『大阪市大論集』第24号、1976年3月発行

  

「恐慌論体系の展開方法」に関する一考察

松尾 純

 T.はじめに
 長期的でしかも世界的規模での不況を反映してか、最近恐慌論をめぐる論議が再
熱しつつある。なかでも、マルクスの「恐慌論体系の展開方法」をめぐる久留間鮫
造氏と富塚良三氏との論争が注目される1)。この論争の実質上の出発点は、周知の
ように、久留間氏編『マルクス経済学レキシコン』の恐慌篇(第6、7、8分冊)
の「栞」である。そこでは、山田盛太郎氏以来の有力な考え方――すなわち再生産
論といわゆる「内在的矛盾」とを連繋させようとする見解――に対する疑問が提出
されており、それとの関連でさらに、富塚氏に対する暗示的なあるいは明示的な批
判がなされている。それゆえ、富塚氏が、これに対して、「久留間教授への公開質
問状」で反論するに及んで論争が本格的なものになった。そして、論争は、久留間
氏が富塚氏への「公開回答状」を発表しつつあり、現在なお継続中である。
論争で問題になっている事柄は、「(1)再生産論と恐慌論との関係について。(2)均
衡蓄積率の概念について。(3)《恐慌の必然性》の項を設けることの是非について。
」(E1)、の3点であるが、このうちでも(1)がより基礎的な論点であると思われ
る。そして、この(1)の点をめぐる久留間氏と富塚氏との対立は、両者の表式観の相
違――再生産論では「生産と消費の矛盾」は論じられないとする前者と、再生産論
ではじめて「生産と消費の矛盾」が問題になるとする後者との相違――に発してい
ると考えられる。
久留間氏、富塚氏が自説を論拠づけるために引用しているのが、『剰余価値学説
史』2)の 以下の叙述であり、 論争は直接的には、これをいかに解釈すべきかをめ
ぐって行われている。
「しかし、いま問題であるのは、潜在的恐慌の一層の発展――現実の恐慌は、資
本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる――を追跡
することである。 といっても、それは、恐慌が、資本の形態諸規定、すなわち資本
としての資本に固有なものであって、資本の商品および貨幣としての単なる定在の
なかに含まれていないものとしての資本の形態諸規定から出てくるかぎりにおいて

ー17ー

である。 
ここでは、資本の単なる生産過程(直接的な)は、それ自体としては、なにも新
しいものをつけ加えることはできない。 そもそもこの過程が存在するように、その
諸条件が前提されているのである。 だから、資本――直接的生産過程――を取扱う
第1篇では、恐慌の新しい要素は少しもつけ加わらない。恐慌の要素は、即自的に
はそのなかに含まれている。 なぜなら、生産過程は剰余価値の取得であり、したが
ってまた剰余価値の生産だからである。 だが、生産過程そのもののなかでは、これ
が現われることはありえない。 なぜなら、生産過程においては、再生産された価値
の実現だけでなくて、剰余価値の実現も、問題にならないからである。
その 事項 die Sache は、 それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程
においてはじめて現われうる。
ここでさらに次のことを述べておかなければならない。 すなわち、われわれは、
完成した資本――資本と利潤――を説明するよりも前に、流通過程または再生産過
程を説明しなければならない。 なぜなら、われわれは、資本がどのように生産をす
るかということだけでなく、資本がどのように生産されるかということをも説明し
なければならないからである。 しかし、現実の運動は現存の資本から出発する――
すなわち、現実の運動というものは、それ自身からはじまりそれ自身を前提とする
発展した資本主義的生産を基礎とする運動のことなのである。 だから、再生産過程
と、 この再生産過程のなかでさらに発展した恐慌の基礎 Anlagen と は、 この項
目そのもののもとでは、ただ、不完全にしか説明されないのであって、『資本と利
潤』の章でその補足を必要とする。
資本の総流通過程または総生産過程は、資本の生産部面 と 流通部面との統一で
あり、両方の過程を自己の諸部面として通過するところの一過程である。 この過程
のなかに、恐慌の一層発展した可能性または抽象的な形態が存在する」(Th. U ,
513-514)3)
以上の文章において、マルクスは彼の「恐慌論体系の展開方法」を集中的に述べ
ていると思われるが、ここから、久留間、富塚各氏が自説を論拠づけるためにひき
出される解釈は次のようなものである。 すなわち、久留間編『レキシコン』第6分
冊「栞」によれば、「ここでいう『流通過程』というのは『資本論』第2部の全体
にあてられている『資本の流通過程』のこと」(@ 8)であり、したっがて、「こ
の『〔恐慌の――松尾〕可能性の一層の発展』は第2部第3篇だけでなくて、第2
ー18ー

部全体についてみる必要がある」(@11)ということになる。それに対して、富
塚氏は、「『それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程』とは、後に『資
本論』第2巻第3篇・・・において分析対象とされる、まさにこの意味での『総=
流通・再生産過程』」(C241)のことであり、それゆえ、「『発展した恐慌の
可能性』が『資本論』第2巻第3篇の再生産表式分析によって解明されるとする山
田盛太郎氏・・・以来の見解」は誤っていない(C241)、と反論される。
ところで、本稿では、『学説史』の文章の以上のような解釈上の対立を中心にし
て、久留間・富塚論争を立ち入って検討し、それぞれの誤りおよび問題点を指摘し
たい。 そして、そのことを通じてさらに、「恐慌論体系の展開方法」という観点か
らみて、『資本論』全体と、それを構成する各部(および各篇)とが、どのような
意義をもっているかという事を明らかにしたい。

U『剰余価値学説史』の一文節の解釈をめぐる久留間氏と富塚氏の 対立
久留間・富塚論争は、両者の表式観の相違に起因するものであるが、直接的には
すでに述べたように『学説史』のさきに引用した一文節の解釈をめぐって行われて
いる。
論争の口火を切った『レキシコン』「栞」Eでは、次のような解釈がされている。
「マルクスは・・・恐慌の新しい要素は『それ自体同時に再生産過程でもある流通
過程』でやっと現われている、と書いているのだが・・・ここでいう『流通過程』
というのは『資本論』第2部第3篇の再生産論のところだ、と考えないで欲しいん
だ。 ここでいう『流通過程』というのは『資本論』第2部の全体にあてられている
『資本の流通過程』のこと」(@8)である。
このような解釈に対して富塚氏は次のように反論された。 すなわち、「『価値お
よび剰余価値の実現の問題』が本格的に問題になるのは『資本の総=流通過程また
は総=再生産過程・・・』においてであって、『それ自体同時に再生産過程である
ところの流通過程』とは、後に『資本論』第2巻第3篇・・・において分析対象と
される、まさにこの意味での『総=流通・再生産過程』でなければなりません。 そ
れをたんに『流通過程』一般だとするのは妥当ではないようにおもわれます」(C
241)。しかも、このような解釈は、第一に、マルクスが「単に『資本の流通過
程』とせずに、ことさら『それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程』だ
とか、『資本の総=流通過程または総=再生産過程』といったような表現をとって

ー19ー

いる」(C241)という点、第二に、「『資本論』第2巻第3篇が第2巻の流通
過程分析を総資本の再生産過程把握の観点から総括する位置にある」(C241)
という点からみても妥当であると。
以上のような解釈から、両氏はそれぞれ次のように主張された。 すなわち、『レ
キシコン』E「栞」は、「『可能性の一層の発展』は第2部第3篇だけでなくて、第
2部全体についてみる必要がある」(@11)、と主張し、これに対して富塚氏は
「そうした解釈は、『発展した恐慌の可能性』が『資本論』第2巻第3篇の再生産
表式分析によって解明されるとする山田盛太郎氏・・・以来の見解を否定するため
に敢て強調されているかとおもいますが・・・そうした見解自体は誤っていないよ
うにおもいます」(C241)、と主張された。
 ここで注意すべきは、久留間氏においてと、富塚氏においてとでは、「恐慌の一
層発展した可能性」のもつ意味・内容がちがう、ということになる。 久留間氏の側
においては、それは、「恐慌の抽象的な可能性が、資本の流通過程のなかで、もろ
もろの具体的な内容規定を受け取っていく、現実性に発展しうる基礎を与えられて
いく、ということ」(@11)であり、したがって、いわゆる「生産と消費の矛盾
」とは内容的にちがうものである、と理解されている。 これに対して、富塚におい
ては―― 「『剰余価値の生産』としての 『資本の生産過程』 のうちに an―sich
に含まれていた『恐慌の要素』が『それ自体同時に再生産過程であるところの流通
過程においてはじめて現われうる』と述べているわけですが、そのいわんとすると
ころは・・・資本制生産の本質そのものに根ざす矛盾(いわゆる『生産と消費の矛
盾』はそのうちの最も規定的な要因・・・)は、生産過程そのもののなかでは・・
・『恐慌の要素』として現われることなく、『価値および剰余価値の実現』の問題
がそこで問題となるところの『資本の総=流通・再生産過程』においてはじめて、そ
ういうものとして現れる、というにあるかとおもいます」(C245)と言われて
いることからわかるように――「恐慌の一層発展した可能性」は、「生産と消費の
矛盾」と内容的に同一視されていると思われる。しかも、以上のような認識の相違
は、さらに、再生産論と恐慌論の関係という論点にかかわる次のような解釈上の論
争と密接に関連している。 すなわち、それは、『資本論』第2部注32のマルクス
の「覚え書き」4)―― ここでマルクスはいわゆる「生産と消費の矛盾 」を定式化
し、 最後に 「しかし、 これは次の Abschnitt ではじめて問題になることである
」と述べている――をいかに解釈するかをめぐって行われている論争である。 そこ
ー20ー

で問題になっていることは、この「次のAbschnitt」とは『資本論』(あるい
は「経済学批判体系」プラン)のどこのことであるかということである。 この点に
ついて、久留間氏は、「『次の部分』とは第2部第3篇だという考え方があります
が・・・。こういう問題を、マルクスが『資本論』第2部第3篇で取扱っていると
は考えられません。『次の部分』は第2部第3篇か、それとも第3部か、というこ
とで言えば・・・やはり、第3部のことだろうと思いますね。・・・〔ただし――
松尾〕第3部をはみだす点もあるでしょう」(A6)、と言われる5)。 これに対す
る富塚氏の主張はこうである。「『次のAbschnitt』は、やはり第2巻第3篇
をさすと考えて差支えないのではないか――但し、『生産と消費の矛盾』の問題が
第2巻第3篇の再生産(表式)論にすべて包括されるという意味ではなく、 第2巻
第3篇の再生産論なくしては如何にして(究極的には)労働者階級の『消費制限』
によって『商品資本の、したがってまた剰余価値の、実現』が限界づけられるかは
解明しえない、という意味において――(C284)。
以上、われわれは、再生産論と恐慌論との関係をめぐる久留間氏と富塚氏の論争
を、とくに『学説史』の一文節の解釈上の対立を中心にして、見てきたが、ここで
もう一度、双方の主張の主眼を述べるとすれば次のようになろう。すなわち、久留
間氏のそれは、「資本の流通過程」全体と「恐慌の一層発展した可能性」とを連繋
させようとする点にあり、それに対する富塚氏のそれは、再生産論と「恐慌の一層
発展した可能性」と「生産と消費の矛盾」の三者をなんらかの形で連繋させようと
する点にある。
さて、以上のように整理しうる両氏の見解を、われわれは以下、節を改めて検討
することにしよう。

V「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部第3篇で解 明されるとする富塚説
富塚説の論拠をなしているものは、『学説史』の「その事柄 die Sache は、そ
れ自体同時に再生産過程であるところの流通過程においてはじめて現われうる」と
いう文章である。そして、この文章から富塚氏が、「恐慌の一層発展した可能性」
は『資本論』第2部第3篇においてはじめて問題になるという結論をひきだす際に
氏において前提されている解釈は次のようなものである。第一に、「それ自体同時
に再生産過程であるところの流通過程」とは、後の『資本論』第2部第3篇のことで

ー21ー

あるということ、第二に、「その事柄」とは――「『資本の生産過程』のうちにan―
sich に含まれていた『恐慌の要素 』が『それ自体同時に再生産過程』であるとこ
ろの流通過程においてはじめて現われうる』と述べられているわけですが」と氏が
説明している点からみて――「恐慌の要素」のことであるということ6)。そして、
以上の二つのことがなりたつとすれば、たしかに富塚氏のいわれるような結論が出
てくるであろう。だが、これら二つの解釈のうちとくに前者のそれは、根本的な誤
解である、とわれわれは考える。以下、その理由を詳しく述べることにする。
(1)すでに指摘したように、富塚氏は、「『それ自体同時に再生産過程であるとこ
ろの流通過程』とは、後に、『資本論』第2巻第3篇・・・において分析対象とされ
る、 まさにこの意味での『総=流通・再生産過程』」(C241)のことである、
という解釈を示されているが、しかし、そのような解釈は、『資本論』第2部用「
第1草稿」7) (1864−65年)でのマルクスの次のような文章から判断して、
誤っていると言わざるをえない。すなわち、
この「草稿」の「第3章、流通と再生産」(現在の第3篇にあたる)の初めの方
の所では、「これまで〔第1、2章では ― 松尾〕、資本の総流通過程または総再
生産過程の研究に際しては、われわれは、資本が通過するところの諸契機あるいは
諸局面を形式的にのみ考察した。これに反して、 いまや〔第3章では ― 松尾〕、
われわれは、この過程が行われうる現実的諸条件を研究しなければならない」8)
述べられており、また「第2章、資本の回転」の第1節「流通時間と回転」の終り
の方の所では、「資本の回転の考察の際には、相異なる流通時間および生産時間の、
そして一般に総流通過程および総再生産過程の考察のうちにすでにそれ自体含まれ
ていたもの、すなわち、剰余価値の新たな規定が明らかになる」9)と述べられている。
これらの引用からわかることは、「資本の総流通過程または総再生産過程」が現
行『資本論』で言えばその「第2部、資本の流通過程」の全体で――つまり第3篇
だけでなくて、すでに第1、2篇でも――考察されている、とマルクスによってな
されている、ということである。とすれば、マルクスが「単に『資本の流通過程』
とせずに、ことさら『それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程』だとか、
『資本の総=流通過程または総=再生産過程』といったような表現をとっている」
(C241)からといって、富塚氏の言われるように、「それ自体同時に再生産過
程であるところの流通過程」とは後の『資本論』第2部第3篇のことである、とす
ることはできないであろう。現行『資本論』の「第2部、資本の流通過程」全体に
ー22ー

あたるものを指示するために、マルクスが『学説史』の中でほとんどつねに、「資
本の再生産過程」という言葉と「資本の流通過程」という言葉を結びつけて――例
えば、「資本の再生産過程または流通過程についての篇Abschnitt」(Th.T,81)
の如く―― 使っているのは、「第2部、 資本の流通過程」考察対象が「資本の再
生産過程」であることをマルクス自身が確認するためであると思われる。したがっ
て、「資本の再生産過程」といえば、すぐさまそれは『資本論』第2部第3篇で論
じられることである。とする富塚氏の推論には、なんの根拠もないように思われる。
(2)ところで、百歩ゆずって、富塚氏のいわれるように「それ自体同時に再生産過
程であるところの流通過程」が『資本論』第2部第3篇のことであると仮にしても
さきの『学説史』の文章から、「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部
第3篇においてはじめて問題になるという結論をひきだすことができないであろう。
というのは、本稿冒頭の『学説史』からの引用文の第1パラグラフにおいて、マル
クスは以下のように述べており、それに従って続く4パラグラフの文章を読むかぎ
りでは、富塚氏のような解釈はでてこないからである。
「いま問題であるのは、 潜在的恐慌の一層発展――現実の恐慌は、 資本主義的
生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる――を追跡すること
である。といっても、それは、恐慌が、資本の形態諸規定、すなわち、資本として
の資本に固有なも のであって、資本の商品および貨幣としての単なる定在のなか
に含まれていないものとしての資本の形態諸規定から出てくるかぎりにおいてであ
る」(Th.U,513)。
この文章をパラフレーズすれば次のようになろう。すなわち、いま問題であるの
は、潜在的恐慌の一層の発展を追跡することである。そして、この潜在的恐慌の一
層の発展は、資本としての資本に固有な・資本の商品および貨幣としての単なる定
在のなかに含まれていない資本の形態諸規定が取扱われる箇所で論じられるもので
ある。これに反して、現実の恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用が
問題になる箇所で論じられるものである、と。だが、ここでいわれる「潜在的恐慌
」とはなにか。それはおそらく、商品・貨幣論の論理段階で問題になる恐慌のこと
であり、マルクスがこの文章の前後で説明しているところの「恐慌の一般的な抽象
的な可能性」(Th.U,510)。に照応するものであると考えてまちがいないであろ
う。とすれば、「潜在的恐慌の一層の発展」とは、「恐慌の一層発展した可能性」
のことであると理解してよいであろう。次に、「資本としての資本に固有なもので
ー23ー

あって、資本の商品および貨幣としての単なる定在のなかに含まれていないものと
しての資本の形態諸規定」とは、簡単に言って、なにか。それは、マルクスの18
57−58年の『経済学批判要綱』(以下『要綱』と略記)の規定から判断して、お
そらく 「 資本一般 Das Kapital im Allgemeinen 」 のこと ( この草稿
執筆当時と『学説史』執筆当時 [1862年] とでは内容上の若干の変化があるか
もしれないが)であると思われる。というのは、この草稿のなかでマルクスは次の
ように述べているからである。すなわち、「われわれがここで価値および貨幣と区
別された関係として考察するかぎりでの資本は、資本一般、すなわち資本としての
価値を単なる価値または貨幣としての自己から区別する諸規定の精髄である。」10)
と。また、「特殊的諸資本から区別された資本一般」は、「すべての他の冨の形態
とは区別された資本の種差」であり、「それは、各々の資本そのものに共通なもの、
または各々の一定の価値量を資本たらしめる諸規定である」11)と。 さらに「競争
と信用」とは、マルクスの「経済学批判」体系プランの中の第1部・「資本」の中
の「競争」と「信用」のことであり、「現実の恐慌」とはそこで論じられる恐慌の
ことであろう。
とすれば、さきの文章は、次のように理解されるべきであろう。すなわち、いま
問題であるのは、「恐慌の一層発展した可能性」を指摘することである。そして、
この「恐慌の一層発展した可能性」は、「資本一般」(ただし、商品・貨幣論が含
まれない。つまり、「第1章、商品」「第2章、貨幣または単純流通」につづくも
のとしての「第3章、資本一般」12) を指すものとする。)を取扱う箇所で論じら
れるものである。これに反して、「現実の恐慌」は、「資本一般」の次の「競争」
および「信用」を取扱う論理段階で論じられるものである、と。このようなわれわ
れの解釈からわかるように、要するに、マルクスがいま問題にしようとしているこ
とは、商品・貨幣論や「競争」「信用」論とは異なる、「資本一般」の論理段階で
問題になる「恐慌の一層発展した可能性」である。そして、それゆえにこそ、マル
クスは、つづく4パラグラフのなかで、「資本一般」を構成している「資本の生産
過程」「資本の流通過程」「資本と利潤」の各部分がいま問題になっている「恐慌
の一層発展した可能性」とどのように関連しているのかを説明しているのである。す
なわち、
「資本――直接的生産過程――を取扱う第1篇では、恐慌の新しい要素は少しも
つけ加わらない。恐慌の要素は、即自的にはそのなかに含まれている」。なぜなら、
ー24ー

そこでは「剰余価値の生産」だけが問題になり、「再生産された価値の実現」や「
剰余価値の実現」が問題にならないからである。
「その事柄」――直接的には「恐慌の新しい要素」を指していると考えてもよい
が、引用文の第1パラグラフからの文脈から判断して、「恐慌の一層発展した可能
性」を指していると理解するほうがより適切であろう――は、「それ自体同時に再
生産過程であるところの流通過程」、つまり「資本の流通過程」において「はじめ
て現われうる」。
だが、「われわれは、完成した資本――資本と利潤――を説明するよりも前に、
流通過程または再生産過程を説明しなければならない。・・・しかし、現実の運動
は、現存の資本から出発する――すなわち、現実の運動というものは、それ自体か
らはじまりそれ自身を前提とする発展した資本主義的生産を基礎とする運動のこと
なのである。だから、再生産過程と、この再生産過程のなかでさらに発展した恐慌
の基礎」 つまり「恐慌の一層発展した可能性」 は、「資本の流通過程」のもとで
は、「ただ、 不完全にしか説明されない」。 だから、『資本と利潤』の章で、そ
の補足を」、つまり「恐慌の一層発展した可能性」の説明の「補足を必要とする」。
以上のわれわれの理解が正しいとすれば、富塚氏の次のような主張はまったく誤
っているといわざるをえない。すなわち、「『資本論』第2巻の第3篇以外の個所
でも恐慌に関する叙述がいくつかみられ」るが、ただそれらが「『発展した恐慌の
可能性』・・・を規定する諸契機として把握されうるのは・・・第3篇の論理段階
においてである」(C241−242)と。すでに述べられたようにマルクスは、「恐
慌の一層発展した可能性」の問題を、『資本論』全体で論じようとしていたのであ
り、けっして、それを第2部だけや、第2部第3篇だけに限定しようとしていない
と思われる。
ところで、最後に付言しておけば、富塚氏は、「その事柄」とは「恐慌の要素」
のことであるという解釈を示しておられるが、その解釈は、それ自体としては誤り
ではないが、その前後の文脈を正しく理解したうえでの解釈ではないので、氏の結
論を正しいものにみちびいていない。その点、久留間氏は、「その事柄」とは、「
いま問題であるのは、潜在的恐慌の一層の発展・・・を追跡することである」では
じまるパルグラフで提起されている問題であることを、正しくも主張されているが、
しかし、残念なことに、このパラグラフでマルクスが述べようとしている肝腎なこ
とを久留間氏は理解されていないように思われる。以下、この点について節を改め
ー25ー

て述べることにする。

W「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』第2部全体でみる 必要があるとする久留間説
(1)久留間氏の見解においてわれわれがまず疑問に思うのは、氏の次のような主張
である。
「『資本としての資本に固有な資本の形態諸規定から出てくるかぎりでの・潜在
的恐慌の一層の発展』は、『価値および剰余価値の実現』の過程――W´ーG´の
過程― のうちにのみ見いだされるのではなく、『生産資本への再転化』の過程――
P……P すなわち生産資本の循環の過程のうちにも見いだされるのだということ、
したがってまた、潜在的恐慌の一層の発展をW´ーG´の過程にのみ見いだそうと
するのは一つの偏見であるということ」(E26)。
これは、「価値および剰余価値の実現」の過程のうちにのみ「恐慌の一層発展し
た可能性」を見いだそうとする富塚氏を批判するためにだされた主張であり、批判
内容はそれ自体には誤りはないと思われる。だが、うえの引用文からもわかるように
少なくとも富塚氏への「公開回答状」では、久留間氏は、「資本としての資本に固
有な資本の形態諸規定から出てくるかぎりでの・潜在的恐慌の一層の発展」は『資
本論』第2部だけに限定してみる必要があるという考え方に立って、自説を展開さ
れているように思われるが、もし、そうだとすれば、そのような久留間氏の『学説
史』の文章解釈に、われわれは同意しえない。というのは、すでに前節で述べたよ
うに、『学説史』のなかでマルクスは、「恐慌の一層発展した可能性」は「資本一
般」を取扱う箇所全体で――いいかえれば、『資本論』の第1部第1篇以外の全3
部で、しかも各部において論及のされ方がそれぞれ異なってではあるが、――論じら
れるべきである、と主張しているからである。したがって、「『可能性の一層の発
展』は、第2部第3篇だけだけでなくて、第2部全体についてみる必要がある」(@11
)という主張自体は正しいけれども、それだけでは不十分であり、さらに、「恐慌
の一層発展した可能性」は、第2部だけでなく、第3部についてもみる必要がある
といわなければなれないであろう。
だが、このような「公開回答状」での久留間氏の主張は、富塚氏への批判を急ぐ
あまりになされた主張であるとみることもできる。というのは、『レキシコン』「
栞」では、「恐慌の一層発展した可能性」は『資本論』の第2部でも、第3部でも

ー26ー

論じられる、と理解されているようであるからである。すなわち、「Zでは、恐慌
の抽象的形態が資本の流通過程で受けとる内容規定を・・・[では、恐慌の可能性
を現実性に転化させる諸契機を・・・展開する。この両項目にたいして、Yは、恐
慌の可能性の発展のこの2つの段階の区別と関連とについての叙述・・・を収録し
ている」(@10,000は松尾)と。そして、これからすれば、「恐慌の一層発展
した可能性」は「二つの段階」――すなわち、第2部の論理段階での「恐慌の抽象
的形態が資本の流通過程において受けとる内容諸規定」の説明と、第3部の論理段
階での「恐慌の可能性を現実性に転化させる諸契機」の説明――に分けて論じれれ
る、とされねばならないはずである。
だが、この点が、『レキシコン』「栞」では、はっきりさせられていない。すな
わち、 一方では、 「抽象的形態が内容規定を受けとるということと、 可能性が現実
性に転化するということとは、 いわば、次元のちがう問題」(A2)であるといい、
他方では、「恐慌の一層発展した可能性」というのは「『現実性への発展』を含んで
いいのか、それさえはっきりしない」(@11)といわれる。つまり、久留間氏に
おいては、 『資本論』第3部での恐慌に関する論及が、 「競争」「信用」論での
「現実の恐慌」とも、「恐慌の一層発展した可能性」とも区別される論理の一段階
をなすのか、それとも「恐慌の一層発展した可能性」のなかの一段階をなすのか、
ということがはっきりさせられていないのである。
もし、前者のように久留間氏が考えているのであれば、すでに述べたように、そ
れはマルクスの考え方とちがっていると言わざるをえない。また、もし、後者のよ
うに考えるのであれば、次のことが確認されていなければならない。すなわち、『
資本論』第3部の論理段階にあたる「恐慌U」において「恐慌の可能性を現実性に
転化させる諸契機」が論じられているにしても、それは、あくまでも、「資本一般
」の論理の基礎上でのことであり、したがって「恐慌の一層発展した可能性」の解
明に必要なかぎりでのことであるということ。そして、このことが十分に認識され
ているかどうかということが、 つぎに検討する問題――『資本論』の範囲内では、
資本主義的生産様式の諸矛盾がどのような仕方で、あるいは、どのような程度にお
いて、論じられているかという問題――と重要なかかわりをもっているように思わ
れる。
(2)久留間氏は、いま述べた問題――すなわち、 資本主義的生産様式の諸矛盾は、
『資本論』の論理段階では、どのような仕方で、そして、どのような程度において
ー27ー

論じられるべきかという問題――に関して次のように述べている。すなわち、『資
本論』第3部の論理段階にあたる『 レキシコン 』「恐慌 U 」では「『生 き て
い る 矛 盾 』が中心的な問題になってくる・・・。 ・・・つまり、ただ潜在
的に矛盾があるというのではなくて、それがアクティブに活動する。対立的な要因
が実際に相反する運動をする。そしてそれがある程度まで進むと極度の緊張が生じ、
矛盾が爆発することになる。この一連の過程が『U』では問題となる」(A4)と。
見られるように、 久留間氏は要するに、『資本論』第3部の論理段階においてすで
に、「 生きている矛盾 」――この言葉『要綱』からとられてきた言葉であり13)
その当時(1857−58年)マルクスは、この「生きている矛盾」またはいわゆ
る「生産と消費の矛盾」の問題の本格的取扱いは「総資本の競争」に属すると考え
ていた14) ――の(恐慌=爆発に至るまでの)全累積過程が論じられている、と理
解されているようである15)。 だが、はたして、久留間氏のいわれるように、『要
綱』執筆当時、「競争」に属するとされていたいわゆる「生産と消費の矛盾」の問
題が『資本論』(の第3部)にもちこまれるようになったと考えることができうで
あろうか、われわれには、そのように考えることができない。以下、その理由を述
べることにする。
まず、『要綱』執筆当時 (1857―58年)「競争」論に属するとされていた
諸問題が、後の『資本論』においてどのように取扱われるようになったと考えられ
るか。この点については、佐藤金三郎氏の次のような結論が、注目されるべきであ
る。「当初の『経済学批判プラン』における競争論の諸問題は、『資本一般』の充
実過程において、『資本論』での『他の諸テーマに必要なかぎり』での競争分析の
『資本一般』への編入決定と同時に、現行『資本論』においてみられるような『資
本一般』の論理の基礎上での競争分析、競争の『抽象的』一般的分析――とはいえ、
それは競争についての基本的規定=『資本制的競争の基本法則』である――と、『
資本論』の圏外に依然として留保されている『競争の現実的運動』についての『特
殊研究』とに両極分解をとげるにいたったのである。」16)、と。言いかえれば、要
するに、『要綱』当時「競争」論に属するとされていた諸問題は、その後、両極分
解して、一方の部分は、「資本一般」の説明に必要なかぎりでの「競争についての
基本的規定」として、『資本論』の考察範囲のなかに入れられるようになり、そし
て、他方の部分は、「競争の現実的運動」についての「特殊研究」・「細目研究」
として、『資本論』の範囲外で本格的に展開されるようになった、ということであ
ー28ー

る。
「競争」論について一般的に以上のようなことが言えるとすれば、さきの「生き
ている矛盾」あるいはいわゆる「生産と消費の矛盾」についても同様に、次のよう
に言うことができるのではなかろうか。すなわち、『要綱』当時「競争」論に属す
るとされていた「生産と消費の矛盾」の問題は、その後両極分解して、一方の部分
は、「資本一般」の説明に必要なかぎりでの「生産と消費の矛盾」についての基本
的規定として、『資本論』の考察範囲のなかに入れられるようになったが、しかし
他方の部分は、「生産と消費の矛盾」の具体的な展開過程についての「特殊研究」
として、『資本論』の範囲外に留保され、そこで本格的な論及がなされるものとさ
れるようになったと。したがって、『資本論』において、「生産と消費の矛盾」に
ついての考察がなされているとはいっても、それは、「資本一般」の論理の基礎上
での、抽象的・一般的分析に限定されてでの論及にすぎない。だからこそ、マルク
スは、『資本論』第3部のなかで、この矛盾の問題にふれる際には、それを「あら
ゆる 現実的恐慌の 究極の 根拠 der letzte Grund aller wirklichen
Krisen 」17)( 〇〇は松尾 ) と規定しているだけで、 それ以上にその矛盾の展
開過程を追跡していないのである。
以上のことから、われわれは次のように結論することができよう。 すなわち、「
恐慌の可能性を現実性に転化させる諸契機」の一つである「生産と消費の矛盾」あ
るいは「生きている矛盾」の問題が、『資本論』の論理段階において論じられると
しても、それは「資本一般」、したがって「恐慌の一層発展した可能性」の解明に
必要なかぎりでの論及である。いいかえれば、「生産の消費の矛盾」の(恐慌に至
るまでの)全展開過程――久留間氏の言葉を借りれば、「一連の過程」――が問題
になるのではなくて、その矛盾の基本的規定、つまりその矛盾がそもそも基本主義
的生産様式のどのような本性に根ざしているのかということが問題になるのである。
したがって、「生きている矛盾」または「生産と消費の矛盾」の問題の大部分を『
資本論』第3部に属せしめす久留間氏の主張に、われわれは疑問を感じざるをえな
い、と。

X むすび
以上、恐慌論体系の展開方法をめぐる最近の久留間氏と富塚氏との論争を検討し
てきたが、そのことを通じて本稿でわれわれが述べようとしたことは、要するに以

ー29ー

下のような点である。
第一に、マルクスは、「恐慌の一層発展した可能性」は、彼の「経済学批判」体
系のうちに「資本一般」全体でみられる必要があると考えていたということである。
したがって、富塚氏のように「恐慌の一層発展した可能性」を『資本論』の第2部
第3篇だけに限定してみようとする考え方にも、また、久留間氏のようにそれを第
2部に限定してみようとする考え方にも、マルクスは――少なくとも『学説史』執
筆当時、――立っていなかったということである。
第二に、『学説史』においてマルクスが説明しようとした恐慌論体系の展開方法
は、次のようなものであると思われる。すなわち、(a)商品・貨幣論の論理段階では
販売と購買の分離の可能性から出てくる「恐慌の最も抽象的な形態」または「恐慌
の形式的可能性」が明らかにされる。(b)「資本の生産過程」「資本の流通過程」「
資本と利潤」の3部分からなる「資本一般」の論理段階では、――各部分のあいだ
で関説の仕方がちがってはいるが――「資本としての資本に特有な」「資本の形態
諸規定」から出てくるかぎりでの「恐慌の一層発展した可能性」が問題にされる。
(c)資本主義的生産の現実的運動が問題になる「競争」および「信用」の論理段階で
は、「現実の恐慌die reale Krisis」が論じられる。
第三に、したがって、もし、『資本論』の範囲内で、「現実の恐慌」を論じると
ころで本格的に論じられるべき問題が述べられているとしても、それは、「資本一
般」の説明に必要なかぎりでの、したがってその問題についての抽象的・一般的分
析に限定された形での言及にすぎないものである。したがって、「生産と消費の矛
盾」の問題―― これは、 『要綱』当時「競争」論に属するとマルクスによって明
言されていた問題である――が、「資本一般」を考察対象とする『資本論』の論理
段階において論じられるとしても、その矛盾の具体的な全累積過程が問題にされる
わけではなく、「生産と消費の矛盾」とはそもそも資本主義的生産様式に内在する
ところのどのような本性と本性との対立のことを指すのかということ、つまり「生
産の消費の矛盾」とはなにかということが問題になるのである。しかも、『資本論
』の第2部(第3篇)においてではなくて、第3部において、それまでの資本の諸
性質、諸本性の分析を総括することによってはじめて、マルクスは、資本主義的生
産様式の発展の原動力であり、同時に恐慌の究極の根拠でもあるこの「生産と消費
の矛盾」の問題に――抽象的・一般的な仕方で――言及しえているのである。
(脱稿 50・12・25)
ー30ー


1)久留間・富塚論争に関連する文献として次のようなものがある。
@A久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』第6、7分冊、恐慌T. U.,
の「栞」、大月書店、1972年9月、1973年9月。
B大谷禎之介「『 内在的矛盾 』の問題を再生産論に属しめる見解の一論拠につ
いて――『資本論』第2部注32の『覚え書き』の考証的検討――」、『経済経
営研究所研究報告』(東洋大学)第6号、1973年。
C富塚良三 「 恐慌論体系の展開について―― 久留間教授への公開質問状 ――
」、『商学論集』第41巻第7号、1974年7月。
D二瓶敏「再生産論と『恐慌の一層発展した可能性』――表式における『内在的
矛盾』把握の否定論によせて――」(大島雄一・岡崎栄松編『資本論の研究』、
日本評論者、1974年)。
E久留間鮫造「恐慌論体系の展開方法について(1)」(富塚氏への公開回答状)、
『経済志林』第43巻第3号、1975年10月。
 以上のものから引用に際しては、 引用文の直後に論文番号とページ数を(A
7の如く略記して)示すことにする。
  さらに、論争に関連するものとして以下のものが参照されるべきである。見田
石介「久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』6恐慌Tを読んで」、『経済
』、1973年7月。同「久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』F恐慌U
を読んで」、『経済』、1974年5月。同「マルクスの方法のヘーゲル主義化
――弁明法的方法の問題――」、『科学と思想』第2号、1971年10月。角田
修一「『資本の流通過程』といわゆる『生産と消費の矛盾』について」、『経済
論叢』第114巻第5・6号、1974年11・12月。同「『資本の流通過程
』における恐慌の可能性について」、『経済論叢』第114巻第3・4号、1974
年9・10月。井村喜代子「恐慌論研究の現状と問題点(上)」、『経済評論』、
1975年10月号。
2)Mark, K., Theorien über den Mehrwert, MEW, Bd.26,1,2,3, Dietz Verlag,
 Berlin,1965,1967,1968.(時永淑・岡崎次郎訳『剰余価値学説史』マルクス=エン  ゲルスに全集、第26巻T,U,V、大月書店、1969、1970、1970年)。  引用に際しては、Th.T,Th.U,Th. Vと略記し、引用文のあとに原ページを示す。
3)『学説史』のこの箇所の執筆時期は、1862年秋ごろであると思われる。
ー31ー

4)Marx,  K.,  Das Kapital,  MEW,  Bd.  24,  Dietz  Ver-
lag , 1963 , S. 319 . なお、 この「覚え書き」は、 『資本論』第2部
用「第2草稿」(1868−70年)の S. 118 にある。
5)大谷禎之介氏は、 この問題について慎重にも次のように言われている。 すなわ
ち、「次のAbscnitt」とは、第3部のことであると考えるほうが「より
自然であると思われる」が、「『次のAbscnitt』が第3部を指していると
は断言できない」。それは、「『覚え書き』の内容・・・が『資本論』のどこで
問題として提起され解明されているのか、ということの論理的な検討によって決
せられるべきである」(B189−190)と。なお、@22も参照せよ。
6)久留間氏は、 富塚氏にあっては 「その事柄 die Sache 」 とは 「価値および
剰余価値の実現の問題を指すものとして解され」ている(E17)、と述べられ
ているが、しかし、それは、誤解であろう。富塚氏にあっては、たしかに「その
事柄」と「価値および剰余価値の実現の問題」とが内容的に関連があるものとし
て理解されているが、しかし、「その事柄」の文言解釈としては、それは、その
前のパラグラフのなかにあるところの「恐慌の要素」のことであると理解されて
いることもまたたしかである。
7)これについては、くわしくは、拙稿「『資本論』第2部「第1草稿」(1864
−65年)について」『経済評論』昭和50年10月号を参照せよ。
8)K.Мapкc и Φ.Энгeльc Coчинeния,издaниe втopoe,Toм49,мocквa,1974,cтp.412.
9)там же,стр.345.
10)Marx,K.,Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, Dietz Verlag, 1953, S.217.
11)ibid . , S. 353 .
12)1861―63年の草稿『経済学批判』 ――いわゆる23冊のノート――の副
題が、この「第3章 、資本一般 」 ( Drittes Kapitel : Das Kapital
im Allgemeinen ) であることが、 佐藤金三郎氏によって報告される。
同氏「『資本論』の成立過程をめぐって――マルクス・レーニン主義的研究所(モ
スクワ)を訪ねる――」『世界経済評論』1970年12月、69ページ参照。
13)「資本はその本性上から、 労働と価値創造にたいして制限を指定するのである
が、この制限は、それらを無際限に拡大にしようとする資本の傾向と矛盾している。
ー32ー

  そして、資本はそれに特有な制限を指定するとともに、他方では、どんな制限を
ものりこえていくのだから、それは生きている矛盾なのである」( Marx , K ,
Grundrisse , S. 324. なお〇〇〇は松尾)。
14)例えば、『レキシコン』 F「恐慌U」の〔108〕に引用されている『要綱』
S.321−4では、マルクスは、いわゆる「生産と消費の矛盾」 の問題に言及
し、その問題は「競争のところでくわしく展開する」、と述べている。
15)このような理解は、 いわゆる「プラン問題」に関する氏の見解――いわゆる「
資本一般」説――に反しているように思われる。というのは、「資本一般」説か
らすれば、『要綱』当時「競争」論に属するとされていた問題(ここでは、「生
きている矛盾」・「生産と消費の矛盾」)が、『資本論』のなかで(たとえ第3
部であっても)本格的に論じられているという結論がでてくるはずがないと思わ
れるからである。
なお、このような久留間氏の考え方は、『資本論』第2部注32のマルクスの
「覚え書き」にある「次のAbscnitt」とは『資本論』第3部のことである
ということを主張する際にも、取られている。すなわち、氏は、まず、「覚え書
き」の内容が、『要綱』のなかのある叙述(『レキシコン』恐慌篇では引用文〔
108〕)の内容と関連していることを指摘したうえで、次のように主張されて
いる。「両者のこういう関連を念頭においてみると、『次の部分でははじめて問
題になることである』という但し書きのなかの『次の部分』とはどこを指すのか
という問題・・・にも重要な示唆を与えるもののように思われる。・・・〔108〕
のところでは、この問題は『競争』のところで詳しく展開するのだ、と言ってい
ます。 こういう問題を、マルクスが『資本論』第2部第3篇で取扱っているとは
考えられません。『次の部分』は第2部第3篇か、それとも第3部か、というこ
とで言えば――『資本論』第3部はマルクスの『経済学批判』6部作プランのな
かの『諸資本の競争』にあたるものではないけれども、『要綱』の当時『競争』
に属するとされていた多くの問題がこの第3部にもちこまれることになった、 と
いう事情をも考えあわせて――やはり、第3部のことだろうと思いますね。ただ
〔108〕に書かれているようなことの全部が第3部に属するかどうか、これは
問題です。 第3部をはみだす点もあるでしょう」(A6)と。見られるように、
「次 の Abschnitt 」 とは 第3部 のことであるということを 論拠づけるために
ここでは、久留間氏は、 「第3部をはみだす点もある」だろうが、「『要綱』の
当時『競争』に属するとされていた多くの問題がこの第3部にもちこまれること
ー33ー

  になった」、と主張されている。
16)佐藤金三郎「『経済学批判』体系と『資本論』―― 『経済学批判綱要』を中心
にして」『経済学雑誌』第31巻第5・6号、1954年12月、45ページ。
17)Marx, K., Das Kapital, Mew, Bd. 25, S. 501.

ー103ー