1部 熱くつめたい女たち

●高樹さんによるイントロダクション、レクチャー「上海の魅力、文学の現状」@


淡い色のタイトなチャイナドレス姿で、高樹さんは登場された。
女性作家でチャイナドレスをこれほど自然に着こなせる人は高樹さんぐらいのものだろう。
艶やかさの中に落ち着いた女性らしさを漂わされていて、事前に読んでいた、今回対談された潘向黎(パン・シャンリー)さんの小説の中に出てくる謝秋娘(シェチウニアン)という主人公のイメージはこんな女性だろうと思った。

SIA-DAY 上海編で、SIAはちょうど折り返しの5回目になる。
会場は今回も空席がないほどのたくさんの人で埋まっていた。恐らくリピーターとして何度も足を運ばれている方も多数いらっしゃるのだと思う。
初めて会場に足を運ばれている方にしても、
SIAについて改めてその意義や目的を語る必要がない方たちがほとんどではないだろうか。
最初のころにあった張りつめたような緊張した空気はなく、ほんの数週間前にもこうして集まっていたかのような穏やかで冷静な雰囲気が会場を満たしていた。
高樹さんもそうした空気を感じられたのか、前置きや挨拶もそこそこに、粛々とした雰囲気の中、SIA上海編は始まった。

上海と言えば、いま中国の中でも最も経済発展の著しい場所として認識されている方も多いだろう。まさに昭和40年代における日本の高度経済成長と同じような事象、それは物価の高騰、公害の問題、貧富の格差などの様々な社会的な問題を抱えながらも、その勢いは止まることを知らないかのような発展を続けている。
高樹さんによると、現在上海の定住人口は1800万人を超えているということだが、中国当局も実際のところは把握しきれていないということだった。
高樹さんは15年ほど前に一度上海を訪れたことがあるそうだが、そのころの上海に住む人々の多くが人民服と呼ばれる服をまだ着ていたし、街の雰囲気も重苦しいものだったそうだ。ただ、その訪問の際、街でミニスカートをはいている女性がいたそうで、当時の中国のこととて大変驚いたそうだ。

今上海はまさにモータリゼーションの真っただ中で、軽自動車なら日本円で60万円ぐらい、普通乗用車なら150万円ぐらいと日本よりやや安い値段で販売されているとのことだ。
ただ、日本と大きく状況が違うのは、当局によりひと月に発行されるナンバープレートが7000枚と決められていて、その数に対して、車を求める人が追い付いていないので、ナンバープレート自体が売買されているらしい。およそ70万円で取引されているようだが、値段はまだ上がる傾向にあるとのことだった。
マンションなども45年前に買った値段よりも4倍ぐらいの値段が付いているとのこと。
人より先に何かを手に入れた者が大きな利益を生むという状況は、富裕者層を広げると同時に、貧富の格差を広げているということは推察するに難しいことではない。

高樹さんはSIAにおいてまず、その国の出版状況を、その国の出版関係者などと直接会われて尋ねられ、そのことを発表して下さる。それが今回においては、対談相手である潘向黎さんによる情報しか得られなかったと高樹さんはおっしゃった。
共産党による一党支配という中国の状況の中、そうした出版関係の客観的情報を得るということの難しさを、高樹さんは残念そうに述べられた。
潘向黎さんによると、中国全土で長編は一万部、中編で五千部ほどが売れているという。作家として活躍している人は、2030人らしい。一冊当たり本は500円程度で売られているということだった。今回のSIA-DAYに先駆けて、2月の末に上海の新聞に当たる「上海文芸報」でSIAのことを取り上げた記事が出たらしい。その記事がどんなものであったのか、後日潘向黎さんに再会される予定があるとのことで、確かめてみたいと高樹さんはおっしゃった。

ここにきて、ふと僕は思った。
あの広大で人口の多い中国において、売れている小説が高々一万冊程度なのか?
活躍する作家も
2030人程度なのか?と。
高樹さんも同じような疑問を持たれていたのかもしれない。
経済発展著しい上海で暮らす人々は、その急成長のあまりアナザーワールドに親しむことに向かわないのかもしれないとおっしゃっていた。

SIA-DAYに続けて参加していると、高樹さんがいかにその国の出版事情を伝えようとしているかということが分かってくる。街角の本屋さんやDVDを並べる店などにも足を運ばれて、写真で紹介して下さったりする。同じ社会主義国のベトナムでもそれは変わらなかった。
潘向黎さんの話として中国の今の文学状況を説明して下さったものの、あまりにも抽象的で、かえって今の中国における閉塞した文学の状況が浮かび上がってくるような気がした。
士農工商と身分差別のあったあの江戸時代でさえ、洒落本や浮世草子など庶民が文芸に親しむ土壌があった。今の中国にはそういった、文芸に親しむという自由な空気はないのだろうか?
SIA-DAYに先駆けた新聞報道というのも、中国の当局が目を光らせているということを暗に伝えているのでは?
そうした疑念はあるいは僕の行き過ぎた想像に過ぎないのかもしれない。
しかし、語られないところ、あるいは語れないところにこそ、多くのことが語られているものである。
そんな風に考えていて、ふと思い直した。
そもそもSoaked in Asiaというどっぷりアジアに浸かるという本来の趣旨は、それぞれに国々の差異を論じ合うことではない。
それぞれの国の事情の中で、なお生まれてくる文学を味わうこと。
文学を通じてその国の人々を愛し、その国を愛すること。
SIAの趣旨はここにあることを忘れてはならない。
そのことに立ち返って、改めて上海文学を感じることこそが大事なのだ。



●潘向黎さんとの対談VTR@


潘向黎さんと高樹さんの対談に先立ち、潘さんのことを今回会場でもらったパンフレットから簡単に紹介しておく。
潘さんは
1966年、福建省泉州で生まれた。88年に上海大学中文系を卒業後、上海社会科学院文学研究所大学院に進み、91年文学修士号を取得。その後、文芸誌『上海文学』の編集者となるも、9294年東京外国語大学に留学。そのせいもあって、潘さんは日常会話程度の日本語も話される。主に新興中産階級と呼ばれる上海でも富裕層の都会に暮らす人々の感情の機微を細やかな筆致で描くことに定評がある。07年には中国の文学賞の中でも権威ある魯迅文学賞を『白水青菜』(邦訳は『青菜スープの味』)で受賞された。
高樹さんとの対談のVTRは、上海の町の中心にある緑豊かな公園で始まった。
パンフレットの写真を拝見しても思っていたことだが、潘さんはとても上品な雰囲気のある美人である。ツンとした冷たい印象を与える美人ではなく、笑顔の優しい可愛らしさをもった女性である。
その印象は、対談のVTRが始まっても変わることはないが、高樹さんとの対談の中で芯の通った意志の強い部分も見せられる。上海の女性作家として、第一線で活躍されている故の矜持なのだろうと感じた。
大都会として発展著しい上海の中心部に広がる緑豊かな公園に、高樹さんも驚かれたようだった。取材は落ち葉の舞い散る秋深い日に行われたようで、潘さんはこの季節をこよなく愛されるとのことだった。
急激な上海の変化に対して戸惑いを感じられているのは、外から来た高樹さんよりもむしろ、この地に住んでいる潘さんのほうが遙かに感じられているのかもしれない。新しいものへと変化していく上海において、その変化よりも古いものを愛したいと潘さんは述べられた。急激な変化に対して、感覚が麻痺してしまっているように感じられることがあるそうで、だからこそ、上海に訪れる表情豊かな四季の移ろいなどに対する感覚を敏感にしていたいとおっしゃった。
作家として、自然に対するアンテナを常に敏感に広げていていたいとおっしゃる高樹さんに同意しながら、何よりも女性としてそれを大切にしたいと潘さんは日本語で答えられた。

場所を落ち着いたカフェに変えて対談は続いた。
高樹さんは潘さんの小説を読まれて、潘さんはとても料理が上手に違いないと思われたことを潘さんに伝えられた。潘さんは笑顔をほころばせながら、読者の中にもそう思われている方が多いようだといいながら、読者をそのように思わせるご自身の描写力に少なからず自負を持たれているようだった。高樹さんは、それでもなお、潘さんの味覚や嗅覚に対する潘さんの鋭さを指摘されると、潘さんもそれに対しては自覚するところのものだと認められた。

潘さんは18歳のころから既にエッセイのような形の文章を書いてこられたという。それが小説の形をとったのは、26歳の頃、自分の伝えたい感情や思想といったものが、それまでのエッセイのような文章では表現しきれなくなっていると思い、ほかの表現方法を模索する中、小説という方法に行き当たったそうだ。
潘さんの主な読者層としてはやはり女性、しかも都会に住む教育レベルが比較的高い層が多いと感じられているようだった。
中国では潘さんの世代の女性の作家に対して美女作家と呼ばれることが多いそうだが、このことを潘さんは好ましく思われていないとおっしゃられた。女性の作家が増えたことがそう呼ばれる一因になっているのだと考えておられるようだった。

潘さんにとって小説を書く動機は様々で、街ゆく人の面影や後ろ姿であったり、歌の中のワンフレーズであったり、古典や詩の言葉からもインスピレーションを受けるそうだ。
上海に暮らしていることが、大きな刺激になっていることは違いないが、東京で暮らした記憶や、旅先の経験などあらゆるものがその出発点になるとのことだった。


「いい作品を書くために心がけていることはありますか?」という高樹さんの問いに、人とは違うかもしれないと前置きをされた上で、潘さんは「紙」と「お茶」と答えられた。
「紙」については、和紙や便箋など、特別に使わなくても何となく惹かれて集めてしまわれるようです。「お茶」に至っては、お茶に関するコラムなども書いていらっしゃって、相当なこだわりがあるようだ。
後で高樹さんが語ってくださったが、カフェでも自分の好きなお茶がメニューになければ、口にされずに白湯を飲んでおられたとか。
潘さんのこの答えは今回朗読される作品『謝秋娘よ、いつまでも』を書かれた潘さんらしい答えだなと思った。どんなところが潘さんらしいのか、それは作品を読んでみていただかないことには分かりにくいが、生活の中のスタイルや伝統といったものをとても愛されている潘さんならではの答えのように思えたのだ。


潘さんの読者が富裕者層の女性が多いと前に述べたが、富裕者層の広がる上海の現状とはあまり関係なく、増えも減りもしていないと実感されているようだ。
恋愛小説は上海でもとても人気があるようだが、潘さん自身は恋愛小説を書いていると思われることに抵抗を感じておられるようだった。
恋愛はあくまでも人間を描くための手段なのだと静かに語られた。


今、潘さんは女性作家を主人公にした小説を書きたいと思われているそうだ。一般的に世間の女性作家に対する視線には好奇なものが多く、女性作家に対して抱かれているイメージは間違っていると感じられているようで、自らのことを踏まえて、本当の女性作家の姿について書きたいのだそうだ。

高樹さんが上海で潘さんに会われる直前に、潘さんの『白水青菜』(邦題『青菜スープの味』)の魯迅文学賞受賞が決まった。
潘さんによると中国でも権威のある文学賞というのは、長編小説に贈られる茅盾
(ヤオドゥン)文学賞、中短編小説に贈られる魯迅文学賞があり、今回、潘さんの小説は、都会に住む人の感情表現が正確な描写で綴られ、世間に新鮮な印象を与えたことが受賞につながったという。
中国の文学賞では、受賞者のおよそ半数が女性で、特に魯迅文学賞は女性の割合が六割にもなるという。
「上海では女流作家でいることが得ですか?損ですか?」という高樹さんの質問に対して、潘さんは、そのことについて今まで考えたこともないと断った後で、人生は一度きりなので、もし生まれ変わっても作家でいたいと笑顔でおっしゃった。



●朗読『謝秋娘よ、いつまでも


潘向黎さんの『謝秋娘よ、いつまでも』の朗読に先立って、高樹さんは朗読が作品の一部分なので、テキストとして購入した『新潮』4月号に掲載された作品を、必ず読んでほしいとおっしゃった。
5回にわたって続いてきたSIAで必ず高樹さんがおっしゃることである。
それと同時に、これまでアジアの作家たちの作品を読んで感じられたことを述べられた。
日本で短編を書くときは、物語のなかの大きな円の中の一部を描いて、その一部分で全体を想像させるという手法をとることが一般的だが、アジアの文学では、短編といえども、長編で描くような大きな時間の流れがあることが多いとのことだった。

『謝秋娘よ、いつまでも』もそうした手法に基づいて描かれているとのことだった。
物語は、謝秋娘という聡明で美しく若々しいが、どこか酷薄なまでにクールな一人のヒロインの半生が描かれている。ところどころに潘さんの美意識やディテールへのこだわりなどが読み取れる。
今回SIADAY初参加のRKB毎日放送の安田瑞代アナウンサーが、よく通る瑞々しい声で朗々と読まれた。
時にセリフの部分で情感豊かに朗読されたが、全体的にニュースを読み上げるような冷静な朗読で、小説の主人公謝秋娘の美しさと冷徹さのイメージをうまく表現されていたように思う。
ただ、最初に高樹さんがおっしゃったように、朗読は物語は前半の部分だけで、物語の核心の部分になる前に中断されてしまう。確かにこれでは、作品の雰囲気は味わえても、肝心の部分は味わうことができず、テキストとして購入した『新潮』の全文を読まなければ意味をなさないだろう。



●潘向黎さんとの対談VTRA


この対談では、朗読された『謝秋娘よ、いつまでも』について語られた。
高樹さんは物語のヒロインの持つ冷徹な美しさを称えられたのに対し、潘さん自身も謝秋娘というヒロインを自身の物語の中でも最も好きな女性の一人だという。女性が一人で生きていくことの難しさ、また、苦境の中でもしたたかに生きていく女性をこの作品で描きたかったという。
高樹さんは、謝秋娘の言葉の中で、3つ印象に残るものがあるとあげられた。
「男の人なら頼れますか?」
「世の中に頼れるものなんか無い」
「こんなに簡単に粉々になるのね」という3つのセリフである。
謝秋娘の冷酷さを現わすと同時に、その美しさを際立たせる重要なセリフだが、潘さん自身はこのヒロインの冷酷さというのは、そうならざるを得なかった彼女の生い立ちによるものだと考えられていた。
「水は流動的なものですが、冷たいものに触れると凍って固まってしまいます」と例えられた潘さんの言葉が印象に残った。
謝秋娘の物語は、実際、潘さんの両親が経験された、文化大革命による苦難が無縁ではないことを認められた。
潘さんのご両親は、文革により
15年もの長い間、離れ離れに暮らさなければならなかったそうだ。
実際に文革の頃に、謝秋娘の両親のような悲劇というのはたくさんあったということだった。
高樹さんは『謝秋娘よ、いつまでも』を読み、中国の人々が味わった苦難により、人々の中にできてしまった氷の柱が、何年たっても溶けずに凍りついたまま残っているように感じられたという。

中国では「柔らかくてしなやかなものが、強くて堅いものを制する」という諺があるらしい。「柔らかくてしなやかなもの」は女性を、「強くて堅いもの」は男性を表わしているような気がすると潘さんはおっしゃった。
物語の中の男たちは政治的、経済的な繁栄を得てはいるが、そうして得た力というのは、短期的で長続きしないものとして描かれている。対して謝秋娘のように中国の悠久の文化に通じる普遍的な力を持っているといえるということだ。
高樹さんは、謝秋娘の女性像を現在の上海の女性と重ね合わせて、実際に今上海に住む女性の現状を尋ねられたが、潘さんによると、上海の女性は比較的その地位が高いと思うとのことだった。社会に出て活躍されている女性もたくさんいるし、仕事と家庭をうまく両立している女性も多くいるということだった。
高樹さんも潘さんも、女性にとっての幸せを考えたときに、社会が平和であることはもちろんだが、何よりも相手を信じて丸ごと自分を捧げてしまえること、傷ついても、それでもなお信じる心を失わずに人を愛することにあるのだと思うという共通の認識を持たれていた。
これは、男の僕には分かりにくいことなのだが、頭でとかく考えがちな男と違って、やはり女性の持つ母性という心に根差した本能的な感覚による認識なのだろうかと感じた。



●高樹さんによるレクチャー「女たちの強さと経済発展」A


一枚の高層ビルが立ち並ぶ写真がスクリーンに浮かび上がった。外灘(ワイタン)と呼ばれる上海の観光スポットの中でも最も有名な黄浦江沿い街の川を挟んだ向かい側のものだという。
写真だけでみると、背後に山など他に高いもののないビル群は、その建物と建物の隙間に空の青を移すせいか、積み木を重ねただけの塔の群れのような、いかにも頼りない佇まいに見える。地震の頻発する国に住む日本人ならではの不安感かもしれないが、上海ではほとんど地震がないというから、耐震などの構造にはそれほど強く注意を払っていないのかもしれない。
急激な経済発展をを遂げ、今もその真っ只中の上海において、女性は購買力、労働力の大きな担い手となっていて、潘さんのおっしゃっていた女性の社会的地位が高いというのは、疑う余地のないところだ。
若い上海の女性にとって、日本の女性のファッションなどは憧れのようで、街で何げなくとられた女の子たちの写真も、その化粧や服のスタイルも何ら日本の若い女性のものと変わることはない。
デパートの1階のフロアーも、日本のように女性の購買層をターゲットにした化粧品やファッションの店が入っているようだ。
高樹さんはそこで見つけた鉄仮面ののような美顔具を紹介されて、会場に笑いを誘われた。

市場経済を取り入れて、自由競争の激化する上海は、勝つ者と負ける者の格差が広がるような社会状況がある。
そんな中で、女性たちはどうやって幸せになっていくのか?
上海の若い女性たちは、男に頼って生きていくという従来の価値観を覆して、自分の力をつけて生き抜こうとする気概にあふれているという。
ならば、中高年の女性たちはどうなのか?
フォトデッセー「母と娘と卵ギョウザ」は、上海の経済発展の中で生き抜く、年老いた母娘のことを描いて、今の上海の女性の強さを垣間見せてくれる。



●フォトデッセー@ 「母と娘と卵ギョウザ」


高樹さんは上海の広い通りから少し入ったところにある家に住まわれる呉さん母娘を尋ねられた。
高層ビルの立ち並ぶ上海の経済発展から置き去りにされたかのような築100年は経つだろうと思われるイギリス風の2階建て建物に住まわれてる。この家に9世帯が住んでいるという。一世帯バスルームがついて2Kくらいの広さで、台所は共同のようだ。
マスコミなどで取り上げられる、上海での富裕層の華やかな生活などはなく、昔と変わらない上海での生活を営まれている。
高樹さんはここで、高樹さんが育った頃の日本感じられる。
寒いと言っては暖房を入れ、暑いと言っては冷房を入れる。今の日本の生活の中で、空調設備はあって当たり前の生活だが、高樹さんの子供のころは、もっと我慢できる温度の幅は広かったことなどを思い出されたのだった。
文革の頃、呉さんたちは国の政策により5年間離れ離れで暮らさなければならなかったらしい。
その頃の生活は苦しくて、月に8個の卵の配給が贅沢なものであったという。その配給の権利をためておいて、年の瀬に年に一度の卵ギョウザを作ったそうだ。餃子の具を薄く焼いた卵の皮で包んで、焼いたり、鍋に入れたりするシンプルな料理だった。
今は卵も自由に手に入れることができて、呉さん母娘はそのことをとても幸福なことのように話したそうだ。
高樹さんは、早速呉さんにその卵ギョウザをごちそうになるが、意外にもその卵の皮は、煮ても焼いても破れたりしなかった。
高樹さんは、上海に生きる女性の強さを卵ギョウザの皮に重ねて思われて、今の日本が失ってしまった、幸福について思いを馳せられた。