会場に足を踏み入れて

会場となった「アクロス福岡」は、大規模な文化・商業施設複合ビル。地下鉄天神駅から地上に出ることなく徒歩数分のロケーションです。1階の大きな吹き抜けの明るいスペースの一角に、円形ホールのエントランスがありました。受付を済ませて、『新潮』四月号を購入。表紙に「受講証」として樹さんの署名・落款入りのステッカーが貼られているのがうれしい。ホールの入口脇には、テーブル上にバナナの葉や花、草で精緻な文様を編込んだ篭、文字らしきものが刻み付けられた竹筒などがディスプレイされています。その正体は、プログラムが進行する中で明かされました。

場内は少しずつ満席になっていきます。まさに老若男女。シルバーグレイの輝くような髪の女性や、個性的なスーツを着こなした男性。ロングヘアを涼しげになびかせ背をそびやかした姿の素敵な女性、後に九州大学の学生さんと判明する若い男性などなど。樹さんのファンの幅広さを感じました。



『アンドロメダ星座まで』をめぐって

 照明を落とした会場の中心に進み出てきた樹さんから、開会のごあいさつがありました。アジアを「五感で感じる」、浸りきる、そして各国の作家たちと感性のキャッチボールを試みる…。そのプロセスがSIAなのだと、樹さんは一語一語を探しあぐねるかのように語り掛けられました。途中、樹さんのパンツの裾が細かく揺れているのに気づきました。高揚と緊張が綯い交ぜになったかのような、そして切々と言葉を紡ぐ姿に襟を正す思いでした。

 『アンドロメダ星座まで』、原題“The Distance to the Andromeda”の朗読に続いて、作者ブリヤンテス氏と樹さんの対話を録画したビデオ上映から、SIA-DAYはスタートしました。朗読中、しきりと耳をついたのは、すべて現在形で語られる文体です。訳文のこと、原文のニュアンスまでは計り知れないのですが、複文中の従文以外はすべて現在形。確かに翻訳文では、特に正確さを期したときにはよく現れるのですが、何かしらのメッセージを与えているような気がしてなりません。

 ブリヤンテス氏の故郷であり、『アンドロメダ星座まで』の舞台であるカミリンの街を、樹さんは氏とともに訪ね歩きます。そのようすは、スライドを樹さんが解説する形で紹介されました。作品世界を映像で再現する。現地の風物を知らない者にとって、興味深い試みです。

 続く樹さんとブリヤンテス氏の対話は、”distance”がテーマでした。氏は、愛や信条、情熱や知識などが、人と人、人と神などの距離の架け橋となる…と。ビデオ上映後のレクチャーで、樹さんは九大の同僚教授との間で交わした議論について触れました。フィリピンを歴史的・社会学的に考察する学者と、素のままで飛び込み溶け込んでいこうとする、そして五感で感じた何ものかを作品に昇華するプロセスまで開示しようとする勇気ある文学者とのスタンスの差異を見せ付ける、一種緊迫した議論です。SIAとは、こうした格闘の過程そのものにほかならないのではないか。そんなことを考えさせられました。



フィリピンの社会と文学

 photo(写真)、essay(随筆)、odyssey(長途の航海)から「フォトデッセイ」と樹さんが造語されたスライド上映とエッセイ朗読のコラボレーションによって、フィリピン社会の現状がレポートされました。街頭テレビで観戦したボクシングの世界チャンピオン戦。国鉄線路端に不法占拠した小屋掛けの住まいが集まった街(?)の子どもたちと葬儀のようす。さらに、フィリピンの文学者の過去と現在が、樹さんの視点から語られていきます。どれも日本からの旅人にとっては、衝撃を覚えずには見られない光景。それを、樹さんは衒いなく映像、音楽、言葉を駆使して多元的に伝えてくれます。

 さらに、樹さんはお土産を用意していました。占いに使うらしい香石、というのでしょうか。お湯に溶くと芳しく、なにやら霊験あらたかなのだそうですが。十個近くの青や白、黒の石を深皿からひとつずつ取り出しながら、「どんなことが起きるかわかりませんよ」とちゃんと言い訳しながら希望者に手渡している樹さんの姿は、どこか可憐でした。

 さらに、文学と言語の関係について。タガログ語をはじめとする現地語。習得が義務付けられているもののいわば上流階級の言葉と位置づけられる英語。そして、スペイン統治からの回復をリードしたスペイン語による文学。多くの言語で文学が編まれるフィリピンでは、言語の差異による文学者間の対立も否めない。そんなむずかしい現状も、平易なことばで解説されていきます。

 そして、樹さんが出会ったのが、細やかな情感を豊かな語彙と比喩で綴るマンヤン語。ルソン島から離れた小島・ミンドロ島に住む原住民が竹筒に刻んだあの言葉は、恋を語る詩だったのでした。遠く古代、万葉人の伸びやかな感情表現にも似た、自然と人を一体化するような表現。そこに、南海の島々をたどって日本列島に流れ着いた私たちの祖先を見る思いだと。アジアと日本のルーツにも触れるひとコマでした。




メリエンダ

 休憩時間には、ホール外のスペースで、これまた樹さんが現地で求めてきたというドライフルーツなどのお菓子がトロピカルフルーツのジュースとともに供されました。フィリピン流おやつ=メリエンダの時間です。このとき、午前から席を隣り合わせた女性と話しました。「意外に時間が速く過ぎていきますね」「11時から4時までとは長いなと思っていたのですが、まったくそうは感じませんよね」



思いは天空を超えて

 樹さんがブリヤンテス氏と共有したかったこと。それは、星を見るひとときでした。湿気の多い、天候の安定しない熱帯の夜。星を一緒に見たいという思いの発露とその顛末がフォトデッセイに綴られます。重要なのは、たとえばこの時にアンドロメダを見つける、といったことではないのです。「あなたが見ているものを、私も見ている」。時を共有すること、共感することの大切さを、樹さんは伝えたかったのでしょうか。星を見ることにそれほど興趣を覚えないブリヤンテス氏と、必死なほどのこだわりを見せる樹さん。その対比が、二人の間の距離を物語ります。でも、ほんのひとときだけ、その距離はグンと縮まったようです。ひとときだけ…。

 フィリピン編の成果のひとつとして、書き下ろし短編『天の穴』の一部が朗読されました。「目を閉じて、五感を開いてお聞きください」という樹さんの声に会場全体がうたれたような雰囲気の中で、台風をめぐる不思議な物語が繰り広げられました。声が止むと、ため息ともつかない息遣いが会場のあちこちから漏れ出てきたのでした。

 そして、ジョン・レノンの『イマジン』が流れる中で迎えた終演。時間不足、準備不足を樹さんは謝していらっしゃいましたが、そんなことは微塵も感じません。もっとこの空間にいたい、ホールを出たくないという思いが、充実した時間の代償のようです。



帰路

 日が暮れてから空港にたどり着き、機内で『新潮』を開きました。『天の穴』は、全編を通して読むと、朗読されたストーリーとはまったく異なる相貌。そのことに驚きながら降機し、駐車場に停めたクルマに移りました。星ならぬ人工の灯が降る高速道路を走りながら、取り留めのない思いが次々と浮かんでいきます。

次回930日には、ベトナム編が展開されます。近くて遠いアジアの国々。たとえば、フィリピンは日本国内にもずっしりと根を下ろしています。どんな地方都市にも1軒は見つけることができるフィリピンパブとか。そういえば、ミャンマーやスリランカ、バングラデシュなどからの出稼ぎの人も多い。新大久保にはコリアタウンがあるし、それよりもっと以前から横浜や神戸には中華街があります。日本の内なるアジア。

モンゴルや韓国の言葉は、日本語と語順が同じ。韓国語にいたっては、漢字熟語の読みも似ていて、言語としてはイトコくらいの違いしかありません。そして表意文字を共有する中国と日本。

開発援助を要する国、拒絶する国、受けられない国、不要の国。仏教、イスラム教、カトリック、ヒンズー教、その他土着の宗教の違い。

そんな多面的なアジアに浸って、何ものかを生み出そうとする樹さんの試みは始まったばかりです。今後半年に1国、5年にわたって続くSIAは、混沌のアジアを豊潤な耕地に変えていくのでしょうか。

 港にかかる巨大なつり橋を渡っていると、前方に福岡でも見上げた月が沈もうとしていました。円形ホールという小宇宙から現実世界への帰還です。少なくともあと9回、異次元への旅行が繰り返されるはず。それを願って、洋上から灯火のきらめく街へと続くスロープへクルマを進めました。