第6回 SIA−DAY 高樹のぶ子と浸るモンゴル編

1部 天空を駆ける物語

●高樹さんによるイントロダクション、レクチャー「ブレグハンガイ村について」

舞台中央に置かれた馬頭琴から、草原を渡る風に乗って音楽が聞こえてきそうだ。
まだ人気のないホールに入った瞬間、そう感じた。
6回目のSIA-DAYの舞台はモンゴル。
日本の相撲界の頂点に君臨する二人の横綱の母国であることから、
最近テレビで話題にされることの多いモンゴルだが、僕にとってモンゴルのイメージは、
小学生のころに教科書で読んだ童話『スーホの白い馬』にまつわる物悲しい調べに満ちている。

図らずも今回、高樹さんが交流されるモンゴルの作家ジャンビーン・ダシドンドクさんは児童文学作家である。
児童文学という今までのSIAにはない新しい切り口で、
どんなアジアが垣間見えるのだろうかと、
自分の中を過る風に似た調べを感じながら、
高樹さんの五感を通して感じられたモンゴルの調べに耳を傾けたいと思った。

シルクのような艶のある金色の生地に、
淡いピンクの大柄の花をあしらったモンゴルの民族衣装デールを身に纏って高樹さんが舞台に登場された。

首元の小さな襟と、少し広い目にあいた胸元は高樹さんのアレンジなのだろうか。
想像していたものよりもずいぶん艶っぽい衣装に思えた。
足元に茶色のロングブーツを合わせられて、
今回も民族衣装であるデールを見事に着こなしておられた。


十三世紀初頭、蒙古と呼ばれたモンゴル民族が、
チンギス・ハンを中心に中国全土はもちろん、
東南アジア、中央アジア、シベリアにまたがるアジア史上最大の帝国「元」を作り、
日本も鎌倉時代に元寇と呼ばれる二度の来襲を受けたことは、
誰もが知るところであろう。
しかしその後、モンゴルがどのような歴史を歩んでいったのかを詳しく知る人は少ないだろう。
近現代において中国とソ連という大国に挟まれ、
両国の間で翻弄されたことは想像に難くない。

1980
年台のソ連のペレストロイカの政治情勢などを反映して、
1990
年、モンゴルは市場経済を導入して民主化の道を歩むことになった。

私たちが普段何気なく口にしているモンゴルには、
独立国家としてのモンゴル国と、
内モンゴルと呼ばれる中国の統治下にあるモンゴル自治区の二つのモンゴルがあることを高樹さんは最初に述べられた。
内モンゴルは中国北部をモンゴル国に沿うようにあるが、
実際には漢民族がその人口の
80%を占め、
モンゴルといえどもかなり漢民族化されて、
文化的にもずいぶん趣を異にしているという。

高樹さんが今回訪ねられたのはモンゴル国のほうで、
日本海からおよそ
800キロ以上内陸部にある国家で、
中国の影響よりはむしろロシアの影響を強く受けた文化を形成している。
国土は日本の約
4倍の広さを持つものの、
人口は約二百六十万人ということで、
そのうち約半分の人口は、首都ウランバートルに住んでいるそうだ。
国土が広いとはいえ、モンゴル国の南方にはゴビ砂漠が広がり、
内陸部特有の寒暖の差の激しい気候は、決して容易に住める環境ではない。


ここで、今回高樹さんが交流されるジャンビーン・ダシドンドク氏について、
九州大学アジア総合政策センターの作った「第
6SIA-DAY 高樹のぶ子と浸るモンゴル」
のパンフレットと
2008年「新潮」10月号に記載された資料をもとに紹介しておく。
1941年モンゴルのボルガン県ブレグハンガイ村の牧民の家に生まれる。
モンゴル国立大学卒業後、雑誌、新聞記者として働くかたわらで児童文学を多数発表される。
71年に発表した「お父さんお母さんぼく」でモンゴル作家同盟賞を受賞。
73年から2年間モスクワに留学し、帰国後「青年の真実」新聞の編集長に就くも、
ソ連に批判的な記事を掲載したとして政治局の指令により、
編集長の職を解任、出版活動を
6年間にわたって禁じられた。
90年の民主化以降に名誉回復を受け、現在に至るまで児童文学作家として精力的に執筆されている。
また、モンゴルでは出版流通機能の崩壊で、子供に本がいきわたらない現状を憂い、
移動図書館活動も積極的に行っておられる。
その活動により、
04年モンゴル国文化功労者、
06
IBBY朝日国際児童図書普及賞を受賞されている。

モンゴルの出版事情は、作家と呼ばれる人がおおよそ200人。
その中で、児童文学を書く作家は
40人ほどということで、
作家の比率からいえばかなり高いといえる。出版社は三十社あり、
新聞社になると小規模のものを合わせて百社もあるとのことだ。

ZOQU”(熾き火という意)という文芸誌が年に四回出ていて、
ここで小説も発表されるとのこと。
とはいえ、作家として生計を立てていくのは難しいようで、
ダシドンドク氏の作品も、ソ連支配下の頃は二万五千冊ほど読まれていたらしいが、
現在では五百部から千部だそうだ。

言語はモンゴル語だが、ソ連支配以降、
キリル文字と呼ばれるロシア文字によって表記され、
現在も新聞など出版産業はこの文字が使われている。
しかし、モンゴルには本来、モンゴル文字と呼ばれる固有の文字が存在し、
民主化の進む今では、この文字を復活させようという動きが高まりつつあるとのことだ。


高樹さんが今回訪ねられたダシドンドク氏は、
ウランバートルより西側に位置するブレグハンガイ村出身で、
高樹さんたち一行はそこまでの道なき道を、
車で
7時間以上かけて行く過酷な旅を続けられた。
ダシドンドク氏は、この村に夏の間帰ってきて創作活動を続けているという。

ブレグハンガイ村の人々にとってダシドンドク氏は、
名誉ある村民と親しまれ、村の郊外に彼のために村民の手で小屋を建てたりして、
彼は手厚く世話をされている。

ベンバージャブさんという、ダシドンドク氏が村に帰ってきたときの彼専属の世話役がいることからも、
彼がいかに村の人たちから大切にされているかが分かる。

ベンバージャブさんは高樹さんたち一行にも、高樹さんたちのためにゲルを二つ建て、
朝な夕なに世話を焼いて下さったそうだ。

このベンバージャブさん、ダシドンドク氏の世話をするだけの人物ではない。
彼はダシドンドク氏の作品のすべてを暗記していて、
モンゴル中をバイクに乗って回り、ダシドンドク氏の物語を人々に伝える活動をされている。

一つにはモンゴルの文学というのが、文字で書き継がれていくものではなく、
むしろ口承文学と呼ばれる形態が主流だったことに由来している。
自然を相手に、ゲルで移動する遊牧民としての生活が、
この文学の形態をモンゴルに根付かせたのかもしれない。

ベンバージャブさんの、このダシドンドク氏の文学を語り継ぐ活動が国から評価されて、
彼は勲章を授けられ、そのことをとても誇りに思っていらっしゃる。

そのことはまた、ダシドンドク氏へのより深い敬意に結びついているようだった。

高樹さんはダシドンドク氏の文学について三つの特徴を挙げられた。
一つは、ダシドンドク氏は、童謡の歌詞なども沢山作られていて、
モンゴルの子供たちが日常何気なく口ずさんでいる歌も、
ダシドンドク氏のものだったりするとのことだ。
日本でいうサトウハチロウのようだと高樹さんはおっしゃった。
ダシドンドク氏の作る詞は、モンゴルの子供たちにとってとても音律が良く、
口ずさみやすい詞が多いそうだ。

二つ目には、彼の作品の中には、身近な物や自然を擬人化して物語にし、
そうして物や自然が、物語の中で英雄化されるとのことだ。
ダシドンドク氏はそうすることで、子供たちが物や自然に対して、
大事に思ったり感謝したりする気持ちを育てたいと考えられている。

そうして三つ目は、ダシドンドク氏自身が、
モンゴルの言葉というのを身体で十分理解した上で、
それを物語に使っていることと高樹さんはおっしゃった。
モンゴルの言語の特徴を、物の本質をとらえて言葉にしているような印象を高樹さんは受けられた。
ダシドンドク氏は、物語の中で、言語が持っている本質的な物を表す音そのものを作品の中に取り入れていると感じられたようだ。


ダシドンドク氏は、創作活動だけではなく、
移動図書館のような活動もされている。

自らの作品を読み、語り聞かせるだけでなく、
子供たちにアナザーワールドに触れる機会を作って
その素晴らしさを伝えようとしていらっしゃるということだった。

高樹さんたちの訪問を歓待する意味を込めて、
ダシドンドク氏はその活動を村の集会所で高樹さんたちに披露された。

高樹さんはその集会で、村から感謝と尊敬を表す青い布―モンゴルの空を表しハズと呼ばれる―
と一緒に馬頭琴をプレゼントされた。
会場に中央に置かれた馬頭琴はその時のものだという。


ダシドンドク氏の文学には、「ゲルの思想」というのを持たれているそうだ。
高樹さんもこのダシドンドク氏の「ゲルの思想」をうまく説明するのを苦労されていたが、
僕なりの解釈も踏まえて表せば、次のようなものではないかと思う。

本来ゲルとは、「草原を取り囲む山をまねて柳の木で壁を作る」、
「爽やかな風を招き入れるために扉を作る」、
「空の太陽をまねて天窓を作る」、
「山の向こうから立ち上る霧をまねて壁をフェルトで巻く」、
「空を覆う雲をまねて屋根を作る」といった自然を模倣したものであるという。

ダシドンドク氏は物語の一語一語の言葉をゲルの形にして、
それを大きな紙に書いて子供たちに見せられた。
言葉はその大部分がキリル文字であったが、
その中央部にモンゴル文字の言葉が添えられていた。
氏はこれを「言葉のゲル」と呼ばれた。

遊牧という生活のスタイルからして、ゲルは必要最小限の材料で作られる。
しかも一つ一つの材料をうまく組み合わせなければ、建てることが出来ない。

「言葉のゲル」も本当のゲルと同じく、ギリギリまで削られた言葉で成り立っていて、
この中の一言でも言葉を無くしてしまうと、本当のゲル同様、
「言葉のゲル」も壊れてしまうのだとダシドンドク氏は語られた。

自然を表し、また家族の憩う家であるゲルは、
モンゴルを生きる民にとって失ってはいけない民族としての血であり、誇りであり、心でもある。
それは自然と、そして言葉の大切さを何よりも
子供たちに伝えたいという氏の思いと相まって伝えたい、
民族としてのアイデンティティであり、
ダシドンドク氏の文学的活動の主たる思いなのだと感じた。

ダシドンドク氏は、こうした思いを、
時に楽器の演奏とともに物語を読み聞かせるそうだが、
そのパフォーマンスの高さは、子供たちの夢中になって聞いている姿が
如実に物語っていたと高樹さんは語られた。


モンゴルを語る上で、夏の祭り、ナーダムを外すわけにはいかない。
「競馬」、「相撲」、「弓」の三種の競技からなり、
競馬と相撲は男のみの参加だそうだが、弓は女も参加できるとのことだった。

草原の民の基礎体力を高めるというのが、ナーダムの起源だったと思われる。

村の子供たちが、高樹さんたちにナーダムを見せようと、特別に競馬と弓の競技を見せてくれることになった。
草原を生きる人々にとって、馬に乗れないことには死活問題にかかわる。
ここでは小さな男の子も上手に馬を駆ることができる。

「モンゴルの男の子は馬の背中で生まれる」という言葉があるそうだが、
馬とともに生き、
馬とともに死ぬという、遊牧の民らしい言葉だと思った。
高樹さんは、競馬に僅かながら寄付をされたそうで、
そのお礼として馬を進呈されたそうだ。
もっとも馬を連れて日本に帰ることはできないので、丁寧に辞退されたそうだが、
その代りに名前を付けてほしいと言われ、
NOBUKO」と名付けられたそうだ。後で分かったことだったそうだが、
その馬は雄馬だったそうで、会場に笑いを誘われていた。

弓の競技は、ある的に向かって矢を射て、その的にどれだけ近くにたくさんの矢を射ることができるかという競技だが、
日本の弓道のように矢が的に向かって一直線に飛ぶというのではなく、
放物線を描きながら上から矢が降るように射るのだと高樹さんは見ていて感じたそうだ。
モンゴルの弓の極意をセンスで体得されたからかどうかは定かではないが、
高樹さんが現地で射られた弓矢が、誰よりも的を射て、周囲の人たちを驚かせたそうだ。

『新潮』200810月号にダシドンドク氏の小説が掲載されているが、
ナーダムのこの三種の競技にまつわる三つの物語となっている。



ダシドンドク氏との対談

高樹さんはダシドンドク氏への最初の質問として、
何故モンゴルでは児童文学が占める割合が大きいのかを尋ねられた。

モンゴルでは、親から子へ、子から孫へと民話などを語り伝える口承文学が中心だったが、
それは何も子供に向けて語り伝えられたものばかりというわけではなかったそうだ。
児童文学者としてのダシドンドク氏は、そうした物語を、
子供が飽きずに楽しく聴けることに心を砕かれたという。

高樹さんは、実際にダシドンドク氏の活動を見ていて、
彼のそうした試みが、モンゴル文学の中で新しいものだと感じられる。
子供たちの話す言葉の音やリズムを取り入れた、
とても音楽的な表現をされていると感じられたそうだ。

ダシドンドク氏が初めて書いた物語は、従来の児童文学のスタイルを踏襲したもので、
それは彼自身、どこか納得のいかないものと感じておられたそうだった。
もっと子供の心に響く、心に届く物語をと考えられていたときに、
ダシドンドク氏の
7歳の弟が絵を描いていたのを見たという。
そのことをきっかけに、子供の感覚で物語を描くように工夫していくことを思いついたそうだ。

遊牧民としての民族の血は、ひとところにじっとしてられないという性分を持っていて、
彼自身、新しいスタイルを求めて工夫をせずにはいられないとのことだった。
人と同じ道を歩みたくないというダシドンドク氏の想いが、
彼の文学への工夫につながるのではないだろうかと、自身を分析されていた。


ダシドンドク氏の「言葉のゲル」をご覧になった時、
高樹さんは彼の「このゲルは言葉一つを取ってしまっても、
崩れてしまうんだよ」と子供たちに話されているのをとても印象深く心に残されたことを話された。
ダシドンドク氏は、最初、
10ページぐらい書いていた物語を、
削って
2ページぐらいまでにして、ゲルの形にしたとういう。
それは、もうどの言葉が抜けても、物語としておかしくなってしまうギリギリのところのもので、
そのための工夫をしておられることを、彼自身の矜持のように思われているように語られた。

高樹さんは実際にゲルに寝泊まりされて、小さなうちであるにもかかわらず、
そこに小さな宇宙を感じたという。一つでも何かが無くなると、
その宇宙が壊れてしまうかのような、必要最小限に作られたゲルを言葉で形にされた彼の工夫に、
モンゴルの文学の象徴を見てとられた。


次に高樹さんは、モンゴルが民主化される前と後との文学に違いについて尋ねられた。
ダシドンドク氏はその違いを大きいと述べられた。
旧体制では、厳しい制度の中、ソビエトの支配体制を礼賛した形でしか文学は語れなかったそうだ。
旧支配体制の中で児童文学は、その体制の考えに合うように子供を育てるための道具として考えられていたと、重苦しい口調で語られた。

当時は上からの命令で、どういう物語を描くかにおいてまで指示があったという。
旧体制時代、ダシドンドク氏は身に覚えのない嫌疑を理由に自由や文学活動を制限されたばかりではなく、
本も発禁処分になったという。
その時代を思い出されたのか、ダシドンドク氏の表情が苦しげに歪むのがスクリーンに映し出されていた。

そうした辛い時代に、同じ作家の仲間である人が、
ダシドンドク氏の文学の正統性、そして氏の文学的な才能を見抜かれて、
氏に物語を描き続けるように言ったという。
ダシドンドク氏は彼の言葉を心の支えに、多くの仲間が文学から離れたり、
自分を曲げたりしていった暗い時代を生き抜かれたそうだ。


革命後は、自由に自分の心の中をすべて書くことが出来るようになり、
小説家にとって一番いい時代だと言われた。
児童文学は、子供たちに夢を与える、正しい目線で世界を見る、
正しい形で記憶を与える、そうした本来の形に立ち返って、
現在に発展していったと思うと述べられた。

ダシドンドク氏は革命後、ドイツに行かれて、
児童文学について
3か月間研究されたという。
その時、子供に夢を与えることの大切さを考えさせられたとそうだ。
子供に夢を与えるための、抽象的な哲学を持った児童文学を書きたいと
帰国後強く思われるようになったそうだ。
それがダシドンドク氏の「ゲルの思想」なのかもしれない。


高樹さんは、これからのダシドンドク氏の夢を尋ねられた。
ダシドンドク氏は、小説家として活動を続けてきた一方で、
17
年間移動図書館を続けてこられた。
その活動を通して、最近の子供たちは、
あまり本が読む機会が無くなってきたのではと感じるそうだ。
ウランバートルには、児童図書館が一つしかないとのこと。

子供が自由に本を読める図書館を建てることが、今のダシドンドク氏の夢だそうだ。
ダシドンドク氏にとって、今のモンゴルの子供たちについて、
一番心を痛められていることは、革命後、モンゴルにおいて、
児童と名前の付くものが全てなくなったことであるという。
児童映画館と呼ばれるものがあったが、現在では取引所になってしまい、
かつてあった立派な児童図書館は、銀行になってしまったという。
子供が遊べる場所が、どんどん奪われてしまい、そういう意味では、
革命後において、子供のことはおざなりになっていると氏はおっしゃった。

国は子供のためといい、子供一人に対して3000トゥグリク支給しているそうだが、
これは食べていくために消費されるのが現状だそうだ。

このことに対してダシドンドク氏は、子供には二つのお腹があるのだと言われた。
それは頭のお腹と体のお腹。体のお腹はパンで満たされるが、
頭のお腹は今のままではいつまで経っても飢えたままでいることになる。
政府は頭の栄養が必要なことを忘れているのではないかと、
児童文学者らしい、誰にでも分かるような例えで説明された。
政府がそのことを気が付いていないことが、今のダシドンドク氏の一番の心配ごとだという。


高樹さんは、ダシドンドク氏の話を聞かれて、
民主化がもたらした自由の一方で、弱肉強食で、
子供といった弱者が置き去りにされているモンゴルの現状を感じられて、
そのことをダシドンドク氏に素直に尋ねてみられた。

それについて、ダシドンドク氏も高樹さんの受けた感じを肯定された上で、
今現在のモンゴルは、未だ民主化の途中なのだとおっしゃった。
革命後、
17年がたってもまだ、完全には民主化されておらず、
民主化への道があまりに長くかかりすぎているから、
子供のことにまで政府の目が届かないのが現状なのだとおっしゃった。


モンゴルにおいて子供の占める割合は三分の一になるともいわれ、
国としてまだまだ若いモンゴルの子供たちに対して、
児童文学者として責任はどのように感じられるかという鋭い質問を高樹さんは氏にぶつけられた。

ダシドンドク氏は、若いモンゴルの将来はすごく明るくきれいに見える、
と少し表情をやわらげられて、照れるようにはにかんだ笑みを浮かべておっしゃった。

市場経済の中で苦労して育っている今の子供たちは、
大人になって今ある問題に取り組んでくれる立派な人間になってくれるだろうと言うのだった。
それはかつてロシアとの戦争などで苦労して育った子供たちが、
今小説家や偉人となって今の国を支えていることからも感じられる
ダシドンドク氏の明るい未来像だった。

ダシドンドク氏は、将来を担う子供たちにいい成長をしてもらうためにも、
いい小説を書いて行きたいと力強く高樹さんにおっしゃった。

移動図書館の継続、固定図書館の設立はそのための氏の夢であるのだった。


朗読『男の三つのお話』より「第三話 ラクダかつぎ」

今回朗読されるのは、RKB毎日放送の田中みずきさんと田中友英さんの二人だった。
『男の三つの物語』はナーダムの三種の競技のそれぞれの物語であるが、
朗読される「ラクダかつぎ」の物語は、相撲の物語である。

ひ弱そうな若者が、ナーダムに出場しようとする力士たちのトラックと出合い、
力士たちと相撲を取るのだが、意外にも力士たちは一人として勝つことが出来なかった。
その若者の強さの理由は意外なところから来ていた…。

『新潮』に掲載されたダシドンドク氏の『男の三つのお話』は、
どれもナーダムに対する、モンゴルの人々の揺るぎのない想いが描かれている。

無駄のないシンプルな文章で、競技に勝つ者、負ける者、挑戦していく者、
去っていくもの、それぞれの登場人物たちのナーダムにかける思いが語られ、
人生の悲喜こもごもを垣間見せている。