『山形大学紀要(社会科学)』第11巻第1号、1980年7月発行

  

『剰余価値学説史』における過剰生産論 ――第17章の分析を中心にして――

 

松 尾  純

(人文学部 経済学教室)

 

   Tはじめに
   U『学説史』第17章全体の概要
   V『学説史』第17章における商品過剰論
   W『学説史』第17章における資本過剰論
 

 

 

 

 

 

 

 

ー33ー

 T はじめに

 現行(MEW)版『剰余価値学説史』(以後『学説史』と略記する)第2分冊1)
第17章「リカードの蓄積論、それの批判(資本の根本形態からの恐慌の説明)」
は、マルクスの恐慌論の方法と内容を知るための最良のテキストを提供して
いるように思われる。というのは、 この『学説史』第17章、 とりわけその後
半部分(第6節以降)には、マルクスの恐慌論の全体像を 把えるための基本
的な論点がかなりまとまった形で述べられている と考えられるからである。
そのため、『学説史』のこの部分は、マルクスの恐慌論をめぐる論議において
たえず引用され参照を求められてきたし、また、 そこに展開されているマル
クスの恐慌論を 分析対象とする研究が多数存在するが、筆者の見るところ、
それらの研究は、 大別して 次の2つの問題領域に分かれて行われているよ
うに思われる。
 そのうち1つは、久留間鮫造・ 富塚良三両氏を中心とする最近の 「恐慌
論体系の展開方法」をめぐる論争2)に見られるように、『学説史』第17章第10・
11節における論述の中心概念をなしている「恐慌の内容規定」の拡大や「恐
慌の一層発展した可能性」とは何か、また、それらはマルクスの恐慌論体系
(あるいは経済学批判体系)のどの箇所に位置づけられるべきかということを
考察の対象とする研究である。
 もう1つは、たとえば、大内秀明氏や伊藤誠氏らの研究3)に見られるように、
マルクスの恐慌論の形成過程をフォローするという視角から、『学説史』第17
章の第6―9節および第12―14節における論述を主に整理・検討し、そこに
展開されているマルクスの過剰生産論の基本性格を確定することを目的とす
る研究である4)
 ところで、これらの2つの領域における研究のうち、第1のものについては、
別稿においてすでに筆者の考えを明らかにしたことがある5)。したがって、以

ー34ー

下、 本稿では、『学説史』第17章の第6―9節 および 第12―14節で展開され
ているマルクスの過剰生産論(資本過剰論をも含む) の論理構造とその基本
性格を明らかにするという残された課題に取り組むことにしよう。
 U『学説史』第17章全体の概要
 『学説史』第17章第6節以降におけるマルクスの過剰生産論の論理構造と
その基本性格を明らかにするという本来の仕事に取り掛かる前に、まず本節
において、『学説史』第17章全体を概観することにしよう。
 『学説史』第17章は、 筆者の見るところ、 3つの大きな部分から成ってい
る。
 まず、第Tの部分(第1―5節、S.471――S.492)は、不変資本部分の存在
を無視して展開されたリカードの蓄積論に対する批判を口火にして、マルク
スが再生産の問題を単純再生産と拡大再生産の2つの場合に分けて考察して
いる部分である。次に、第Uの部分(第6―14節、S.492―S.535)は、部分
的過剰生産は発生しうるが一般的過剰生産は発生しえないとするリカードの
主張を批判しつつ、過剰生産はどのような原因によって発生するのか、また、
それはどのようにして一般的過剰生産という姿をとって現出するのかという
ことを究明しようとした部分である。 最後に、第Vの部分(第15節、S.
535―S.547)は、リカードの蓄積論に関する雑録であり、内容的にはむしろ
第18章「リカード雑論。リカードの結び(ジョン・バートン)」に含められ
るべきものである。したがって、以下本稿では、この第Vの部分は考察の対
象から外すことにする。
 そこで、以下、第Tおよび第U部分の叙述内容をもう少し立ち入って見る
ことにしよう。
 まず、第Tの部分では、すでに指摘したように、内容的に見て大きく2つの
ー35ー

部分に分かれている。すなわち、その前半部分(第1―2節、S.471―S.477)
では、マルクスは、「資本の蓄積を収入の資金への転化すなわち可変資本の蓄
積と同じものであるかのように考える」リカードの「見解をもってしたので
は、蓄積の全問題はまちがった取り扱いを受けることになる」(S.471)、だか
ら、このリカードの蓄積論を批判するために「なによりもまず必要なことは、
不変資本の再生産を明らかにしておくことである」(S.472)と考えて、以下、
「不変資本の再生産」の問題を議論の中心に据えて単純再生産の問題を考察
しているが、そこでマルクスが説明しようとしていることは、要するに次の
ようなことである。「不変資本のうち生活手段の生産に消費される部分は、そ
の年のあいだに 新しい労働によって 生産される不変資本によって補填され
る。不変資本のこの新しい部分の生産者たちの収入(利潤と賃金)は、生活
手段のうち、これを生産するのに消費される不変資本の価値部分に等しいそ
の部分となって実現される。最後に、不変資本の生産すなわち機械や原料や
補助材料の生産に消費される不変資本は、不変資本を生産するいろいろな生
産部面の総生産物のなかから、現物で、または資本交換を通じて、補填され
る」(S.477)6)。 次に第Tの部分の後半部分(第3―5節、S.477―S.492)
では、マルクスは、冒頭で次のような問題を提起している。「ところで、資本
の増大、再生産とは区別されるものとしての資本の蓄積、収入の資本への転
化は、どういうことになるであろうか?」(S.477)。そして、以下、蓄積・拡
大再生産の問題、とりわけ「資本の蓄積のための諸条件」(S.484)を解明す
る努力を続けている7)。そこで、以下、マルクスがどのように考察を進めていっ
ているか、簡単に迫って見ることにしよう。
 マルクスは、剰余価値の資本への転化を剰余価値の可変資本への転化と剰
余価値の不変資本への転化とに分け、まず、前者について次のように言う。
すなわち、「このことが可能なのは、ただ労働者の数がふえるが、または労
働者の働く労働時間が延長される場合だけである。」(S.478)が、後者の場合
ー36ー

は、「蓄積の恒常的手段と考えることはできない」(S.478)。それに対して、
前者の場合のうち 「一般人口の増加に伴う労働者人口の絶対的増加 」は、
「絶えず進行する蓄積過程の基礎」(S.478)である、と。次に、剰余価値の
不変資本への転化について、マルクスは、リンネル織物業者の蓄積を具体例
に取って考察したのち、次のように言う。「ある部面における現存資本の生産
と再生産が 他の諸部面における並行的な生産と 再生産を前提するのと同様
に、一産業部門における蓄積、すなわち追加資本の形成は、他の諸産業部門
における追加生産物の同時的ないし並行的な形成を前提とする。したがって、
不変資本を供給するすべての部面の生産規模は同時的に増大しなければなら
ない」(S.485)。そして、「この場合に、最も重要なのは、やはり機械(道具)、
原料、補助材料の増加である。なぜなら、これらのものがはいって行く他の
すべての産業は、半製品を供給するにせよ完成製品を供給するにせよ、これ
らの条件さえ存在しているならば、あとはただより多くの労働を動かしさえ
すればよいのだからである」(S.486)。「したがって、蓄積が〔可能〕である
ためには、すべての部面において不断の剰余生産Surplusproduktionが必要で
あるように思われる」(S.486)、と。第3―5節における以上のような考察を
踏まえて、第6節の冒頭で、マルクスは次のように言う。「不変資本の剰余生
産――すなわち、従来の資本を補填するために、したがってまた従来の生活
手段量を生産するために、必要であるよりも大きな生産――を前提すれば、
機械や原料などを使用する諸部面における剰余生産すなわち蓄積には、もは
やなんの困難もない8)。必要な剰余生産が存在するとすれば、その場合には、
これらの部面は、新しい資本形成のための、自分の剰余貨幣を新資本に転化
させるための、すべての手段を、市場において見いだすことになる」(S.492)、
と。
 以上が、『学説史』第17章の第Tの部分(第1―5節)の概要である。
 次に、第Uの部分(第6―14節)の叙述内容を概観することにしよう。
ー37ー

 この第Uの部分も、内容的に見て2つの小部分に分けることができる。す
なわち、その第1の小部分(第6―9節、S.492―S.506および第12―14節、
S.518―S.535)では、マルクスは、部分的過剰生産は発生しうるが一般的過
剰生産は発生しえないとする リカードの見解に対して 批判を加えると同時
に、彼自身の過剰生産論を展開しようとしている。また、第2の小部分(第
10―11節、S.508―S.518)では、「商品の単なる変態のところで明らかにさ
れた恐慌の可能性」(S.508)は、「恐慌の内容のない、十分な内容をもった動
因のない、それの抽象的な形態」(S.511)にすぎないということ、そして、
それは、「資本一般」の論理段階に至ってはじめて「さらに発展した恐慌の基
礎」(S.514)を獲得するということ、が論じられている。
 そこで、第1の小部分については次節で詳しく見ることにして、以下、第
2の小部分の叙述内容をもう少し立ち入って見ることにしよう。
 マルクスは次のように述べている。すなわち、単純な商品形態における販
売と購買とは内的で必然的な相互補完関係にあると同時に、両者は時間的に
も空間的にも分離する可能性が存在する。それゆえ、「変態の単純な形態は恐
慌の可能性を含んでいる」(S.509)。しかし、この「商品の単なる変態のとこ
ろで明らかにされた恐慌の可能性」(S.508)は、「恐慌の内容のない、十分な
内容をもった動因のない、それの抽象的な形態」 ・「潜在的な恐慌」「恐慌の
最も抽象的な形態」・「恐慌の形式的な可能性」(以上S.511)にすぎない。だ
が、それは、「資本の再生産過程(これは資本の流通と一致する)を考察する
場合には」・「資本の場合には」・「資本主義的生産においては」(以上S.511u.
S.512)、「一つの内容を、すなわちこれらの形態がそれにもとづいて自己を表
明しうる一つの基礎」(S.511) あるいは「この可能性の現実化のためのは
るかにより現実的な基礎」(S.511)を獲得することができるのである。が、
「ここで問題であるのは、潜在的恐慌のより進んだ発展――現実の恐慌は、資
本主義的生産の現実の運動、 競争と信用から のみ 説明する ことができる
ー38ー

―を追跡することである。 といっても、それは、 恐慌が、資本の諸形態規
定から出てくるかぎりにおいてであり、そして、この諸形態規定が、資本と
しての資本に特有なものであって、資本の商品および貨幣としての単なる定
在のなかに含まれていないものであるかぎりにおいてである」(S.513)、と。
このように述べたのち、マルクスはそれに続けて、「資本一般」を構成する
3つの項目Rubrik――資本の生産過程、資本の流通過程、資本と利潤――の
それぞれにおいて関説されるべき「潜在的恐慌のより進んだ発展」・「さらに
発展した恐慌の可能性」に関する議論について、次のような内容説明を行なっ
ている。すなわち、まず、第1に、「資本の単なる生産過程(直接的な)は、
それ自体としては、なにも新しいものをつけ加えることはできない」。「資本
――直接的生産過程――を取り扱う第1篇では、恐慌の新しい要素は、即自
的にそのなかに含まれている」だけであり、「これが現れることはありえな
い」(S.513)。第2に、「その事柄は、それ自体同時に再生産過程であるとこ
ろの流通過程においてはじめて現われうる」(S.513)。第3に、「再生産過程
と、この再生産過程のなかでさらに発展した恐慌の基礎とは、この項目その
もののもとでは、ただ不完全にしか説明されないのであって、『資本と利潤』
の章でその補足を必要とする」(S.514)したっがて、「資本の総流通過程ま
たはその総再生産過程……この過程のなかに、さらに発展した恐慌の可能性
またはその抽象的な形態が存在する」(S.514)のである、と。
筆者が推察するに9)、以上のような論述を行なうに際してマルクスの頭の中
には次のような「恐慌論体系の展開方法」が構想されていたように思われる。
すなわち、(1)商品・貨幣の論理段階では、単純な商品形態における販売と購
買の分離の可能性に由来する「恐慌の最も抽象的な形態」・「恐慌の形式的可
能性」が論じられる。(2)「資本一般」の論理段階――それは、「資本の生産過
程」「資本の流通過程」「資本と利潤」という3つの項目から構成されている
――では、「資本としての資本に特有な」「資本の諸形態規定」から出てくる
ー39ー

かぎりでの「さらに発展した恐慌の可能性」「さらに発展した恐慌の基礎」に
ついて論じられる。といっても、各項目間で、問題に対する関説の仕方・程
度が異なる。すなわち、まず、「資本の生産過程」では、「恐慌の要素は、即
自的にそのなかに含まれている」だけで、「現われるerscheinen」ことがない。
それに対して、「資本の流通過程」では、「さらに発展した恐慌の可能性」が
「はじめて現われるhervortretenことができる」が、しかし、そこでも説明
もなお「不完全」なものである。したがって、「資本と利潤」において、「さ
らに発展した恐慌の可能性」の説明を 「完全なものにすることErgänzung」
=「補足」が必要とされる。(3)資本主義的生産の現実の運動を取り扱う「競
争と信用」の論理段階では、「現実の恐慌」が論じられる10)
 以上、本節において、われわれは、『学説史』第17章のうち、第1―5節
および第10―11節11)の叙述内容を概観してきたが、以下、節を改めて、残りの
部分(第6―9節および第12―14節)に展開されているマルクスの過剰生産
論の論理構造を分析し、その基本性格を明らかにするというわれわれの本来
の課題に取り組むことにしよう。

V『学説史』第17章における商品過剰論

 『学説史』第17章の第6―9節および第12―14節におけるマルクスの過剰
生産論には、次の2つの論題が含まれている。1つは、第17章の第6節、第
8―9節、第12―13節および第14節前半(S.528―S.533)において取り上
げられている「商品の過剰生産 Überproduktion von Waren 」論であり、も
う1つは、第17章の第7節および第14節後半(S.528―S.535)において考
察されている「資本の過多 plethora of capital 」論 あるいは「資本の過
剰生産surproduction of capital,Überproduktion von Kapital」論である。
 いまこれらの2つのうち、第2の問題については次節で検討することにして、

ー40ー

まず本説では、マルクスの「商品の過剰生産」論を取り上げ、その論理構造
と基本性格を明らかにすることにしよう。
 (1)第17章第3―5節におけて蓄積・拡大再生産の問題、とりわけ「資本
の蓄積のための諸条件」(S.484)について研究してきたマルクスは、第6節
の冒頭で、「不変資本の剰余生産……を前提すれば……蓄積には、もはやなん
の困難もない」(S.492)という結論を確認すると同時に、新たに、剰余生産
あるいは蓄積は 「恐慌において現れる諸現象にとって 内在的な基礎を形成
する」(S.492)という命題を立てて、以下、リカードの一般的過剰生産否定
論や「リカードの後継者たち」の恐慌論に対して批判を加えながら、自己の
過剰生産論の土台を構築しようとしている。
 その際、まず彼が本格的に考察しようとする姿勢を見せている問題は、第
17章第7節12)「資本の過多とはなにか」(S.498)という問題であるが、これ
については、論点整理の都合上次節で見ることにして、以下では、まず、マ
ルクスが「商品の過剰生産」論について本格的に論じはじめている第17章第
8節の叙述内容を見ることにしよう。
 この第8節でマルクスが取り組んでいる課題は、市場の供給過剰は、ある
特定商品にかんして起こるかもしれないが、すべての商品にかんして起こる
ことはありえない(『リカードウ全集T』堀経夫訳、雄松堂書店、1972年、336
ページ)とするリカードの主張をいかに批判するかということである。この
課題を果して、 一般的過剰生産が発生する可能性が 資本主義的生産に存在
することを主張するために、マルクスは、 次のような議論を展開している。
すなわち、「『市場の供給過剰』を形成しうるのは特殊な種類の商品だけであっ
てすべての種類の商品ではないということ、したがって過剰生産はつねに部
分的でしかありえないということ、これはつまらない逃げ口上である。さし
あたり、商品の性質を考えてみただけでも、市場ですべての商品が市場に過
剰に存在し、したがってすべてがその価格よりも低く下がる、ということを
ー41ー

妨げるものはなにもない。……商品そのものにとって自分を貨幣として表わ
さなければならない必然性が存在するということは、すべての商品にとって
その必然性が存在するという意味にほかならない。そして、この変態をなし
終える困難が個々の商品にとって存在するのとまったく同様に、 その困難は
すべての商品にとっても 存在しうるのである。 商品の変態の一般的性質は
――一般的供給過剰の可能性を排除するのではなく、購買も販売との統一を
含むのと同様にその分離をも含んでおり――、むしろ、一般的供給過剰の可
能性なのである」(S.505)。見られるように、リカードを批判し「一般的供給
過剰の可能性」が存在することを主張するために、マルクスは、すべての商
品にとって自分を貨幣として表わさなければならない必然性が 存在するが、
それと同時にすべての商品にとってこの形態をなし終える困難が存在すると
いうこと、すなわち商品の形態のうちには販売と購買の統一だけでなくそれ
らの分離の可能性も存在する、ということを論拠として提示しているが、こ
れは、のちに第10節において商品の変態における購買と販売の分離に由来
する「恐慌の可能性」論(S.508―S.511)として再び論じられることになる議
論であると言うことができよう13)
 (2) ところで、 リカードの一般的過剰生産否定論に対する以上のようなマ
ルクスの批判には、重大な論理的限界が存在するように思われる。というの
は、「恐慌の可能性」論によって明らかにしえたことは、ただ、一般的過剰生
産が発生する「可能性」が存在するということだけであり、次のようなより
重要な問題、すなわち販売と購買とがなにゆえに分離せざるをえなくなるの
かという問題や14)、 過剰生産はどのような事情によって一般的過剰生産という
姿をとって現出するのかという問題、が解明されないまま残されているから
である15)
 それゆえ、リカード批判を十全なものにするためにか、マルクスは、第17
章第9節以降、視角を変えて議論を進めている。すなわち、「恐慌の可能性」
ー42ー

論の限外に存在する上記の2つの残された問題を中心に据えて、一般的過剰
生産に関する議論(リカード批判と自説の展開)を進めている。そこで、以
下、マルクスがこれらの2つの問題に関してどのような議論を展開しているか
を見ることによって、『学説史』におけるマルクスの過剰生産論の論理構造と
基本性格を明らかにすることにしよう。
 まず、第1の問題、販売と購買とがなにゆえに分離せざるをえなくなるの
か――言い換えれば、過剰生産はどのような原因によってひき起こされるの
か――という問題に対してマルクスがどのような解答を与えているかを見る
ことにしよう。
 まず第17章第9節において、マルクスは過剰生産が発生する根拠について
次のような述べている。すなわち、「過剰生産のときには、国民中の大きな部
分(とくに労働者階級)は、どんなときよりも少ない穀物や靴などを与えられ
る。……仮りに、国民中のすべての成員が最も必要な欲望だけでもみたした
のちでなければ過剰生産は起こりえないとしたら、ブルジョア社会のこれま
での歴史において、一般的過剰生産はもとより部分的過剰生産でさえも起こ
りえなかったであろう。……過剰生産は、ただ、支払能力のある欲望に関係
があるだけである。問題は、絶対的過剰生産――絶対的な必要または商品を
手に入れたい願望との関係における過剰生産それ自体――ではない。……し
かも過剰生産のさいにいっそう奇妙なことは、市場に過剰に供給されている
商品そのものの本来の生産者たち ――労働者たち―― に商品が欠乏してい
る、 ということである。 特定の商品が市場に過剰に供給されているのは、
その商品にたいする欲望が存在しないから」である(S.507―S.508)と。以
上、マルクスが主張していることは、ある商品の供給過剰は、その商品に対
する絶対的欲望の不足から発生するのではなくて、その商品に対する支払能
力のある欲望の不足から発生するということである。
 このように過剰生産が発生する根拠が商品に対する支払能力のある欲望の
ー43ー

不足にあるとすれば、次に、マルクスにとって、資本主義的生産においてはど
うして商品に対する支払能力のある欲望が不足せざるをえなくなるのかとい
うことが問題になってくる。そこで、マルクスは、第17章12節16)においてこ
の問題に答えるかのように、次のように述べている。「賃労働者と資本家との
単なる関係は、次のことを含んでいる。――、生産者の最大の部分(労働者)
は、自分たちの生産物の非常に大きな部分すなわち労働手段および労働材料
の、非消費者(非購買者)である、ということ。二、生産者の最大の部分で
ある労働者が自分たちの生産物にたいする等価物を消費することができるの
は、彼らがこの等価物よりも多くのもの ―― 剰余価値すなわち剰余生産物
――を生産するあいだだけである、ということ。彼らは、自分たちの欲望の
限界内での消費者すなわち 買い手でありうるためには、 絶えず過剰生産者
Überproduzentenでなければならず、 自分たちの欲望を越えて生産しなけれ
ばならない。したがって、生産者のうちのこの階級の場合には、生産と消費
との統一ということは、いずれにせよ一見して、まちがいとして現われる」
(S.520)。以上要するに、マルクスは資本主義的生産においては、生産者の
最大の部分である労働者の消費が 生活必需品の範囲内に 閉じ込められてお
り、そのため、需要と供給とが、あるいは生産と消費とが、一致しえなくな
るということを主張しているのである。
 資本主義的生産において、このような事情によって消費が制限されている
とすれば、他方、生産は、その限界をなにに見いだすであろうか。この点に
関して、マルクスは、次のように述べている。「生産は、現存する消費の限界
を顧慮して行なわれるのではなく、ただ資本そのものによってだけ制限され
ている、……。そして、これこそ確かにこの生産様式の特徴なのである」(S.
521)。「われわれが生産過程のところですでに見たように、資本主義的生産の
全努力目標は、労働時間の延長によってであろうと、必要労働時間の短縮に
よってであろうと、労働の生産力の発展や、協業や分業や機会などの充用、
ー44ー

要するに大規模生産、したがって大量生産によってであろうと、できるだけ
多くの剰余労働を独占し、したがって与えられた資本でできるだけ多くの直
接的な労働時間を物質化する、ということに向けられている。したがって、
市場の限界を顧慮しない生産こそ、資本主義的生産の本質なのである」(S.
522)。以上の引用からわかるように、マルクスは、要するに、資本主義的生産
においては、生産の拡大はその限界をただ与えられた資本量およびその生産
性にのみ見いだす、と考えているのである。
 かくして、最後に、第17章第14節末尾において、 マルクスは、 過剰生産
が発生する根拠について、次のように述べている。すなわち、「過剰生産は、
特に資本の一般的な生産法則を条件としている。すなわち、生産力(言い換
えれば、与えられた資本量をもって最大限の労働量を採取する可能性)に応
じて、市場と支払可能な欲望との現存する限界を顧慮することなく、生産す
るということ、そして、このことを、再生産と蓄積との不断の拡大、したがっ
て収入の資本への不断の再転化によって遂行するということ、同時に他方で
は生産者大衆が欲望の平均的程度に制限されたままであり、資本主義的生産
の基礎に従って制限されたままでなければならないということ、こうしたこ
とを条件としている」(S.535)。以上要するに、マルクスは、「市場と支払可
能な欲望との現存する限界を顧慮」しない生産の拡大と「必需品の範囲内に
閉じ込められている」(S.529)生産者大衆の欲望との矛盾、これこそが過剰
生産の究極の根拠である、と規定しているのである。とすれば、このマルク
スの「過剰生産」規定は、「資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と
消費制限」、これこそが「すべての現実の恐慌の究極の根拠」である( Karl
Marx, Das Kapital, MEW Bd. 25, S. 501 )とする『資本論』の規定と同主
旨のものであると言うことができよう。
 ともあれ、以上が、第1の問題、すなわち過剰生産はどのような原因によっ
てひき起こされるのかという問題に対してマルクスが与えた解答の要旨であ
ー45ー
17)。 
 次に、第2の問題、すなわち過剰生産はどのような事情によって一般的過
剰生産という姿をとって現出するのかという問題に関するマルクスの論述を
見ることにしよう。
 まず、マルクスは、 第17章8節の末尾において、 「恐慌(したがってま
た過剰生産)が一般的であるためには、それが主要な商品を襲えば足りる」
(S.506)という命題を提示しているが、しかし、なにゆえにそのようなこと
が言えるのか、彼は、いっさい説明していない。ただ、結論が先取り的に述
べられているだけである。
 だが、第17章第12節の後半部分(S.522―S.524)18)では、その命題の具体
的な中味についてマルクスは具体例を使いながら次のような説明を与えてい
る。すなわち、「キャラコで供給過剰になっている市場の停滞は、織物業者の
再生産を攪乱する。この攪乱はまず第1に彼の労働者たちに影響を及ぼす。
こうして、この労働者たちが、織物業者の商品――綿織物――および自分た
ちの消費にはいっていた他の諸商品の消費者であるということは、よりわず
かな程度にすぎなくなるか、または、もはやまったくなくなってしまう」。第
2に「多数の他の生産者たちも、綿織物の再生産における停滞によって影響
をうける。…これらのすべての人も同様に彼らの再生産を攪乱されるであろ
う。…… 彼らはその収入(賃金と利潤、 ただし後者は蓄積されないで収入
として消費されるかぎりにおいて)を彼ら自身の生産物に消費するのではな
く、消費財を生産する諸部面の生産物に消費する……。こうして、キャラコ
の消費とそれにたいする需要とは、まさに、それが市場にあまり多く存在し
すぎるということのために、減る。…… キャラコが市場に多すぎるために、
キャラコや他の消費財を買うための彼らの手段が、制限され、収縮させられ
るのである。これは、また、他の商品(消費財)にも影響を及ぼす。いまや
それらの商品は、それらを買う手段が収縮させられ、これによってそれらに
ー46ー

たいする需要が収縮させられるために、 突如として相対的に過剰に生産され
ていることになる。たとえこれらの部面では過剰に生産されていなかったと
しても、いまやそれらは過剰生産なのである」(S.523)。したがって、一般に、
「キャラコだけでなく、リンネルや絹製品や羊毛製品にも過剰生産が生じた
とすれば、これらの少数ではあるが主要な財貨における過剰生産が、どのよ
うにして多少とも一般的な(相対的な)過剰生産を全市場にひき起こすであ
ろうか、ということは、だれにでもわかることである」(S.523――S.524)と。
 さらに、マルクスは第17章第14節の中程(S.529――S.533)でも、主要
な商品における過剰生産の一般的過剰生産への転化について、次のような議
論を展開している。すなわち、「リカードもまた、個々の商品については供給
過剰を認めるのである。不可能なことは、市場の同時的な一般的供給過剰だ
けである、と言うのである。だから、なにかある特殊な生産部面についての
過剰生産の可能性は否定されていない。一般的過剰生産の不可能性というの
は、この現象があらゆる生産部面について同時に起こることの不可能性、し
たがって市場の一般的供給過剰の不可能のことだ、と言うのである。(一般
的過剰生産というこの表現は、つねに、いくぶん割引して受けとらなければ
ならない。というのは、一般的過剰生産の時機には、若干の部門における過
剰生産は、つねに、ただ、主要な諸商品における過剰生産の結果であり帰結
であるにすぎないからである。つまり、〔それは〕つねにただ、相対的である
にすぎず、過剰生産が他の諸部面に存在するために生ずる過剰生産であるに
すぎないからである。)」(S.530)。「資本主義的生産は、ただ、一定の諸部面
で、一定の諸条件のもとでのみ、思うままに発展しうるのだから、もしそれ
がすべての部面で同時に均衡的に発展しなければならないとすれば、そもそ
も資本主義的生産はありえないであろう。これらの部面で過剰生産が絶対的
に生ずるからこそ、過剰に生産されていない諸部面でもまた相対的に過剰生
産が生ずるのである」(S.532)と。
ー47ー

 以上の引用からわかるように、要するに、マルクスは、まず主要な商品に
過剰生産が絶対的に発生に、次にそれが他の諸商品にも波及して行ってそれ
らの諸商品にも過剰生産が相対的に発生し、そしてその結果として一般的過
剰生産が現出する、と主張しているのである。
 ところで、このような一般的過剰生産の発現プロセスに関する議論を展開
するに際して、マルクスの念頭にあったものは、次のような「弁護論」(S.530)
あるいは「哀れむべき詭弁」(S.531)である。すなわち、その「哀れむべき
詭弁」によれば、主導的な諸商品に過剰生産が存在するのは、非主要商品に
過少生産が存在するからであり、「一方の側での過剰生産を他方の側での過少
生産によって説明する」(S.532) ことができるということになる。つまり、
「過剰生産が普遍的でないからこそ、過剰生産が存在するのだということに
なる」(S.530)のである。マルクスの念頭にはこのような「普遍的過剰生産
にたいする反対論」(S.530)があったからこそ、上記のような発現プロセス
を彼は強く主張したのである。
 それはともかく、うえの「詭弁」に対して、マルクスは次のような批判を
加えている。すなわち、「たとえば、鉄、綿織物、リンネル、絹、羊毛製品な
どに過剰生産が生じたとしよう。その場合には、たとえば、石炭の生産があ
まりに少なくて、そのためにそれらの過剰生産が生じたのだ、などと言うこ
とはできない。なぜなら、鉄などのそうした過剰生産はまったく同様に石炭
の過剰生産を含んでいるのであり、同様に、たとえば織物の過剰生産は糸の
それを含んでいるのだからである」。というのは、「たとえば、石炭は、それ
が必要な生産条件として はいって行くすべての産業を 動かしていくために
は、十分なだけ生産されていなければならないのであって、したがって石炭
の過剰生産は鉄や糸などの過剰生産のなかに含まれている」のである。それ
どころか、「鉄や糸などの過剰生産でさえもが必要とするよりも多くの石炭が
生産される、ということもまたありうるのである。このことは、ありうると
ー48ー

いうだけでなく、大いにありそうなことである。なぜなら、石炭……の生産
は、直接的な需要によって、直接的生産または再生産によって支配されてい
るのではなく、これらのもの〔直接的需要、直接的生産または再生産〕が引
き続き拡大していく程度、限界、割合(比率)によって支配されているのだ
からである。そしてこのような計算にあたって、目標を大きくしすぎること
がありうる、ということは自明のことである」(S.531――S.532)と。
 このような 批判を加えることによって マルクスが主張しようとしたこと
は、要するに次のようなことである。すなわち、一方の側・「能動的な過剰生産
が現れるところの主導的諸商品」(S.530)に過剰生産が発生するのは、けっ
して、他方の側・「受動的な過剰生産が現われる商品」(S.530)あるいは「非
主要商品」(S.532)に過少生産が存在していたからではないということ、む
しろ後者の商品に過剰生産が存在していて、それが前者の商品の過剰生産の
なかに含まれていたり、さらには前者の商品の過剰生産が必要とする以上の
後者の商品の過剰生産が存在することさえ「ありうる」ということ、つまり
主導的諸商品に過剰生産が現出する時には実はすでに過剰生産が「あらゆる
生産部面」に潜在的に存在していることがあるということ、である。
 さて、以上、われわれは、マルクスの「主要な商品における過剰生産の一
般的過剰生産への転化」論19)を見てきたが、その中味は 要するに次のような
とである。すなわち、まず主要な商品に過剰生産が発生し、次にそれが他の
諸商品に波及して行ってそこにも過剰生産が発生し、 その結果として一般的
過剰生産が現出するということ、したがって一般的過剰生産とは、過剰生産が
実際に「あらゆる生産部面について同時に起こる」ことを必ずしも意味する
わけではないということ、である。
 ところで、マルクスは、彼の「主要な商品における過剰生産の一般的過剰
生産への転化」論には、 次のような論理的限界があることを指摘している。
すわなち、「若干の主要な消費財の過剰生産は多少とも一般的過剰生産――そ
ー49ー

れの現象――をそれに続いてひき起こさざるをえない、ということは容易に
理解できるにしても、これによって、これらの財貨の過剰生産がどのように
して生じうるのか、ということはまだけっして理解されない。なぜなら、一
般的過剰生産の現象は、これらの産業に直接従事している労働者たちの相互
依存だけからではなく、これらの産業の生産物の前段階すなわちこれらの産
業の不変資本をいろいろな段階で生産するすべての産業部門の相互依存から
も、導きだされるのだからである。あともほうの産業部門にとっては、過剰
生産は結果である。しかし、前のほうの産業部門での過剰生産はどうして生
ずるのか?」(S.534)。ここでマルクスが指摘していることは、要するに、若
干の主要な商品に過剰生産が発生したとすれば、その最初の衝撃が、どのよ
うにして他の諸商品に波及して行って、 一般的過剰生産が現出するという結
果に至るのかということは容易に理解しうるにしても、肝腎の最初の衝撃(主
要な商品における過剰生産)が、そもそもどのようにして、なにゆえに発生
したのかということは、さきのキャラコの例によってはいっこうに解明され
ていない、ということである。
 とすれば、われわれは、この種の議論にこれ以上拘わっていたところで、
一般的過剰生産の発生メカニズムを解明することができないわけである。な
ぜなら、マルクスも認めているように、主要な商品を生産する「産業部門で
の過剰生産がどうして生ずるのか?」、言いかえれば、主要な商品における過
剰生産(最初の衝撃)が、そもそも、どのようにして、なにゆえに発生せざ
るをえなくなるのかという肝腎の問題の解明にとって、この種の議論はなん
の役にも立たないからである。マルクスが一般的過剰生産に関して明らかに
しえたことは、ただ、生産者大衆の消費制限とそれを顧慮しない生産の拡大
との矛盾、これこそが過剰生産の究極の根拠であるということと、主要な商
品における過剰生産がどのような波及過程をへて一般的過剰生産に転化する
のかということ、だけであり、どのようにして、なにゆえに主要な商品にお
ー50ー

いて過剰生産がまず最初の衝撃として現出せざるをえなくなるのかという肝
腎の問題は、少なくとも『学説史』(第17章)では、いっさい解明されてい
ないのである。
 以上、 本節においてわれわれは、 『学説史』第17章の第6、8、9、12、
13節および第14節前半(S.528――S.533)の叙述内容を整理・検討してきた
が、その結果、われわれは次のことを確認することができる。すなわち、上
掲の箇所に見られるマルクスの過剰生産論(「商品の過剰生産」論)は、(1)過
剰生産はどのような原因によってひき起こされるのか、(2)主要な商品におい
てまず発現した過剰生産がどのようにて一般的過剰生産を全市場にき起こす
のか、という2つの問題の解明を中心にして――といっても、それらの2つは、
理論的には相互に結びつけられずにバラバラに――展開されている、という
ことを確認することができる。

W『学説史』第17章における資本過剰論

 以上、われわれは、『学説史』第17章第6、 8、 9、 12、 13、 14節におけ
るマルクスの論述を整理・検討し、そこに展開されている彼の過剰生産論(「商
品の過剰生産」論)の論理構造とその基本性格(それが持つ問題点をも含め
て)を明らかにしてきたが、以下では、これまで検討の対象から外していた
「資本の過剰生産」論に関するマルクスの論述を整理・検討し、彼のこの問
題に関する議論の意義と限界を明らかにすることにしよう。
 ところで、マルクスが「資本の過剰生産」論を論じているのは、『学説史』
第17章の第7節および第14節後半(S.534――S.535)においてである。そこ
で、以下、これらの箇所においてマルクスがどのような議論を展開している
かを見ることにしよう。
 まず、マルクスは、 第17章第7節の前段(S.497――S.498)において、恐

ー51ー

慌を「資本の過多」から説明しようとする「リカードの後継者たち」の恐慌
論について次のような批評を加えている。すなわち、リカードの場合には、
「過剰生産(商品の)はありえないという命題は、資本の過多または過剰は
ありえないという命題と同じものである」(S.497)。ところが、「リカードの
後継者たち」は、「一方の形態での過剰生産(市場における商品の一般的供給
過剰)を否定しながら、資本の過剰生産、資本の過多、資本の過剰としての、
他方の形態でのそれを認めるというだけではなく、それを自分たちの学説の
本質的な点にしている」(S.497)。彼らは、「資本の過多と過剰生産というま
ことに結構な区別を考え出したのである。過剰生産にたいしては、彼らはリ
カードやスミスのきまり文句や好都合な理由にしがみついて反対しながら、
一方、資本の過多から、そうでなければ彼らには説明のつかない諸現象を演
繹しようとする」(S.498)のである、と。こう述べたのち、マルクスは、「リ
カードの後継者たち」の恐慌論を批判するためには、恐慌現象を説明するた
めに彼らによって持ち出されてきた「資本の過多」という概念をまず検討し、
この概念に対する自己の立場を固めておく必要があると考えて、次のような
問題を提起している。「したがって、残る問題が、ただ、過剰生産のこの2つ
の形態、過剰生産が否定される形態とそれが確認される形態とは、相互にど
んな関係があるのか?ということだけである」(S.498)。「したがって、問題
になるのは、資本の過多とはなにか、またこのことと過剰生産とはなにによっ
て区別されるのか?ということである」(S.498)。
 次に、マルクスは、第17章第7節の後段(S.499)において、いま提起し
た問題、すなわち、「商品の過剰生産」と「資本の過剰生産」とは相互にどん
な関係があるのか、両者はなにによって区別されるのかという問題について、
次のような議論を展開している。すなわち、まず、マルクスは、「リカードの
後継者たち」に対して次のような批判を加えている。「リカードの後継者たち」
は、「商品の過剰生産」と「資本の過剰生産」との間には「相互に共通するも
ー52ー

のはなにもない、と言う」が、しかし、「同じ経済学者たちによれば、資本は
貨幣または商品と同じなのである。だから資本の過剰生産は貨幣または商品
の過剰生産と同じである。……そのうえ、彼らの場合には貨幣は商品なのだ
から、貨幣の過剰生産などはまったくなく、したがって、この現象全体は、
商品の過剰生産に帰着するのである」(S.499)、と。見られるように、マル
クスの批判が「リカードの後継者たち」の見解の自己矛盾を突くという仕方
で行なわれているため、彼の考えが積極的な形で示されているわけではない
20)、彼がここで主張しようとしていることは、要するに、「資本の過剰生産」
という「現象全体は、 商品の過剰生産に帰着する」ということである。 だ
が、これは、「資本の過剰生産」という概念に対するマルクスの考え方の一面を
述べたものにすぎない。
 マルクスは、けっして、「リカードの後継者たち」が「資本の過剰生産」と
いう概念を恐慌現象を説明するために持ち出してきたことになんの意味もな
いと考えているわけではない。というのは、マルクスは次のように述べてい
るからである。すなわち、固定資本が過剰に生産されてとか、あるいは、流
動資本が過剰に生産された、などと言うことによって、「リカードの後継者た
ち」は、 恐慌現象「資本の過多」から説明しようとしているが、 その「場
合には、実は、 商品はもはや単に商品という単純な規定においてではなく、
……資本としてのその規定において考えられている」のである。つまり、「リ
カードの後継者たち」の恐慌論においては、「過剰生産――の場合に問題にな
るのは、生産物が商品として現われ商品として規定されるところの単純な関
係ではなく、生産物がそれによって商品以上の、しかも商品とは違ったなに
かになるところの生産物の社会的な諸規定である、ということ」が暗黙のう
ちに認められているのである。だから、「商品の過剰生産ではなくそのかわり
である資本の過多というきまり文句が単に逃げ口上にすぎないのではないか
ぎり、あるいはまた、同じ現象を、それがaと呼ばれるときには現存の必然的
ー53ー

なものとして認めるが、それがbと呼ばれるときには否定するような、した
がって実際には現象そのものについてではなくただ現象の命名についてだけ
思い煩う非良心的な無分別であったり、また、その現象が自分の先入観と矛
盾する形態(名称)ではこれを否定し、なにも考えずにすむ形態でだけこれ
を認めることによって、その現象を説明することの困難を回避しようとする、
というのではないかぎり…、 『商品の過剰生産』という文句から『資本の過
多』という文句への移行のなかには、事実上1つの進歩がある。それはどの
点にあるのであろうか?それは、生産者たちが、単なる商品所持者としてで
はなく、資本家としてお互いに相対している、という点である」(以上S.499)
と。
 見られれるように、マルクスは、「リカードの後継者たち」が、恐慌現象を説
明するための窮余の策として、「資本の過多」という概念を持ち出してきたこ
とには「事実上1つの進歩」がある。と評価しているが、その場合、マルク
スが注目し評価している点は、「資本の過多」という概念を持ち出すことに
とって、彼らが、過剰生産の場合に問題になるのは、生産物が商品として規
定されるところの単純な関係ではなく、生産物が商品以上のなにか(資本)
になるところの生産物の社会的な諸規定であるということを事実上認めてい
るという点である。つまり、「リカードの後継者たち」の恐慌論のうちに「1
つの進歩」した点があるとすれば、それは、彼らが、「過剰生産は、特に資本
の一般的な生産法則を条件としている」(S.535)ということを事実上承認し
ているという点である、というのがマルクスの考えである。したがって、こ
の肝腎のことが認められていさえすれば、「商品の過剰生産」という文句であ
れ、「資本の過剰生産」という文句であれ、マルクスにとっては、同じ現象(恐
慌)の2つの「形態(名称)」 (S. 499)を意味するにすぎないのである。
 ところで、このような「資本の過剰生産」の把え方からわかるように、こ
こ(『学説史』第17章第7節)では少なくとも、「資本の過剰生産」と「商品
ー54ー

の過剰生産」とは、 それぞれ相対的には独自な規定内容をもつ概念である、
という把え方がなされていないし、また、「資本の過剰生産」とはどのような
独自な規定内容をもつ概念であるかという問題も積極的に考察されていない
のである。つまり、結論的に言うと、第17章第7節の段階では、マルクスは、
「資本の過剰生産」とはなにかという問題を提起しながらその問題に積極的
に答えようとはしておらず、「この現象全体は、商品の過剰生産に帰着する」
という程の認識になおとどまっていると言うことができよう。
 ところが、これとちがって、第17章第14節後半 (S.534――S.535)では、
マルクスは、「資本の過剰生産」という概念のもつ独自な規定内容を明にし
ようとしている。すなわち、「資本の過剰生産とはなんのことであろうか?剰
余価値を生みだすように定められている価値量の過剰生産(または、素材的
な内容の点から考察すれば、再生産用に定められている諸商品の過剰生産)
――したがって過大な規模での再生産のことであり、これは過剰生産それ自
体と同じものである。より詳細に規定すれば、これは次のことにほかならな
い。すなわち、あまりに多くのものが致富の目的のために生産されるという
こと、または生産物のうちの過大な部分が、収入として消費されることにで
はなくより多くの貨幣を得ることに(蓄積されることに)、つまり、その所持
者の私的欲望をみたすことにではなく、 彼のために抽象的な社会的な富を、
貨幣を、他人の労働にたいする支配力を、資本を、つくりだすことに――す
なわちこの支配力を増大させることに、あてられるということである」(S.
534)。「多すぎる資本が存在するという文句は、実は、収入として消費される
ものが少なすぎるということ、また、与えられた条件のもとで消費されうる
ものが少なすぎるということにほかならないのである」(S.534――S.535)。
 以上見られるように、マルクスは、「資本の過剰生産」とは、「剰余価値を生
みだすように定められている価値量の過剰生産」、「再生産用に定められてい
る諸商品の過剰生産」、「あまりに多くのものが致富の目的のために生産され
ー55ー

るということ」、「生産物のうちの過大な部分が、収入として消費されること
にではなくより多く貨幣を得ることに(蓄積されることに)……あてられる
ということ」である、と規定しているが、これらの規定のうち、たとえば、
「剰余価値を生みだすように定められている価値量の過剰生産」(〇〇〇は
引用者のもの。以下同様)という規定は、約めて言えば、「資本の過剰生産」
のことを言い表しているにすぎないし、また、「生産物のうち過大な部分が、
収入として消費されることにではなくより多く貨幣を得ることに(蓄積され
ることに)……あてられるということ」という規定は、 言い方を換えれば、
「資本の過剰蓄積」のことを言っているにすぎない。したがって、ここでの
マルクスの規定の仕方は、言ってみれば同義反復的であり、「資本の過剰生産」
とは、「資本の過剰生産」のことであるとか、「資本の過剰蓄積」のことであ
るとか、と言っているにすぎないものであると考えられる。
 したがって、本当に実のある「資本の過剰生産」規定を得るためには、マ
ルクスは、さきの引用文中に見られる「過剰」とか、「過大な」とか、「あま
りに多くの」とか、といった言葉の意味・内容をより立ち入って規定しなけ
ればならないように思われる。ただ、ここ(『学説史』第17章第14節)では、
マルクスは、まだ、このような問題を取り上げ、それに積極的に答えていこ
うとはしていない。この残された課題は、私見によれば、『資本論』第3部(の
「主要原稿」) に至ってはじめてその一部が果されるにすぎないのである21)
 以上、われわれは、『学説史』第17章におけるマルクスの「資本の過剰生
産」論を少し立ち入って見てきたが、その結果次のことを確認することがで
きる。すなわち、マルクスは、「資本の過剰生産」とはなにかという問題を提
起しそれにある程度答えようとしているが、しかし、その解明には肝腎な所
でなお不十分・不明瞭な点があり、したがって、ここでのマルクスの「資本
の過剰生産」規定をもってしては、恐慌その他の問題を十分解明することが
できないように思われる。
ー56ー

  〔注〕
(1)Karl Marx, Theorien über den Mehrwert, MEW, Bd.26, 2, Dietz Verlag, 1967.『マ
ルクス=エンゲルス全集 』 第26巻 U、大月書店、1970年。 以下、 この書からの引用に際
しては、 引用文の直後に原ページのみを示すことにする。 また、 訳文は上記邦訳に従う。
(2)この論争に関連する文献として、 拙稿 「『資本論』第2部の論理構造と『恐慌の一層発
展した可能性』について」 『経済学雑誌』 第76巻第1号、1977年1月 、の注1) および〔後
記〕 に挙げたもの以外に、 次のようなものがある。 大谷禎之介 「資本の流通過程と恐慌」
『現代資本主義と恐慌』 (経済理論学会編 年報第13号) 青木書店、 1976年。 富塚良三「再
生産論と恐慌論との関連について(2)― 久留間教授の公開回答状(2)に対する再批判」『商
学論纂』 第19巻 第1号、 1977年 5月。 高橋輝好 「恐慌の可能性とその一層の発展との関
連について」 『明治大学大学院紀要』第15集、 1977年 12月。 前畑憲子 「『資本論 』第2
部第3篇の課題と 恐慌論との 関連についての一考察―― 富塚良三氏の『均衡蓄積率の概
念』の検討―」『商学論集』第18巻第1号、1979年7月。
(3)@大内力 ・大内秀明 「『資本論』以前の恐慌論―『要綱』と『学説史』」(大内力編『資
本論講座』 7、 青木書店、 1964年、 第1編Tの 第2章 )。 A伊藤誠 「恐慌論の形成」 (大
内力他編 『資本論と帝国主義論』 上、 東京大学出版会、1970年所収)。 B大内秀明「『剰
余価値学説史』の恐慌論― 恐慌論の形成― 」 『経済学』(東北大学) 第35巻第3号、 1974
年 3月。 C大内秀明「第]章 恐慌」 (大内秀明・桜井毅・山口重克編 『資本論研究入門』
東京大学出版会、1976年所収)。 なお、 以上の論文からの引用に際しては、論文番号とペー
ジを (たとえば大内B33ページのように略記して)示すことにする。
(4)たとえば、 大内氏は、 『学説史』第17章における恐慌論の基本性格について次のように
言われる。「のちにマルクス恐慌論研究における商品過剰論的・ 実現恐慌論の2つの潮流、
いわゆる不比例説や過少消費税の原型をしめすことになったのが『学説史』の恐慌論」(大
内B74ページ)であり、 そのうち、 後者の見地は、 「初期から中期へのマルクスの恐慌論」
の見地であり、 『学説史』においても 「あるていどひきつかれことになった 」 ものであ
る (同上76ページ) のに対して、 前者の見地は、 「『学説史』の段階で積極的に提起され
たもの 」である (同上73ページ) と。 また、 伊藤氏も次のように言われる。 「その重点は、
『要綱』と同じく商品過剰論としての恐慌論におかれている。 ……と同時に、 商品の過
ー57ー

  剰生産としての恐慌を発生せしめる契機として、 部門間の不均等の発生に 力点がおかれ
るようになっている。もっとも……過少消費説的観点がうけつがれているところもある」
(伊藤A88ページ)と。
大内、伊藤両氏による『学説史』恐慌論の以上のような整理がはたして妥当なものかど
うかを検討することは、本稿の目的の一つである。
(5)拙稿「『恐慌論体系の展開方法』に関する一考察」『大阪市第論集』第24号、1976年3
月、および前掲拙稿。
(6)この前半部分での考察が、 後半部分での 拡大再生産の考察に 比べて簡単に済まされて
いるのは、おそらく、――「私が以前に示したように」とか、「すでに見たように」とかい
う文言(S.473)からもわかるように――ここでの再純再生産の考察が、『学説史』第3
章第10節や第4章第9節などにおける「不変資本の再生産」についての立ち入った研究
を受けて行なわれているためであろう。
(7)ここでの蓄積 ・拡大再生産の研究は、『学説史』第4章第9節末尾においてマルクスが
挙げていた「なお解決すべき問題」(S.222)の1つに答えようとしたものであると考え
られる。その問題とは、次のようなものである。「これまでは、収入全部が収入として支
出されると過程されていた。したがって、考察すべきことは、収入すなわち利潤の一部が
資本化される場合に生ずる変化である。これは、事実上、蓄積過程の考察と一致する。だ
が、その形式的な側面についてはそうではない。……ここで研究すべきことは、このこと
が、 これまでに考察された諸項目での商品交換――これらの項目のもとでは、 商品交換
は、その担い手との関連において、すなわち、収入と収入との交換として、収入と資本と
の交換として、最後に資本と資本との交換として、考察されうる――に、どのように影響
するか、ということである」(S.222)この問題を、マルクスは、「この歴史的一批判的
部分〔『学説史』――引用者〕において合い間合い間に奏し終えなければならない」(S.
222)と考え、以後『学説史』第17章第3,4,5節や第21章第1節などで、拡大再生
産の問題を考察しているという訳である。
(8)ここで、マルクスは、 「不変資本の剰余生産……を前提すれば、……もはやなんの困難
もない」と断言しているが、しかし、蓄積のために「必要な剰余労働」や「剰余貨幣」が
いかにして確保されるのかという問題が なお十分に解決されていないと 思われるこの時
ー58ー

  点に、どうしてそういうことをマルクスが断言しえたのか、疑問である。また、この点は
措くとしても、「不変資本の剰余生産」さえ前提されれば、マルクスが言うように、はた
して、そこにはもはや、なんの「攪乱や混乱」(S.491)あるいは「困難」(Karl Marx,Das
Kapital, MEW ,Bd.24, Dietz Verlag, 1963, S. 501 )も存在しないと言うことができる
のかどうか、疑問である。この問題をマルクスがこの当時どの程度まで「解決」しえてい
たのか、検討を要する。
(9)拙稿「『恐慌論体系の展開方法』に関する一考察」『大阪市大論集』第24号、1976年3
月を参照せよ。
(10)われわれの以上のような理解の仕方は、 久留間鮫造氏や富塚良三氏のそれと まったく
違っている。久留間氏は、「さらに発展した恐慌の可能性」は『資本論』「第2部第3篇だ
けでなくて、第2部全体についてみる必要がある」(久留間編『マルクス経済学レキシコ
ン』大月書店、第6分冊、1972年9月、の栞、11ページ)、と主張されており、また富
塚氏は、「さらに発展した恐慌の可能性」は『資本論』第2部第3篇において 問題になる
(富塚「恐慌論体系の展開方法について――久留間教授への公開質問状― 」『商学論集』第
41巻第7号、1974年7月、241――242ページ)、と主張されている。念のために述べてお
くと、これら両氏と違って、 筆者は、マルクスの言う「さらに発展した恐慌の可能性」は
「資本一般」全体あるいは『資本論』全体において問題になる、と考える。
(11)手稿ノートの最初の転化に即してマルクスの恐慌論の方方途内容を整理 ・ 検討するこ
とを目的とする本稿 では、 この第17章第11節をさしあたり検討の対象から外すことに
する。というのは、この第11節は、 手稿ノートの770a、771a、861aページから成って
おり、 「716ページへ」というマルクスの指示に従って(編集者注91参照)、現行版『学
説史』のこの箇所(手稿ノートの716ページ)に挿入されたものであるからである。
(12)第17章第6節においてもすでに、恐慌に関する幾つかの重要な事柄が指摘されている
が、しかし、それらは、1つの問題を立ち入って追求したものではなく、恐慌論にとって
マルクスが重要と考える論点をアト・ ランダムに摘記したものにすぎない。したがって、
マルクスによる論理の展開を整理・検討することを目的とする本稿では、この第6節をさ
しあたり検討の対象から外すことにする。
(13)なお、念のために述べておくと、マルクスは、「商品の変態に含まれている恐慌のこの
ー59ー

  ような単純な可能性―― たとえば購買と販売との分離 ――から恐慌を説明しようとする
経済学者たち(たとえばJ.St.ミルのような)」(S.502)の誤りを指摘することを忘れ
てはいない。すなわち、次のように述べている。「恐慌の可能性」からは、「とうてい恐慌
の現実性や、さらに、なぜその過程の諸局面が、ただ恐慌によってのみ、つまり暴力的な
過程によってのみ、それらの内的な統一を自己貫徹させうるような衝突に至るのか、とい
うことまで説明する」ことができない(S.502)と。
(14)「購買と販売との関係」であれ、「需要と供給との関係」であれ、「生産と消費との関係」
であれ、マルクスにおいては、それらは、「諸資本の競争を考察するところではじめて展
開」(S.505、強調は引用者)されるべきものと考えられているようである。というのは、
マルクスは次のように述べているからである。「リカードおよび彼と類似の議論の背後に
は、購買と販売との関係だけでなく、われわれとしては諸資本の競争を考察するところで
はじめて展開するべき需要と供給との関係も、確かに存在している」(S.505)。「需要と
供給の関係をより立ち入って 具体的に考える場合には、 生産と消費との関係がはいって
くる」(S. 505)と。この考えに従うと第17章第9節以降の過剰生産論――そこでは、
資本主義的生産のもとでの 需要と供給の関係や生産と消費の関係が 中心問題の1つをな
しているように思われる――は、「諸資本の競争を考察するところではじめて展開」され
るはずのものであるということになる。なお、Vgl.S.469
(15)ここで挙げた2つの問題は、後で見るように、実は、第17章第9節以降の議論の中心
問題なしているものであるが、内容的にはすでに、第8節末尾の次のような2つの論点の
なかに、先取りされているように思われる。すなわち、「第1に。恐慌には、たいてい、
資本主義的生産に属するすべての商品の一般的な価格上昇が先行する。それだから、商品
はすべて、 そのあとに続く物価崩落に参加するのであって、 この物価崩落以前の価格で
は市場によって在荷過剰になるのである。市場は、以前の市場価格では吸収することので
きないような商品量でも、 ますます下がっていく価格であれば、 費用価格よりも低く下
がった価格であれば、吸収することができる。商品の過剰はつねに相対的である。すなわ
ち、一定の価格での過剰なのである。この場合に商品が吸収されるような価格は、生産者
または商人にとって破滅的な価格である。第2に。恐慌(したがってまた過剰生産)が一
般的であるためには、それが主要な商品を襲えば足りる」(S.506)。
ー60ー


(16)この第17章第12節は、内容的には第9節に直接続くものであると考えられる。なぜな
ら、第12節の冒頭でマルクスは、「ところで、われわれは……もう一度リカードと前記の
例とに言及しておこう」(S. 518)と述べているが、この「前期の例」とは、第9節に見
られる「キャラコ織物業者の例」のことであると考えられるからである。つまり、マルク
スは、第8節で「恐慌の可能性」に関する議論を終えたのち、 第9節で過剰生産の原因究
明にいったん取り掛かったものの それに深く立ち入らず、 自己の理論的立場を固めるた
めに、第10節の冒頭で「さらに先に進む前に、次のことを述べておかねばならない」(S.
508)と述べ、以後12節の始めまで、「恐慌の可能性」や「資本一般」におけるその「よ
り進んだ発展」を見るために、過剰生産(の原因)論の考察を中断していたのである。
(17)以上のわれわれの整理の仕方が妥当なものであるとすれば、少なくとも『学説史』(第
17章)では、マルクスは部門間の不比例の発生から恐慌を説明しようとするいわゆる不
比例説的観点に立っていない、と言うことができよう。したがって、本稿注4)で見た大
内・伊藤両氏による『学説史』恐慌論の次のような整理の仕方には、われわれは同意する
ことができない。すなわち、たとえば、大内氏は次のように述べられている。「のちにマ
ルクス恐慌論研究における商品過剰論的・実現恐慌論の2つの潮流、いわゆる不比例説や
過少消費税の原型をしめすことになったのが『学説史』の恐慌論」である(大内論文B74
ページ)と。
(18)この部分は、「では、われわれのキャラコの例に帰ることにしよう」(S.522)という文
章をもって始まっていると考えられる。
(19)以上のマルクスの「主要な諸商品における過剰生産の一般的過剰生産への転化」論を引
用することによって、大内、伊藤両氏は、商品過剰論的・実現恐慌論における不比例説的
見地が『学説史』において積極的に提起されていることを主張されている(大内B73―74
ページ、 大内C298―299ページ、 伊藤A89―90ページ等)が、しかし、マルクスがそこ
で議論していることは、 主要な諸商品における過剰生産が どのような波及過程を経て一
般的過剰生産が 結果として現出するのかという過剰生産のいわば波及論であって、 けっ
して、 過剰生産がどのような原因によって生じるのかという過剰生産の原因論ではない。
普通いわれる不比例説や過少消費税とは、筆者の説明を持つまでもなく、恐慌の原因をな
にに求めるかという観点からする恐慌論の分類名であり、 したがって、 その点から言え
ー61ー

  ば、『学説史』では、少なくとも部門間の不比例から恐慌の発生を説明しようとする説は
採られていないと考えられる。
(20)他の箇所(S.534)では、マルクスは明確にこう述べている。「商品の過剰生産は否定
されるが、これに反して資本の過剰生産は認められている。だが、資本そのものは商品か
ら成っているのである。または、それが貨幣からなっているかぎり、それが、資本として
機能しうるためには、どうしても商品に再転化されなければならない」と。これによって、
マルクス自身、「現象全体は、商品の過剰生産に帰着する」と考えていることがはっきり
わかる。
(21)『資本論』第3部、とりわけその第3編第15章第3節におけるマルクスの「資本の過剰
生産」論については、拙稿「マルクスの『資本の過剰生産』規定について――『資本論』
第3部第3篇第15章第3節の分析を中心にして――」『経済学雑誌』第79巻第4号、 1979
年3月を参照せよ。
(1980年3月25日受理)

ー62ー

The Theory of Overproduction in the Theory of Surplus-Value
of Karl Marx

By Jun Matsuo
(Section of Political Economy,Faculty of Literature and Social Sciences)


  In our opinion,tracing the formation of the crisis theory by Karl Marx
may be one of the effective approaches to understanding the method and
contents of his theory.
  In this paper,from this standpoint,we analysed firstly his description
in the 17th chaptre of the Theory of Surplus‐Value, and tried to find out
the structure and its fundamental character of his theory of overpro-
duction explained there.

ー63ー