『経済学雑誌』第79巻第4号、1979年3月発行

  

マルクスの「資本の過剰生産」規定について
――『資本論』第3部第3篇第15章第3節の分析を中心にして――

 

 

松尾 純

 

 T.はじめに
 『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」、とりわけその第15章「法則の内的
諸矛盾の開展」は、第2部第3篇「社会的総資本の再生産と流通」とともに、『資本論』を基
礎にして恐慌論を構築しようとする者にとっての最重要箇所であるとされている。しかし、こ
の第15章は、『資本論』中もっとも難解な箇所の一つであり、議論が多岐にわたっていてその
論旨の明確な把握がきわめて困難である。そのため、この第15章において説かれている諸命題
のうちのどれを、どのように恐慌論の構築において生かすべきかということで、論者のあいだ
で見解が大きく別れている。
 そのうちの有力な見解の一つとして、宇野弘蔵氏を中心とする人々の見解がある。1) 宇野氏
は、第15章第3節に見られる「資本の絶対的過剰生産」についての説明から、急速な資本蓄積
→労働力不足→賃金騰貴→利潤率低下→追加資本を投下しても利潤量が増加しないかあるいは
減少する→資本過剰、という「恐慌論の基本的規定」2)をひき出し、それを中軸にして「恐慌
の必然性」を規定し恐慌論の体系化を行なおうとされており、いわゆる資本過剰論の立場に立
つ恐慌論を展開されている。因に、宇野氏らが依拠している「資本の絶対的過剰生産」の説明
とは、次のような叙述がある。「資本主義的生産の目的のための追加資本がゼロになれば、そ
こには資本の絶対的過剰生産が存在するであろう。・・・・だから、労働者人口に比べて資本が増
大しすぎて、この人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余労働時間も拡張
できないようになれば・・・・つまり、増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれよりも少
ない剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が生じるであろう」。3)
 宇野氏らのこのような見解に対しては、大別して以下のような二つの異論が存在する。
 一つは、「資本の絶対的過剰生産」についてのマルクスの叙述は、仮定法で行なわれており、


1)このような立場からの恐慌論の主な著書として、次のようなものがある。宇野弘蔵『恐慌論』、岩波書店、
1953年。大内力『農業恐慌』、有斐閣、1954年、大内秀明『景気と恐慌』、紀伊国屋書店、1966年、伊藤誠
『信用と恐慌』、東京大学出版会、1973年。
2)宇野、前掲書、189ページ。
3)Mark, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, Dietz Verlag, 1964, SS. 261-262.

ー33ー

資本の絶対的過剰生産が現実に生じてくるプロセスを説明したものではない、という批判であ
る。4) たとえば、古川哲氏は、次のように言われる。すなわち、「資本の絶対的過剰生産」の記
述は、「マルクスがリカード以来の資本過剰化理論の伝統的形態に対応して、それを短期的現
象としてのそれと長期的傾向現象としてのそれを区別したうえで、短期的現象としてとくにと
り上げ、それに『絶対的』なる限定を付したうえで、労賃―利潤関係以外のすべての要因を捨
象し、そのような特殊な抽象方法によって、資本に特有な資本としての制限にもとづくあらゆ
る産業部面全体を包括するところの急激な膨張と突然の収縮の運動機構のメカニズムの特殊性
とその数量条件を純粋・典型的に示し、そのことによって、きわめて複雑なる資本過剰化問題
解明の、もっとも簡単で明確な出発点を据えるためのマルクス独特の想定である・・・ 。したが
って、この特殊な目的をもたされた想定は、決して資本一般の論理中にマルクスが偶然持ちこ
んだ現実分析の一断片のごとく受けとられてはならず、この想定のみを取り出して、そこから
直接にマルクスの資本の蓄積過程にたいする現実分析の基本視角などを推論するとすれば、種
々なる誤解やマルクスの他の記述との矛盾を招来するのは当然である」。5)「まず問題を短期現
象としてのそれの場合に限定しておき、資本蓄積→労賃騰貴なる関係以外のすべての要因を捨
象したうえで、『資本過剰化』現象の極限的条件とその運動機構を確定して見せたかれは、そ
れに続く記述のなかで、一転して労賃騰貴―利潤率低落なる従来の[古典学派以来の―松尾]
命題にたいして資本過剰と人口過剰の共存なる命題を鮮やかな対照においてうちたてる」こと
によって、「長期的資本過剰化理論についての従来の見解とまったく異った結論を導き、その
ことによって、短期的現象としてのそれと長期的現象としてのそれとの質的相違を明らかにし
たもの」が、この「資本の絶対的過剰生産」なる命題である、6)と。また、たとえば、井村喜
代子氏7)は、次のように言われる。すなわち、「第15章が、『資本論』=『資本一般』体系の論
理段階に制約されて、資本の絶対的過剰生産を、急速なる蓄積の進展→労働力不足→賃金騰貴
→利潤率急落、という系列を仮定して説明するにとどまっており、現実に資本の絶対的過剰の
必然化するプロセスを明らかにしていない」。8) したがって、「資本の絶対的過剰の必然化する

4)いわゆる宇野派以外のたいていの人々は、このような解釈をされており、また、それらの人々の多くは、
第15章第1節の「恐慌の究極の根拠」規定に依拠して、いわゆる商品過剰論の立場に立つ恐慌論を展開され
ている。
5)古川哲「資本の絶対的過剰生産について」、『経済志林』24巻4号、1956年10月、94ページ。
6)同上論文、98ページ。
7)「資本の絶対的過剰生産」論に関する井村氏の論文として、次のようなものがある。
@「『資本の絶対的過剰生産』をめぐって」(遊部久蔵編著『「資本論」研究史』、ミネルヴァ書房、1958年
の第2章第4節)。
A「ギルマン『利潤率の低落』をめぐって」、『三田学会雑誌』52巻1号、1959年1月。
B「生産力の発展と資本制生産の『内的諸矛盾の開展』―― 『資本論』第3部第3篇第15章をめぐって
――」、『三田学会雑誌』55巻4号、1962年4月。
C「利潤率の傾向的低落の作用――第3部第3篇第15章の理解を中心として――」(『資本論講座』4、青
木書店、1964年)。
8)井村論文B、31ページ。

ー34ー

過程を、仮定法によらずに、理論的に解明することは、今後の恐慌論研究に課せられた大きな
課題である」9)と。以上のように、古川、井村両氏の批判は、他の諸要因をすべて捨象して労
賃騰貴→利潤率急落という要因のみによって「資本の絶対的過剰生産」の生じてくるプロセス
が説明されているため、その説明は非現実的なものになっている、というものである。
 宇野氏らの見解に対するもう一つの批判は、富塚良三氏のそれである。10) 富塚氏は、「恐慌の
究極の根拠」と「資本の絶対的過剰生産」とは「資本制的生産の内的矛盾がとる二様の対極的
表現・同じ矛盾の楯の両面を示すもの」11)であり、その両方に立脚してはじめて「恐慌の必然
性の基礎的論定があたえられる」12) という立場から、次のように言われる。「搾取度低落による
資本過剰については、従来、『実現』の問題に関する基本命題にのみ依拠してそれを事実上全
く無視する伝統的思考と、逆にそれのみによって恐慌の必然性の論定がなされうるとする『実
現』の理論を欠如した見解との、対極をなす二様の見解がおこなわれてきたのであるが、それ
らはいずれも一面的であり、マルクスの本来の論旨に即したものとはいえない」13) と。そして、
「伝統的思考」に対しては、 さらに次のように言われる。「[第15章―松尾]第3節の論述のす
べてを、特殊的局面を設定してのたんなる『例解』にすぎぬとし、もって資本の資本としての
過剰の契機を無視ないしは否定するのは、マルクスの本来の論旨に即した読解ではない」、13)
というのは、「資本の絶対的過剰生産」は「『資本の過剰生産=過剰蓄積』の云わば極限として
設定」14)されたものであり、それは「資本制的蓄積にとっての極限状況であるとしても、必ず
しも仮想的な局面ではない」15) からであると。他方、「資本の絶対的過剰生産」の命題のみによ
って恐慌の必然性の論定がなされるとする見解に対しては、さらに次のように言われる。「『資
本の絶対的過剰生産』だけから、 恐慌の必然性を導き出すことはできないようにおもわれる。
・・・・『実現』の問題側面を全く捨象して論ずるならば、賃銀の資本制的限界を超えての昂騰に

9)井村論文@、142−3ページ。
10)『資本論』第3部第3篇第15章に関する富塚氏の論文および著書として、 次のようなものがある。
@「利潤率の傾向的低下の法則と恐慌の必然性に関する一般論」、『商学論集』22巻5号、 1954年2月。
A「再生産論と恐慌論――恐慌論ノート――」、『商学論集』20巻4号、1952年3月。
  B「資本蓄積と『利潤率の傾向的低落』―『法則』の論証、意義、その作用形態―」、『経済評論』1960
年6月。のちに『恐慌論研究』、未来社、1962年に所収。
  C「『利潤率の傾向的低下法則』と恐慌の必然性」経済理論学会編『労賃と利潤率』青木書店、1961年。
これは、@にいくつかの加筆・修正を加えたものに、「利潤率の傾向的低落過程と『内在的矛盾の開
展』」経済理論学会第2回大会、1960年5月の報告要旨を加えたもの。のちに『蓄積論研究』、未来社、
1965年に所収。
  D「資本制生産の内的諸矛盾の開展」(『資本論講座』4、青木書店、1964年)。
  E『恐慌論研究』、未来社、1962年。
11)富塚、前掲書E、151ページ。
12)同上書、152ページ。
13)富塚論文D、272ページ。
14)富塚論文A、81ページ。
15)富塚、前掲書E、146ページ。

ー35ー

よる・『資本の絶対的過剰生産』が帰結するのは、実は、『蓄積(=新投資)の衰退』ないしは
『停頓』であってそれ以上のものではない」16) と。要するに、「資本の絶対的過剰生産」の命題
のみによって「恐慌の必然性」を論定することはできない、というのである。
 以上、宇野氏らのいわゆる資本過剰論と、それに対する二つの批判的見解を見てきたが、第
15章第3節の「資本の絶対的過剰生産」の叙述をめぐるこれらの論議においては、17) 「絶対的
なものと仮定して」18)考察された「資本の過剰生産」、すなわち「資本の絶対的過剰生産」、の
叙述のみを取り出して、それをどのように解釈し評価するかということに問題の焦点がおかれ、
もっぱらこの点をめぐって多くの議論が行なわれてきた。そのため、第15章第3節全体でもっ
てマルクスが 明らかにしようとした肝腎の概念、 すなわち「絶対的なものと仮定」されない
「資本の過剰生産」――マルクスによれば、この「相対的な」「資本の過剰生産」こそが「現実
の資本の過剰生産」である19)――が、これまでの議論においては、無視ないしは軽視されるか、
あるいは、誤った捉え方をされるかしてきたように思われる。したがって、以下、本稿では、
『資本論』第3部第3篇第15章第3節の内容を検討し、マルクスがそこで明らかにしようとし
ている「資本の過剰生産」なる概念が、どのような規定内容をもった概念であるか、また、そ
れは、恐慌論の体系化においてどのような意義をもつか、ということを考えることにしよう。
といっても、本稿の目的は、「恐慌の究極の根拠」規定に依拠して「実現」問題の側面から恐
慌論を構築しようとする見解を全面的に否定することにあるのではなく、むしろ、「恐慌の究
極の根拠」規定と対立しない資本過剰概念を第15章第3節のなかに見出そうとすることにある。

16)同上書、156ページ。
17)第15章第3節の「資本の絶対的過剰生産」の叙述に関税した文献は、大内秀明他編『資本論研究入門』、
東京大学出版会、1976年の付録「『資本論』研究文献」に詳しく掲載されているので参照されたい。なお、
この文献リスト作成以後に発表された論文で筆者が知るものとして、木村芳資「利潤率の傾向的低下法則の
内的諸矛盾と恐慌」、『土地制度史学』76号、1977年7月、逢坂充「過剰資本と利潤率低下の法則(上)――
『資本論』第3部第3篇第15章とは何か――」、『経済学研究』(九州大学)43巻3号、1977年8月、北古賀勝
幸「資本の絶対的過剰生産――その恐慌との連係と『極端な前提』をめぐって――」(佐藤金三郎他編『資
本論を学ぶ』W、有斐閣、1977年、所収)、渡辺昭「資本の絶対的過剰生産と競争」、『経済理論』164号、1978
年7月、矢吹満男「再生産論体系における利潤論の位置――『資本論』第3巻第3篇第15章をめぐって――」、
『土地制度史学』80号、1978年7月、などがある。
18)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, S. 261.
19)現行版『資本論』第3部第3篇第15章第3節の第15パラグラフは、 マルクスの原稿では次のような文章で
始まっている。「現実の資本の過剰生産は、ここで考察されたものとけっして同じではなく、それと比べて
見れば、相対的なものにすぎない。 ( D. wirkliche Ueberproduction v. Capital [ ? ] ist nie identisch
mit der hier betrachteten, sondern ist gegen sie betrachtet nur eine relativen.)
」ここで言われている
ことは、「現実の資本の過剰生産」は、「相対的もの」であって、「絶対的なものと仮定して」考察された資
本の過剰生産」、つまり「資本の絶対的過剰生産」とはけっして同じではない、ということである。
なお、本稿を作成するにあたって、筆者は、『資本論』第3部の「主要原稿」(アムステルダムの社会史
国際研究所所蔵)の佐藤金三郎教授による筆写ノートを拝見する機会を得、しかも本稿においてそれを訳出、
引用することを同教授より許された。この場をかりて、同教授の御厚意に対して感謝の意を表しておきた
い。

ー36ー


U『資本論』第3部第3篇第15章第3節における「資本の過剰生産」規定
(1)まず、『資本論』第3部第3篇第15章第3節の叙述内容を追うことによって、 そこでは、
どういう問題が、どのように考察され、どの程度解明されているかを見ることにしよう。
 筆者の見るところ、第15章第3節は、大きく四つの部分にわかれている。
 第一の部分は、冒頭パラグラフと第2パラグラフを含んでおり、第3節全体の序論とも言え
る部分である。とくに、第2パラグラフでは、第15章第3節全体のテーマである、「資本の過
剰生産」とは何かという問題20)が提起されている。しかし、マルクスは、この問題に正面から
答えようとはせずに、「資本の過剰生産」あるいは資本の「過剰蓄積が何であるかを理解する
ためには・・・それを絶対的なものと仮定してみさえすればよい」21)として、「資本の絶対的過剰
生産」という「極端な」22)場合を考えることによって、「資本の過剰生産」とは何かという問題
に答えようとしている。
 第二の部分は、全体的にみて、「資本の絶対的過剰生産」について説明した部分であり、第
3パラグラフから第14パラグラフまでを含んでいる。この部分は、さらに三つの部分にわかれ
ている。まず、はじめの部分(第3―第4パラグラフ)では、「資本の絶対的過剰生産」の必
然化するプロセスが概説されているが、そこでの叙述を要約すれば、次のようになろう。すな
わち、「労働者人口に比べて資本が増大しすぎて」、賃金が上昇し、「増大した資本が、増大す
る前と同じかまたはそれよりも少ない剰余価値量しか生産しなくなれば」、「資本の絶対的過剰
生産」が生じ、「追加資本ゼロにな」るという事態が発生する、23)と。次の部分(第5ー第12パ
ラグラフ)では、 この「資本の過剰生産」に続くであろう循環過程 (旧資本と追加資本との
「損失の分配」をめぐる「闘争」――「衝突の解消」――「回復」 )の素描が行われている。
そして、最後の部分(第13,14パラグラフ)では、「資本の絶対的過剰生産」についての次の
ような補足説明が行なわれている。すなわち、たとえ「極端な前提」のもとで考えられたもの
であるとはいえ、「資本の絶対的過剰生産」は、「けっして絶対的過剰生産一般ではなく」、24)
本が資本として過剰となるという意味での「資本の過剰生産」であることには変りはない、と
いうのは、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、「資本は、・・・資本の増大に比例する利潤率

20)この問題は、すでに『剰余価値学説史』においてマルクスが提起していた問題である。「したがって、問
題になるのは、資本の過多とはなにか、またこのことと過剰生産とはなにによって区別されるのか?という
ことである」(MEW, Bd. 26, II, S. 498.『マルクス=エンゲルス全集』第26巻第2分冊、大月書店、1970
年、672ページ)。この問題は、資本の過剰生産を認めながら商品の過剰生産を否定するリカード以後の経済
学者たちを批判するために提起されたものであるが、残念ながら、『学説史』においては、十分納得のいく
解答がマルクスによって与えられていないように思われる。
21)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, S. 261.
22)Ibid., S. 265.
23)Ibid., SS. 261-262.
24)Ibid., S. 265.

ー37ー

の低下または資本の増大より急速でさえある利潤率の低下を排除するような搾取度で労働を搾
取することはできないだろうからである」、25)と。ところで、「資本の絶対的過剰生産」の概念
内容については、さらに、次の二つのことを付言しておかなければならないであろう。一つは、
「資本の絶対的過剰生産」とは、「あれこれの生産領域とか二つ三つの重要な生産領域とかに及
ぶのではなくその範囲そのものにおいて絶対的であるような、つまりすべての生産領域を包括
するような、過剰生産」26)であるということ。もう一つは、第15章第3節の第3パラグラフの
記述は、「どんな場合に資本の過剰生産は絶対的なのだろうか?」27)という問題に対する解答で
あると考えられるが、そこでの要点は、資本が増大しすぎて、増大した資本が生みだす利潤の
絶対量が、資本が増大する前と同じかまたはそれよりも少なくなれば、「資本の絶対的過剰生
産」が生じるということにあるということ、だからこそマルクスの原稿では、「増大する前の
資本と同じかまたはそれよりも少ない剰余価値」28)という文言のあとに、「われわれがここで言
っているのは、利潤の絶対量についてであって、利潤の率についてではない」という注意書が
挿入されていると考えられる、ということ。
 第三の部分は、第15章第3節の第15パラグラフから第21パラグラフまでを含んでおり、マル
クスが第3節の序論部分で提起した「資本の過剰生産」とは何かという問題に答えようとして
いる部分である。現行版『資本論』では、第15パラグラフは「資本の過剰生産というのは・・・」
という文章から始まっているが、実は、マルクスの原稿では、このパラグラフは、「現実の資本
の過剰生産は、ここで考察されたもの[「資本の絶対的過剰生産」―松尾]とけっして同じで
はなく、それと比べて見れば、相対的なものにすぎない」という文章で始まっている。この文
章で言われていることは、われわれが問題にしている「資本の過剰生産」すなわち「現実の資
本の過剰生産」は、「相対的なもの」であって、「絶対的なものと仮定」して考察された「資本

25)Ibid., S. 266.この文章は、マルクスの原稿では、次のようになっている。「資本は・・・資本の増大に比
例する利潤率の低下(C+△C―P+o)または資本の増大よりも急速でさえある利潤率の低下(C+△Dー
Pーx)を排除するような搾取度で労働を搾取することはできないからである」。丸括弧内の記号は、現行版
『資本論』第3部第15章第3節の第3パラグラフと第4パラグラフ後半部分にあたる原稿箇所で、マルクス
が「資本の絶対的過剰生産」とは何かということを説明するために使用している記号である。これらの箇所
で、マルクスは、次のような記号の使い方をしている。すなわち、増大した資本C+△Cが増大する前と
同じだけの利潤P+oしか生みださない場合を 1)の場合とし、増大した資本C+△Cが増大する前よ
り少ない利潤P―xしか生みださない場合を 2)の場合とする、と。この記号例は、「資本の過剰生産」が
生じたあとに続く循環過程の素描部分(第5――第12パラグラフ)でも、前提されていると考えられる。と
いうのは、第8パラグラフ中の、「この仕方は、全追加資本△Cまたは少なくともその一部分の価値額だ
けの、資本の遊休化を、またその部分的な破壊をさえも、含んでいる」(Ibid., S. 263)という文章は、マ
ルクスの原稿では、うえの記号例を前提した次のような文章になっているからである。「それは、1)の場合
には新総資本C+△Cのうちの△C部分に等しい資本の遊休化を、2)の場合には新総資本C+△のうちの
△Cより大きい部分に等しい資本の遊休化を、含んでいる」。
26)Ibid., S. 261.
27)Ibid., S. 261.
28)Ibid., S. 262.

ー38ー

の絶対的過剰生産」とはけっして同じではない、ということである。とすれば、次のような問
題が提起されうるであろう。「どんな場合に資本の過剰生産は相対的なのだろうか?」と(こ
こで言う「相対的」とは、「資本の絶対的過剰生産」が全生産領域を含む過剰生産のことを意
味していることを想起すれば、全生産領域を含むのではない、ということを意味するものと考え
られる)。この問題に対する解答は、筆者の見るところ、うえに見たマルクスの原稿での文章
に続く次のような叙述のなかに求めることができるであろう。「資本の過剰生産というのは、
資本として機能できる生産手段、すなわち、一定の搾取度での(zu einen gegebnen Exploitaー
tionsgrad)――というのは、この搾取度の一定の点以下への低下は、資本主義的生産過程の攪
乱や停滞、恐慌、資本の破壊をひき起こすからである――労働の搾取に充用できる生産手段―
労働手段および生活手段―の過剰生産以外のなにものも意味しない。このような資本の過剰生
産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。労働の生産
力を高め、・・・・・・ 利潤率を低下させたのと同じ事情、その事情が、 相対的過剰人口を生みだ
したのであり、また絶えず生みだしているのであって、この労働者の過剰人口が過剰資本によ
って充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または、少
なくとも、与えられた搾取度のもとでそれがもたらすであろう利潤率が低いからである。」29)
の規定内容の詳しい分析はのちに行なうが、少なくともここで目に付くことは、労働の搾取度
や利潤率のみが問題になっていて、利潤の絶対量がまったく問題にされていない、ということ
である。これまでの「資本の絶対的過剰生産」の説明では、利潤の絶対量の増減が問題の前面
に出ていたのに、ここでは、もっぱら労働の搾取度や利潤率のことが問題にされていて、利潤
の絶対量のことはまったく触れられていないのである。
 最後に、第四の部分30)は、第22パラグラフから最終パラグラフまでを含む部分であり、ここ
では、労働の生産力の発展に伴う利潤率の低下や資本主義的生産の発展に対する利潤による制
限など、要するに「資本主義的生産様式の制限」の問題が論じられている。この部分の冒頭で、
マルクスは次のように述べている。 「資本主義的生産様式の制限は次のような点に現われる。
(1)労働の生産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法則を生みだし、この法則
は、この生産力自身の発展にたいして特定の点で最も敵対的に対抗し、したがって絶えず恐慌
によって克服されなければならないということ。(2)不払労働の取得と対象化された労働一般に
対するこの不払労働の割合が・・・・・生産の拡張または制限を決定するのであって、社会的欲望に
対する、社会的に発展した人間の欲望に対する生産の割合がそれを決定するのではないという
こと。だから、資本主義的生産様式にとっては、他の前提のもとでは逆にまだまだ不十分であ
ると思われるような生産の拡張度においても、すでに制限が現われるのである。この生産様式

29)Ibid., S. 266.
30)この部分は、その内容から見てわかるように、「資本の過剰生産」を論じる第15章第3節の最後の部分で
あると言うよりは、むしろ、第15章全体さらには第3篇全体に対する結びであると言うべきであろう。

ー39ー

は、欲望の充足が停止を命じる点ではなく、利潤の生産と実現とが停止を命じる点で停止する
のである。」31)
 以上、第15章第3節全体の叙述構造を分析することによって、明らかになったことは、第15
章第3節全体のテーマである「資本の過剰生産」とは何かという問題にマルクスは正面から答え
ず、「資本の過剰生産」が「絶対的な」場合、つまり「すべての生産領域を包括するような」
場合を考えることによって、「資本の過剰生産」の概念内容を明らかにしようとしている、と
いうことである。
 (2)したがって、「現実の」・「相対的な」「資本の過剰生産」とは何かということは、「資本
の絶対的過剰生産」の概念内容との対比を通じてはじめて明らかになるのである。
 まず、「資本の絶対的過剰生産」の概念内容については、次のようなことが言えよう。
 第一に、「資本の絶対的過剰生産」とは、「すべての生産領域を包括するような過剰生産」で
ある。
 第二に、マルクスは、「労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、・・・・・・云々になれば、そこ
には資本の絶対的過剰生産が生じるであろう」32)と述べており、「資本の絶対的過剰生産」は、
人口過剰のもとではなく、資本蓄積に比べて労働者人口が不足することによって生じるものと
されている。
 第三に、マルクスは、「増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれよりも少ない剰余
価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が生じるであろう」33) と述べて
おり、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、「一般的利潤率の強い突然の低下が起きる」34)
けではなくて、社会全体としての利潤の絶対量が減少する。
 第四に、「資本の絶対的過剰生産」の場合に、このように一般的利潤率が低下するだけでな
く社会全体の利潤量が減少する原因は、一般的利潤率の低下をひき起こす資本構成の変動が、
「資本の絶対的過剰生産」の場合には、「生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価
値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働に対する剰余労働の割合の減少と
によるもの」35)であるからである。これとちがって、のちに詳しく述べるように、一般的利潤
率の低下が、ここでのように賃金の上昇によってひき起こされるのではなく、生産力の発展→
資本の有機的構成の高度化によってひき起こされる場合には、一般的利潤率の低下には社会全
体の利潤量の増大が伴うのである。
 第五に、「資本の絶対的過剰生産」とは、「すべての生産領域を包括するような過剰生産」
であり、したがって「すべての生産領域」において利潤率が低下し利潤量が減少するのである

31)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, SS. 268-269.
32)Ibid., S. 261-262.
33)Ibid., S. 262.
34)Ibid., S. 262.
35)Ibid., S. 262.

ー40ー

から、「資本の絶対的過剰生産」がそこに存在すれば、「資本主義的生産の目的のための追加
資本がゼロ」36)になる、つまり「すべての生産領域」で追加資本の投下がストップするのであ
る。
 さて、次に、「現実の」・「相対的な」「資本の過剰生産」についてマルクスがどのように理解
していたかを、以上の「資本の絶対的過剰生産」の概念内容と対比させながら、考えてみよう。
 第一に、「現実の資本の過剰生産は・・・・・・相対的なものにすぎない」とマルクスが述べている
ように、「現実の資本の過剰生産」とは、「すべての生産領域を包括するような過剰生産」では
なくて、その範囲そのものにおいて「相対的」であるような「資本の過剰生産」である。なぜ
なら、「どんな場合に資本の過剰生産は絶対的であろうか?しかも[どんな場合に―松尾]あれ
これの生産領域とか二つ三つの重要な生産領域とかに及ぶのではなくてその範囲そのものにおい
て絶対的であるような、つまりすべての生産領域を包括するような、過剰生産であろうか?」37)
と言う場合の「絶対的」とは、「すべての生産領域を包括するような」という意味であり、 し
たがって、これから推論すれば、「現実の資本の過剰生産は・・・・・・相対的なものにすぎない」と
言う場合の「相対的」とは、すべての生産領域を包括するのではなくてその範囲そのものにおい
て「相対的」であるような、という意味で使用されていると考えられるからである。
 第二に、「現実の資本の過剰生産」は、「資本の絶対的過剰生産」とちがって、「労働者人口
に比べて資本が増大しすぎ」ることによって生じるのではなくて、人口過剰のもとで生じるの
である。というのは、マルクスは次のように述べているからである。「このような資本の過剰
生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。」38)「この
ような資本の過多は、相対的過剰人口を生じさせるのと同じ事情から生じ、したがってこの相
対的過剰人口を補足する現象である。」39)「生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費
関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎のうえでは、資本の過
剰が人口の過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。」 40)
 「資本の絶対的過剰生産」は、「労働者人口に比べて資本が増大しすぎ」ることによって生じ
るとされているのであるから、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、一方には、この増大し
すぎた資本の量に等しい(あるいはそれより大きい)資本部分が、過剰資本あるいは遊休資本
として立つ41)としても、他方には、 相対的過剰人口あるいは遊休労働者人口が立つわけではな
い。これに対して、「現実の資本の過剰生産」の場合には、「資本の過剰生産が多少とも大きな
相対的過剰人口を伴う」のであるから、一方には、過剰資本あるいは遊休資本が立つとすれば、

36)Ibid., S. 261.
37)Ibid., S. 261.
38)Ibid., S. 266.
39)Ibid., S. 261.
40)Ibid., S. 255.
41)注(25)末尾の引用文を参照せよ。

ー41ー

他方には、相対的過剰人口あるいは遊休労働者人口が立つのである。
 第三に、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、利潤量の減少と利潤率の低下をひき起こす
原因は、もっぱら賃金の上昇にあるとされていたが、これに対して、「現実の資本の過剰生産」
の場合には、マルクスは、利潤率の低下の究極の原因を賃金の上昇に求めていない。なぜなら、
「資本の絶対的過剰生産」が「労働者人口に比べて資本が増大しすぎ」ることによって生じるの
に対して「現実の資本の過剰生産」は、「多少とも大きな相対的過剰人口を伴」い、したがって、
むしろ、理論的には賃金を下落させる条件が発展しつつある状況において、生じるからである。
 では、「現実の資本の過剰生産」の場合における利潤率の低下は、どのような原因によって
ひき起こされるのであろうか。この問題に対するマルクスの明確な解答を『資本論』のなかか
らただちに引き出すことはできない。しかし、マルクスが、「このような資本の過剰生産が多
少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。労働の生産力を高
くし、・・・・・・利潤率を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、
また絶えず生みだしている」、42)「資本の過多は、相対的過剰人口を呼び起こすのと同じ事情か
ら生じるものであ」る、と説明しており、これから推論すると、「現実の資本の過剰生産」の
場合における利潤率の低下は、究極的には、相対的過剰人口を生みだしたのと同じ事情、すな
わち労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化、起因する、とマルクスが捉えている
ものと思われる。しかし、「資本の過剰生産」は「周期的に」43)生じる現象であり、これに反し
て、労働の生産力の発展→資本の有機的構成の高度化に起因する、一般的利潤率の低下は長期
的・傾向的現象である。44)したがって、この「利潤率の傾向的低下の法則」が、どのようにし
て、なにゆえに「周期的に」、「資本の過剰生産」の場合における利潤率の低下となって現われ
るのかということについては、マルクスは、なにも述べていない。なぜなら、「利潤率の傾向
的低下の法則」がどのような具体的な貫徹形態をとるのかということは、「資本一般」を考察
対象とする『資本論』では論じられない問題であるからであり、また他方、「資本の過剰生産」
についても、マルクスは、「それについてのもっと詳しい研究は・・・・・・資本の現象的運動の考察
(d.Betrachtung d.erscheinenden Bewegung d.Capitals)に属する」45)と考えていたからである。
 第四に、「資本の絶対的過剰生産」とは、すでに述べたように、「すべての生産領域を包括す
るような過剰生産」であり、したがって、その場合には、「すべての生産領域」において追加
資本の投下がストップすると考えられたが、これに対して、「現実の」・「相対的な」「資本の過
剰生産」とは、すべての生産領域を包括するのではなくその範囲が「相対的」であるような過
剰生産であり、したがって、この場合には、「すべての生産領域」において追加資本の投下が

42)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, S. 266.
43)Ibid., S. 268.
44)Ibid., S. 249.参照。
45)「主要原稿」のS. 231. 現行版では、ここは、「それのもっと詳しい研究はもっとあとで行なわれる」
(Ibid., S. 261)という曖昧な表現になっている。

ー42ー

ストップするのではなく、「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本」46)(このような
小資本こそが過剰資本となる)においてのみ追加資本の投下がストップするが、「利潤量の増
大によって利潤率の低下を埋め合わせる」47)ことができるような「十分に備えのある大資本」48)
においては追加資本の投下が続行されると考えるべきであろう。「現実の資本の過剰生産」に
対するマルクスのこのような考え方は、 彼の次のような認識のなかに反映しているように思わ
れる。「利潤量によって利潤率を埋め合わせることができるわずかばかりの既成の大資本の手
中でしか資本形成が行われなくなれば、およそ生産を活気づける火は消えてしまうであろう。
生産は眠りこむであろう」。48) ここで言われていることは、「わずかばかりの既成の大資本」に
おいてだけ追加資本の投下が可能であるような状況になれば、言いかえれば、追加資本の投下
が「すべての生産領域」・すべての資本においてストップするというような状況になる前に、
すでに、社会全体として「生産を活気づける火は消えてしまう」、ということである。
 第五に、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、利潤率の低下が生じるというだけではなく、
利潤量の減少もまたひき起こされるとされていたが、これに対して、「現実の資本の過剰生産」
の場合には、利潤率は低下するが、利潤量は増大すると考えられる(第17パラグラフ参照)。
なぜなら、第一に、「現実の資本の過剰生産」の場合には、「すべての生産領域」・すべての資
本で追加資本の投下がストップするのではなくて、「利潤量の増大によって利潤量の低下を埋
め合わせる」ことができるような「十分に備えのある大資本」においては追加資本の投下が続
行されるとされたが、もしこの理解が正しいとすれば、「現実の資本の過剰生産」の場合には、
社会全体として見れば追加資本の投下がなんらかの程度において行われているのであるから、
社会の総資本が取得する利潤の絶対量が減少するとは考えられないからである。第二に、「現
実の資本の過剰生産」の場合に生じる利潤率の低下は、究極的には、労働の生産力の発展→資
本の有機的構成の高度化に起因するものであるということをさきに述べたが、もしこうした理
解が正しいとすれば、「現実の資本の過剰生産」の場合には、利潤率は低下するが、利潤量は
増大すると言うことができるからである。というのは、労働の生産力の発展→資本の有機的構
成の高度化に起因する一般的利潤率の累進的低下には、社会の総資本が取得する利潤の絶対量
の増大が伴わ「なければならない」49)という資本主義的「生産および蓄積の法則」50)が存在す
るからである。
 ところで、マルクスの意に即して考えれば、以上のように、「現実の資本の過剰生産」の場
合には、利潤率は低下するが、利潤量は増大するということになるが、しかし、マルクスは、
「資本の過剰生産」とは何かということを説明するさいには、利潤率や労働の搾取度について

46)Ibid., S. 261.
47)Ibid., S. 266.
48)Ibid., S. 269.
49)Ibid., S. 228.
50)Ibid., S. 229.

ー43ー

は幾度も言及しながら、利潤量の増減の問題にはまったくと言ってよいほど触れていないので
ある。すなわち、「資本の過剰生産というのは、資本として機能できる生産手段、すなわち、
一定の搾取度での(zu einen gegebenen Exploitationsgrad)――というのは、この搾取度の一
定の点以下への低下は、資本主義的生産過程の攪乱や停滞、恐慌、資本の破壊をひき起こすか
らである――労働の搾取に充用できる生産手段――労働手段および生活手段――の過剰生産以
外のなにものも意味しない。・・・・・・労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、そ
れが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または、少なくとも、与えられた搾取
度のもとでそれがもたらすであろう利潤率が低いからである。」「資本が外国に送られるとすれ
ば、それは、資本が国内では絶対に使えないからではない。それは、資本が外国ではより高い
利潤率で使えるからである。しかし、この資本は、就業労働者人口[単なる労働者人口ではな
く―松尾]にとっても、またその国一般にとっても、絶対的に過剰な資本である。」51) 「労働者
の搾取手段として特定の利潤率で zu einer gewissen Rate des Profits 機能させるには多す
ぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるのである。」52) 以上、マルクスの説明している
ことは、要するに、「資本の過剰生産」とは、与えられた時点における「一定の搾取度」や「特
定の利潤率」で充用するには多すぎる生産手段が生産されることであり、搾取度や利潤率がこ
の一定の点以下へ低下すれば、資本主義的生産の攪乱や恐慌がひき起こされる、ということで
あり、「現実の資本の過剰生産」の場合に、利潤量が減少するのかそれとも増大するのかとい
う点には、マルクスはまったく言及していない。これは、明らかに「資本の絶対的過剰生産」
の場合とはちがった説明方法である。しかし、マルクスの考えは、おそらく、「現実の資本の
過剰生産」の規定において肝要なのは、利潤量が増大するのかそれとも減少するのかというこ
とではなくて、生産された生産手段が「一定の搾取度」や「特定の利潤率」で充用されうるの
かどうかということである、53) ということであったと思われる。これをさきのパラグラフで述
べたことと重ねあわせて考えると、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、利潤率の低下はも
ちろんのこと、 利潤量の減少さえ生じるようになるということが 重要であったのに対して、
「現実の資本の過剰生産」の場合には、利潤量が増大することはするが、利潤率が一定の点以
下へ低下するようになるということが規定の中心とされている、ということが言えるであろう。
 第六に、念のために述べておけば、「資本の過剰生産」は、長期的・傾向的現象ではなくて

51)Ibid., S. 266.
52)Ibid., S. 268.
53)「相対的過剰人口」という言葉についてマルクスは、「相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求にとっ
てよけいな、したがって過剰または追加的な労働者人口」 (Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 23, Dietz
Verlag, 1962,S.658.)「相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求との関係における、過剰人口」(Ibid.,
S.662.)という説明を付しているが、これから推論することが許されるとすれば、「相対的な」「資本の過剰
生産」の場合に言われる「一定の搾取度」「特定の利潤率」とは、おそらく、資本のそのときどきの平均的
な増殖欲求をみたすような利潤率・労働の搾取度を意味するのであろう。

ー44ー

「周期的に」生じる現象である。「資本の過剰生産」は、たしかに「利潤率の傾向的低下の法
則」というタイトルのもとで論じられているし、しかも、生産力の発展→資本の有機的構成の
高度化→利潤率の傾向的低下の過程において生じる現象であると考えられているが、しかし、
マルクスは、けっして、それを長期的・傾向的現象であるとは捉えていない。54) すなわち、マ
ルクスは次のように述べている。「労働者の搾取手段として特定の利潤率で機能させるには多
すぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるのである」55)(・・・・・・は松尾)。
 以上、われわれは、『資本論』第3部第3篇第15章第3節に分析対象を限定して、「資本の絶
対的過剰生産」規定との対比を通じて、「現実の」・「相対的な」「資本の過剰生産」の概念内容
を明らかにしてきたが、以下ではさらに、この「資本の過剰生産」56) 規定が、『資本論』第3部
第3篇全体のテーマである「利潤率の傾向的低下の法則」や、第15章第1節の「恐慌の究極の
根拠」規定と、どのような関連を有しているかということを考えることにしよう。

V 「資本の過剰生産」規定と「利潤率の傾向的低下の法則」との関連

 「資本の過剰生産」と「利潤率の傾向的低下の法則」との関連については、すでに他の論点
との関連で部分的に言及してきたが、以下、両者のあいだに見られる関連を、まとめて論じる
ことにしよう。
 まず第一に、現行版『資本論』第3部で見れば、第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」には
三つの章があって、「資本の過剰生産」は、そのうちの最後の一章で、しかもその第3節で論
じられるという構造になっているが、『資本論』第3部の「主要原稿」では、もっとはっきり
していて、第3章(現行版第3篇)――表題は「資本主義的生産の進歩につれての一般的利潤
率の傾向低下の法則」57) ――は、「マルクスによって節への区分はなされて」おらず、「現行版
の第3篇における三つの章への区分と、それらの章の表題は、すべてエンゲルスのものとみな
すことができる」58) のである。したがって、「資本の過剰生産」は、おそらく、「利潤率の傾向
的低下の法則」を主題とする第3章において、その主題と関連する一論点として論じられたも
のであろうと考えることができるのである。
 第二に、第3篇第15章は、「恐慌の究極の根拠」や「資本の過剰生産」などの問題を論じる
ことによって、「手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限され


54)古川哲氏は、「資本の絶対的過剰生産」を「短期的な資本の過剰現象」(前掲論文、85ページ)であるとし、
それに対して、「絶対的なものと仮定」されない「資本の過剰生産」、つまりマルクスの言う「相対的な」「資
本の過剰生産」の方を「長期現象としての資本過剰」(同上99ページ)であるとされる。だが、そのような
理解は、正しくないであろう。
55)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, S. 268.
56)これまでは、「資本の絶対的過剰生産」との対比上、「現実の資本の過剰生産」・「相対的な」「資本の過剰生
産」という言葉を使ってきたが、以下では、後者をたんに「資本の過剰生産」と言うことにする。
57)佐藤金三郎「『資本論』第三部原稿について(1)」、『思想』562号、1971年4月、126ページ。
58)同上論文、128ページ。

ー45ー

た目的とは絶えず衝突せざるをえない」59)という「資本主義的生産様式の矛盾」を明らかにし
ようとしたものであると思われるが、この第15章の(しかも第3節の)最後の方で、マルクス
は次のように述べている。「労働の生産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法
則を生みだし、この法則は、この生産力自身の発展にたいして特定の点で最も敵対的に対抗し、
したがって絶えず恐慌によって克服されなければならない」。60) これは、利潤率の傾向的低下
の法則が、生産力の発展に対して「特定の点で最も敵対的に対抗」する制限として現われるが、
その制限は恐慌によって克服される、ということを述べたものであるが、これによって分かるこ
とは、マルクスが、恐慌の勃発にとって「利潤率の傾向的低下」が重要な要因として作用する
と考えている、ということである。マルクスのこのような考え方は、次のような叙述のなかに
も見出すことができる。「利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがって資本
主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。それは過剰生産や投機や恐慌を促進し、
過剰人口と同時に現われる過剰資本を促進する。」61) (念のために言えば、冒頭の「利潤率の低
下」は、前後の文脈から判断して、明らかに、「生産力の発展を表している」、62) したがって
生産力の発展→資本の有機的構成の高度化によって生じる、利潤率の低下を意味する)。これ
によって分ることは、マルクスが、「利潤率の低下」によって過剰生産や恐慌や過剰資本の発
生が促進されると考えている、ということである。
 第三に、マルクスは、「このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴う
ということは、けっして矛盾ではない」、「このような資本の過多は、相対的過剰人口を呼び起
こすのと同じ事情[生産力の発展→資本の有機的構成の高度化―松尾]から生じるものであり、
したがって、この相対的過剰人口を補足する現象である」、と述べており、こうした「資本の
過剰生産」についての説明から分ることは、「資本の過剰生産」は、生産力の発展→資本の有
機的構成の高度化――究極的あるいは基本的には、これによって、相対的過剰人口が生みださ
れ、利潤率の低下がひき起こされるのであるが――を内容とする資本の蓄積過程において生じ
る、ということである。したがって、このような「資本の過剰生産」の場合に生じる利潤率の
低下は、究極的には、生産力の発展→資本の有機的構成の高度化に起因するものであると言う
ことができる。 これに対して「資本の絶対的過剰生産」の場合には、 すでに述べたように、
「一般的利潤率の強い突然の低下」を「ひき起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるも
のではなく、可変資本の貨幣価値の増大・・・・・・によるものであ」る63)(・・・・・・は松尾)。
 第四に、「資本の過剰生産」の場合には、利潤率は低下するが、社会の総資本の取得する利
潤量は増大すると考えられるが、この点から言っても、「資本の過剰生産」は、「利潤率の傾向

59)Marx, K., Das Kapital, MEW, Bd. 25, S. 260.
60)Ibid., S. 268.
61)Ibid., S. 252.
62)Ibid., S. 251.
63)Ibid., S. 262.

ー46ー

的低下」の過程において生じるものであると言うことができよう。なぜなら、生産力の発展に
よってひき起される「利潤率の傾向的低下」には社会の総資本の取得する利潤量の増大が伴う
という「法則」64)があるからである。これとちがって、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、
一般的利潤率が低下するだけではなく、社会の総資本の取得する利潤の絶対量の減少さえ生じ
るとされているのである。
 以上われわれは、「資本の過剰生産」と「利潤率の傾向的低下の法則」とのあいだに、どの
ような関連があるかを見てきたが、しかし、『資本論』の論理段階にとどまるかぎり、両者の
あいだの関連をわれわれがこれ以上立ち入って規定することは、不可能である。なぜなら『資
本論』は、「資本一般」を考察対象とし、「資本主義的生産様式の内的機構のみを、いわばその
観念的平均において叙述」65)することを目的とするものであるからである。すなわち、『資本
論』の論理段階では、「利潤率の傾向的低下の法則」については、それは、「ただ傾向として作
用するだけで、その作用はただ一定の事情のもとで長期間のうちに、はっきり現われる」66)
のであると言われるだけで、その法則の具体的な貫徹形態についてはほとんど言及されていな
いのである。また、他方の「資本の過剰生産」についても、『資本論』では、「資本の過剰生産
というのは、資本として機能できる、すなわち一定の搾取度での・・・・・・労働の搾取に充用できる
生産手段―労働手段と生活手段―の過剰生産以外のなにものでもない」、「労働者の搾取手段と
して特定の利潤率で機能させるには多すぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるのであ
る」、と述べられているだけで、「資本の過剰生産」が、どのような原因によって、どのように
して、なにゆえに「周期的に」、生じるのかということに関しては、マルクスは、ほとんどなに
も説明していないのである。つまり、『資本論』の論理段階では、「資本の過剰生産」について
は、「資本一般」の説明に必要なかぎりでの、したがってそれについての抽象的、一般的分析に
限定した形での言及しか行われていないのである。だから、マルクスは、「資本の過剰生産」に
ついての「もっと詳しい研究は・・・・資本の現象的運動の考察に属する」、と述べているのである。
 以上のような事情から、長期的・傾向的法則としての「利潤率の傾向的低下の法則」と「周
期的に」生じる現象である「資本の過剰生産」とのあいだにどのような関連があるかというこ
とについて、マルクスは、うえで見たような一般的な規定を与えることができても、それ以上
の詳しい規定を与えることができなかったのである。

W 「資本の過剰生産」規定と「恐慌の究極の根拠」規定との関連
 「資本の過剰生産」についての説明 (第15章第3節の第15―21パラグラフ)の最後の方で、
マルクスは次のように述べている。「労働者の搾取手段として特定の利潤率で機能させるには


64)Ibid., S. 236. なお、SS. 226-241 は、この「法則」の説明にあてられている。
65)Ibid., S. 839.
66)Ibid., S. 249.

ー47ー

多すぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるのである。商品に含まれている価値とこの
価値の一部をなす剰余価値とを、資本主義的生産によって与えられた分配条件と消費関係との
もとで実現し新たな資本に再転化させることができるためには、すなわち、絶えず繰り返す爆
発なしにこの過程を遂行するには、多すぎる商品が生産されるのである。」67) 見られるように、
引用文中の第一文章は、「資本の過剰生産」について述べたものであり、第二文章は、第15章
第1節の「恐慌の究極の根拠」規定と同じことを述べたものであり、しかも、二つの文章は、
なんの注釈もなしに、並列されているのである。
 また、第15章第1節の「恐慌の究極の根拠」規定の最後の方で、マルクスは次のように述べ
ている。「生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾
してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人口過剰の増大と結びついて
いるということは、けっして矛盾ではないのである。なぜなら、両者をいっしょにすれば、生
産される剰余価値の量は増大するであろうとはいえ、まさにそれとともに、この剰余価値が生
産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾が増大するからである。68)これは、
一読して明らかなように、いわゆる「生産と消費の矛盾」の展開過程において、「人口過剰の
増大」を伴う「資本の過剰」が進展する、ということを述べたものである。
 以上のことから、われわれは、「資本の過剰生産」規定も、「恐慌の究極の根拠」規定も、
資本主義的生産の同じ矛盾を規定したものである、という結論を引き出すことができよう。で
は、これら二つの規定によって、マルクスは、どのような資本主義的生産の矛盾を捉えようと
していたのであろうか。この問題に対する解答を、「資本主義的生産様式の制限」について説
明した次のような叙述のなかに見出すことができよう。「不払労働の取得と対象化された労働
一般に対するこの不払労働の割合が・・・ 生産の拡張または制限を決定するのであって、社会的
欲望に対する、社会的に発展した人間の欲望に対する生産の割合がそれを決定するのではない
ということ。だから、資本主義的生産様式にとっては、他の前提のもとでは逆にまだ不十分で
あると思われるような生産の拡張度においても、すでに制限が現われるのである。この生産様
式は、欲望の充足が停止を命じる点ではなく、利潤の生産と実現とが停止を命じる点で停止す
るのである。」69) これは、資本主義的生産様式の利潤による制限、つまり、ある特点の利潤率
が生産の拡張や制限を決定するということ、を述べたものであるが、さきの問題との関連で注
目すべきは、「この生産様式は・・・利潤の生産と実現とが停止を命じる点で停止するのである」
(・・・・・・は松尾)という文章である。ここで言われていることは、資本主義的生産は、「利潤の
生産」と「利潤の実現」との両側面から制限を受ける、ということである。ところが、生産が
「利潤の実現」側面から制限を受けるということは、多くの論者が認めているように第15章第

67)Ibid., S. 268.
68)Ibid., S. 255.
69)Ibid., S. 269.

ー48ー

1節で「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」70)として
取上げられており、また、「利潤の生産」側面から生産が制限を受けるということは、第15章
第3節の「資本の過剰生産」規定によってマルクスが指摘しようとした「資本主義的生産様式
の制限」のことであると考えられる。したがって、「恐慌の究極の根拠」規定と、「資本の過剰
生産」規定とは、「資本主義的生産様式の[利潤による]制限」をそれぞれの問題側面から規
定したものであると言うことができよう。このように見てくると、「資本主義的生産様式の制
限」について指摘したさきの叙述は、第15章全体をまとめたものであると考えることができる。
 以上、マルクス自身の説明によって、「恐慌の究極の根拠」規定と「資本の過剰生産」規定
との関連の大枠は明らかになったが、しかし、『資本論』第3部第15章では、両者の関連につい
ては、これ以上の立ち入った説明はなされていない。その原因は、次のような事情にある。すな
わち、「資本の過剰生産」について言えば、すでに述べたように、マルクスは、「それについて
のもっと詳しい研究は、・・・・・・資本の現象的運動の考察に属する」と述べており、「資本一般」を
考察対象とする『資本論』では、「資本の過剰生産」に論及するとしても、せいぜいその一般
的規定にとどめられているのである。また、「恐慌の究極の根拠」についても、そこで言われ
るいわゆる「生産と消費の矛盾」の問題――これは、1857―58年の草稿では「論争」論に属す
るとマルクスが考えていた問題である71)――が、「資本一般」を考察対象とする『資本論』で
論及されるとしても、その矛盾の(恐慌に至るまでの)具体的な全累積過程が問題にされるわ
けではなく、その矛盾の基本的規定、つまりその矛盾がそもそも資本主義的生産様式のどのよ
うな本性に根ざしているのかということが問題にされるだけである。したがって、『資本論』
の論理段階にとどまるかぎり、われわれは、「資本の過剰生産」規定と「恐慌の究極の根拠」
規定との関連について、すでに述べた抽象的・一般的な規定以上の、立ち入った規定をするこ
とができないのである。ともあれ、本稿での以上の考察から次のことを確認することができる
であろう。第一に、「資本の過剰生産」規定と、「恐慌の究極の根拠」規定とは、どちらも、「資
本主義的生産様式の制限」あるいは「資本主義的生産様式の矛盾」を捉えようとしたものであ
り、第二に、したがって、恐慌論の体系化を行なおうとする場合、「恐慌の究極の根拠」規定だ
けに依拠して、「資本の過剰生産」規定を無視ないしは軽視することも許されないし、また、
それとは逆に、後者の規定だけに依拠して、前者の規定を無視ないしは排撃することも許され
ないであろう。72) (脱稿、1978. 11. 8)

70)Ibid., S. 255.
71)Marx, K.,Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie,Dietz Verlag,1953.SS.321-324.
72)念のための述べておけば、われわれのこのような主張は、富塚氏のそれとまったく違うものである。われ
われの場合には、「現実の」、「相対的な」「資本の過剰生産」規定と「恐慌の究極の根拠」規定との両方に依
拠して、恐慌論の体系化が行なわれるべきであると考えられている。これに対して、 富塚氏の場合には、
――「現実の」、「相対的な」「資本の過剰生産」の概念内容を明らかにするために、マルクスが「極端な前
提」をおいて想定したにすぎない――「資本の絶対的過剰生産」規定と「恐慌の究極の根拠」規定との両方
に依拠して、恐慌論の体系化が行なわれるべきであるとされているのである。

ー49ー