『経済学雑誌』第76巻第1号、1977年1月発行

  

『資本論』第2部の論理構造と    「恐慌の一層発展した可能性」について

 

松尾 純

 

    T はじめに     U 「恐慌の一層発展した可能性」と『資本論』第2部の各篇との連携       をめぐる久留間氏と富塚氏の所説     V 『資本論』第2部の論理構造と「恐慌の一層発展した可能性」につ いて     W 久留間、富塚各氏の所説の問題点     X むすび  

 

 Tはじめに
 周知のように、最近「恐慌論体系の展開方法」をめぐって久留間鮫造氏と富塚良三氏と
の間で論争1)が行われているが、そこで問題になっている事柄は、「(1)再生産論と恐慌論


1)久留間・富塚論争に直接関連する文献として次のようなものがある。
@A 久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』第6、7分冊、 恐慌T、Uの「栞」、大月書店、1972
年9月、1973年9月。
B大谷禎之介「『内在的矛盾』の問題を再生産論に属せしめる見解の一論拠について――『資本論』
第2部注32の『覚え書き』の考証的検討――」、『経済経営研究所研究報告』(東洋大学)第6号、19
73年。
C富塚良三「恐慌論体系の展開方法について――久留間教授への公開質問状――」、『商学論集』第
41巻第7号、1974年7月。
D二瓶敏 「再生産論と『一層発展した恐慌の可能性』―― 表式における『内在的矛盾』把握の否定
論によせて――」(大島雄一・岡崎栄松編『資本論の研究』、日本評論社、1974年)。
E久留間鮫造「恐慌論体系の展開方法について(1) 」(富塚氏への公開回答状)『経済志林』第43巻第
3号、1975年10月。
F富塚良三「再生産論と恐慌論との関連について――久留間教授への公開書簡(その二)」『商学論
纂』第17巻第3号、1975年9月(なお、この論文の最終脱稿日は1976年2月10日である)。
G拙稿「『資本論』第2部「第1草稿」(1864−65年)について」 『経済評論』、 1975年 10月号。
H同「『恐慌論体系の展開方法』に関する一考察」『大阪市大論集』第24号、1976年3月。
以上のものからの引用に際しては、引用文のあとに、論文番号とページ数を(A13のように略記

ー94ー

との関係について、(2)均衡蓄積率の概念について、(3)《恐慌の必然性》の項を設けることの
是非について」(E1)の3点である。といっても、この3つの論点のすべてにわたって
同時に論争が行われているわけではなくて、現在のところ第1論点をめぐって行われてい
るにすぎない。すなわち、論争は、久留間氏編『レキシコン』「栞」での富塚氏批判→久
留間教授への公開質問状」→富塚氏への「公開回答状」(1) →「久留間教授への公開書簡
(その2)」、という経過をたどって現在なお進行中であるが、これらにおいて問題になって
いることは、要するに、「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部の第3篇にお
いてはじめて把握されるのか、それとも、『資本論』第2部全体において把握されうるの
か、ということについてである。
ところで、以上の久留間 ・ 富塚論争については、筆者はすでに、『剰余価値学説史』
(MEW版.Bd.26)U2)、SS.513―514の叙述――マルクスはここで恐慌論の方法について要
約的な説明をしている――をいかに解釈すべきかという観点から、あるいは、『資本論』
全体および各部が「恐慌論体系の展開方法」という点から見てどのような意義をもってい
るかという観点から、両氏の所説を検討したことがある(拙稿H)。しかし、その際に十
分な検討を加えることができずに残された問題がある。それは、「恐慌の一層発展した可
能性」の把握にとって『資本論』第2部の第1、2篇と第3篇とがそれぞれどのような意
義をもっているのか、という問題である。そして、この問題についても筆者は両氏の所説
に同意しえない。
それゆえ、以下本稿では、上記の残された問題についてのわれわれの考え方と、この問
題に関する両氏の所説に同意しえない理由を述べることにする。

U「恐慌の一層発展した可能性」と『資本論』第2部の各篇との 連携をめぐる久留間氏と富塚氏の所説

(1)『資本論』第2部の第1、2篇と第3篇とがどのような理論的関連をもっているのか
ということ、そしてまた、「恐慌の一層発展した可能性」の把握にとって第1、2篇と第
3篇とがそれぞれどのような意義をもっているのかということ。これらの諸点を解明する
ことが本稿の課題であるが、われわれはまず、問題点を明らかにするために、久留間氏と
富塚氏とがそれぞれ、これらの問題についてどのような主張をされているかを見ることに


して)示すことにする。
2)Marx, K., Theorien über den Mehrwert, MEW, Bd. 26, 2, Dietz Verlag, Berlin,
1967. 以下引用に際しては、『学説史』Uと略記する。

ー95ー

しよう。
久留間・富塚論争はそもそも『レキシコン』恐慌篇の「栞」から始められたものである
が、そこでは、山田盛太郎氏以来の有力な考え方――「恐慌の一層発展した可能性」の把
握は『資本論』第2部第3篇において行われるとする考え方3)――に対する次のような主
張がなされている。『学説史』U、S.513において、「恐慌の一層発展した可能性」が把握
される理論領域とされている「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」とは
『資本論』第2部の全体にあてられている「資本の流通過程」のことである(@8)、した
がって、「恐慌の一層発展した可能性」は第2部全体についてみる必要がある(@11)と。
これに対して、富塚氏は、「久留間教授への公開質問状」において、「それ自体同時に再生
産過程であるところの流通過程」とは後の『資本論』第2部第3篇のことであり、したが
って、「恐慌の一層発展した可能性」が『資本論』第2部第3篇で解明されるとする山田
氏以来の見解は誤っていない(C241)、と反論された。4)
このように『学説史』の一文節をいかに解釈すべきかをめぐる対立として開始された論
争は、その後『資本論』第2部「第1草稿」5)が公表されたことによって、その第2ラウ
ンドをむかえることになった。
すなわち、久留間氏は、「公開回答状」(1)において富塚氏の反論に対して以下のような
批判を展開された。
第一に、「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」とは『資本論』第2部
全体のことを指しているとする解釈を根拠づけるために、「第1草稿」の第3章の第4パ
ラグラフ(S.107ページ)の叙述や第2章第1節の終り方の叙述(S .65ページ)を引用
されながら6)、次のように言われた。すなわち、「第1に、資本の総・流通過程=再生産過

3)山田盛太郎『再生産過程表式分析序論』改造社、1984年、11−12ページ、70ページ参照
4)このように言ったからといって、富塚氏は、「『資本論』第2巻の第3篇以外の個所でも恐慌に
関連する叙述がいくつかみられ、恐慌の諸契機たりうべき問題の所在が指摘されていることをなん
ら否定」(C241)しているわけではない。氏が主張しようとしたことは、ただ、「それらの諸契機が
『発展した恐慌の可能性』……を規定する諸契機として把握されうるのは、……価値および剰余価
値の実現の問題がそこではじめて本格的に問題となるところの第3篇の論理段階においてである」
(C241-242)ということである。この点は、富塚氏が、後に「公開書簡(その二)」で久留間氏に
反論する際の主要論点されている。
5)ロシア語版『マルクス・エンゲルス著作集』第49巻、1974年所収。この草稿の全体的な内容を
紹介したものとして、拙稿Gを参照せよ。なおこの草稿からの引用に際しては、マルクスの原稿ペ
ージ数のみを(例えばS.113のように)示す。
6)久留間氏が引用されたのは、 ロシア語版の文章ではなく、次のような未公刊のドイツ語原文で
ある(E33と35)。

ー96ー

程は、『資本論』の現行版でいえば、第2部の第3篇ではじめて考察されているのではな
く、それ以前の部分ですでに考察されているということ。第2に、しかし第3篇以前の個
所では、この過程が通過する諸契機あるいは諸局面が単に形式的に考察されたに過ぎない
ということ。第3に、第3篇ではこれに反して、この過程が進行しうるための現実的諸条
件が研究されているのだということ」(E33)。さらにまた、『資本論』第2部第3篇にお
いてのみ再生産過程(流通と生産の両過程)の問題が取り扱われているとする『資本論』理
解を批判するために、久留間氏は、『資本論』第1部第7編の冒頭文章や第2部の冒頭文
章を引用されながら、次のように主張された。すなわち、資本の循環は、「生産部面と流通
部面との統一であり、両方の過程を自己の諸部面として通過するところの一過程である」
が、この過程は、「『資本論』第2部の篇別でいえば……第3篇ではじめて問題になること
ではなく、先ず第1篇で問題にさるべきことである」(E10)と。
第二に、以上のことから、久留間氏は次のような結論を下された。すなわち、資本の循
環の3つの段階の内容をなす3つの変態のうち、流通部面で行われる2つの変換は「いず
れも、恐慌の抽象的形態が資本の流通過程で内容規定を受けとる場になる」(E10)。した
がって、「『… 潜在的恐慌の一層の発展』は、『価値および剰余価値の実現』の過程―W´
−G'の過程―のうちにのみ見いだされるのではなく、『生産資本への再転化』の過程P・・
Pすなわち生産資本の循環の過程のうちにも見いだされる」(E26)と考えられる。とすれ
ば『資本論』の第2部第1篇の第2章や第4章で述べられている「生産資本の諸要素の価
値変動による資本の再生産の攪乱の可能性」の問題7)も、「資本の流通過程のもとでの『恐

 Bei der bisherigen Betrachtung des gesamten Zirkulationsprozesses=Reproduktions-
prozess[es] des Kapitals, haben wir die Momente oder Phasen, die er durchläuft,nur
formell betrachtet. Wir haben jetzt dagegen die realen Bedingungen zu untersuchen,
unter denen dieser Prozeß vorgehn kann(S.107).
 Mit der Betrachtung des Umschlags des Kapitals ergiebt sich,was schon an sich in
der Betrachtung der verschiednen Umlaufszeit,Produktionszeit und überhaupt des ge-
samten Zirkulations-und Reproduktionsprozesses enthalten war, eine neue Bestimmung
des Mehrwerts(S.65).
筆者もすでに、前者の叙述をロシア語版から引用し、それに久留間氏と同じような解釈をくだす
ことによって、久留間・富塚論争に次のような評言を与えておいた。「だが、さきに見たマルクスの
説明からすれば、『資本論』第2部第3篇においてのみ再生産過程の問題が取扱われているという理
解を前提にした富塚氏の所説も、 『資本論』第2部の第1、2篇に対する第3篇の独自性をそれ相当に
認めない久留間氏の所説も、ともに問題があるといわざるをえないのではなかろうか」(拙稿G111)。
7)Marx , K., Das Kapital, 2 Band , MEW , Bd . 24, Dietz Verlag, 1963, SS . 77-80 , SS.
109-113.

ー97ー

慌の可能性の一層の発展』……を考える場合当然考慮にとり入れられねばならない問題」
(E14)である、と。
このような「公開回答状」に満足せずに、富塚氏は、再び、「久留間教授への公開書簡
(その二)」を発表され以下のような反論をされた。
第一に、「第1草稿」の第3章の第4パラグラフの叙述について、富塚氏は、「『再生産
過程』は第3章以前のどこでも論じられている(ただ若干観点が相違するだけだ)という
ようなことをいわんとしたものであるよりは、むしろ、《再生産過程》が本格的に現実の《再
生産過程》として把握されるのは、・・・第3章においてであるということをいおうとしたも
のである」、(F14)という解釈を示された。そしてさらに、現行『資本論』第2部の論理
構造についても、「第1、2篇と第3篇とでは分析対象そのものが個別資本と社会的総資
本というようにはっきり区別されているのであって、同じ過程、同じ対象の、一方は『た
んに形式的な考察』、他方は『現実的諸条件の研究』という区別ではありません」(F12)、
と言われた。
第二に、『資本論』第2部の第1、2篇においてもその所在が指摘されている恐慌の諸
契機――例えば「生産資本の諸要素の価値変動による資本の再生産の攪乱の可能性」など
のG−W<APmにかかわる諸問題――についても、富塚氏は次のように反論された。すなわ
ち「第2巻の流通過程分析を社会的総資本の再生産過程把握の観点から総括する位置にあ
る第3篇において、第1、2篇においてもその所在が指摘されていた恐慌の諸契機が《発
展した恐慌の可能性》を規定する諸契機として総括把握されるのである」(F27)。したが
って、 「久留間教授が回答において強調された、 G−W<APmにかかわる……諸問題も、
W'−G'を制約する諸条件にかかわる問題として再生産論のうちに包摂することが可能で
あろうし、またそうしなければ、それらの諸問題は真に『発展した恐慌の可能性』を規定
する諸契機としては、把握されえないであろう」(F28)、と。
(2)以上、久留間氏と富塚氏の所説を見てきたが、それによって、われわれは次のような
ことを確認することができるであろう。 すなわち、 第一に久留間氏にあっても、富塚氏
にあっても、『資本論』第2部の第1、2篇においても恐慌にかかわる諸契機が指摘され
ているということを認められているということ。 第二に、にもかかわらず、久留間氏は、
『資本論』第2部の第3篇だけでなく第1、2篇においても「恐慌の一層発展した可能性」
の把握が問題になっていると主張され、それに対して、富塚氏は、「恐慌の一層発展した
可能性」の把握は 第3篇においてはじめて真に問題になると主張されているということ。
さらに、このような両氏の間の対立を生じさせている原因についても、われわれは次の
ー98ー

ように言うことができよう。すなわち、その原因は、『資本論』第2部の論理構造――第
1、2篇と第3篇とがどのような理論的関連をもっているのかということ――に関する両
氏の見解の相違にあると考えられると。そして、『資本論』第2部の論理構造に関する両
氏の見解の相違とは、すでに見たように次のようなものである。すなわち、久留間氏は、
資本の再生産過程の問題は『資本論』第2部の第3篇だけでなく、それ以前の第1、2篇
においてもすでに考察されている、と主張されており、これに対して、富塚氏は、「《再生
産過程》が本格的に現実の《再生産過程》として把握されるのは」、『資本論』第2部の第3
篇においてである(F14)、と主張される。
ところで、『資本論』第2部の論理構造に関するこれらの見解と「恐慌の一層発展した
可能性」が『資本論』第2部のどの箇所で把握されるかについての見解とをそれぞれ結び
つけているものは、周知のように、『学説史』U、S.513の、「その事柄[「潜在的恐慌の
一層の発展」――松尾]はそれ自体同時に再生産過程であるところの流通過程においては
じめて現われうる」、という文章である。
それゆえ、「恐慌論体系の展開方法」という観点からみて『資本論』第2部とその各篇
がどのような意義をもっているかということを考えるためには、われわれはまず、次のこ
と、すなわち、『資本論』第2部を構成している3つの篇がそれぞれ相互にどのような理
論的関連を持っているかということを明らかにしなければならないであろう。

V『資本論』第2部の論理構造と「恐慌の一層発展した可能性」について

(1) 『資本論』第2部の論理構造についてマルクスがいかに考えていたかという問題は
従来あまり表立った論争問題として取上げられてこなかった。ところが、すでに見たよう
に、最近、久留間・富塚論争における1論点――すなわち、「恐慌の一層発展した可能性」
は『資本論』第2部の全体で把握されると考えるべきか、それとも、第2部第3篇ではじ
めて真に把握されうると考えるべきかという問題――に関連して、 この問題、 すなわち
『資本論』第2部の論理構造についてマルクスがいかに考えていたかという問題について
の立入った考察がなされつつあるように思われる。しかも、その傾向は、『資本論』第2
部の「第1草稿」が(ロシア語によってではあるが)公表されることによって、いっそう
強められつつある。 というのは、現行『資本論』(エンゲルス編集)第2部と対比して、
この「第1草稿」には「資本の流通過程」論を構成している3つの篇がそれぞれ相互にど
のような理論的関連をもっているかということを考える場合に、大いに参考になる叙述が

ー99ー

数多く含まれているからである。
『資本論』第2部の論理構造についてマルクス自身が説明していると思われる箇所が、
「第1草稿」のなかにはいくつかあるが、そのうちでもとりわけ注目すべき叙述は、「第
3章」の第4パラグラフのそれである。
「資本の総流通過程=再生産過程についてのこれまでの考察では、われわれは、その過
8)が通過する諸契機あるいは諸局面を形式的にのみ考察した。それに反して、いまや、
われわれは、この過程が進行しうる現実的諸条件を研究しなければならない」(S.107)。9)
この叙述からただちにわかることは、第一に、資本の再生産過程については、「これま
で」も考察してきたが、その際にはその過程を「形式的に」考察してきたということ、第
二に、これに反して、「いまや」――つまり第3章(現行『資本論』第2部の第3篇)で
は――資本の再生産過程が進行しうる現実的諸条件が研究されるということ、である。だ
が、「これまで」というのは、具体的にいっていったいどこを指しているのか明らかでは
ないので、かならずしも判断することができない。
だが、「第1草稿」の第2章第1節の終りの方にある次のような叙述によって、「これま
で」とは、この草稿の第1、2章(現行『資本論』第2部の第1、2篇)のことであると
いうことが判明する。
「資本の回転の考察では、相異なる流通時間、生産時間そして一般に総流通過程=再生
産過程の考察のうちにすでにそれ自体含まれていたもの、 すなわち剰余価値の新たな規定
が明らかになる」(S.65)。
みられるように、資本の再生産過程の考察は、流通時間および生産時間の考察が行われ
ている場所――つまり「第2章、資本の回転」に先立つ第1章――でも行われているとさ
れている。いいかえれば、資本の再生産過程の考察は『資本論』第2部の第1篇でも行わ
れているということである。そして、このような指摘は、「第1草稿」の第1章第3節「生
産時間」の冒頭にみられる次のような規定と照応していることがわかる。
「資本の総再生産過程は、……資本の回転と呼ばれる。したがって、資本の回転は、周

8)筆者は、かつて(G)、この文章を引用した際、ロシア語版からの重訳ということもあって、
"он"(単数、 男性――ドイツ語原文では er ) を 「その過程процесс(単数・男性――ドイツ語
原文では der Prozeß)」 と訳すべきところを、 「資本капитал(単数・男性――ドイツ語原文では
das Kapital)」と訳してしまった。この場をかりて訂正しておきたい。
9)この引用文と次の引用文は、久留間氏が引用されたドイツ語原文からの訳である。

ー100ー

期的なものとして規定された資本の再生産過程である」(S.46)。
みられるように、ここではマルクスは、資本の総再生産過程を資本の回転であると規定
しているが、この資本の回転について、さらに彼は、草稿の第1章第3節の原注(S.49)
や第2章の冒頭(S. 57)において、 第1章第3節では資本の「回転の一般的分析」が行
われ、第2章では資本の回転の本格的な考察が行われるという叙述プランを示している。
したがって、以上のことから、われわれは、「第1草稿」の第3章の初めの方の叙述に
ついて、次のような解釈をすることができよう。すなわち、第一に、『資本論』第2部の
第1、2篇では、資本の再生産過程が「形式的に」のみ考察され、第二に、これに反して
第2部の第3篇では、資本の再生産過程の「現実的諸条件」の研究が行われる、というこ
とが説明されていると。
ところで、本節冒頭で引用した文章には、さらに――理論的に重要であると思われるに
もかかわらず――その意味 ・ 内容がそれだけでははっきりしない言葉がある。それは、
「形式的に」という言葉と「現実的」という言葉である。ところがこれらの言葉を、マル
クスはこの「第1草稿」の多くの箇所で使っているので、それらのうちのいくつかのもの
を引用しながらこれらの言葉のもつ意味・内容を考えてみよう。
まず注目すべきは「第1草稿」の冒頭にみられる次のような叙述である。
「われわれは、資本が流通過程自体の中で受け取る新たな形態諸規定を研究しなければ
ならない。……これらの諸形態をその純粋な姿で理解するためには、そのものとしては諸
形態の変換と形成にはなんら関係のない諸規定を捨象しておくことが、なによりもまず重
要である。したがって、とくに、この第1章では、われわれは、この部の第3章で考察さ
れる、流通過程にとってさえ重要である多くの現実的諸規定を取扱わないでおこう」(S.
1)。
みられるように、ここで述べられていることは要するに、次のこと、すなわち、資本が
流通過程において受け取る諸形態を「その純粋な姿で理解するためには」、第1章では、
「そのものとしては諸形態の変換と形成にはなんら関係のない諸契機」――つまり第3章
で考察される「現実的諸規定」――が捨象されなければならないということ、である。い
いかえれば、第1章では、資本の流通過程において行われる諸形態の変換と形成だけがも
っぱら考察され、「現実的諸規定」が捨象されているということである。だが、ここで言
われている「現実的諸規定」とは、いったいなにか。マルクスは、この言葉のもつ意味・
内容について、さきの引用文につづいて次のような説明を与えている。すなわち、
「現実的再生産および蓄積過程として流通過程を考察することは、第3章で行われるが、
ー101ー

その際には、次のような現実的諸契機が形態のほかに考察される」(S. 1)、と述べたあ
と、次の3つの「現実的諸契機」を挙げている。第一に、 現実的再生産過程にとって必要
な諸使用価値が、いかに再生産され、 またいかに相互に条件づけあっているかということ、
第二に、再生産が、 それを構成している諸契機の前提された価値−価格諸関係によって条
件づけられているということ、 第三、 不変資本、可変資本および剰余価値の間の比率。
[いま、これら3つをわれわれなりに要約すれば、 「現実的諸契機」とは、現実的再生産に
とって必要な種々の使用価値がいかに再生産され補填されるかという素材的契機と、 再生
産を構成している諸要素、 諸契機の間の価値関係という契機のことであるということにな
るが、しかし、後者は、 実際には、前者が考察範囲に入れられたのちにはじめて、問題に
なりうるものであると考えられる]。
このようなマルクスの説明から、われわれは、 さきの「現実的諸契機」というのは、お
もに素材的契機のことを指しているのではないかという結論をえることができる。 そして
このようなわれわれの推論は「第1草稿」にあけるマルクスの次のような指摘と照応して
いるように思われる。「消費過程の資本主義的再生産過程に対する現実的関係は、 第V章
において考察される」(S.22)。ここでマルクスが主張しようとしていることは、 「消費過
程は再生産過程の内在的契機をなしている」(S. 145)という命題の具体的な展開は第3
章で行われる、ということである。 いいかえれば、種々の消費過程(とそれに対応する種
々の生産過程との関係)という契機を加えることによって、 「消費過程の資本主義的再生
産過程に対する現実的関係」を考察することは第3章に属するということである。
とすれば、このようなマルクスの考え方と、 さきに見た第3章になってはじめて素材的
契機が加えられるという考え方とを重ね合わせることによって、 われわれは次のような結
論に達することができる。すなわち、単に、形態変換をその純粋な姿で理解するという観
点からだけでなく、素材的契機をも加えて資本の再生産過程を考察するということは、次
のこと、すなわち、種々の素材がそれぞれどのような生産部門で生産され、そしてどのよ
うな流通過程W´−G´−Wをへて、最後にどのような消費過程(種々の個人的あるいは生
産的消費過程 )に入っていくのかということを考察するということ、 を意味している、
と。
このようなわれわれの解釈は、マルクスの次のような説明によっても根拠づけられうる
ように思う。
「そして、第1局面W'−Gは、Gが、W´が生産条件として入っていく他の資本のある局
面の転化形態であるか、あるいは収入の転化形態であるかのいずれかを前提している。こ
ー102ー

れらの諸契機は、個別資本の再生産過程および回転においては現われないがゆえに、――
というのは、ここでは[第1章では――松尾]貨幣と現存商品だけが互いに交換されるか
らである――この再生産過程は、それ自体として孤立させられれば、たんなる形式的な過
程に過ぎない。現実的再生産および流通過程は、多数の諸資本の、すなわち種々の生産諸
部門の諸資本に分裂している総資本の、過程としてのみ把握されうる。それゆえに、これま
での考察方法とちがって、この過程は、現実的再生産過程として考察しなければならない。
そして、この過程は、この部の第V章で考察されるであろう」(S.28)。
みられるように、ここでマルクスが述べようとしていることは次のことである。「ここ
では」つまり第1章では、再生産過程が形式的な過程として考察されるがゆえに、貨幣と
現存商品とがただ交換されるという契機だけが関係しており、再生産過程の一局面W´−
G'を制約する諸契機―すなわちW'がどのような消費過程に入っていくかということ――
は捨象されている。それに反して、第3章では、これとちがった「考察方法」がとられ、
したがって上記の種々の諸契機が考察範囲に入れられる。
さて、以上のような推論が正しいとすれば、われわれは、『資本論』第2部の論理構造
について次のように言うことができよう。すなわち、『資本論』第2部では、第1篇から
第3篇までの全体を通じて、資本の再生産過程が考察されているが、しかし、第1、2篇
と第3篇とでは、「考察方法」が異なっている。第1、2篇では資本の再生産過程が形式
的にのみ――すなわち、資本が流通過程W'−G'−Wにおおいてどのような形態変換をす
るのかということを、素材的契機を捨象して、分析することによって――考察されている。
これに反して、第3篇では、これまでの考察方法とちがって、素材的契機を加えることに
よって、資本が流通過程においでどのような素材的および形態的な変換を行うかというこ
とが分析され、そのことを通じて資本の再生過程が考察されている、と。
(2)とすれば、このような結論が、本稿での課題――すなわち『資本論』第2部で問題に
なる「恐慌の一層発展した可能性」が、第2部のどの篇で、そしてまた、どのような考察
視角から解明されているかという問題――に対して、どのような解決を与えているであろ
うか。以下、この点について考えてみよう。
『資本論』第2部では、第1篇から第3篇までの全体を通じて、資本の再生産過程が考
察されているというさきの理解から、われわれはまず、「恐慌の一層発展した可能性」は
『資本論』第2部の全体を通じて把握されているという結論をえることができる。という
のは、いうまでもなく、『学説史』U、S.513において、「恐慌の一層発展した可能性」は
「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程においてはじめて現われうる」とい
ー103ー

われているからである。
だが、ここで注意するべきことは、第2部の全体で資本の再生産過程が考察されていると
はいっても、 第1、2篇と第3篇とでは「考察方法」が異なっているということである。
というのは、第1、2篇と第3篇との間でその「考察方法」が異なっているとすれば、当
然、第1、2篇で問題になる「恐慌の一層発展した可能性」と第3篇で問題になるそれと
の間には、前述の「考察方法」の相違に起因する内容上の相違があるはずであるからであ
る。
まず、資本の再生産過程を単なる形態変換の側面からのみ考察する第2部の第1、2篇
の論理段階では、「資本一般」規定のうちのこの論理段階に相当するかぎりでの資本関係
が導入されこそすれ、すでに見たように、素材的契機は一応捨象されている。とすれば、
ここで把握される「恐慌の一層発展した可能性」に関しては、次のことに注意する必要が
あると思われる。すなわち、第一に、資本関係が一切捨象されている商品・貨幣の論理段
階で把握される「恐慌の一般的な抽象的な可能性」とちがって、第2部の第1、2篇で把
握されるそれは、この論理段階に相当するかぎりでの資本関係が導入されているがゆえに
マルクスによって「恐慌の一層発展した可能性」(・・は松尾)と規定されているという
こと。にもかかわらず、第1、2篇で把握される「恐慌の一層発展した可能性」は、素材
的契機に関連する内容を含んではいないということ、いいかえれば、それは、素材的契機
などを一切捨象して単なる形態変換の側面からのみ見るという「考察方法」によって明ら
かにされうるかぎりでの内容のみを含んでいるということ。
ところが、これに反して、第2部の第3篇では、単なる形態変換という契機のほかにさ
らに素材的契機がつけ加えられることによって、資本の再生産過程が「進行しうる現実的
諸条件」が研究されている。とすれば、この論理段階で把握されうる「恐慌の一層発展し
た可能性」は、『資本論』の第2部の論理段階という限界を超えるものではないが、第1、
2篇で把握されるそれよりは、ヨリ「一層発展」した「恐慌の可能性」であるということ
ができる。また、この第3篇では、すでに見たように、種々の消費過程と生産過程との直
接的・間接的結合の必然性が資本主義的再生産の諸本性の一つとして存在するという問題
が取扱われるのであるが、もしそうだとすれば、第3篇で把握される「恐慌の一層発展し
た可能性」は、この問題と関連した形で説明されていると考えるべきであろう。そして、
現に、マルクスは、「第1草稿」の第3章第5節末尾において、生産と消費の複雑な相互
制約諸関係が資本主義的再生産過程には存在しなければならないと指摘する。そしてさら
に、このことと、実際の資本主義的生産においてはそのような諸関係がなかなか成立しが
ー104ー

たいという事実とを対比させることによって、この生産と消費の相互制約諸関係の必然性
を「恐慌に対立する根拠」と規定している。すなわち「生産と消費とが相互に一定の内在
的な諸量および比例関係のもとになければならず、生産量は終局的には消費量によって規
定されなければならない、という恐慌に対立する根拠は、まさしく、恐慌のための根拠に
ほかならないのである。なぜならば、資本主義的生産の基礎上では、この相互規制は直接
的には存在するものではないからである」(S.145)10)と。このように、第3篇で把握され
る「恐慌の一層発展した可能性」は、素材的契機や種々の消費過程という契機が導入され
ることによって、それらの契機に関連する内容をもっているということができよう。

W 久留間、富塚各氏の所説の問題点

前節で明らかにされたことは、要するに、『資本論』第2部の第1、2篇で把握される
「恐慌の一層発展した可能性」と第3篇で把握されるそれとの間に、「考察方法」の相違か
らくる内容上の相違があるということである。したがって、以下、このような観点にたっ
て、久留間氏と富塚氏の所説に対するわれわれの疑問点を述べることにしよう。
(1)富塚氏の所説の問題点
第一に、富塚氏は、「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部第3篇において
はじめて把握されうると主張されているが、 このような主張の背後に存在する 富塚氏の
『資本論』理解にわれわれは疑問を感じざるをえない。というのは、氏にあっては、資本の
再生産過程の問題は第2部第3篇でのみ論じられるという理解が存在しているからである。
すなわち、富塚氏は『学説史』の「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」
とは後の『資本論』第2部第3篇のことである(C241)、 という解釈を示され、さらに
「第1草稿」の第3章の第4パラグラフの叙述についても、次のような解釈を示された。
「『再生産過程』は第3章以前のどこでも論じられている……というようなことをいわん
としたものよりは、むしろ、《再生産過程》が本格的に現実の《再生産過程》として把握され
るのは、……第3章においてであるということをいおうとしたものである」(F14)。
だが、ここには、ただちに理解しがたいことがある。「本格的に現実の《再生産過程》と
して把握される」とうい場合の、「本格的に」とは、どのようなことを意味するのであろ


10)この訳文は、未公刊のドイツ語原文からの引用と思われる富塚氏の訳文(F21)からの孫引き
である。ロシア語版では、不思議なことに「恐慌のための根拠(ein Grund fur die Krisen )」が、
「恐慌の必然性のための根拠(довод в пользу неизбежности кризисов)」となっている。

ー105ー

うか。また、「本格的に」とか、本格的でないとかいうのは、なにを基準にして言われてい
るのであろうか。 このような疑問に対して、富塚氏は、おそらく、「現行『資本論』では
第1、2篇と第3編とでは分析対象そのものが個別資本と社会的総資本というようにはっ
きり区別されている。(F12)、と答えられるであろう。だが、たとえ「本格的に」という
ことが社会的総資本を分析対象にするということを意味するとしても、社会的総資本の再
生産過程を考察するということが、なにゆえに、ただちに「現実の《再生産過程》」を考察
するということになるのかが明らかではない。そして、ここでいう「現実の」とは、どの
ような意味・内容をもっているのだろうか。もし、この言葉が、「競争」・「信用」の論
理段階で分析される「資本主義的生産の現実の運動」(『学説史』、S.513)といわれる場
合の「現実の」という言葉と同じ意味・内容で使われているとすれば、富塚氏の「第1章
稿」第3章第4パラグラフに関するさきの解釈は、いわゆる「プラン問題」に関する氏の
所説11)と矛盾することになるだろう。だが、これは、富塚氏の本意ではないはずである。
第二に、以上のことと関連するが、「第1草稿」第1章S. 28(前節で引用)に関する富
塚氏の解釈に、われわれは疑問を感じざるを得ない。というのは、氏は次のように言われ
ているからである。
「《再生産過程》が《たんなる形式的な過程》としてではなく《現実的な再生産および流通過
程》として把握されるのは、それが《総資本の過程》… として把握される場合であり……
そうした過程は『第3章で考察される』ことが、ここにはっきりと述べられております」
(F13)。
みられるように、ここでは富塚氏は、再生産過程を《単に形式的な過程》として考察する
ということと、 再生産過程を《現実的な再生産および流通過程》として考察するということ
とを、 対置させている。 ところが、すでに見たように、このうちの後者を、富塚氏は、
「《再生産過程》が本格的に現実の《再生産過程》として把握される」ことであると主張され
るのである。だが、再生産過程を現実的な再生産および流通過程として考察すること、あ
るいは、「《再生産過程》が本格的に現実の《再生産過程》として把握される」ことだけが、
なにゆえに、 資本の再生産過程を考察することを意味することになるのであろうか、 いい
かえれば、 再生産過程を「単に形式的な過程」として考察すること、あるいは、 再生産過
程を「形式的に」考察することが、 なにゆえに、 資本の再生産過程を考察することを意味
することにならないのであろうか。 富塚氏が、 再生産過程を「単に形式的な過程」として

11)富塚氏は、いわゆる「資本一般」説をとられている。たとえば、同氏『蓄積論研究』未来者、
1965年、492―493ページ。

ー106ー

考察することは再生産過程を考察することにならない、と考えられているが、その理由は
明らかであるとは思われない。だが、あえてその原因を推しはかるとすれば、再生産過程
を「形式的に」考察するという場合の「形式的に」という言葉の意味 ・内容を、富塚氏は、
なにか取るに足りないことであるかのように受け止めていることによるのではないかと思
われる。
念のために、以上の点についての筆者の基本的な考え方は、すでに述べたように、第1、
2編でも再生産過程が「形式的に」ではあれ考察されているとすれば、その論理段階にお
いても、そのような「考察方法」によって規定されるかぎりでの「恐慌の一層発展した可
能性」が把握されなければならない、ということである。
第3に、『資本論』第2部の第1、2篇と第3篇との間の富塚氏による次のような区別
の仕方に、われわれはかならずしも全面的に同意することができない。
「第1、第2篇と第3篇とでは分析対象そのものが個別資本と社会的総資本というように
はっきり区別されているのであって、同じ過程、同じ対象の、一方は『たんに形式的な考
察』、他方は『現実的な諸条件の研究』という区別ではありません」(F12)。
第1、第2篇と第3篇とは、分析対象が個別資本であるのか、それとも、社会的総資本で
あるのかということによって区別されるというこの考え方は、富塚氏も引用されているよ
うに(F12)、『資本論』第2部(MEW版) S. 353 f. でマルクスによっても表明されて
いる。しかし、この区別基準が、 唯一で、 しかも基本的なものであるとする見方には、
かならずしも賛成することができない。というのは、このような区別基準だけからでは説
明しえないことがあるからである。たとえば、第2部第1篇第6章「純粋な流通費」のな
かの「3. 貨幣」という叙述が、それである。この「貨幣費用」は、富塚氏も認めておら
れるように、「商品を貨幣に、貨幣を商品に形態転化させるに要する費用であって」12)――
いいかえれば、再生産過程を形式的に考察することによって、明らかにされうる費用であっ
て――「直接にここの資本の負担となるものではなく、社会の資本総体にとっての『流通
空費』であ」る13)。したがって、ここで分析対象とされているのは、個別資本であるとい
うのは不適当であって、むしろ社会的資本であるというべきであろう。したがって富塚氏

12)すなわち、「第1篇でも第2篇でも、問題にされたのは、いつでも、ただ、1つの個別資本だ
けだったし、社会的資本の1つの独立化された部分の運動だけだった。しかし、個別的資本の循
環は、互いからみあい、互いに前提しあい、互いに条件づけあっているのであって、まさにこの
ようなからみ合いのなかで社会的資本の運動を形成するのである。」と述べられている。
13)富塚良三『経済原論』有斐社、1976年、214ページ。

ー107ー

のように、第1、2篇と第3篇とは、前者では個別資本が、後者では社会的総資本が分析
されているということだけによって 区別されていると考えるのは一面的であって、 どの
ような「考察方法」によって分析されているかということ――すなわち、前者では「形式
的」に、後者では「現実的に」、再生産過程が分析されているということ――によっても
区別されているとわれわれは考える14)
第四に、富塚氏は、第2部の第1、2篇で指摘されている恐慌の諸契機は「たんに形式
的」なものにすぎないがゆえに、真に「恐慌の一層発展した可能性」を規定する諸契機と
して把握されえない (F27〜28)、と主張されているが、そのような主張にわれわれは同
意することができない。というのは、すでに述べたように、われわれは次のように考える
からである。すなわち、第1、2篇では、資本の再生産過程は「形式的に」考察されてお
り、したがって、 そこで指摘されている恐慌の諸契機は、 素材的契機などに関連のない
「たんに形式」なものにすぎないが、 しかし、 たとえ「たんに形式的」なものであった
としても、それはそれなりに「恐慌の一層発展した可能性」を規定する諸契機として把握
される必要があると考えられている。
(2)久留間氏の所説の問題点
第一に、第2部の第1篇、2篇で指摘されている恐慌の諸契機が「恐慌の一層発展した可
能性」を規定する諸契機として把握されるのは価値および剰余価値の実現の問題がそこで
はじめて本格的に問題となる第3篇においてである (C241ー2)、という富塚氏の主張に
対する久留間氏の次のような批判の仕方に、われわれは疑問を感じざるをえない。「『……
潜在的恐慌の一層の発展』は、『価値および剰余価値の実現』の過程―W´ーG´の過程―
のうちにのみ見にだされるのではなく、『生産資本への再転化』の過程――P…Pすなわち
生産資本の循環の過程のうちにも見だされる」(E26)と。

14)われわれは、これまで『資本論』第2部の第1,2篇と第3篇との区別基準として、 「形式的」
と「現実的」という区別の仕方を強調してきたが、しかし、だからといって、マルクス自身が現行
『資本論』第2部 (MEW 版)S. 353 f. において認めているところの、そしてまた富塚氏の主張す
るところの個別的資本と社会的総資本という区別基準を否定しているわけではない。ただ、富塚氏の
ように前者の区別基準をかえりみずに、後者のそれにのみ依拠して自説を展開することには問題が
あると考えられる。つまり、第2部の第1,2篇と第3篇との倫理的関連を考える場合には、「形式
的」と「現実的」という区別基準と、個別的資本と社会的総資本という区別基準、この2つの相互
に関連のある区別基準を重ね合わせて考える必要があるとわれわれは考える。ただ、本稿では、これ
まで十分にかえりみられなかった区別基準とそれによって明らかにらる倫理的内容とを明らかにす
る目的のために、「形式的」と「現実的」という区別基準の持つ意味を強く主張したわけである。

ー108ー

  富塚氏に対するこのような批判は、正鵠を射ているとはけっして思われない。というの
は、 久留間氏のこのような批判に対して、 富塚氏が次のように反論されたからである。
「第2巻第3篇は……たんにW´―G´の過程のみを孤立的に問題とするものではない。久留
間教授が回答において強調された、G−W<APmにかかわる……諸問題も、W´―G´を制約
する諸条件に関わる問題として再生産論のうちには包摂することが可能であろうし、また
そうしなければ、それらの諸問題は真に『発展した恐慌の可能性』を規定する諸契機とし
ては、把握されえないであろう」(F28)と。
このような反論からわかるように、富塚氏は、 G−W<APmにかかわる恐慌の諸契機の
存在とそれらが第2部の第1、2篇で指摘されていることを否定しているわけではけっして
ない。ただ、これらの諸契機が「恐慌の一層発展した可能性」を規定する諸契機として把
握されるのはW´―G´を規約する諸条件を具体的に分析する第3篇においてであるという
ことを主張しているだけである。したがって両氏の見解の相違は、恐慌の諸契機がW´―G´
にではなくて、 GーW<APm にも見出されるということを認めるかどうかという点にある
のではなくて、第1、2篇で指摘されているW´―G'やG−W<APmにかかわる恐慌の諸契機
をそのまま「恐慌の一層発展した可能性」の内容と考えるかどうかという点にあると考え
られる。
したがって、久留間氏が明らかにすべきことは、第1、2篇で指摘されている恐慌の諸契
機が「恐慌の一層発展した可能性」を規定する諸契機として把握されるべきであると考え
る理由あるいは論拠である。にもかかわらず、久留間氏は、そのようなことをされなかった。
そのためもあって、第1、2篇で指摘されている恐慌の諸契機は「たんに形式的」なもので
あり、それらはW´―G´を規制する現実的諸条件を分析する第3篇においてはじめて「恐
慌の一層発展した可能性」を規定するものとしての実をもつ、という富塚氏の反論をまね
いてのである。このような反論をまねいた原因は、久留間氏において資本の再生産過程を
「形式的に」考察するということの意義が十分に認識されていないことにあるものと思わ
れる。このことの意義が十分に認識されてさえいれば、第1、2篇で指摘されている恐慌の
諸契機が「恐慌の一層発展した可能性」を規定しうるものとして把握されるべき理由も明
らかにされえたであろうし、また、さきのような反論をまねくような批判の仕方もなされ
なかったであろうと思われる。
第二に、『資本論』第2部の第1、2篇でもW´―G´やG−W<APmの過程にかかわる恐慌
の諸契機が指摘され、それらが「恐慌の一層発展した可能性」をきていするものとして把握
されるべきであるとわれわれも考えるが、しかし、その際、第1、2篇で指摘されている恐
ー109ー

慌の諸契機の例として久留間氏が挙げられるものには、問題があるように思われる。
たとえば久留間氏は次のように言われている。
『資本論』第2部第1篇の第2章や第4章において「生産資本の諸要素の価値変動による資
本の再生産の攪乱の可能性の」の問題が述べられているが、この問題は、「『資本の流通過程
のもとでの恐慌の可能性の一層の発展』……を考える場合当然考慮にとり入れられねばな
らない問題」(E14)である。また、『学説史』U、SS、516―518にみられる、G−W<APm
にかかわる「生産資本への再転化のさいに生産資本の諸要素(とくに原材料)の価値の騰貴
によって起こる恐慌」と「固定資本の過剰生産による恐慌」という2つの種類の恐慌は、
「価値および剰余価値の実現の困難から起こる恐慌―……『販売の攪乱から起こる恐慌』
―とは別種のもの」である。(E23)、と。
だが、G−W<APmにかかわるこれらの2つの不均等要因は、「資本一般」を取扱う『資本
論』において論じられるものであるとたとえしても15)。第2部第1篇のような論理段階に
おいて論じられる問題であるとは考えられない。というのは、マルクスは、『資本論』第
2部第1篇の資本循環論を次のような前提のもとに展開しているからである。すなわち、
資本が循環する際に受け取る諸形態を「純粋に把握するためには、さしあたりは、 形態変
換そのものにも形態形成そのものにもなんの関係もないすべての諸契機を拾象すべきであ
る。それゆえ、ここでは、商品はその価値どおりに売られるということが想定されるだけ
ではなく、この売りが不変の事情のもとで行われるということも想定されるのである。し
たがってまた、循環過程で起こることがありうる価値変動も無視されるのである」16)と。
みられるように、マルクスは、資本循環論では「形態を純粋に把握」するために「価値
変動」の契機が拾象されるとしている。 しかも、 注目すべきは、このような前提は久留
間氏が強調される第2部第1篇の第2章や第4章における「生産資本の諸要素の価値変動によ
る資本の再生産の攪乱の可能性」についての叙述の途上にも出てくるということである。
すなわち「循環が正常に行われるためには、W´は、その価値どおりに……売られなければ
ならない。さらに、……同じ価値関係で取りかえるということを含んでいる。ここでもそ
うだということがわれわれの仮定である。しかし、実際には生産手段の価値は変動する。

15)G−W<APmや W´―G´の過程をへる際に、 生産資本の諸要素やその他の商品の価値が変動す
ることによって、再生産過程にどのような攪乱が生じるか、というような具体的な問題は、資本主義
的生産の内的編成をその理想的平均において分析するところの『資本論』の論理段階では論じられ
ないように思われる。
16)Marx , K , Das Kapital, 2 Band , MEW , Bd. 24 , Dietz Verlag , 1963 , S. 32.

ー110ー

……[しかし―松尾]、このような生産要因の価値変動についてはもっと後で論じること
にして、ここではただそれを指摘しておくだけにする」17)と。「循環の定式を純粋に考察
するためには、商品が価値どおりに売られると想定するだけでは十分でなく、ほかの事情も
変化することなしに価値どおりの売買が行われると想定しなければならない」。したがっ
て、「生産過程内の技術的革命」も、既存の商品資本の価値に対する生産資本の価値要素
の変動の反作用」もすべて無視されるべきである18)と。
したがって、第2部第1篇の第2章や第4章において、確かにマルクスは「生産資本の諸
要素の価値変動による資本の再生産の攪乱の可能性」の問題に言及しているが、しかし、
そのことは、なにも、マルクスが第2部第1篇の論理段階においてその問題を取扱うべきで
あると考えていたことを意味していないのではなかろうか。いな、むしろ、資本主義的生
産の実際においてはこのような「攪乱の可能性」があるが、「価値変動」の契機を拾象し
た第2部第1篇ではこの問題に立入ることができないということを強調したものであると理
解すべきであろう。それゆえ、『資本論』第2部の第1、2篇にG−W<APm にかかわる
「攪乱の可能性」の問題に関する叙述が見られるからといって、久留間氏のようにそれら
の叙述を根拠にして第1,2篇でも「恐慌の一層発展した可能性」の把握が行われている
と主張することには、疑問を感じざるをえない。
さらにいえば、第1、2篇で資本の再生産過程が「形式的に」考察されているというこ
との意味(前途の場合には「価値変動」の契機が拾象されているということ)が十分認識
されておりさえすれば、久留間氏のように第1、2篇での「価値変動」による「攪乱の可
能性」の叙述を第1、2篇の論理段階に属するべき「恐慌の一層発展した可能性」の叙述で
あると考えるようなこともなかったろうと思われる。

X むすび
以上、「恐慌論体系の展開方法」の1論点をめぐる久留間氏・富塚論争に関連して、われ
われは『資本論』第2部の論理構造についてのマルクスがどのように考えているかという
ことを検討し、されに、そこでえられた結論を基準にして、久留間氏と富塚氏の所説に対
する若干の疑問えお述べておいたが、本稿においてわれわれが主張しようとしたことは、要
するに次のようなことである。


17)ibid.SS.77‐78.
18)ibid.S.110.

ー111ー

  第1に、資本の再生産過程は『資本論』第2部の全体(第1〜3篇)を通じて考察対象
とされている。
第2に、このことと、『学説史』の「恐慌の一層発展した可能性」は「それ自体同時に
再生産過程であるところの流通過程においてはじめて現われうる」という文章とを重ね合
わせて考えれば、「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部の全体を通じて把握
されているという結論がえられる。
第3に、『資本論』第2部の第1、2篇と第3篇とでは、「考察方法」が異なっており、
第1、2篇においては、資本の再生産過程が「形式的」に――すなわち、資本が流通過程
において行う運動をもっぱら単なる形態変換の側面からだけ分析するという方法によって
――考察されており、これに反して、第3篇においては、資本の再生産過程は、単なる形
態変換の側面からだけ分析するという方法に素材的契機がつけ加えられたうえで、「現実
的再生産過程」として考察されている。
第4に、したがって、第1、2篇で把握される「恐慌の一層発展した可能性」と第3篇
で把握されるそれとの間には、「考察方法」の相違に起因する内容上の相違があると考え
られる。いいかえれば、第1、2篇で把握される「恐慌の一層発展した可能性」は、「形式
的に」考察するという「考察方法」に規定された内容をもつであろうし、また、第3篇で
把握される「恐慌の一層発展した可能性」は、素材的契機をも加えて考察するという「考
察方法」に規定された内容をもつであろう。 (脱稿 51.6.22)

[後記]
初校終了後、久留間・富塚論争に関連する論文として、I久留間鮫造「恐慌論体系の展
開方法について(2)」(富塚氏への公開回答状)『経済志林』第44巻第3号、1976年10月、J
八尾信光「『剰余価値学説史』における恐慌の説明」『立教経済学論叢』第10号、1976年11
月、を入手した。Jは、拙稿Hとほぼ同一の観点から『学説史』第17章の恐慌にかんする
マルクスの叙述をまとめたものである。またIは、Eのつづきであり、「再生産論と恐慌
論との関係について」論じたものである。 (52.1.4)

ー112ー