『経済評論』第24巻第11号、1975年10月
『資本論』第2部「第1草稿」(1864〜65年)について
松 尾 純
1
『経済学批判』という表題をもつ23冊のノート(1472ページ(1))をマルクスが書いたのは、周知のように1861年8月から1863年7月までのあいだの時期である。この時期に続く1863年8月から1865年12月までのあいだに、マルクスは、さらに『資本論』全3部の草稿を書いている(2)。以下、われわれが紹介する『資本論』第2部「第1草稿」はその1部であり、去年発行されたロシア語第2版『マルクス・エンゲルス著作集』第49巻、1974年に収められているものである。
この草稿のマルクス自身による表題は、「第2部、資本の流通過程」であり、その執筆時期は、編集者によれば、「おそらく、1864年後半から1865年春までの時期」(編集者注68)である。また、この草稿は、マルクスの原稿ページで149ページから成っており、「第1章、資本の流通」「第2章、資本の回転」「第3章、流通と再生産」という3つの章に分かれている(3)。以下、若干の内容を紹介しながらわれわれの気付いた点を述べることにする(なお、引用に際しては、その直後にマルクスの原稿ページのみを示す)。
2
まず、草稿全体の構成を理解するために、草稿執筆前に作ったと思われる「第2部」全体のプラン、草稿中に見られるマルクス自身による目次、草稿を書きおえた後に作ったと思われる「第3章」だけのプランを順次示すことにする。
@草稿執筆前に作ったと思われる「第2部」全体のプラン(草稿第1ページよりも前に置かれてあり、書き込み場所が不明である)
第2部
資本の流通過程
第1章、資本の流通
1)資本の諸姿態変換、貨幣資本、生産資本、商品資本
2)生産時間と流通時間
3)流通諸費用
第2章、資本の回転
1)回転の概念
2)固定資本と流通資本、回転循環、生産物および価値の生産
と剰余価値の生産とへの回転時間の影響
第3章[細かいプランなし――松尾]
A草稿中に見られるマルクス自身による目次
第2部<草稿ページ>
資本の流通過程<1−149>
第1章、資本の流通<1−56>
1)資本の諸姿態変換<1−40>
T循環の第1形態<5−18>
U流通過程の第2形態<18−19>
V流通過程の第3形態<20>
W流通過程の第4形態<21−29>
商品資本、W´−G<29−33>
在庫形成<34−36>
貨幣資本<37−38>
貨幣資本の2つの本来的形態<38−40>
2)流通時間<41−45>
3)生産時間<46−52>
4)流通諸経費<53−56>
第2章、資本の回転<57−106>
1)流通時間と回転<57−65>
2)固定資本と流動資本、回転循環再生産過程の連続性<66−94>
3)回転と価値形成<97−106>
1)労働過程における中断のない、生産部面における長期の滞留<100−102>
2)生産過程における長時間の滞留または労働過程の中断<103>
3)諸資本の長い還流時間または長い通流時間(流通時間)
の結果としての長い回転時間<104−106>
第3章、流通と再生産<107−149>
1)資本と資本の交換、資本と収入の交換および不変資本の再生産<107−131>
2)収入と資本、収入と収入、資本と資本(それらの間の交換)<131−136>
3)蓄積あるいは拡大された規模での再生産<137−140>
4)蓄積を媒介する貨幣流通<140−141>
5)再生産過程の平行性、漸進性、増大、循環<143−144>
再生産に際しての資本の現実的姿勢変換<144−145>
6)必要労働と剰余労働(剰余生産物)<146−149>
7)再生産過程における攪乱[内容がなくて見出しのみ―松尾]<149>
B草稿を書きおえた後に作ったと思われる[第3章]に関するプラン(149ページ)
「この第V章の諸節は、次のようになる。
1)流通(再生産)の現実的諸条件
2)再生産の弾力性
3)蓄積あるいは拡大された規模での再生産
3')蓄積を媒介する貨幣流通
4)上昇線にそった平行性、継続性。再生産過程の循環
5)必要労働と剰余労働?
6)再生産過程の攪乱
7)第V部への移行」
3
「資本の流通過程」論を理解するためには、3つの章の理論的連関――とりわけ第1、2章と第3章との連関――がいかなるものとして考えられているかを見る必要がある。
まず、マルクスは、草稿を次のような文章をもってはじめている。
「われわれは、資本が流通過程自体の中で受け取る新たな形態諸規定を研究しなければならない。そして、その際には、以前と同様に、諸商品は・・・価値どおりに販売される・・・と前提される。・・・これら諸形態をその純粋な姿で理解するためには、そのものとしては諸形態の交替と形成には何ら関係のない諸契機を捨象しておくことが、なによりもまず重要である。したがって、とくに、この第1章では、われわれは、この部の第3章で考察される、流通過程にとってさえ重要である多くの現実的諸規定を取扱わないでおこう。
現実的再生産過程および蓄積過程としての流通過程の考察は、第3章で行われるが、その考察に際しては、・・・。(中略)
これに反して、この第1章では、新たな形態諸規定(諸範疇)、つまり、全流通過程を資本が継起的に通過する際にとる資本の新たな形態諸規定の形成だけが、展開されなければならない」(1ページ。傍点はイタリック体を示す)。
また「第3章」の第4パラグラフでも、マルクスは次のように述べている。
「これまで[第1、2章では――松尾]、資本の総流通過程または再生産過程の研究に際しては、われわれは、資本が通過するところの諸契機あるいは諸局面を形式的にのみ考察した。これに反して、いまや[第3章では――松尾]、われわれは、この過程が行われうる現実的諸条件を研究しなければならない」(107ページ)。
以上の引用から明らかなように、マルクスは、要するに、第1、2章では資本の再生産程を形式的にのみ――すなわち全流通過程を資本が通過する際にとる新たな形態諸規定の交替と形成のみを――考察し、第3章では資本の現実的再生産過程が行われうる現実的諸条件を研究しなければならない、と述べている。
このようなマルクスの説明は、最近の久留間鮫造氏と富塚良三氏との論争の解決に1つの鍵を提供しているように思われる。論争とは次のようなものである。すなわち、久留間編『マルクス経済学レキシコン』大月書店、第6分冊、1972年の「栞」は、『剰余価値学説史』の「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程(4)」とは、「『資本論』第2部の全体がその分析にあてられている『資本の流通過程』のこと」(8ページ)であり、したがって「発展した恐慌の可能性」は『資本論』「第2部第3篇だけではなくて、第2部全体についてみる必要がある」(11ページ)、と主張されている。これに対して、富塚氏(「恐慌論体系の展開方法について――久留間教授への公開質問状――」『商学論集』第41巻第7号、1974年7月)は、「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」とは、「後に『資本論』第2巻第3篇・・・において分析対象とされる・・・『総=流通・再生産過程』でなければならない」(241ページ)、したがって「発展した恐慌の可能性」が問題になるのは『資本論』第2部第3篇においてである(241−242)、と主張されている。だが、さきに見たマルクスの説明からすれば、『資本論』第2部第3篇においてのみ再生産過程の問題が取扱われているという理解を前提にした富塚氏の所説も、『資本論』第2部の第1、2篇に対する第3篇の独自性をそれ相当に認めない久留間氏の所説も、ともに問題があるといわざるをえないのではなかろうか。また、そもそも、資本循環論、回転論と再生産論の理論的連関がマルクス自身まだ明確になっていないころ(『学説史』)の文言に依拠して、自己の『資本論』理解を論拠づけようとすること自体――そのこと自体は決して誤りではないが、両者を直結しようとすること自体――問題であろう。
4
以下、より立入った内容紹介をすることにするが、その際、すべての章・節にわたって見ることができない。したがって、以下、われわれは、重要と思われる次の諸部分、すなわち、「第1章、資本の流通」「1)資本の諸姿態変換」の「T循環の第1形態」、「第2章、資本の回転」の「2)固定資本と流動資本、回転循環、再生産過程の連続性」、「第3章、流通と再生産」の「1)資本と資本の交換、資本と収入の交換および不変資本の再生産」および「3)蓄積あるいは拡大された規模での再生産」、を中心にしながら各章・節の内容を見ていくことにする。
まず「第1章、資本の流通」「1)資本の諸姿態変換」のうち、いわゆる貨幣資本循環についての説明がなされている「T循環の第1形態」を見ることにする。
マルクスは、「1)資本の諸姿態変換」の説明に入るまえ(2−4ページ)の「緒論」的な叙述において、貨幣資本循環から考察をはじめる理由を、次のように述べている。
「われわれは、資本の総生産物が・・・商品大量のうちにあらわれる、ということを見た。・・・これらの諸商品は、あらゆる諸商品と同様に、商品の諸姿態変換を経なければならない。
諸商品の第1の姿態変換は、・・・したがって、ここでは剰余価値をはらむ諸商品の形態でいまや存在する資本の第1の姿態変換としてあらわれる。
だが、ここでただちに、・・・諸商品としての諸商品の単純な姿態変換との相違が生じる。・・・商品の転化であったものは、資本の最初の形態への再転化としてあらわれる。もし、商品大量が・・・その価値どおりに販売されるとすれば、われわれは、形態G−W−G´をもつであろう。この循環は、現実的生産過程によって媒介されている。資本は、最初、貨幣形態で、あるいはある価値額として存在していた。いまや、それは、剰余価値をはらむ諸商品の形態で存在している。これら諸商品の販売、つまりそれらの貨幣への転化の結果として、資本は、貨幣に再転化される。最初、資本は、貨幣資本・・・として存在していた。その後、それは、・・・商品資本として存在する。さらに、それは、貨幣資本として・・・実現された資本として存在する」(2ページ)。
「資本の形成は、歴史的に貨幣から始まるがゆえに、また、新たに投下される資本はたえず、この出発点から出発するがゆえに・・・はじめに、この姿態変換の形態諸規定を考察すべきである」(4ページ)。
以上、明らかなように、マルクスは、G−W−G´の資本の循環形態を念頭おいて、それの形態諸規定を考察していこうとしている。続いて、マルクスは、4つ(3つのではなくて)の循環形態の簡単なスケッチを行っている。なぜ、現行『資本論』でのように3つの循環形態ではなくて、4つの循環形態があるのだろうか。それは、筆者が考えるに、おそらく、次の事情、すなわち、マルクスがG−W−・・・P・・・W´−G´という循環形態をまず念頭において、G、W、P、W´を順次循環の出発点としていったこと、によると思われる。
1)G−W・・・P・・・W´−G´
2)W・・・P・・・W´−G´−W・・・P・・・C
3)P−C−P
4)W´−G−W・・・P・・・W´
以上、4つの循環形態について、マルクスは次のような説明をしている。
「形態1)では、過程は貨幣(G)からはじまり、形態2)では、過程は労働過程の諸要素を構成している諸商品からはじまり、形態3)では、出発点は、直接的生産過程自体であり、さらに、形態4)では、出発点は生産物としての商品(形態2)でのように前提としての商品ではなくて)である」(4ページ)。
以上のいわば「緒論」的な叙述に続いて、「T第1の循環形態:G−W・・・P・・・W´−G´」の本格的な考察がはじめられている。
マルクスは、まず、この形態を「G−W−G´、つまりわれわれが研究をはじめた資本の形態に帰着」(5ページ)させたうえで、この形態G−W−G´と単純商品流通の形態W−G−Wの相違について考察する。そして、両者の相違は、要するに、1)G−WとW−Gの位置が両形態において逆であること、2)W−G−Wとちがって、G−W−G´は投下された価値の大きさの変化を示しており、その変化はWのW´への「現実的転化」(6ページ)が行なわれる生産過程で生じること、にあることを指摘している。
次に考察されていることは、「形態G−W−G´は、そのうちに、貨幣が流通手段として機能する単純商品流通のうちにあらわれるような貨幣流通とは異なる貨幣の独特な流通をも含んでいる」(7ページ)、ということである。このことに関連してさらに、マルクスは、G´>Gという「量的な契機が生じる」(7ページ)ことを指摘している。そして、さらに、このG´>Gということから、――資本家が「いかにして、かれが流通に投げ入れたよりも多くの貨幣を流通から引き出すことができるか」(7ページ)――という問題が生じてくることを指摘し、以下、9ページまでその問題の考察を続けているが、ここでは、この文脈のくわしい紹介は行わない。(5)
次に、マルクスは、G−W・・・P・・・W´−G´の両端の流通部面、G−WとW´−G´を考察している。まず、G−Wからはじめられる。
G−Wは内容的にいえば、G−PmとG−Aに分かれるが、そのうち前者についてマルクスは、「これらの諸契機のより詳細な規定は、よりあとの流通の諸形態においてのみ展開されうる」(10ページ)として、考察の対象をもっぱらG−Aに限定している。このG−Aの交換とそれに伴う貨幣の還流運動の考察は、基調として16ページまで続く長いものである(6)。ここでマルクスが述べていることは、要するに次のことである。すなわち、G−Aに伴う「貨幣還流は・・・うえに考察された形態[G−W−G´――松尾]と同一のもののように見えるだけである」(11ページ)。
G−Aの考察につづいて、W´−G´の考察が行われているが、ごく簡単にすまされている。
最後に、17−18ページにおいて、結論的なことが述べられている。すなわち、
「形態G−W−G[G´ではない――松尾]は、資本のもっとも直接的な流通形態・・・である。これは、(簡潔にした形態G−G´において)貸付資本を表現しており、われわれがのちに見るように、展開された形態G−W−G´において商業資本を表現している。・・・この形態のうちには、資本主義的生産の目的としての価値の自己増殖、W(その価値)のW+△Wへの転化だけでなく、貨幣形態への価値の転化、したがって貨幣資本としての資本、貨幣をつくる貨幣としての資本の増大が、もっともはっきり表現されている。・・・これは実際、蓄蔵の合理化された形態である。・・・それゆえ、この形態は、重商主義体系にとってもっとも親密なものである」(17−18ページ)。
以上が、「第1章、資本の流通」「1)資本の諸姿態変換」の「T循環の第1形態」の要点である。これに続いて、残り3つの循環形態の考察がなされているが、ここでは紹介を省略する。しかし、次のことだけは指摘しておかなければならない。すなわち、4つの循環形態の考察のあとに、それらを総体的に考察する章・節――つまり現行『資本論』第2部第1篇第4章「循環過程の3つの図式」に当たるもの――がないということ、にもかかわらず、その内容に当たるものが「W流通過程の第4形態」の後半部分において展開されているということである。そこで、マルクスは次のように述べている。
「全体としての資本の循環過程は、実際、これら4つの異なる諸循環の統一である」(26ページ)。
「この連続性――それゆえ、これら4つの諸形態の統一としての全体としての過程――は、資本が同時にたえず種々の諸局面の間に分割された種々の諸形態で存在し、全資本でなくこれら諸部分の各々がたえずそれ自身の回転を遂行しているときにのみ、現実的なものでありうる」(27ページ)。
以下、「1)資本の諸姿態変換」には直接関係のないものではあるが、注目すべきマルクスの叙述を、2、3あげておこう。
@まず、恐慌について、マルクスは次のように述べている。「恐慌は、消費需要、つまり個人的消費を目的とする需要の直接的減少においてあらわれるのではなくて、資本と資本の交換の減少において、つまり資本の再生産過程の狭あい化においてあらわれる」(23ページ)。
A諸商品の価値の変動によって再生産過程がいかに影響を受けるかという問題に関する若干の考察のあとで、マルクスは次のように述べている。「再生産過程および流通過程に対する市場価格の変動の影響に関していえば、その解明は、競争等々の研究に関係し、この著作(данной книги)の範囲を出るものである」(25ページ)。ここで注意すべきことは、「この著作」が単数であるということである。これがもしマルクスの原文どおりであるとすれば、この「再生産過程および流通過程に対する市場価格の変動の影響」に関する問題、「この著作」すなわち『資本論』の「範囲を出る」「競争等々の研究に関係」する、とマルクスが考えていた可能性が生まれてくる。だが、マルクスのドイツ語原文の発表されていない段階で、この1つの文言をもって、『資本論』の対象領域にかかわる重要問題をただちに裁断することはできないであろう(7)。
B「第2章、資本の回転」で出てくる固定資本と流動資本の規定を先取りして、次のように述べている。「全体としての再生産過程は、流通過程であり、そのようなものとしての資本は両部面――本来的流通部面と生産部面――を流通する流動資本である。・・・資本は、本質において流通する資本であるとすれば、・・・各々の契機においては、資本は、固定された資本である」(25ページ)。
5
次に、「第2章、資本の回転」の「2)固定資本と流動資本、回転循環、再生産過程の連続性」を見ることにする。
その冒頭で、マルクスは、固定資本と流動資本の3つの区別の仕方について述べている。
第1の区別――「資本は、その本性上、流動資本であり固定資本であるということ、そして、資本はたえずこれら両方の状態のうちに存在し、それゆえ、それらのうちの一方はつねに自己の反対物への移行であるということが、すでに明らかにされた。
資本は、それが生産局面から本来的流通局面へと循環を遂行・・・するかぎりでは、流動資本である。だが、他方では、資本は、これら諸局面の各々に固定される」(66ページ)。
第2の区別――「第2に、だが、流動資本と生産資本との間の区別が生じる。前者は、より正確な規定をすれば、商品資本と貨幣資本の二重の姿態のもとにあらわれる」(66ページ)。
第3の区別――「だが、いまや、われわれは、固定資本と流動資本との間の新たな区別、すなわち、投下資本と流動資本[Anlagekapital und flüssigen Kapital]の間の区別を考察しなければならない」(66ページ)。
以上の固定資本と流動資本の諸区別に続いて展開される本節の内容は、大きく2つの部分、すなわち、66ページから79ページまでと79ページから94ページまでとに分けることができる。
前半部分において、マルクスは、だいたい現行『資本論』的な固定資本と流動資本の区別づけに基づいて、次のような諸問題を考察している。流動資本に対する固定資本の価値移転様式の特殊性(66−71ページ)。このことから生じる資本の回転の新たな規定、流動資本の回転時間・固定資本の流通時間・固定資本の相対的(=全資本との対比における)大きさ等の相互諸関係(72−76ページ)。価値の形成・剰余価値の量と率・剰余価値の年率・利潤率等に対する右の諸関係の作用(76−79ページ)。
このような前半部分とは異なる視角をもって行われているのが、後半部分の考察である。ここでは、マルクスは、基本的にはさきに見た第2の固定資本と流動資本の区別づけに基づいて考察を進めている。マルクスはこの後半部分の冒頭に、Tから\までの興味深い問題を提起している。そのうちのいくつかを示せば、次のようなものがある。
「これら2種類の資本[固定資本と流動資本――松尾]のうち、各各が、どの程度においてより完全な意味での資本であるか」(79ページ)。
「固定資本のさまざま種類。どの程度において、貨幣は固定資本と考えられるか。播種用種子、家畜、肥料等々は固定資本であるかどうか」(79ページ)。
「流動資本の不変資本(8)への転化。あらゆる固定資本は、A・スミスがいうように、流動資本から生じるということは正しいかどうか」(79ページ)。
「どの程度において、そのものとしての固定資本は流通するか」(79ページ)。
「信用制度の基礎としての固定資本」(79ページ)。
「固定資本の、販売形態つまり有価証券等々への転化」(79ページ)。
以上のものをふくむ9つの諸問題を、マルクスが、それぞれいかに考察しているかはここではくわしく紹介しない。ただ、目についた叙述を項目別に並べておくことにする。
@「回転循環」概念について――「固定資本の機能過程は・・・次のものを包括している。すなわち、1)もし全資本が1年あるいはそれ以上の時間の間に一回転だけするとすれば、全資本の多数の諸回転を、また、2)もし全資本の回転のために必要な資本の流動部分の1年間の回転数がnにひとしく、固定資本の総磨損価値の流通が遂行される年数がx年にひとしいとすれば、・・・全資本の流動部分のnx回転、と、全資本の総価値のx回転を包括している。このような期間を私は資本の回転循環とよぶ」(80ページ)。
このような「回転循環」の考察に関連して、次のような指摘がなされている。「・・・この観点kら、さらに固定資本によって条件づけられている産業の回転循環が、いかにして諸恐慌の周期性の物質的な基礎をなしているか、ということに関する命題を発展させることができる」(80ページ)。
A現行『資本論』とは異なる固定資本と流動資本の区別の仕方について――「労働手段が商品として存在する間は、労働手段自体は流動資本の運動しつつある大量の構成部分をなし、それの販売者にとっての流動資本である。労働手段が固定資本になるのは、それが流通部面から生産部面・・・へ移ったときにのみである」(84ページ)。
建物、ドッグ、鉄道、土地改良、水路の改良、橋等は、「最高の過程での固定資本」であり、機械等は、第2の程度での固定資本である(88ページ)。
B固定資本の販売形態=有価証券について――最高の程度での固定資本のうちで「国内および国外で流通しうるものは、それらに対する所有名義である。これらの所有名義は、市場で流通することができ、有価証券の姿で購買され販売されることができる。だが、この結果として、不動の固定資本の所有者の人格が変わるだけで、けっして、それらの流動資本に対する関係が変わるわけではない」(88ページ)。
C固定資本と流動資本のうち、どちらがより資本の概念および資本主義的生産様式に合致しているかということについて――「流動資本は、固定資本よりも高い程度において資本の概念に合致している」(91ページ)。他方、固定資本は、「資本主義的生産様式が発展するのと同じ程度において発展し増大する」(91ページ)。固定資本は、「将来の労働に対する請求券である。・・・したがって、有価証券の量は固定資本の発展とともに増大する。・・・かくして、信用業の発展は新たな物質的基礎を獲得する」(92ページ)。
D貨幣は固定資本かどうかについて――それは、「ただ全く流通過程の労働手段であり、それゆえ生産過程にある固定資本と同じ機能を流通過程で果す。この観点から・・・それを固定資本と考えることができる」(93ページ)。
6
次に、「第3章、流通と再生産」のうち、主要内容をなしていると考えられる「1)資本と資本の交換、資本と収入の交換および不変資本の再生産」と「3)蓄積あるいは拡大された規模での再生産」を見ることにしよう(ここで一言しておけば、この章の冒頭でマルクスは「種々の生産諸部門の生産力は不変のままである」(107ページ)と前提している)。
まず、単純再生産を考察している第1節から見ることにする。マルクスは次のように述べている。「われわれは、蓄積が拡大された規模での再生産であるということを見た。だが、それを考察する前に、われわれは、もちろん、はじめに単純再生産を考察しよう。それゆえ、われわれは、ひとまず剰余価値の資本への再転化を捨象・・・する。それゆえ、ここでは資本に再転化される剰余価値の部分をわれわれはひとまずゼロにひとしいと見るか、あるいは同じことであるが、われわれはそれを捨象するかしよう」(107ページ)。
以上の前提に続いて、マルクスは第3章の研究課題を次のように設定している。「これまで資本の総流通過程または再生産過程の研究に際しては、われわれは、資本が通過するところの諸契機あるいは諸局面を形式的にのみ考察した。これに反して、いまや、われわれは、この過程が行なわれうる現実的諸条件を研究しなければならない」(107ページ)。したがって、「収入に入る商品資本と収入に入る他の商品資本との交換、そのような資本と不変資本を構成している商品資本との交換、不変資本を構成している商品資本相互の交換・・・。この交換の現実的諸条件の研究がわれわれの以下の課題である」(108ページ)。
続いて、マルクスは、社会の全商品資本を2つのタイプに――すなわち、生活手段を提供する「生産的商品資本производительных товарных капиталыの第1のタイプ」と生産手段を提供する「生産的商品資本の第2タイプ」とに――分け、さらに、それに対応して、生産諸部門を、生活手段を生産する「部面A」と生産手段を生産する「部面B」とに二分割している(109ページ)。
そして、結局、次のように表式化しうる(表式そのものは存在しない)数字列をもって、部面A内の「収入と収入の交換」、部面Aと部面Bとの間の「収入と資本の交換」部面B内の「資本と資本の交換」の考察を行なっている。
{ | A:400c+100v+100m= 600 |
B:800c+200v+200m=1200 |
ところで、この三交換の考察は、すでに基本的には、『剰余価値学説史』第3章「A・スミス」第10節「年々の利潤と賃金が、利潤と賃金のほかに不変資本をも含む年々の商品を買うということは、どうして可能であるか、の研究」、第4章「生産的および不生産的労働に関する諸学説」第6節「ジェルマン・ガルニェ」および第9節「収入と資本との交換」以来、マルクスによって行なわれてきたものである。だが、このような具体的な数字例をもって展開されたのは初めてであり、しかも、それが、『資本論』第3部草稿中の現行第7篇第49章に相当する場所にある表式の数字例(9)と合致していることは、この「第1草稿」が『資本論』成立過程の新たな段階をなすことを示すものである。
さきの数字例で注意すべきことは、部門構成(生活手段生産部門がA、生産手段生産部門がB)が現行『資本論』(第8草稿)のそれとは逆であるということである。これは何に起因するかといえば、それは、おそらく、『学説史』以来の研究方法――すなわち、単純再生産の場合に研究の重点を置き、消費手段生産物の実現とその生産に要した不変資本の補填がいかに行なわれるかという問題をまず考察の出発点とするという研究方法――によると思われる。それゆえ、このような部門構成は、その後の第2草稿においてもひき継がれている(10)。
{ |
T.Production de biens de consommation
C400+V100+M100 |
U.Production de moyens de production
C800+V200+M200 |
ところが、第8草稿では、この部門構成が逆転し現行の構成をとるに至っている。それは、おそらく、拡大再生産の場合には、生産手段生産部門の拡大規模と拡大率(蓄積率)が社会的総資本の相互補填関係の態様を決定する第一要因をなしているということによる。つまり、拡大再生産の考察に際しては、まず生産手段生産部門でいかなる蓄積が行なわれるかが問題にされねばならないがゆえに、生産手段生産部門が「第T部門」とされるに至ったのであろう。
したがって、この「第1草稿」での部門構成からいいうることは、この当時にはいまだ拡大再生産の場合における社会的総資本の価値および素材補填の関係の分析が十分マルクスによって行なわれていなかったということである。このことは、次にわれわれが見る「3)蓄積あるいは拡大された規模での再生産」を見れば明らかである。
第3節において、マルクスは、再生産論の考察を次のようにしてはじめている。「第T部第X章においては、われわれは、資本に再転化される剰余価値の一部分でもって生産的資本、つまり生産的資本としてのみ機能することができる諸要素を買い入れると前提した。いまや、われわえは、この転化の現実的諸条件を検討しなければならない」(137ページ)。
以下、どのように考察が進められているかを見ることにする。
「生産的資本に転化されねばならない剰余価値の一部分は可変資本と不変資本に転化しなければならない。しかも、生産の種々の諸部門に応じた割合で転化されねばならない」(137ページ)。そのうち、剰余価値の可変資本への転化の条件に関していえば、そのためには、ともかくも、追加的労働が必要である。しかし、「われわれは、この追加的労働は提供されると前提するし、また発展した資本主義的生産の段階では、それはつねに現存している(つまり資本の支配下にある)ということを知っている」(137ページ)。ところで、「追加的可変資本は、物質的な点から見れば、労働者階級のための追加的生活手段からなっている。・・・[したがって――松尾]剰余価値があらわされている剰余生産物の一部分は、労働者の消費に入っていく形態で生産されねばならない」(137ページ)。他方、剰余価値の追加的不変資本への転化に関していえば、「この転化が可能であるためには、剰余生産物が追加的生産手段の形態で・・・再生産されねばならない」(138ページ)。
マルクスは、これ以上、再生産論の考察を理論的に一貫した形では進めていない。そして、次のような確認をもって再生産論自体の考察をおえている。「かくして、あらゆる蓄積あるいは拡大された規模での再生産は不断の相対的過剰生産に、つまり現存する資本のみを再生産する再生産と比較しての過剰生産に帰着する」(139ページ)。
ところで、以上の拡大再生産の研究状況が、『学説史』第17章「リカード蓄積論、それの批判」(とりわけ、その第3節「資本の蓄積のための必要な諸条件・・・」以下第5節まで)のそれと類似している。
『学説史』ではマルクスは次のように論を進めている。単純再生産の場合の「収入と収入の交換」「収入と資本の交換」「資本と資本の交換」を概観したあと、「ところで、資本の増大・・・資本の蓄積、収入の資本への転化に関しては、事情はどうであろうか?」(11)と自問し、そのためには、剰余価値の一部分が資本に、しかも「前提された資本の有機的構成」に従って可変資本と不変資本に転化しなければならないとする。そして、剰余価値の可変資本への転化が可能なためには、「労働者人口の数がふえるか、または労働者の働く労働時間が延長される」必要がある。あるいはまた、「従来の不生産的労働者が生産的労働者に転化されるか、または人口のうちで婦人や子供や受救貧民のような以前には労働していなかった部分が生産過程に引き入れられる」必要がある(12)。他方、剰余価値が不変資本に転化するためにはどのようなことが必要か。考察を進めていった結果、マルクスは次のような結論を得る。「不変資本の剰余生産――すなわち、従来の資本を補填するために、したがってまた従来の生活手段量を生産するために、必要であるよりも大きな生産――を前提すれば、機械や原料などを使用する諸部面における剰余生産すなわち蓄積には、もはやなんの困難もない[したがって、他の諸生産部面、つまり生活手段生産部門の剰余生産つまり蓄積にはなんの困難もなくなる――松尾]。必要な剰余労働が存在すれば、その場合には、これら部面は、新しい資本形成のための・・・すべての手段を市場において見いだすことになる(13)」。
だが、『学説史』の考察とまったく類似しているわけではない。『学説史』の場合は、このあと直ちに恐慌の問題へ移っていく。「蓄積の全過程は、・・・恐慌において現われる諸現象にとっての内在的基礎を形成するような剰余生産に帰着する」(14)と。だが、『資本論』第2部用「第1草稿」では、一度は第3章第7節の表題を「再生産過程における攪乱」と書きながら、その実際の考察をマルクスは「第V部第Z章で考察すること」(149ページ)としている。つまり、再生産論の基本的課題とそれを一つの基礎とする「攪乱」の考察とを明確に区別して別々の場所で展開しようとしている。このことは、私見によれば、『学説史』段階とちがって、この「第1草稿」では、再生産論の基本的課題がそれ自体固有な問題領域をなすものとしてマルクスによって意識されるようになったことを示す(とはいっても、草稿の最後に書かれた第3章のプランの第6節に「再生産過程の攪乱」という表題がなお見られるのではあるが)。
【脚注】
(1) |
この23冊のノートのうち、第6〜15冊を中心とする部分が『剰余価値学説史』におさめられており、また、第1〜5冊と第19〜20冊の部分がロシア語第2版『マルクス・エンゲルス著作集』第47巻、1973年におさめられている。さらに、残りの部分については、ロシア語第2版『マルクス・エンゲルス著作集』第48巻におさめられる予定である。 |
(2) |
これらの草稿のうち、現在、存在が認められているのは、『第1部、第6章、直接的生産過程の諸結果』と、以下で紹介する第2部「第1草稿」、および第3部用の「主要原稿」である。このうち公表されているのは、前の2つである。なお、最後の第3部用の「主要原稿」については、アムステルダムの社会史国際研究所における調査に基づく佐藤金三郎氏の報告・紹介がある(佐藤金三郎「『資本論』第3部原稿について」(1)(2)(3)、『思想』562、564、580号、1971年4月、6月、1972年10月)。 |
(3) |
「第1草稿」がこのような3章構成になっていることについては、すでにユ・テ・ハリトノフの研究報告によって明らかにされていたことである。副島種典「マルクス『資本論』第2巻について――その完成のためのエンゲルスの働きにかんするハリトノフの研究」『経済評論』1957年4月号。 |
(4) |
Marx,K., Theorien über den Mehrwert, MEW,Bd.26,U, Dietz Verlag, Berlin, 1967, S.513. なお、マルクスは、同書 SS.513〜514において、「恐慌の新しい要素」はどこでつけ加えるかという問題によせて、次のように述べている。「資本の単なる生産過程(直接的な)は、それ自体としては、なにも新しいものをつけ加えることはできない。・・・なぜなら、生産過程そのものは、再生産された価値の実現だけでなく剰余価値の実現も問題にならないからである。その事柄は、それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程においてはじめて現われうる。・・・われわれは、完成した資本――資本と利潤――を説明するよりも前に、流通過程すなわち再生産過程を説明しなければならない。なぜなら、われわれは、資本がどのように生産するかということだけでなく、資本がどのように生産されるかということを説明しなければならないからである」。 |
(5) |
ただ、貨幣材料・金の生産に関するマルクスの次のような叙述を紹介しておく。「全資本家階級あるいは社会は、社会的生産物の漸次的に増大する部分を一商品、金の生産に投下する・・・。これは、交換形態自体から生じ、消費および現実的再生産を制限する生産手段と労働力の浪費に対応するものである。この種の貨幣材料の生産は、実際、流通諸費用の非常に大きな項目をなしており、それについては、もっとあとで問題になり、資本主義的(そして、一般的には商品生産に基づく)生産様式の空費(faux frais)に関係するものである」(8ページ)。 |
(6) |
この文脈のある所で「労働の価格」(10ページ)という用語が使用されている。 |
(7) |
книгаはWerkの訳ではないかと思われる。 |
(8) |
固定資本の誤りではないかと思われる。 |
(9) |
『資本論』第3部草稿中の表式とは、次のものである。
(S. 545. Vgl. MEW, Bd. 25, S. 846――佐藤金三郎「『資本論』の原稿について」1972年、経済学史学会報告レジュメ)。 |
(10) |
uvres de Karl Marx,Économie II, édition établie par Maximillien Rubel, Édition Gallimard, 1968, p.1725. |
(11) |
Marx, K., Theorien über den Mehrwert, MEW, Bd. 26, U, S.477. |
(12) |
Ibid., S.478. |
(13) |
Ibid., S.492. |
(14) |
Ibid., S.492. |
|