増大
するという「命題」が述べられると同時に、「一般的に言えば」利潤率の低下
と資本量の増大との相互関係いかんによって利潤量が増大する場合もあれば、
減少する場合もあり、また同じままの場合もあるとされ、いろいろな態様の資
本蓄積の「段階」・「期間」がほぼ平等に位置づけられていると見ることがで
きる。言いかえれば、利潤量が減少するという事態に対して置かれている比重
が、 『資本論』でよりも『要綱』 での方が重いと言えよう。それを反映して
か、利潤率の進行的低下に伴って利潤量が増大するということが、『資本論』
では「法則」として定式化されているのに対して、『要綱』では、ただそうい
うことが「平均して」見た場合に認められるとされているだけで、「法則」と
して把えられていない。

W 『要綱』における「利潤率低下法則と恐慌」論

 以上、 われわれは、 『要綱』における利潤率低下法則論の基本的性格――
(1)法則の論証方法、(2)利潤率の低下と利潤量の増減の関係把握、の2点につい
て――見てきたが、以下本節では、『要綱』においてマルクスは、利潤率低下

ー20ー

法則が資本主義的生産の進展や恐慌の発生にとってどのような意義を有してい
ると考えていたかを検討することにしよう。
 この問題に関して言えば、まず、マルクスは次のように述べている。「これ
11)あらゆる点で、近代の経済学の最も重要な法則であリ、そして最も困難な関
係を理解するための最も本質的な法則である。それは歴史的見地カらしても最も
重要な法則である。それは、その単純さにもかかわらず、いままでにけっして
理解されたことがなく、 まして 意識的に言い表わされたこともない法則であ
る」(S. 634)、と。このように、マルクスは、利潤率低下法則が資本主義的生
産においてもつ重要な意義について概括的に述べたのち、このような意義づけ
がなられる理由を詳しく論じていく(SS. 634-637)。
 まず、マルクスは、利潤率低下法則は資本主義的生産の進展に伴う生産諸力
の発展を表現しており、それと同意義であることを指摘している。「この利潤
の率の減少は、次のことと同意義である。1)すでに生産された生産力およびそ
れが新たな生産のために形成する物質的な基礎。これは同時に科学的諸力の巨
大な発展を前提としている。2)すでに生産された資本のうちで直接的労働と交
換されなければならない部分の減少、すなわち、大量の生産物つまり低価格の
大量の生産物――なぜなら価格の総合計額は再生産される資本+利潤にイコー
ルだから――に表現される膨大な価値の再生産に必要とされる直接的労働の減
少。3)一般に資本の大きさ、またそのうちの固定資本でない部分の大きさ、し
たがって、大規模に発展した交易の大きさ、大量の交換取引総額の大きさ、市
場の大きさおよび同時的労働の多様性。通信手段等。この膨大な過程に取りか
かるために必要な(労働者が食ったり住んだりする)消費元本の現存」(SS.
634-635)。  次いで、これを受けてマルクスは、利潤率の低下として現われるこの生産諸
力の発展が「ある一定の点にまで達すると」(S. 635)いかに重大な結果をも
たらすかを論じている。すなわち、「次のことが明らかとなる。・・・・資本自身
によってその歴史的発展のうちに導きいれられた生産諸力の発展は、ある一定

11)「これ」とは、おそらく、 引用文の前に「一般的に言えば」として概括されてい
る利潤率低下法則のことであると考えられる。 因に、「23冊のノート」の第16―17
冊の利潤率低下法則論冒頭には、次のような叙述が見られる。「この法則は――そ
して、それは経済学の最も重要な法則であるが――利潤率が資本主義的生産の進展
につれて低下する傾向があるということである」(MEGA, U, 3/5., S. 1632)。

ー21ー

の点にまで達すると、資本の自己増殖を措定するかわりにそれを止揚する。あ
る一定の点をこえると、生産諸力の発展は資本にとって制限となる。したがっ
て資本関係が 労働の生産諸力の発展にたいして制限となる。 この点に達する
と、資本すなわち賃労働は、社会的富と生産諸力の発展にたいして、同職組合
制度、農奴制、奴隷制と同じ関係にはいり、必然的に桎梏として脱ぎすてられ
る。一方に賃労働、 他方に資本という、人間の活動がとる最後の隷属の姿は、
それによって脱皮され、しかもこの脱皮それ自身が資本に照応する生産様式の
結果なのである。それ自身すでに、自由でない社会的生産の先行諸形態の否定
である賃労働と資本の否定の物質的精神的諸条件は、それ自身その生産過程の
結果なのである」(S. 635)、と。以上を要約すると、「生産諸力の発展は、あ
る一定の点にまで達すると、資本の自己増殖を措定するかわりにそれを止揚す
る」、つまり資本・賃労働関係が「必然的に桎梏として脱ぎすてられる」、とい
うことである。
 では、なぜ、マルクスは、このように、利潤率の低下となって現われる生産
諸力の発展がある一定の点をこえると、資本・賃労働関係が脱ぎすてられる、
と考えたのであろうか。その答えは、筆者が考えるに、さきの文章に続く次の
ような叙述のなかに求めることができよう。すなわち、マルクスは次のように
述べている。「尖鋭な諸矛盾、恐慌、痙攣において、社会の豊かな発展がその
従来の生産諸関係にとってますます適合しなくなったことが示される。・・・・資
本の自己維持の条件としての資本の暴力的な破壊は、去って社会的生産のより
高い段階に席をゆずれという忠告が資本に与えられる際の最も的確な形態であ
る」(SS. 635-636)、と。つまり、「生産諸力の発展は、ある一定の点にまで
達すると」、「資本関係が労働の生産力の発展にたいして制限となる」という矛
盾は、ストレートに資本関係の「脱皮」として現われるのではなくて、「尖鋭
な諸矛盾、恐慌、痙攣」という形態をとって現われる、ということである。
 次いで、マルクスは、 この命題を詳しく説明すべく、 次のように述べてい
る。「この利潤の減少は12)、直接的労働が再生産し新たに産出する対象化された

12)念のために指摘しておくと、 この「利潤の減少は」という表現は、「利潤率の低
下は」と読みかえられるべきであろう。 というのは、それに続けて、マルクスは、
「直接的労働が再生産し新たに産出する対象化された労働の大きさにたいする、直
接的労働の割合の減少と同意義である」と述べているが、これは明らかに、「利潤
の減少」のことではなくてただ「利潤率の低下」のことを説明したものであり、ま

ー22ー

労働の大きさにたいする、 直接的労働の割合の減少と同意義であるがゆえに、
一般に資本の大きさにたいして生きた労働の割合が小さいのを、したがって前
提された資本にたいして利潤として表現されたばあいの剰余価値の割合の小さ
いのを、必要労働にたいする分け前を減らすことによって、そして全雇用労働
について剰余労働の量をさらにいっそう拡大することによって、阻止するため
に、あらゆることが資本によって試みられるのであろう。それゆえ、生産力の最
も高度な発展ならびに現存の富の最大の拡大は、資本の減価、 労働者の頽廃、
そして労働者の生命力の最もあからさまな消尽と同時に起こるであろう。これ
らの諸矛盾は爆発、大変動、恐慌にいたるが、その際には、労働の一時的な停
止(suspension)や資本の大きな部分の破壊(annihiation)によって、 資本
は、それが稼動できる点にまで暴力的に引きもどされる。・・・・・だが、これらの
規則的に起こる破局は、より高い規模での反復へ、そして最後にはそれの暴力
的な転覆にいたる」(S. 636)、と。ここでマルクスが述べていることは、次
のようなことであると考えられる。すなわち、「利潤率の低下」という事態に
対しては、資本は、「全雇用労働について剰余労働の量をさらにいっそう拡大」
してそれを「阻止」しようとしてあらゆる試みを行なう。その結果、「生産力
の最も高度な発展」・「現存の富の最大の拡大」が実現されるが、他方では「資
本の減価、労働者の頽廃、そして労働者の生命力の最もあからさまな消尽」が
生じ、「これらの諸矛盾は爆発、大変動、恐慌にいたる」。だが、この「恐慌」
・「爆発」によって「労働の一時的な停止や資本の大きな部分の破壊」が起こ
り、資本は再び稼動できる点にまで引きもどされる。しかし、この「恐慌」・
「爆発」は、規則的に・しかもより高い規模で反復し、最後には資本の「暴力
的な転覆」に至るのである、と。これをシェーマ化してみると、次のようにな
ろう。すなわち、 利潤率の低下 →「全雇用労働について剰余労働の量をさら
にいっそう拡大することによって」利潤率の低下を阻止するためのあらゆる試
み → 一方での「生産力の最も高度な発展」と 他方での「資本の減価、 労働
者の頽廃、 そして労働者の生命力の最もあからさまな消尽」という「諸矛盾」
→ 「恐慌」・「破局」 → 「恐慌」・「破局」の規則的で、 より高い規模で

た、これに続く文中に、「一般に資本の大きさにたいして生きた労働の割合が小さ
いのを、したがって前提された資本にたいして利潤として表現されたばあいの剰余
価値の割合の小さいのを、・・・・・・」という表現が見られるが、これもまた明らかに、
「利潤率の低下」のことである、からである。

ー23ー

の反復→資本の「暴力的な転覆」。
 そこで、 以上見たマルクスの議論全体(SS. 634-636)を総括してみると、
彼は次のようなことを述べようとしていることがわかる。すなわち、資本主義
的生産には、[生産諸力の発展 → 利潤率の低下 → それを阻止するための資
本のあらゆる試み → 「諸矛盾」 → 「恐慌」 → 「恐慌」の規則的で・より
高い規模での反復 → 資本の「暴力的な転覆」]という「資本の発展法則」が
存在するということ、したがって、生産諸力の発展とそれを表現する利潤率の
低下が「ある一定の点にまで達すると」、資本・賃労働関係は「桎梏として脱
ぎすてられる」(S. 635)のであって、その意味において、利潤率低下法則は
「歴史的見地からしても最も重要な法則」である(S. 634)ということである。
マルクスの考えを以上のように整理することができるとすれば、 そこから、
われわれは、本稿の主題である、『要綱』においてマルクスが利潤率低下法則
と恐慌との関係をどのように把えていたか、という問題に関して、大略、次の
ような論理(シェーマ)を引き出すことができよう。[利潤率の低下 → それ
を阻止するための資本のあらゆる試み → 「諸矛盾」→「恐慌」]。念のため
に指摘しておくと、見られるようにこのシェーマには、利潤率の低下に伴って
利潤量が減少するということは想定されていないし、また想定される必要もな
い。
 ところで、 以上のような理解が正しいとすれば、 本稿冒頭において見た斎
藤、木村、高木の三氏による『要綱』理解はすべて誤っていると言わざるをえ
ない。念のために、それらを繰り返して引用しておくと、次のようなものであ
る。すなわち、斎藤氏は言われる。『要綱』では、「利潤率低下の進行の究極的
事態としての利潤総額の絶対的減少」(@40)というシェーマから「資本の歴
史的性格とその止揚の必然性」(@42)が説かれ、その意味において利潤率低
下法則は「『歴史的見地』から、もっとも重要な法則であることが主張され」
(@40)ている、と。また、木村氏は言われる。『要綱』では、「マルクスの接
近方法は二様」(A148)であり、一つは「利潤率低下を利潤量の増加で補償し
ようとする資本の運動が矛盾を尖鋭化させ恐慌に至る、という見解」(A148)
であり、もう一つは「利潤率低下が直接に利潤量の減少をもたらすことによっ
て恐慌を惹き起こすという見解」(A149)である、と。また、高木氏は言われ
る。『要綱』では、「『法則』を『利潤率低下と利潤量減少』として想定」(B
120)しているがゆえに、「労働の生産力増大の極限状態において、『資本の絶
ー24ー

対的過剰生産』の想定を許すということ」(B120)になり、ひいては「法則」
から「資本主義そのものの崩壊を論じる余地を残すことにな」った(B120)
が、他方では、「マルクスは、・・・・利潤率低下を阻止するための試みが諸矛盾
を惹起するが故に、恐慌が生じるとしている」(B122)、と。このように、斎
藤、木村、高木の三氏は、その視角や程度は異なるにせよ、いずれも、『要綱』
ではマルクスは、利潤率低下法則の内容を利潤率の低下には必ず利潤量の減少
が伴うという点において把え、そのうえで、利潤率低下法則と「恐慌」・資本
の「暴力的な転覆」との関係を把えようとしているとか、あるいは、そのよう
な視角から叙述がなされている箇所がある、と言われるのである。

X むすび

 以上、本稿において、われわれは、『要綱』第3篇前半(SS. 631-650)を分
析対象として、まず、マルクスが利潤率低下法則をどのように論証し、またど
のような内容において把えているかを検討することによって、『要綱』におけ
る利潤率低下法則論の基本的性格を明らかにし、次に、それを踏えて、『要綱』
においてマルクスが利潤率低下法則と恐慌との関係をどのように把えているか
を見てきたが、その結果、次のようなことが明らかになった。
 第一に、利潤率低下法則の論証方法について言えば、たしかに、『要綱』には
利潤率の形態規定そのものからただちに 利潤率の低下を説いている箇所( S.
633, l.2ーl.13 )が存在するが、 しかし、そこで述べられていることは、た
んに、もし「原材料と生産手段の形態で存在する資本の部分にたいする生きた
労働と交換される資本の部分の割合」(S. 633)が小さくなれば、利潤率は低
下するであろう、ということにすぎず、けっして、資本主義的生産の進展とと
もに利潤率が低下していかざるをえないという「法則」が「論証」されている
わけではない。
 『資本論』と同様に、『要綱』でも、やはり、マルクスは、資本主義的生産
の進展とともに生産諸力が発展し、その結果「原材料と生産手段の形態で存在
する資本の部分にたいする生きた労働と交換される資本の部分の割合」が小さ
くなっていくという「資本の発展法則」をまず確認し、次にそれを考慮に入れ
たうえで、資本主義的生産の進展とともに利潤率が低下していかざるをえない
という「法則」を「論証」しているのである。

ー25ー

 第二に、『要綱』における利潤率低下法則論の基本的性格に関する第2の問
題、すなわち利潤率の低下に伴って利潤量はどのように変化すると考えられて
いるかという問題、について言えば、マルクスは、「長期的傾向」として利潤
率の低下には利潤量の減少が伴うとも、利潤率の低下の「究極的段階」には必
ず利潤量が減少するとも、考えてはいない。
 この問題についての『要綱』でのマルクスの考えはこうである。すなわち、
「一般的に言えば」(S. 634)、資本の大きさが増大するよりも小さな割合で利
潤率が低下するような場合には利潤量は増大するであろうし、また、資本の大
きさが増大するのと同じ割合で利潤率が低下するような場合には利潤量は同じ
ままであろうし、さらにまた、資本の大きさが増大するよりも大きな割合で利
潤率が低下するような場合には利潤量は減少するであろう。そして、これらい
ろいろな資本蓄積の「段階」・「期間」を「平均して」見れば、利潤量は利潤
率の低下に伴って増大していくであろう。
 第三に、利潤率低下法則と恐慌との関係について言えば、『要綱』では、マ
ルクスは、それを[利潤率の低下→利潤量の減少→恐慌・資本の絶対的
過剰生産]というシェーマではなくて、[利潤率の低下 → それを阻止するた
めの資本のあらゆる試み → 「諸矛盾」 → 「恐慌」]というシェーマで把え
ようとしていたように思われる。
(1981年3月16日受理)

ー26ー

The Law of Falling Rate of Profit and
the Crisis in "Grundrisse der Kritik der
politischen Ökonomie"
           

By Jun Matsuo
(Section of Political Economy,Faculty of Literature and Social Sciences)


  In our opinion , tracing  the  formation of the crisis theory by
Karl Marx may be one of the effective appoaches to understand
the method and contents of his theory.
In this paper, from this standpoint, we analysed his description
in the third section of "Grundrisse der Kritik der politischen
Ökonomie", and tried to find out how Karl Marx thought about
the relation between the law of falling rate of profit and the
crisis.

ー27ー