競馬よみもの 桜花賞
体育館の裏手にある食堂は、たくさんの生徒たちでにぎわっていた。 学年末の終業の日を迎えたと言えども、インターハイ予選に向けて練習する運動部や、 もう2週間もすればやってくる新入生歓迎の準備に余念のない文化部の生徒たちのエネルギーを充填する 貴重な補給基地となっている。もうすでに、芯の抜け落ちたような音を出すトランペットの音色が寂しく宙をさまよっている。 そんな喧騒の中、紗苗は自動販売機で、ジュースを二つ、一つはオレンジジュースでもう一つはリンゴジュース、 いつもの慣れた作業で素早く購入し、足早に教室へ戻っていく。 「のど渇いたな〜、ジュース買ってこようかな〜、あ、絵梨奈も要る?」 放課後、紗苗は、ほぼ決まったタイミングでほぼ同じ会話をする。 絵梨奈も決まって「じゃあ、お願い紗苗」と返事をする。 放課後だけではなく、朝のホームルーム前も、休み時間も、昼休みも、同じメンバーが同じように集まる。 絵梨奈を囲んで、女子が5名、合計6名のグループ。話す内容も日々同じ、昨日のテレビ・雑誌の話題、 ツマラナイ授業しかしない先生の悪口や学校の噂話・・・違った刺激があるとしたら、サッカー部の時期キャプテン と言われている駿哉たちのグループが、冗談を言って絡んできたり、放課後のカラオケの誘いに来る程度だ。 絵梨奈のグループ6名は、いわゆるクラスカーストの上位に位置する。とは言うものの、それを担保しているのは まぎれもなく絵梨奈である。クラスカーストの最上位、なにがあっても絵梨奈の意思にそぐわない方向にはクラスは 進まない。男子の上位、駿哉たちのグループでさえも、必ず絵梨奈を尊重しつつクラスでの生活を送っている。 もちろん、表面上は上下の差などない。しかし、会話に、行動に、あらゆる場面にその差は如実に表れている。 紗苗は簡単に言えば絵梨奈の「とりまき」であり、「引き立て役」だ。しかし、絵梨奈のまわりにいる限り、紗苗は スクールカーストの上位でいることに間違いはない。脇役ではあるが、「その他大勢」ではない。それを選択した のも紗苗自身だ。この位置さえ守っていれば、高校生活で不都合はない…。 1年前の入学式、たまたま紗苗の隣の席が絵梨奈だった。お互い、同じクラスに中学からの同級生が居ないこともあり 必然的に紗苗は絵梨奈といる時間が多くなった。 絵梨奈がクラスの中心になっている事に気づくのには、ほんの数日あれば十分だった。 クラス全体の「序列」もGWを迎える前にはほぼ決まっていた。以降、体育祭も文化祭も、合唱コンクールも その中心にいるのは「絵梨奈たち」だった。その頃から、紗苗が絵梨奈のジュースを買いに行くようになった。 別に絵梨奈が頼んだわけでも、強制したわけでもない。ごく自然に、この不自然なルーティーンは形成された。 紗苗のクラスは2年も持ち上がりでメンバーは変わらない。 だから、この状況は来年も変わらない。それだからこそ、これでいい・・・こうなることを選んだ… そう思いながら、紗苗は絵梨奈たちがいる教室を見上げた。 相変わらず、音程が定まらないトランペットの音が校舎の外へとフラフラと舞い上がっては落ちていく 「ブレスが、、、足りないのよ」 少し吐き捨てるように、紗苗はつぶやき、満面の笑みを作り直して教室へ駆けあがっていく。 「おー、今日は早いな、7時までに戻ってくるなんて、こりゃ、明日は雨だな」 台所で器用な手つきでフライパンをあやつりながら、健一は紗苗へ声を掛けた。 無言で、紗苗は和室にある若い女性の写真に向かって丁寧に手を合わせた。 「ただいま、お母さん」 自室で着替えた後、紗苗はテキパキと夕食の準備を手伝い始める。 「おまえさぁ、お母さんだけじゃなくて、お父さんにも「ただいま」くらい言えないかねぇ?」 茶碗と湯飲み、ハンバーグとサラダの入ったプレートを二人分並べて、紗苗は無言で箸をすすめる 「うん、、、美味しい」 「お前の目的はメシだけか!?」 「・・・、そうじゃないけど、、、まぁ、、、、ただいま」 「遅い!しかも順序が逆!」 「だって挨拶しろって言ったのお父さんじゃん!」 「まぁ、このハンバーグがなけりゃ、今頃お前、絶対家に帰ってこない不良娘だっただろうけどな、 よかったなぁ、この料理上手のお父さんに胃袋掴まれてて」 軽口を叩く健一の言葉に反論する気になれなかった。確かに、父、健一の料理の腕はぴか一だ。 いや、正しくは「ピカ一になった」である。紗苗が小学校3年の時に母が亡くなり、それまで自称「敏腕営業マン」 だったのを転職し、地元の建設会社の経理に転職をした。娘の衣食住に不足が無いように、片親だから…と 余計な陰口をたたかれない為、家事全般、特に食事と洗濯は全精力を注いだ。 最初はまっ茶色だったお弁当は、中学卒業の頃には色鮮やかになり、あやうく「キャラ弁」にチャレンジしようと する健一を、紗苗が止めるほどにまでなった。アイロンがけも、日ごろ紗苗がやると言っているにもかかわらず、 「お前がやると適当だからダメ!」と健一は譲らない。もっとも、最初の頃はアイロンでしわをつくっているような ものだったのだが… 「お前、来週からまた学校だろ?なにかやっとかなきゃいけない事とかないのか?」 「ない」 「つーか、お前、今日もアレか・・・絵梨奈ちゃんらとカラオケか?よくま〜そこまで毎日一緒に居られるな?」 「べつにいいじゃん、てか、カラオケじゃないし、今日は絵梨奈の買い物の付き合い。絵梨奈、読者モデルで デビューするらしいんだって、それで、なんかいろいろ自分で買っておきたいって」 「お前、なんも買わなかったのか?」 「べつに、欲しいモノないし」 「無理すんなよ〜、そんなに我慢するほど小遣い少なくないはずだぞ、まぁ、無駄遣いしてんなら別だけど」 「してないし!別に無理して買う気がないだけ!」 「まぁ、いいよ、、、それより、お前、そろそろ吹奏楽はじめたらどうなんだ?それとも、もう高校ではやらないのか?」 高校に入ってすぐ以来、健一が「吹奏楽」と言う言葉を出したのはコレが初めてだった。 昨年5月の連休前に、なかなかクラブを決めない紗苗を不思議に思った健一が聞いた時、紗苗からは 「高校生活に慣れるまではちょっと吹奏楽は休んでおきたい」と返事があった。 それ以来、健一は吹奏楽について一切聞かなかったが、健一としては「ここが最後」と言う思いも込めて口にした。 中学時代、紗苗は吹奏楽部のキャプテンもつとめ、非常に優秀なトランペット奏者だった。 人生で唯一と言っていい紗苗の「おねだり」に意気軒高と向かった楽器店で、紗苗が選んだトランペットは 1万数千円程度のものだった。健一も事前に下調べをしていたのと、紗苗の友人から事前に紗苗が憧れている トランペット名は聞いていたので、これじゃないだろう、、、と突っぱね、店員にもってこさせたV.Bach 180ML−SPの値段をみて 「2万8900円なら安い安い!」 と豪語したが、紗苗から「お父さん・・・10倍だよ」と言われて、人生で初めて身体の穴と言う穴から汗が噴き出したのがつい3年ほど前の事だ。 幸いにも、ちょうどその翌週に賭けた桜花賞で軸に決めたクルミナルからの3連単がハマってくれたおかげで 娘には良いところを見せることができた。しかしそのV.Bach 180ML−Spも今はケースの中で待ちぼうけである。 「うん、、、そう、だね」 ケースから出るのは、高校出てからかもしれんな…と健一は思い、この質問は最後にしようと思った、その時。 「わたし・・・なにしてるんだろうね・・・・・・」 紗苗がハンバーグに箸を突っ込んだまま、ポツリと呟いた。 「高校生活、じゃないか?」 健一が味噌汁に口をつけながら答えた 「そりゃ、そうだけど、、、」 「迷ったり、悩んだり、怖がったり、それも高校生活だってことだよ」 健一の言葉は、まだ食卓の上をさまよっているように思えたが、健一はその着地点はお構いなしにつづけた。 「そういや、今週末、桜花賞だぞ。お前の好きだったオルフェーヴルの子が1番人気だわ」 「へぇ〜、なんて名前?」 「ラッキーライラック。4戦4勝、無敗で阪神JFを勝ってチューリップ賞も楽勝」 「それ、めちゃくちゃ強いじゃん!」 幼いころから、父に競馬場へ連れて行ってもらっていた事もあり、紗苗は人並み以上に競馬に造詣が深い おそらく、学内で競馬の事を語らせれば、多少知っている男子がいてもついていけない、 あるいは教師に競馬が趣味の人間がいても恐らく勝てない程度には知っているだろう。 この1年はほとんど競馬を見ることはなかったが、かつてオルフェーヴルが走っていた頃は、朝4時に起きて 中山競馬場へラストランを見に行って、その日の夜に大熱を出したこともあるほどだった。 「まさに、完璧、血統もいいし、厩舎は松永厩舎、馬主はサンデーレーシング、鞍上が石橋脩という事を除けば 完全無欠のええところのお嬢さんだわ」 その一言で、紗苗の表情が曇った。 「たぶん、馬の世界でも人気ものなんだろうね・・・」 「かもなぁ、でも、人気者が絶対と言うわけでもない。桜花賞は毎年ハイペースになりやすく、外枠の馬有利と 言われているんだが、ラッキーライラックは1枠1番、所謂死に番に入ってる。お父さんは、別の馬にもチャンスが あると思うぞ」 「どれよ?」 「それは、お前が探してみれば良いんじゃないか?ほれ、ブックやるから、自分で探してみなよ」 女子高生に競馬ブックを手渡すオヤジってのもなんだろうな・・・紗苗は思ったが、慣れた手つきでブックを 見てみる。紗苗の目につのはやはりラッキーライラック。4戦4勝。確かに強い。 「まぁ、2歳は人間で言えば小中学生みたいなもんで、3歳春から高校生って感じだわな、中にはいるだろ 中学の時ソコソコ頑張ってたんだけど、高校に入って最初にちょっと躓いちゃって、なんだか自信なくしちゃってん だけど、ホントは頑張り屋さん・・・みたいなやつ」 健一の言葉を聞いているのか聞いていないの変わらないそぶりで紗苗は馬柱を眺めている。 そして、その時。一頭の馬の名前が目に飛び込んできた。 「アンコールプリュ・・・」 「知ってるのか?」健一が最後のハンバーグを口に入れつつ紗苗に聞く。 「音楽用語・・・」 「どんな意味?」 「まえよりもっと・・・」 「ほ〜、2歳時は2戦2勝、3歳緒戦で差して届かずの2着ねぇ。フィリーズレビュー2着は去年の勝馬レーヌミノルと おんなじローテだな。相性のいいディープインパクト産駒でもあるし、まえよりもっといいかもしれんな」 「勝てないよ、でも、」 「どうだろうな、やってみないと分かんないぞ。だって、アンコールプリュはラッキーライラックと戦ってないもんな 完全無欠のお姫様だろうがなんだろうが、『前よりもっと!』って思い続けていると、案外気が付いたらお姫様 のほうがはるか後ろになっているかもしれないぞ。大事なのは、他人じゃなくて、自分がどうするかだからな」 しばらくブックを眺めたまま、動かなかった箸が急に動き出し、ハンバーグは一気に皿から取り去られた。 そして、お皿を片付け、紗苗はトランペットケースからトランペットを取り出した。 「お父さん、私、春から吹奏楽はじめるよ」 「ほう、そうか、そりゃ、また騒音対策がひつようになるな」 「あと、お願いがあるんだけど」 「アンコールプリュの馬券だろ。3連単マルチで買うけど良いか?」 「・・・できたら、馬単アタマ流しで買ってくれない?」 「おそろしいな、馬単アタマ流しとか言う女子高生って・・・」 「うるさい!そう言う女子高生に育てた親がわるいの!・・・ でも、、、『今のままでいい』じゃなくて「前よりもっと!』って、なれたらいいね」 その夜、健一は戸棚から、普段はめったに飲まないウィスキーを取り出した。 この前飲んだのは、紗苗の合格が決まった日だったかな・・・と思いながら。 |