『山形大学紀要(社会科学)』第10巻第2号、1980年1月発行

  

マルクスの相対的過剰人口生産の
「論証」方法について

 

松 尾  純

(人文学部 経済学教室)

 

   Tはじめに
   U独語版『資本論』における相対的過剰人口の「論証」方法
   V仏語版『資本論』における相対的過剰人口の「論証」方法
   Wむすび
 

 

 

 

 

 

 

 

ー81ー

 T はじめに

 『資本論』第1部第7篇の第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」の冒頭で、
マルクスは、「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取
り扱う1)」( Karl Marx , Das Kapital , MEW , Bd. 23 , Dietz Verlag,
1962, S.640 )と表明し、その課題を第23章第3節で「相対的過剰人口また
は産業予備軍の累進的生産」の問題として論じている。ところが、周知のよう
に、このマルクスの相対的過剰人口論については、過剰人口の発生の「論証」
方法をめぐって多くの議論が展開されてきたが、これまでのところ決着がつけ
られていないように思われる。
 とはいえ、論争をつうじて問題の焦点とも言うべきものは、明確になってき
たように思われる。すなわち、相対的過剰人口が発生する究極の根拠は、たし
かに資本の有機的構成の高度化=可変資本の相対的減少に求められるが、しか
し、この後者からただちに相対的過剰人口の発生を説明しうるわけではない。
なぜなら、 資本の有機的構成が高度化し可変資本が 相対的に減少したとして
も、資本蓄積がそれ以上の速度で進展すれば、相対的過剰人口がそこに必ず発
生するとはかぎらないからである。したがって、資本の有機的構成の高度化と
相対的過剰人口の発生との間にどのような媒介項が存在するのか、この点にこ
そ相対的過剰人口の「論証」方法をめぐる問題の焦点があるのである。
 ところで、この問題に対する諸見解のうち、 検討されるべき有力な見解は、
次の二つの見解であると思われる2)
 第1のものは、井村喜代子3)、林直道両氏4)の見解であり、可変資本の相対的減
少だけでなく可変資本の絶対的増大傾向が存在することを前提したうえで、そ
の傾向のうちに含まれる可変資本の(時間的あるいは場所的な)減少局面に注
目し、その時・所に相対的過剰人口が発生することを論証しようとする説であ
る。たとえば、井村氏は次のように言われる。「マルクスは、有機的構成高度
化のもとにおいて可変資本・労働力数の絶対的増大をもたらすような累進的蓄

ー82ー

積が、社会のあらゆる分野で、しかもつねに、実現されるのは不可能であると
いうこととの関連において、有機的構成高度化による相対的過剰人口の創出の
現実化を把えていたと理解される」5)と。また、林氏は次のように言われる。「問
題は、蓄積に内蔵されるこの相対立した二つの傾向、二つの要因〔資本総額の
増大と可変資本率の減少――引用者〕が、完全に中和され相殺されつくすこと
ができず、一部分、対立した姿のままで発現してくるという点にある。すなわ
ちある時・ある場所においては一方の要因が強く、他の時・他の場所では別の
要因が優勢であるというふうに、すすむのである。……そこで、労働者の『吸
引』=絶対的増大および『反撥』=絶対的減少という相反する作用が互いに別
々の時所に分割され、バラバラに配置され、独立的にあらわれてこざるをえな
い。そして、この吸引・反撥の不均等性をつうじて、つまり資本制蓄積の敵対
的性格の露出した箇所から、過剰人口の可能性が現実性へ転化してくるのであ
る」6) と。見られるように、この第1の説は、可変資本の絶対的増大傾向の存在
を認めながらも、結局のところ、その傾向のうちに含まれる契機あるいは局面
としての可変資本の絶対的減少から相対的過剰人口の発生しようとする
ものである。
 第2の説は、中川スミ氏7)の見解である。中川氏は、第1の説とちがって、可
変資本の絶対的減少から相対的過剰人口の発生を説くのではなく、可変資本の
増大率の低下から相対的過剰人口の発生を論証しうるとする。すなわち、中川
氏は、仏語版『資本論』の叙述に依拠しつつ、次のように言われる。「[仏語
版『資本論』第1部第7篇第25章第3節の――引用者] 第3―18パラグラフ
まで、論証過程の大半を費やして明らかにされたことは、……可変資本の絶対的
大いさは、蓄積につれて増大するが、その増大率はしだいに逓減的なものにな
らざるをえない、ということ」8)である。 それを受けて第19パラグラフでは、
「労働の供給は、……可変資本の増大率に照応して増大するかぎり、《正常で
ある》……。だが《可変資本がより小さな増加の平均に傾けば》、つまり可変
ー83ー

資本の増大率が蓄積につれて逓減すれば、《それまで正常であった同じ労働の
供給がそれ以後異常に、つまり過剰になる》9)」ということが述べられている、
と。
 以上、 二つの有力な見解の要点を見てきたが、 これらのうち、第1の見解
は、のちに詳しく見るように、独語版『資本論』第1部第7篇第23章第3節の
第3パラグラフの叙述を 有力な典拠の一つとして展開された見解である。 他
方、第2の見解は、すでに若干見たように、仏語版『資本論』第1部第7篇第
25章第3節の第19パラグラフの叙述――ここでは、 のちに詳しく見るように、
明らかに、可変資本の絶対的増大を前提して、その増大率の低下から過剰人口
の発生が導きだされている――を有力な典拠として展開されたものである。し
かも、筆者が考えるに、 うえで見た二つの相異なる「論証」方法は、 独語版
『資本論』あるいは仏語版『資本論』の当該箇所の論述によるかぎり、ともに
それなりの根拠があり、ただちに一方が正しく他方が誤っていると断じること
ができないように思われる。以下、その事情を詳しく見ることにしよう。

U独語版『資本論』10)における相対的過剰人口の「論証」方法

 (1)資本蓄積にともなう相対的過剰人口の発生の「論証」の試みは、第23章
第3節の冒頭の3つのパラグラフで行なわれているが、この箇所に分析を限定
する前に、第3節全体の叙述内容を簡単に見ておこう。
 第3節は、 筆者の見るところ、 4つの部分から なっている。 第1の部分
(Karl Marx , op.cit., SS. 657〜660)では、資本蓄積にともなって相対的
過剰人口がどのように生産されるかということが論じられている。第2の部分
ibid ., SS. 661―664)では、資本蓄積の必然的産物としての相対的過剰人
口は、逆にまた資本の突発的な膨張にさいして自由に利用されうる産業予備軍
として機能し、したがって資本蓄積の槓杆になる、ということが述べられてい

ー84ー

る。第3の部分(ibid., SS.664―666)では、資本蓄積の進展と労働の生産力
の発展につれて、同額の可変資本によってより多くの労働力を購入し、より多
くの労働を流動させることが可能になるので、 「相対的過剰人口の生産 ……
は、そうでなくても蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革より
も、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よ
りも、もっと速く進行する」(ibid.,SS.665)ということが指摘されている。
最後の第4の部分(ibid., SS.666―670)では、「労賃の一般的な運動は……
産業予備軍の膨張・収縮によって規則され」(ibid., SS.666)るということ、
つまり「相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景」(ibid.,
SS.668)をなしており、「この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに
絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである」(ibid., SS.668)と
いうことが論じられている。
 (2)以上、明らかなように、資本蓄積にともなう相対的過剰人口の発生につ
いての論述は、主として冒頭の3つのパラグラフで行なわれている。したがっ
て、以下、この箇所の叙述内容を詳しく見ることにしよう。
 まず、冒頭の2つのパラグラフにおいて、われわれは、二つの論点を確認す
ることだできる。第1の論点は、総資本中の可変資本部分の大きさは、総資本
の増大につれて加速的累進的に減少していくということ、したがって、労働に
たいする需要は、総資本の大きさに比べて相対的に減少していき、しかも総資
本の増大につれて加速的累進的に減少していくという論点である。そのことを
マルクスは次のように述べている。「資本の蓄積は……資本の構成の不断の質
的変化を伴って、すなわち資本の可変成分を犠牲としての不変成分の不断の増
大を伴って、行なわれる」(ibid.,SS.657)。しかも、この「資本の有機的構
成の変化は、蓄積の進展または社会的富の増大と単に同じ歩調で進むだけでは
ない。それらはもっとずっと速く進行する」(ibid.,SS.657)。それゆえ、「労
働にたいする需要は、……総資本の増大につれてますます減って行くのであっ
ー85ー

て、……総資本の増大に比例して増加するのではない。それは総資本の大きさ
にたいして相対的に減少し、またこの大きさが増すにつれて加速的累進的に減
少する」(ibid.,SS.658)と。第2パラグラフでは、第2の論点として次のよ
うなことが述べられている。すなわち、「総資本の増大につれて、その可変成
分、すなわち総資本に合体される労働力も増大するにちがいないが、その増大
の割合は絶えず小さくなって行くのである」(ibid., SS.658)と。見られるよ
うに、マルクスは、総資本の増大につれて可変資本は絶対的に増大するが、逓
減的な割合でしか増大しない、ということを指摘しているのである11)
 かくて、第1、第2パラグラフの大半を費やして述べられていることは、第1
に、総資本の増大につれて総資本中の可変資本部分の大きさは加速的累進的に
減少するということ、第2に、総資本の増大につれて可変資本の絶対的大きさ
は逓減的な割合でしか増大しないということ、である。
 以上の論述を受けてマルクスは、第2のパラグラフの最後の2つの文で次の
ように言う。「このような、総資本の増大につれて速くなり、そして総資本そ
のものの増大よりももっと速くなるその可変成分の相対的な減少は、他面では、
反対に、可変資本すなわち労働者人口の雇用手段の増大よりもますます速くな
る労働者人口の絶対的な増大のように見える。そうではなく、むしろ、資本主
義的蓄積は、しかもその精力と規模とに比例して、絶えず、相対的な、すなわ
ち資本の平均的な増殖欲求にとってよけいな、したがって過剰な、または追加
的な労働者人口を生みだすのである」(ibid., SS.658)と。引用文中の第1文
の主語(「このような、総資本の増大につれて速くなり、そして総資本そのも
のの増大よりももっと速くなるその可変成分の相対的な減少」)は、――第1
文章がそれまでの叙述を受けて書かれていることを考えれば――総資本中の可
変資本部分の大きさが加速的累進的に減少し、可変資本の絶対的大きさが逓減
的な割合でしか増大することができないということを意味しているものと考え
られる。したがってまた、第2文章の主語(「資本主義的蓄積」)も、そうし
ー86ー

た内容の資本蓄積のことを意味していると考えられる。それゆえ、うえに引用
した2つの文章においてマルクスが述べようとしたことは、次のようなことで
あると思われる。すなわち、総資本の増大につれて総資本中の可変資本部分の
大きさが加速的累進的に減少していき、可変資本が逓減的な割合でしか増大し
ないような「資本主義的蓄積」が行なわれれば、そこには、「相対的な、すな
わち資本の平均的な増殖欲求にとってよけいな、したがって過剰は、または追
加的な労働者人口」が発生する、と。
 だが、マルクスによる以上のような説明にもかかわらず、相対的過剰人口発
生のメカニズムは、われわれにはなお不明のままである。なぜなら、総資本が
増大すれば、たしかに、資本の有機的構成が高度化し可変資本の増大率が低下
するが、しかし、そのような「資本主義的蓄積」が進行すれば、どうして相対
的過剰人口が発生するのかという点について、マルクスはなんの説明も与えて
いないからである。《資本蓄積 → 資本の有機的構成の高度化・可変資本の増
大率の低下》と《相対的過剰人口の発生》との間には、理論的な間隙が存在す
るにもかかわらず、第1、第2パラグラフでは、それが埋められていないと言
えよう。しかし、相対的過剰人口の発生を「論証」するためには、この両者を
媒介する論理がまず解明されなければならないのである。
 (3)ところで、このような問題状況にたいして、林、井村両氏は以下に見
るような注目すべき「論証」方法を提示されている。 それは、 独語版『資本
論』の叙述によるかぎり、 それなりの根拠がある見解であると思われるので、
以下少し詳しく見てみよう。
 まず、林、井村両氏は、資本の有機的構成の高度化は、相対的過剰人口の発
生のための「根拠」「可能性」あるいは「傾向・矛盾」にすぎず、そこからた
だちに相対的過剰人口の発生を導きだせるわけではないと言われ、第1、第2
パラグラフでの論述の限界を指摘される。すなわち、林氏は次のように言われ
る。「資本の有機的構成の高度化、可変資本の相対的減少は、うたがいもなく
相対的過剰人口の累進的生産という重要な現象の根拠たるものであるが、しか
ー87ー

しこの根拠から現実の現象があらわれてくるためには一定の条件・媒介要因が
必要だということである。そのいみでは、ここに示されているのは、相対的過
剰人口の可能性にとどまる」12)。「資本の有機的構成の高度化=総資本中の可変
資本の割合の相対的減少ということのなかに、相対的過剰人口の累進的生産の
可能性が与えられている」13)。「前段〔第1、第2パラグラフ――引用者〕は、
いわば過剰人口形成の根拠を措定したものである14)、と。また、井村氏も次の
ように言われる。「資本蓄積の発展は有機的構成の『持続的な』高度化によっ
て労働力を過剰化するという不可避的傾向・矛盾をもっているが、……この傾
向・矛盾からただちに相対的過剰人口の発生の必然性は推論できない」15)。「生
産力の向上にともなう資本の有機的構成の高度化が労働者の就業におよぼす作
用」は、「それ自体として現実化するわけではなく、産業循環の運動と重なり
あってのみ現われる16)」と。なお、林、井村両氏は、資本蓄積とともに社会全体
の可変資本が絶対的に増大していくという「長期的・一般的傾向」が存在する
ことを認められている。たとえば、井村氏は、「マルクスは、有機的構成の高
度化にもかかわらず、社会全体としてみれば、総資本の増大・社会的生産の拡
大とともに就業労働者数の増加することを、非農業部門における資本主義発展
の長期的・一般的傾向とみなしていた17)」、「マルクスは、有機的構成の高度化
のもとでも、総資本の増加により可変資本・労働力数の絶対的増加がありうる
ことを充分認め」ていた18)、と言われる。
 以上のように第1、第2パラグラフにおけるマルクスの論述の限界を指摘し
たうえで、 林、 井村両氏は、相対的過剰人口の発生は、次のようにして「論
証」されうると言われる。
 まず、林氏は次のように言われる。「可変資本の増大が……決して坦々とし
た強調的な、斬新的なものではなくて、一連の飛躍・衝突・痙攣・破局をとも
なった不均等な発展として生起する」19)。「蓄積に内蔵されるこの相対立した二
つの傾向、 二つの要因〔資本総額の増大と可変資本率の減少―引用者〕が完全
ー88ー

に中和され相殺されつくすことができず、……ある時・ある場所においては一
方の要因が強く、 他の時・他の場所では別の要因が優勢であるというふうに、
すすむのである。……そこで、労働者の『吸引』=絶対的増大および『反撥』
=絶対的減少という相反する作用が互いに別々の時所に分割され、 バラバラに
配置され、独立的にあらわれてこざるをえない。そして、この吸引・反撥の発
現の不均等性をつうじて、つまり資本制蓄積の敵対的性格の露出した箇所から
過剰人口の可能性が現実性へ転化してくる』20)。この転化の第1の「径路」は、
「生産部門間・企業間の不均等発展」21)であり、「過剰人口の現実性は、種々の
部門間・企業間における労働者の吸引と反撥の同時的発現および反撥されたも
のの即時吸引されつくすことの不可能性から説明される」22)。また、第2の「径
路」は「産業循環各局面間の不均等性」23)であり、「資本蓄積にともなう労働
者の吸引と反撥とが、循環的発展の異なった局面と局面との間に別々に配置さ
れ、この谷間から資本構成高度化の産物である相対的過剰人口が現実化してく
る」24)のである、と。また、井村氏は次のように言われる。「マルクスは、有機
的構成高度化のもとにおいて可変資本・労働力数の絶対的増大をもたらすよう
な累進的蓄積が、社会のあらゆる分野で、しかもつねに、実現されるのは不可
能であるということとの関連において、有機的構成高度化による相対的過剰人
口の創出の現実化を把えていたと理解される。しかし、……それがなぜ、いか
にして不可能であるか」25)。「筆者は、この問題については、まず、資本の累積
的拡大が、資本制的な市場の諸条件・諸制約によって規制される点に問題の一
般的根拠をもとめたうえで、 かかる市場の規制のもとで、 諸資本間競争を通
じてすすめられる生産力向上・有機的構成高度化の発展の不均等性から、たえ
ず、程度の差はあれ、ある部面で就業者の駆逐が現実化するという面……と、
資本制的市場の諸条件・諸制約のもとで、資本の量的拡大が規制され、就業労
働者の絶対的増大が決して持続しないという面とを、指摘すべきものと考えて
いる」26)と。
ー89ー

 以上、要するに、林、井村両氏は、資本蓄積とともに資本の有機的構成が高
度化するにもかかわらず可変資本は絶対的に増大していくという「長期的・一
般的傾向」があることを認めたうえで、資本主義的生産に固有な発展の不均等
性や産業循環の変動の問題を考慮に入れて考えれば、この傾向のうちには、可
変資本が絶対的に減少する部面・局面が含まれており、そうした部面・局面を
通じて過剰人口の可能性が現実性に転化してくる、と言うのである。
 (4)ところで、このような相対的過剰人口の「論証」方法を展開するにあた
って、林、井村両氏は、独語版『資本論』の第1部第7篇第23章第3節の第3
パラグラフの文章を引用し、それを自説の有力な典拠とされているのである27)
 「社会的総資本を見れば、その蓄積の運動はある時は周期的な変動を呼び起
こし、またある時はこの運動の諸契機が同時にいろいろな生産部面に配分され
る。いくつかの部面では資本の構成の変化が、 資本の絶対量の増大なしに、単
なる集積の結果として起きる。ほかの諸部面では資本の絶対的な増大が、その
可変成分またはそれによって吸収される労働力の絶対的な減少と結びついてい
る。また別の諸部面では、資本が、ある時は与えられた技術的基礎の上で増大
を続けて、その増大に比例して追加労働力を引き寄せ、ある時は有機的な変化
が生じて資本の可変成分が縮小する。どの部面でも、可変資本部分の増大、し
たがってまた就業労働者数の増加は、つねに激しい動揺と一時的な過剰人口生
産とに結びついている」(ibid.,SS.658―659)。
 これに対する両氏の解釈はこうである。すなわち、井村氏は、「ここでは、
有機的構成の高度化(労働者の反撥)と資本蓄積(吸引)との両契機が、時間
的にも、空間的にも種々のからみあいをもって現われるということが指摘され
ている」28)と言われる。また、林氏は、もっとはっきりと、この文章は、「相対
的過剰人口の可能性が現実性へ転化してくる二つの径路」を「確認」したもの
であると29)、言われるのである。
 たしかに、第3パラグラフの叙述に依って推論すれば、林、井村両氏のよう
ー90ー

な見解がなりたちうると考えられるのである。なぜなら、次のように考えるこ
とができるからである。すなわち、第一に、マルクスは、「社会的総資本を見
れば、その蓄積の運動はある時は周期的な変動を呼び起こし、またある時には
この運動の諸契機が同時にいろいろな生産部面に配分される」と述べたのち、
社会的蓄積の具体的な様態を説明しているが、そこで挙げている幾つかの場合
は、――資本が「与えられた技術的基礎の上で増大を続け」るという場合を除
けば―すべて、可変資本が絶対的に減少する場合である30)ということから考え
て、マルクスは、社会的蓄積の進行途上に生じる可変資本の絶対的な減少局面
から 相対的過剰人口の発生を 説明しようとしていたのではないかと考えられ
る。しかも、第二に、これに続いて、マルクスは、「どの部面でも、可変資本
部分の増大」傾向は、「つねに激しい動揺と一時的な過剰人口生産とに結びつ
いている」と述べているが、これを敷衍しつつ推論すれば、マルクスは、社会
的総資本中の可変成分は、「激しい動揺」つまり激しい増減運動を繰り返しな
がらも、一定の増大傾向をたどるが、この増大傾向のうちには、一時的な可変
成分の減少局面が含まれており、この局面において「一時的な過剰人口」が発
生すると考えていたのではないかと思われる。
 もし、このように推論することが許されるとすれば、さきに見た林、井村両
氏による相対的過剰人口の「論証」方法は、独語版『資本論』の当該箇所の叙
述によるかぎり、 それなりの根拠があり、 そこでのマルクスの意図に即した
「論証」方法であると考えることができよう。 たが、このように言えるのは、
独語版『資本論』によるかぎりであって、以下で見るように仏語版『資本論』
ではそれとは異なる「論証」方法が提示されているように思われるのである。

V仏語版『資本論』における相対的過剰人口の「論証」方法
 (1)周知のように、仏語版『資本論』は、独語版には見られない多くの新し

ー91ー

い論点を含んでおり、「独自の科学的価値」を有している。とりわけ、本稿の
考察対象である 相対的過剰人口の 「論証」 部分は、仏語版『資本論』では、
「ほとんど原型をとどめぬほど徹底的に書きかえられて21パラグラフに拡充さ
れて」31)おり、筆者の見るところ、そこでは、独語版『資本論』(初版、第2
版)とは異なる方法で「論証」が行なわれている。しかも、この冒頭21パラグ
ラフに見られる重要な叙述の変更あるいは拡充は、その後の独語版『資本論』
(第3版、第4版、現行版)に取り入れられなかったため、仏語版『資本論』
での相対的過剰人口の 「論証」方法は、 独語版『資本論』でのそれに対して
「独自の科学的価値」をもつこととなったのである。したがって、仏語版『資
本論』第1部第7篇第25章(独語版で言えば第23章)第3節の冒頭21パラグラ
フは、マルクスによる相対的過剰人口の「論証」方法を解明するうえで、一つ
の不可欠なテキストを提供しているのである。
 そこで、以下、この第3節の冒頭部分の叙述内容を概観し、そこでの相対的
過剰人口の「論証」方法を検討することにしよう。(なお、うえで「冒頭21パ
ラグラフ」と言ったが、相対的過剰人口の「論証」は、実質的には第19パラグ
ラフまでの叙述において行なわれているので、以下では、考察対象を冒頭の19
パラグラフに限定する)。
 冒頭の19パラグラフは、内容的に見て大きく3つの部分に分かれる。
 第1の部分 (第1パラグラフ)は、 第3節全体の課題を設定した部分であ
る。ここでマルクスは、次のような問題を提起している。すなわち、資本蓄積
とともに資本の有機的構成が高度化するが、そうした「変動が賃金労働者階級
の運命に及ぼす影響はいかなるものであろうか」(Karl Marx , Le Capital ,
Traduction de M. J. Roy , entièrement revisée par l'auteur , Paris,
Éditeurs , Maurice Lachatre et Cie, 1872―7532), pp.276―277)と。
 第2の部分(第2―18パラグラフ)は、さらに3つの小部分に分かれる。第
1の小部分(第2パラグラフ)では、マルクスは次のように言う。「問題を解
ー92ー

明するためには、なによりもまず、蓄積の過程で資本の可変成分〔の比例的大
きさ〕のこうむる減少が、この部分の絶対的大きさにいかに影響するか……を
検討しなければならない」(ibid.,p.277)と。次に、第2の小部分(第3―17
パラグラフ)において、マルクスはこの問題の検討を行なう。マルクスは次の
ように言う。可変資本の比例的大きさが、総資本の増大にちょうど反比例して
減少したり、総資本の増大よりも大きな割合で減少したり、総資本の増大より
も小さな割合で減少したりするが、 それに応じて、 可変資本の絶対的大きさ
は、変わらなかったり、絶対的に減少したり、絶対的に増大したりする。そし
て、「社会的蓄積という観点から見れば、 これらのいろいろな組み合わせは、
いろいろな生産部面に配分された社会的資本のいくつかのかたまりが、つぎつ
ぎに、しばしば種々の方向に向かって通過するところの継起的諸段階、および、
いろいろな生産部面によって同時に表わされる種々の状態、という形態をとっ
て現われる」(ibid.,p.277)のである。だが、「数年の期間、 たとえば10年
の期間を検討すれば、一般に、社会的蓄積の進展につれて、搾取される労働者
の数〔したがって 可変資本の絶対的大きさ――引用者〕もまた増大してきた、
ということが見いだされる」(ibid., p.277)のであると。ところが、すぐ続
けて、マルクスは次のように言う。「だがこの結果は、動揺のなかでしか、 し
かもしだいに現実しにくくなる条件のもとでしか得られない」(ibid.,p.277)
のである。その理由はこうである。「蓄積および労働の諸力の同時的発展の過
程で、 資本の可変部分の 大きさが こうむる比例的減少は、 累進的である」
ibid., p.277)。したがって、雇用労働者数を増大させるためには、「社会
的資本が増大する率は急速でなければならない」(ibid., p.277)。ところが、
そのような急速な社会的資本の増大は、今度は、「新たな技術的変化の源泉と
なり、これがふたたび労働にたいする相対的需要を減少させる」(ibid., p .
277)原因になるのである、と。最後の小部分(第18パラグラフ)では、以上
の考察をふまえて次のような結論が述べられる。 「このようにして、 機械制工
ー93ー

業が優勢になるやいなや、蓄積の進展は、可変資本の否定的大きさを減少させ
る傾向をもった諸力のエネルギーを倍加させ、その絶対的大きさを増大させる
傾向をもった諸力を弱める。可変資本は、それが属する社会的資本とともに増
大するが、だだし、減少してゆく比率で増大するのである」(ibid., p.278)
と。これを言いかえれば、「可変資本の比例的減少、およびこれに照応した労
働の相対的な需要の減少の法則は、必然的帰結として、減少する比率での可変
資本の絶対的増加および労働需要の絶対的増大を……を得る」(ibid.,p.278)
ということになる。
 第3部の部分(第19パラグラフ)は、以上の考察を受けて、相対的過剰人口が
資本蓄積の過程においてどのようにして発生するかということを説明した部分
である。マルクスは次のように述べている。「労働の有効需要は、すでに充用
されている可変資本の大きさによってだけでなく、そのたえざる増加の平均に
よっても規制されるので、労働の供給は、それがこの変動に従う限り、正常な
ままである。だが可変資本がより小さな増加の平均に傾けば、それまで正常で
あった同じ労働の供給がそれ以後異常に、つまり過剰になり、したがって賃労
働者階級の多少とも大きな部分が、資本の価値増殖にとって必要でなくなり、
その存在理由を失うので、いまや過剰に、つまり余計なものになる。このゲー
ムは、蓄積の上昇的進行とともにたえず繰り返されるので、蓄積はそのうしろ
に累増的な過剰人口をひきつれるのである」(ibid., p.278)。ここで述べら
れていることは、要するに、労働の供給の増大率が可変資本の増大率と同じで
ある間は、この労働の供給は「正常」であり過剰人口は発生しないが、「蓄積
の上昇的進行」とともに可変資本の増大率が低下すれば、それまで「正常であ
った同じ労働の供給がそれ以後異常 」になり、 過剰人口が発生するというこ
と、しかも、こうしたことは「蓄積の上昇的進行」が生じるたびにたえず「繰
り返される」ということ、である。
 以上の仏語版『資本論』における論述からわかるように、マルクスは、可変
ー94ー

資本の増大率の低下から相対的過剰人口の発生を説明しようとしているのであ
って、けっして林、井村両氏の言うように可変資本の絶対的減少(それがたと
え絶対的増大傾向のうちに含まれる一時的な減少局面であっても)から相対的
過剰人口の発生を説明しようとはしていないのである。 したがって、 仏語版
『資本論』の叙述によるかぎり、さきに見た林、井村両氏の相対的過剰人口の
「論証」方法は、逆に、マルクスの真意に即した「論証」方法ではないという
ことになるのである。
 (2)ところが、これとは反対に、本稿冒頭で若干見た中川氏の相対的過剰人
口の「論証」方法は、仏語版『資本論』における叙述によるかぎり、そのなり
の根拠があり、そこでのマルクスの真意に即した相対的過剰人口の「論証」方
法であると考えることができるのである。
 すなわち、中川氏は次のように言われる。仏語版 『資本論』 ではマルクス
は、「資本蓄積のもとでの可変資本の相対的減少の法則は、可変資本の絶対的
大いさにたいしては減少する比率でのその増大をもたらすことを明らかにし、
この可変資本の逓減的比率での絶対的増大を媒介環として過剰人口の形成を論
証しているのである」33)。「〔仏語版『資本論』第1部第7篇第25章第3節の――
引用者〕第3―第18パラグラフまで、論証過程の大半を費やして明らかにされた
ことは、資本蓄積が可変資本の相対的な大いさのたえざる現象を伴いつつ行な
われるがぎり、可変資本の絶対的大いさは、蓄積につれて増大するが、その増
大率はしだいに逓減的なものにならざるをえないということであった。資本蓄
積のもとで労働者階級がこうむる運命はここからただちにみちびかれる。第19
パラグラフは次のとおり。……ここは可変資本の、逓減的な比率での、絶対的
増大から過剰人口をみちびくもっとも核心的な部分なので注意深く読まれねば
ならない。まず、労働の有効需要を規制するものが可変資本の絶対的大いさで
あるだけではなく、その増大率であることがいわれる。 そこで、 労働の供給
は、《それがこの変動に従うかぎり》、つまり可変資本の増大率に照応して増
ー95ー

大するかぎり、《正常である》、つまり何らの過剰は生じない。だが《可変資本
がより小さな増加の平均に傾けば》、つまり可変資本の増大率が蓄積につれて
逓減すれば、《それまで正常であった同じ労働の供給がそれ以後異常に、つま
り過剰になる》のである」34)と。
 以上に見られるように、中川氏による”解説”は、仏語版『資本論』の叙述
内容にほぼ即したものであり、 概ね妥当なものであると 考えることができよ
う。だが、氏の見解に同意することができるのは、以上引用・紹介したかぎり
においてである。われわれは、氏の次のような見解、すなわち「体制的視角か
らする相対的過剰人口の論証」は可能であり、しかも「循環的視角にさきだっ
て蓄積がもつ体制的諸傾向を基本的に明らかに」する必要があるという見解35)
は同意することができない。というのは、筆者は次のように考えるからである。
 第一に、問題の第19パラグラフの前半でマルクスは、「可変資本がより小さ
な増加の平均に傾けば、それまで正常であった同じ労働の供給がそれ以後異常
に、つまり過剰になり、したがって賃労働者階級の多少とも大きな部分が……
いまや過剰に、つまり余計なものになる」(ibid.,p.278)と述べたあと、「こ
のゲームは、蓄積の上昇的進行とともにたえず繰り返されるので、蓄積はその
うしろに累進的な過剰人口をひきつれるのである」(ibid., p.278)と述べて
いるが、これによってわかることは、《可変資本の増大率の低下 → 相対的過
剰人口の発生》という「ゲーム」は、「蓄積の上昇進行」が起こるたびに「た
えず繰り返される」のであり、けっして資本蓄積の長期的・一般的な傾向とし
てはじめて見られるような現象ではない、ということである。第二に、このよ
うに、第19パラグラフでは産業循環の周期的変動のなかではじめて見られる現
象が説明されているからこそ、マルクスは、すぐさま、次の第20パラグラフ
で、「この過剰人口は、資本家のそのときどきの搾取欲との関係でのみ存在す
るのであるから、それは急激な仕方で膨張したり収縮したりする」(ibid.,p.
278.傍点は引用者)と述べることができたものと思われる。なぜなら、もし第
ー96ー

19パラグラフで問題にされているのが、「体制的視角からする相対的過剰人口
の論証」(つまり相対的過剰人口の長期スウ勢的な累増傾向の論証)であると
すれば、次の第20パラグラフにおいて、なんの注釈もなしにすぐさま、相対的
過剰人口は「資本家のそのときどきの搾取欲との関係でのみ存在する」とか、
「それは急激な仕方で膨張したり収縮したりする」とか、と述べることができ
なかったであろうからである。第三に、19パラグラフでは、マルクスは、労
働の供給の増大率が一定であるかあるいは少なくとも「急激な仕方で」低下す
ると前提しているが、この前提は資本主義社会の長期的・一般的な傾向として
認められるとマルクスが考えていたとは思われない。この前提は、数年あるい
は10年の期間においてのみ有効な前提であると考えられる。したがって、中川
氏が、「体制的視角からする相対的過剰人口の論証」を行なうためには「労働
の供給にかんしてそれが一定の率で増大することを暗黙のうちに前提」36)する
必要があることを指摘したのち、「いうまでもなくこの前提にはじゅうぶんの
根拠がある」37)と言われるが、しかし、われわれにはいっこうに納得がいかない
のである。以上、いたがって、仏語版『資本論』第1部第7篇第25章第3節の
第19パラグラフで論じられている「ゲーム」は、次のようなものであると考え
られる。すなわち、労働の供給の増大率は、ある時点で「蓄積の上昇的進行」
がはじまったとしても、「急激な仕方で」変化するわけではない。それに対し
て、労働の有効需要を規則する可変資本の増大率は、はじめのうちは労働の供
給の増大率と同じであったとしても、ある時点で「蓄積の上昇的進行」がはじ
まれば、それ以後「急激な仕方で」低下しはじめる。そのため、労働の供給の
増大率と可変資本の増大率との間にギャップが生じ、「それまで正常であった
同じ労働の供給がそれ以後異常に、つまり過剰になり」、相対的過剰人口が発
生する、しかも「急激な仕方で」発生する、と。
 以上要するに、筆者の理解するところによれば、仏語版『資本論』における
マルクスの相対的過剰人口の生産の「論証」は、産業循環の諸作用を一部考慮
ー97ー

に入れたうえでのものであると思われるが、しかし、このような理解は、マル
クスの考える『資本論』の基本性格と矛盾しているように思われるかもしれな
い。なぜなら、マルクスによれば、『資本論』では、「競争の現実の運動は……
計画の範囲外にあ」り、「ただ資本主義的生産様式の内容機構を、いわばその
観念的平均において、示しさえすればよ」く、したがって、「世界市場、その
景気変動、市場価格の運動、信用の期間、産業や商業の循環、繁栄と恐慌との
交替」の問題には「立ち入らない」38)、とされているからである。だが、筆者
は、両者の間に矛盾が存在するとは考えない。さきに、仏語版『資本論』の問
題の第19パラグラフでは、 労働の供給の増大率がほぼ一定であるのに対して、
可変資本の増大率の方だけが、「蓄積の上昇的進行」が起これば「急激な仕方
で」低下し、その結果相対的過剰人口が「急激な仕方で」膨張するという「ゲ
ーム」が説明されていると述べたが、しかし、そこでは、この「ゲーム」が展
開されるための結節環ともいえる事柄、すなわち可変資本の増大率の急激な低
下をひき起こすような「蓄積の上昇的進行」が資本蓄積のどの局面において、
どのようにして生じるのかという問題について、マルクスはいっさい説明して
いない。これは、むしろさきに指摘した『資本論』の基本性格からすれば、当
然のことである。たしかに、マルクスは、相対的過剰人口の発生のメカニズム
を説明するために、仏語版『資本論』の問題の第19パラグラフにおいて、産業
循環の理論領域から最低限必要な契機(すなわち可変資本の増大率の急激な低
下をひき起こすような「蓄積の上昇的進行」という契機)を、借り入れている
が、しかし、さきに述べたように、肝心の「蓄積の上昇的進行」が資本蓄積の
どの局面において、どのようにして生じてくるのかという問題を、マルクスは
いっさい解明せず、 その契機を無前提に借り入れているのである。 つまり、
『資本論』では、マルクスは、産業循環の諸作用を全面的に考慮に入れたうえ
で相対的過剰人口の生産を論証しているのではなく、相対的過剰人口の発生の
メカニズムを説明するかぎりで必要な契機を産業循環の理論領域から借り入れ
ー98ー

たうえで相対的過剰人口の生産を「論証 」しているものと考えられる。 そし
て、このことを明確にした点にこそ、仏語版『資本論』の相対的過剰人口の生
産の「論証」方法の独自性(意義と限界)が存在するのである。
 ともあれ、以上の考察から確認できることは、仏語版『資本論』では、マル
クスは、労働供給の一定率での増大を前提したうえで、可変資本の増大率が低
下するということから相対的過剰人口の発生を説明するという「論証」方法を
採っている、ということである。もしこのような理解が可能であるとすれば、
さきに見た中川氏による相対的過剰人口の生産の「論証」方法は、仏語版『資
本論』の当該箇所の叙述によるかぎり、それなりに根拠があり、そこでのマル
クスの意図に即した「論証」方法であるということができよう。だが、氏の見
解が妥当性をもつのは、仏語版『資本論』によるかぎりであって、もし仏語版
『資本論』での叙述を基準にして、独語版『資本論』でのマルクスの「論証」
方法(とそれを基礎にして展開された林、井村両氏の見解)を批判するとすれ
ば、それはマトはずれの批判あるいは評価であると言わざるをえないであろう。

Wむすび

 以上、本稿における考察によって明らかになったことは、独語版『資本論』
と仏語版『資本論』とでは、マルクスの相対的過剰人口の生産の「論証」方法
が異なるということである。
 独語版『資本論』でも仏語版『資本論』でも、 社会全体の可変資本の絶対的
増大と相対的減少とが資本主義的蓄積の長期的・一般的な傾向として認られて
いるにもかかわらず、この長期的・一般的な傾向からただちに相対的過剰人口
の発生を説明するという「論証」方法は採られていない。独語版『資本論』で
は、第7篇第23章第3節の第3パラグラフにおいて「暗示」されているよう
に、社会全体の可変資本の絶対的増大傾向のうちに含まれる可変資本の減少局

ー99ー

面や社会的総資本の蓄積過程のうちに見られる可変資本の減少部面から相対的
過剰人口の発生を説明しようとする「論証」方法をマルクスが考えていたよう
に思われる。しかし、そうした「論証」方法も、「競争の現実の運動」の問題
には「立ち入らない」という『資本論』の基本性格に制限されて、十分に展開
されず、 「暗示」されるだけに終わったのである。 そのため、独語版『資本
論』における相対的過剰人口の生産の「論証 」には、 この意味での不明確な
点、不十分な点が残ることとなったのである。
 他方、仏語版『資本論』では、第7篇第25章第3節の第19パラグラフにおけ
る叙述からわかるように、 資本蓄積の特定の局面としての 「蓄積の上昇的進
行」の局面という契機を産業循環の理論領域から借り入れることによって、相
対的過剰人口の生産の「論証」を行なおうとしている。すなわち、資本蓄積の
特定の局面としての「蓄積の上昇的進行」の局面に生じる可変資本の増大率の
「急激な仕方で 」の低下から相対的過剰人口の発生を 説明しようとする「論
証」方法をマルクスが考えていたものと思われる。
 ところで、もし以上のように理解することが許されるとすれば、次のような
問題が生じてくるであろう。すなわち、どうして、マルクスは、一方の独語版
『資本論』では、究極において可変資本の絶対的減少から相対的過剰人口の発
生を導きだそうとしているのに、他方の仏語版『資本論』では、可変資本の絶
対量の増大率の低下から相対的過剰人口の発生を導きだそうとしているのか。
つまり、どうして、独語版『資本論』と仏語版『資本論』との間に、 このよう
な「論証」方法の相違が存在するのか。また、はたして、このように相異なる
「論証」方法のうち、とちらの「論証」方法をマルクスの真意により即した相
対的過剰人口の生産の「論証」方法であるとわれわれが考えるべきか、等々。
だが、これらの問題には、本稿での分析対象である『資本論』第1部第7篇第
23章(仏語版では 第25章)第3節の論述だけに依っていたのでは、答えること
ができないであろう。
ー100ー

 問題解決のためには、われわれはさらに、『資本論』第3部第3篇第15章第3
節「人口の過剰に伴う資本の過剰」39)の叙述内容をも検討してみる必要があろ
う。その訳を簡単に述べれば、こうである。すなわち、この第3節でのマルク
スの基本的なネライは、資本の過剰と人口の過剰とは資本蓄積に内在する同じ
事情に起因する二つの現象であり、「資本の過剰生産が多少とも大きな相対的
過剰人口を伴うということはけっして矛盾ではない」40)ということを明らかに
する点にある。したがって、この第3節では、表面的に見ればたしかに、マル
クスは、 資本の過剰とは何かということ、 つまり資本の過剰が資本蓄積に内
在するどのような事情によってひき起こされるのかということを考察している
のであるが、しかし、それを内容的に立ち入って検討すれば、そうした分析を
通じて、資本の過剰に伴って生じる人口の過剰が資本蓄積に内在するどのよう
な事情に起因するのかということについてもマルクスがどのように考えていた
のだということを知ることができるものと思われる。とすれば、さらに、次の
問題、すなわちマルクスが可変資本の絶対量のどのような変動から相対的過剰
人口の発生を説明しうると考えていたのかという問題、を解決するための手掛
かりをえることができるかもしれないと考えられるのである。
 だが、これらの問題の検討は、稿を改めて行なうこととしたい。

1)訳文は、岡崎次郎訳『資本論』@AB、国民文庫、1972年、に従う。また、引用ペ
ージ数は、原文ページ数のみを記す。
2)検討すべき見解としてここにこの二つを挙げた理由は、次節以降の行論中に明らか
になるであろう。
3)相対的過剰人口論に関する井村氏の論稿としては次のものがある。
@「マルクスの相対的過剰人口論にかんする一考察」、『三田学会雑誌』、第53巻
第4号、1960年4月。 A「産業循環と相対的過剰人口・賃金」、『三田学会雑誌』、第64巻第10号、1971
年10月。のちに、同氏『恐慌・産業循環の理論』、有斐閣、1973年に所収される。

ー101ー


4)相対的過剰人口論に関する林氏の論稿としては次のものがある。
@「相対的過剰人口について――産業循環論の一問題――」、『研究と資料』(大
阪市立大学)、第2号、1957年。
A「資本制蓄積と失業の理論 」、岸本英太郎編『資本主義と失業』、日本評論社、
1957年所収。
5)井村A、61ページ。
6)林@、16ページ。
7)相対的過剰人口論に関する中川氏の論稿としては次のものがある。
@「資本蓄積と相対的過剰人口・労賃――フランス語版『資本論』第7篇第25章
「資本主義的蓄積の一般的法則」による――」、『経済』第107号、1973年3月号。
A「第7篇 資本の蓄積(下)」、林直道著『フランス語版資本論の研究』、大月
書店、1975年所収。
8)中川A、240ページ。
9)中川A、240―241ページ。
10)普通、独語版『資本論』と呼ばれるものとして、大雑把に見て、5つの版(初版、
第2版、第3版、第4版、現行版)がある。そして、周知のように、各版の間に多
少の叙述の相違が存在し、時にはそれらが理論的に重要な意義をもっていることが
ある。しかし、相対的過剰人口の生産について論じた箇所(現行版でいうと第1部
第7篇第23章第3節の冒頭の3パラグラフ)について言えば、各版の間には、若干
の小さな相違が存在するが、理論的に問題となるような相違は存在しない。したが
って、以下、本稿では、とくにことわらないかぎり、現行独語版(MEW版)『資
本論』をテキストにして考察を進めていくことにする。
11)筆者がこの論点を強調する理由は、可変資本の絶対的減少傾向から相対的過剰人口
の累進的生産を論証しようとする見解が見られるからである。たとえば、真実一男
氏は次のように言われる。マルクスは「たとえ一時的に可変資本の相対的現象=絶
対的増加があるような場合でも、その傾向として労働需要の絶対的減少=産業予備
軍の累進の必然性を解くものとして『産業予備軍の理論』を提示した」(『機械と
失業』、理論社、1959年、 193ページ)と。これは、相対的過剰人口の累進的生産
の「論証」方法としてありうる考え方かもしれないが、しかし、本文でも述べたよ
うに、少なくとも、マルクスは、『資本論』では「傾向として〔の〕労働需要の絶
対的減少」を認めていない。また、最近では、置塩信雄氏が、資本蓄積の進展とと
もに可変資本、したがって労働需要が絶対的に減少せざるをえなくなることを論証
し、もって相対的過剰人口の累進的生産を導きだそうとされている(「相対的過剰

ー102ー

  人口の累進的生産の論証」『経済』第113号、 1973年9月号。「相対的過剰人口の
累進的生産の論証」経済理論学会編『現代資本主義とインフレーション――経済理
論学会年報第11集』青木書店、1974年所収、『蓄積論』第2版、経済学全集7、筑
摩書房、1976年。 ”A Formal Proof ot Marx's Two Theorems", Kobe Uniー
versity Economic Review , No. 18 , 1972)が、それに対する批判については、
松本有一「資本の有機的構成・相対的過剰人口・利潤率の傾向的低下法則」『経済
学論究』(関西学院大学)第33巻第3号、昭和54年9月を参照せよ。
12)林 @,13―14ページ。
13)林 @,25ページ。
14)林直道訳『資本論第1巻フランス語版』大月書店、1976年、231ページ。
15)井村@,46ページ。
16)井村A,47ページ。
17)井村@,44ページ。
18)井村A,60ページ。
19)林 @,15ページ。
20)林 @,16ページ。
21)林 @,17ページ。
22)林 @,18ページ。
23)林 @,20ページ。
24)林 @,23ページ。
25)井村A,61ページ。
26)井村A,62ページ。
27)林、井村両氏は、これ以外にも、 『資本論』の所々からいくつかの叙述を引用し、
自説の典拠とされている。たとえば、『資本論』第1部第5篇第13章からは――
「工場労働者数の増大は、工場に投ぜられる総資本がそれよりずっと速い割合で増
大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替
のなかでしか実現されない。しかも、それは、ときには可能的に労働者の代わりを
しときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって、絶えず中断される。機械
経営におけるこの質的変化は、絶えず労働者を工場から遠ざけ、あるいは新兵の流
入にたいして工場の門戸を閉ざすのであるが、他方、諸工場の単に量的な拡張は、
投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲みこむのである。こうして、労働
者たちは絶えずはじき出されては引き寄せられ、あちこちに振りまわされ、しかも
そのさい召集されるものの性格や熟練度は絶えず変わるのである」(Karl Marx ,
ー103ー

  Das  Kapital , MEW , Bd. 23 , S.477)。また、『資本論』第3部第3篇第15章
からは――「労賃に投ぜられる可変資本が相対的に減少するにもかかわらず、労働
者の絶対数が増加するということは、どの部門でも現われるのではないし、またど
の生産部門でも一様に現われるのではない。農業では、生きている労働という要素
の減少が絶対的でありうる」(Karl Marx , Das Kapital , MEW , Bd. 25, Dietz
Verlag , 1964 , SS. 273―274 , 岡崎次郎訳『資本論』E、 国民文庫、 1972年、
429ページ)。
以上の文章を引用したのち、たとえば、井村氏は次のように言われる。「以上の
諸引用文は充分な分析をしたものとはいえないが、有機的構成高度化のもとでの就
業労働者数の絶対的増加について、マルクスが、……生産諸部門において、生産力
向上と資本蓄積が無政府的・不均等的にすすむから、あらゆる部面で就業者の絶対
的増大が生じないという点と、いずれにおいても、資本の量的拡大は生産力向上・
有機的構成高度化の源泉となるので、 労働者の絶対的増大は 永続しないという点
――を強調しているということが明らかであろう」(井村A,61ページ)と。
28)井村@,48ページ。
29)林 @,27ページ。
30)資本が「与えられた技術的基礎の上で増大を続けて、その増大に比例して追加労働
力を引き寄せ」る場合を除けば、「資本の構成の変化が、資本の絶対量の増大なし
に、単なる集積の結果として起こる」場合にしろ、「資本の絶対的な増大が、その
可変成分またはそれによって吸収される労働力の絶対的な減少と結びついている」
場合にしろ、「有機的な変化が生じて資本の可変成分が縮小する」場合にしろ、明
らかに、すべて、可変資本が絶対的に減少する場合である。
31)中川A,214ページ。
32)訳文は、林直道訳『資本論第1巻フランス語版』、 大月書店、1976年に従う。ま
た、引用ページ数、原文ページ数のみを記す。
33)中川A,226ページ。
34)中川A,240―241ページ。
35)中川氏は次のように述べられている。すなわち、マルクスの蓄積論には、「体制的
視角」と「循環的視角」という二つの視角が内在しており、そのうち、 前者の「体
制的視角」とは、「資本蓄積を長期的または一般的に、すなわち蓄積の現実的運動
様式たる産業循環の諸作用を捨象して、考察する」視角のことであり、後者の「循
環的視角」とは、資本蓄積が「直線的に進行するのではなく、産業循環とよばれる
膨張と収縮の周期的運動形態をとっておこなわれる」ことに注目する視角のことで

ー104ー

  ある。 だから、「マルクス蓄積論の全体像を正しく把握する」ためには、「この二
つの視角を明確に区別し、まず循環的視角にさきだって蓄積がもつ体制的諸傾向を
基本的に明らかにしたうえで、この傾向が資本の循環的運動のなかでいかに貫徹さ
れるのかを総合的に検討すること」が必要である(以上、 中川@, 107ページ)。
ところが、林、井村両氏は、「体制的資格を無視されるわけではないが、そこでの
展開基軸ともいうべき資本の有機的構成の高度化を相対的過剰人口のたんなる『可
能性』または『傾向・矛盾』などとされ、これを『現実性』に転化する契機こそが
過剰人口の『必然性』をなすものだとして循環的視角を強調され」、「体制的視角
からする相対的過剰人口の論証にかんしては、 これを 放棄されている」のである
(以上、中川@,110ページ)と。
36)中川@,120ページ。
37)中川@,120ページ。
38)以上、Karl Marx , Das Kapital , MEW, Bd. 25, S.839. 岡崎次郎訳『資本論』
G、国民文庫、1972年。356―357ページ。
39)この表題自体は、マルクスによるものではなくエンゲルスによるものである(佐藤
金三郎『資本論』第三部原稿について(1)」、『思想』562号、1971年4月、126ペー
ジ参照)が、第3節の内容を的確に表現したものであると考えられる。
40)Karl Marx , op.cit., S. 266. 岡崎次郎訳『資本論』E、国民文庫、1972年、417
ページ。

(1979年8月29日受理)

ー105ー

On Marx's Method for Demonstrating the Production
of a Relative Overpopulation            

By Jun Matsuo
(Section of Political Economy,Faculty of Literature and Social Sciences)


  In  this  paper I  intend to point out that between the German edi-
tion of "Capital" and the French version of "Capital", there is the
difference in the method for demonstrating why and how a relative
overpopulation comes into existence in the process of accumulation;
in the former Marx ascribed the production of a relative over-
population to the absolute decrease of variable capital, in the latter
he ascribed it to the fall of the rate of increase of variable capital.

ー63ー