3回 SIA-DAY 台湾編 レポート

第1部 アジアを漂う島
 

◆イントロダクション

会場に入ると、最初に舞台中央に置かれた一本の流木に目が止まった。
深い緑の観葉植物の中、白い胡蝶蘭に囲まれながら、
長い間海を漂い,その表皮を海水と陽にさらしたことを思わせる、
巨大な動物の骨のようになった流木が横たわっていた。
死者の静けさ…そんな言葉を連想した舞台のディスプレイは、
第3回SIAの「循環する生命(いのち)」というテーマへと会場に足を踏み入れる者を導いているのかもしれない。

今回、高樹さんがSIAで選ばれた舞台は台湾。
台湾には台湾の先住民族(正式名称は「台湾原住民族」)として政府から認定されている13の民族がいるという。
そして高樹さんは、台東から南東の沖合いにある蘭嶼(ランユイ)島の少数民族タオ族の作家、
シャマン・ラポガンさんを取り上げられた。
『新潮』4月号の紹介によると、シャマン・ラポガンさんは、蘭嶼で生まれ育ったが、
高校進学のために島を離れ、卒業後は台湾で働きながら大学に進み、
その後も台北で暮らしていた。
しかし1980年代、原住民族の権利回復運動に参加し、
蘭嶼に核廃棄物貯蔵場が建設されると、その反対運動に立ち上がった。
この時、ルーツであるタオ族のことを良く知ってはいなかったという反省から、
1989年、家族と共に故郷蘭嶼島に帰った。
彼は、タオ族としての身内に流れる血に目覚め、
父の教えを受けながら「ほんとうのタオ族」となることを目指し苦闘しつつ、
タオ族の男としての日々を生きていく中、創作活動を始め、作品を発表し続けた。
主な作品に『冷海深情』や『黒色的翅膀』などがあり、「新潮」4月号に掲載され、
今回SIAで朗読されたのは、『天使の父親』という作品である。

◆高樹さんのレクチャー(台北・少数民族について)

会場はやがて一瞬の暗闇の後、
今回の旅の様子の映像がスクリーンに映し出され、
第3回目のSIA-DAYは始まった。
高樹さんは黒のシースルーの七部袖の上に、
春らしい柔らかい風合いの明るい色のカットソーを羽織られ、
軽快にジーンズ姿で舞台の左側のスポットライトの中に現れられた。
「木陰の呟き」の昨年12月の呟きの中で触れられていたことを思い出して、
その溌剌としたキュートな魅力に、何だか拍手したい気持ちになり、
思わず小さなため息をもらした。

高樹さんは今回SIAを始めるに当たって二つのことについてことわりを述べられた。
一つは、日本において「原住民」及び「原住民族」という言葉は差別用語として認識され、
「先住民」、「先住民族」という言葉が使われる。
しかし台湾において「先住民」、「先住民族」という言葉は、
かつては存在していたが今はその地に存在しないという意味合いを持って使われ、
むしろオリジナリティという意味での「原住民」、「原住民族」の方が使われているという事情から、
今回のSIAにおいても後者で統一するということ。
そしてもう一つは、シャマンさんという呼称についてのこと。
タオ族の伝統として、名前は生まれてきた子供の名前によって両親、祖父母の名前が決まる。
日本の慣習を常識に思っている私たちには、そういわれてもピンと来ないが、
例えば高樹さんが生まれた時、タオ族ではシ・ノブコと付けられ、
と同時に父となった者は、そのときを境にシャマン・ノブコとなり、母はシナン・ノブコと呼ばれるようになる。
シャマンとは本来「父」、シナンとは「母」という意味の言葉で、
従って「ノブコの父」、「ノブコの母」という名前になるのである。
祖父母は「シャプン」と呼ばれるようになる。
つまり、子供の誕生と共に、両親、祖父母の名前が変わってゆくのである。
高樹さんは、こうしたタオ族の伝統に、
生まれてくる者への民族の深い畏敬の念を見出されたようだった。
この話を聞いて、目から鱗が落ちるような気持ちになった。
僕たちはとかく先に生きている者が、
後から生まれてきた者よりも上である感覚を持っている。
それは、決して間違った物の捉え方だとは思わないものの、
そのことに慣れきって、とかく「最近の若い者は…」という言葉に見られるような、
ある種排他的な世代間の格差を自ら作っているような気がする。
生まれてきた新しい命への慈しみの気持ちがあれば、
自ずと先に生きる者への敬意も生まれるのではないだろうか。
SIAが始まってすぐに、僕の足元に光が点ったような、新しい感覚が芽生えた様な気がした。

こうしたことから、シャマンさんといえば、
島の父親の数だけ存在することになるわけだが、
島ではシャマンさんといえばシャマン・ラポガンさんを指すほど、
島の人々から敬意を持たれているようで、
SIAでもシャマン・ラポガンさんをシャマンさんと呼ぶことにするということだった。

高樹さんが台湾に着いて最初に連れて行かれたのは、
現在世界一の超高層ビル「台北(タイペイ)101」。
高さ508メートル地上101階のこのビルを、
最近フォトグラファーとしての才能に目覚めたと会場に笑いを提供された高樹さんの写真で紹介された。
高樹さんはこのビルで、台湾の出版関係の方たちと交流され、
台湾の出版事情などを尋ねられた。
現在台湾には100〜200社の出版社があり、
純文学を専門とする出版社はそのうちの10社ほどだという。
かつては新聞小説もあったそうだが、新聞小説を読む土壌が育たず、
現在はないということだ。新人の発掘のためいくつかの文学賞もあるようだが、
日本のようにたくさんあるわけではなく、編集者などが発掘してくることもあるようだとのことだった。
原住民族作家としては、7、8人がいるとのことだが、
その中の4名ほどが台湾の教科書にも載ったりしていて著名だという。
もちろんシャマンさんはその中の筆頭にあげられる。
台湾の中にはこうした原住民族の伝統や文化を残し、
大事にしようという考えが確かに存在しているものの、
台湾人の98%が漢民族で、残りの2%が少数民族という現実を考えると、
実際には微妙な問題もあるだろうと高樹さんは考えられているようだった。
高樹さんは、最後に出版関係の人々に、
同じ中国語で書かれた上海の作家たちについてどう思うかを尋ねられた。
次回SIAの舞台に選ばれたのが上海だからであるが、
台湾の出版関係の人たちの反応はネガティブなものだったという。
彼らによると、上海の作家たちは、1級、2級とランクがあり、
また書く前に当局に事前にどういったものを書くかを報告せねばならず、
自由な表現が出来ないというものだった。
高樹さんは次回上海でそのことをそのままの形で上海の作家にぶつけてみて、
その反応をまた次回のSIA-DAYで報告したいと、そのことを楽しみにされている様子で語られた。

高樹さんは「台湾原住民博物館」に足を運ばれた。
元来、言葉を持ってはいても、文字を持たずにいた台湾原住民族の文化の伝承は、
口承によるものであり、それ故に伝統文化を持ち続けていくことには困難なこともあるようだった。
お互い個別の言語を持っていた民族間に共通の言語としての交流の一役を担ったものは、
皮肉にも戦前の日本の統治による日本語教育によるものだったという。

次に高樹さんが訪れられたのは、蘭嶼島の南部にある核廃棄物貯蔵施設であった。
約10万缶のドラム缶に入った核廃棄物は、海に面した場所に貯蔵されている。
海風による腐食が全体の1/4ほど進行していて、
現在も廃棄物を新しいドラム缶に入れ替えたり、
ペンキを塗り重ねられたりしているという驚きの事実が紹介された。
この核廃棄貯蔵場に訪れる人に一枚のCDが配られるという。
日本の六ヶ所村の元村長が、この地に来て、
この核廃棄物貯蔵施設の安全を講演で述べられたものだという。
日本が最初に原子力発電所の技術を輸出したのが、
台湾にある第4原子力発電所という。そのことも踏まえて、
高樹さんは日本が台湾に及ぼす影響の大きさもさることながら、その責任の大きさも痛感されていた。
もちろん、この核廃棄物貯蔵施設がこの地に住むタオ族にも大きく影響してくる。
核に対する理解が行き渡っていないタオ族の現状もあり、
核廃棄物貯蔵施設への人々の考えも一枚岩ではないという。
この施設を作るに当たって、10年間でおよそ2億台湾ドルの保障が送られ、
このことがこれから先、少数民族であるタオ族に未来に、
どのような影響を与えるのかは容易に想像できない問題であると高樹さんは重い口調で語られた。

蘭嶼島には4つの小学校がある。
そこでは、タオ族本来のタオ語が教育されているというが、
文字を持たないタオ語の表記はアルファベットが使われているそうだが、
アルファベット自体が浸透していない現状においてはそれも困難な状況だという。
また、タオ族の中でも、タオ語を話す人が少なくなってきているという事実が、
その困難に拍車をかけているようだ。

スクリーンに映し出されたタロ芋の緑の畑の斜面に腰掛けるシャマンさんと老人。
ややうつむき加減の老人と、遠くを見やるシャマンさんがその場で歌ったというタオ族の労働歌が会場に流れた。
友人に語りかけるようにタロ芋に語りかける内容の歌だという。
高樹さんの言葉に従って、この歌が緑のタロ芋畑に響き渡るのを想像してみた。
単調であるが、どこか懐かしい響きのこの歌には、
古からのタオ族の自然への祈りとも畏敬とも言える深い感情に満ちているように思われた。

◆シャマン氏との対談 1 「タオの文明」

スクリーンには高樹さんとシャマンさんの対談が映し出され、
高樹さんはVTRの中で、シャマンさんに直接尋ねられた。
タオの文化や伝統を保存しようという動きは確かにあるが、
それでも、現代の文明が入り込んで来て、
そうした動きが先細りしていくのではないかと。
シャマンさんは、世界のグローバル化や現代化に影響を受けずにいられないこと、
そしてそのことに抵抗できないことを理解されていた。
実際、タオ族が1935年以来、中国の支配を受けるようになり、
これまでの60年間の変化は、それまでの600年間の変化よりはるかに大きいと感じられていた。
タオの文化を保存するということはこうした変化に抗いながら尚、
社会の複雑さや職業の多元化に挑戦しなければならないと述べられた。
それは、今尚、台湾に行って教育を受ける人のまだまだ少ないタオ族の現状にあって、
島にいて昔ながらのトビウオの漁などを体験していたとしても、
生活の哲学や民族の知識を保護するということは非常に難しいことだと語られた。
何故なら、タオ族が有している宇宙観や海洋観といったものは、
伝統文化の中の仕事や船に関係しているが、
本来タオ族にはなかった資本に対する考え方が入ってきたときに、
元来のタオの生活の知識といったものが失われていく危険を多分に秘めているからだという。
シャマンさんが島に帰って来て父と一緒に山に入りながら、
山の木にはレベル分けされた木や、雄の木とか雌の木といったものまであるとのこと、
いい木の見分け方など、この島の生活の上での知識を教えられた。
また、魚にも分類があって、女性には女性のための美味しい魚といったものまであるという。
シャマンさんは、これらが迷信ではなく、タオ族の魚や木々に対する生活の知恵なのだと強調された。
タオ族のこうした生活の基礎知識こそが、生命観、宇宙観、海洋観につながっているのだと。
タオ族は必要なものを必要な分だけ取るという。
経済利益だけを考えて、木を伐り出せば、いい木はすぐに無くなってしまう。
魚も獲れるだけ獲ってしまえば、すぐに魚の種類が減ってしまう。
魚の種類が減るということは、その分女性への尊重も難しくなることを意味しているとシャマン氏は語られた。
高樹さんは、シャマン氏の話を聞かれて、一見非科学的なタオ族の因習やしきたりといったものの中に、
現代社会の行き詰まりを解決するものが隠されているのではないかと感じられた。
その土地と労働とが密接に結びついて、
タオ族の伝統や文化を体験を通して実践することでタオ族としての美しさが生まれるとシャマン氏は言う。
土地と労働との関係が薄くなり、そうした民族の文化を体験することの出来ない現代に生まれた人間には、
そうした美しさをもつことが出来ないとも語られた。
そうして、映し出されたシャマン氏の山で木を伐る姿、海で魚を採る姿は、
確かに人がかつてはすべての人がそうであったろうと思わせる、
「生命」に満ち溢れる者のみが発する美しさを醸し出していた。

◆フォトデッセイ 「野銀村のサツマイモ」

舞台にRKB毎日放送の田畑竜介アナウンサーが登場すると、
今回最初のフォトデッセイ「野銀村のサツマイモ」が映像と共に始まった。
高樹さんは台東から小型飛行機で20分ほどの蘭嶼島の空港で、
原色の民族衣装を着たタオ族の女性に出会った。
写真を撮ろうとカメラを向けると、突然写真を撮るなと怒り出した。
そばにいた親族らしい男が出てきて、
写真を撮るのに法外な金額を要求され諦めざるを得なかったという。
高樹さんはこのとき少数民族の人々のプライドと、
文明社会から入ってくるものを受け入れざるを得ない現実との鬩ぎ合いを見て取られた。
それはそれからの数日間、高樹さんがタオ族の人々に接していて、誰もに少なからず「ザラリとした砂粒」のようなものを感じられることになる。
それは文明社会の人間を、決して心の底からは受け入れようとはしない、彼らのプライドともいえる砂粒…。
どこか頑なに他者が入り込んでこようとするのを拒む気配が、彼らの返す言葉や態度に現れて出る。
野銀村と呼ばれる村に、強風に耐えられるように半地下に作られたタオ族伝統の住居に住む老夫婦に会ったときも、それは一緒だった。
肝心なところで話をはぐらかし、突き放す。
家の中を見せて欲しいと頼まれた高樹さんを、ただ笑うだけで動こうとはしない老人。
フォトデッセイの中で、高樹さんは非常手段に出たと述べられた。
「家の中が見たいのです!」と、高樹さんは老人の手をがっちりと握っておっしゃったそうだ。
言葉だけでは動かなかった老人が、腰を上げて高樹さんを家の中に導かれた。
「SIA精神の勝利」だと高樹さんは喜ばれる。壁を作られていると感じるのは、
逆にこちらが壁を取り払おうとしないからかもしれない。
踏み込む一歩の勇気があれば、人はその壁を少し取り払うのかもしれない。
アジアにどっぷりと浸るために、高樹さんは何度、この一歩の勇気を奮い立たせねばならないのだろう。
高樹さんは、老人の家の中で炊飯器に入ったこの島と特有のサツマイモを食べさせてもらわれる。
それは日本のサツマイモのように立派ではなく木の根のように歪なサツマイモだったが、
瑞々しく甘く、昔懐かしい味がしたという。
高樹さんはサツマイモを口にしながら老人の心にほんの少し近づけた気がされて、
諦めずに家の中を見せてもらえてよかったとしみじみ思われるのだった。