愛知博は千里万博の焼き直し?


万博といえば1970年の大阪万博を思い出す。子供心に人類の進歩と調和を夢見た。愛知博は愛・地球博との愛称を名乗る博覧会。テーマは人類の叡智。サブテーマは、宇宙、生命と情報。人類のわざと智恵。循環型社会。

どんなエクスキューズをしていようと、森林を切り開いて会場設営を行ない、巨大なエネルギーを消費しながら運営されているのには変わりない。それはサブテーマとして掲げている循環型社会の理念からはかけ離れたやり方ではないか。いまさらあんな山奥に巨大開発をおこなうメリットがあるというのだろうか?

千里ニュータウン開発の原動力としての大阪万博のときとは時代がちがう。しかし内容的に何が変わったというのだろう。変わったのはむしろ日本が豊かになって博覧会を催さなくても世界各地の情報が巷に溢れているということではないだろうか。1970年当時と異なり、今や多くの国民が海外旅行を経験し、国内はたくさんの異文化があふれている。テレビ番組でも数々の海外文化紹介があり、たいていの国の概要は多くの国民が知っている。このような状況で万博をする意義はなんだったのだろう。

人類の叡智といえば聞こえがいいが、結局のところ先進国の先端技術の誇示でしかないのではないか。3D映像や360度映像など、特殊な再生装置がないと体験できない映像作品の数々。たしかに1970年当時では実現し得ない構築物や映像作品がある。そして、それを観るためにわざわざ脚を運びたくなるのだが、そこに込められたメッセージは必ずしもテーマに沿ったものばかりではないように思える。

小国の展示を観て驚いたのは、館内丸ごとバザール会場だったり、パイプイスを並べた会場でプロジェクタ投影によるごく普通のビデオ上映を行っている意外は単なる休憩場だったり、1時間おきに10分程度の舞踏ステージを上演する意外は飲食店にすぎなかったり、なんだか高校や大学の文化祭的雰囲気。しかしそれが本当に休憩場所となっていたり、ほかのお土産屋さんより繁盛してたりすると、それなりの意義はある。

産油国の映像では石油が富をもたらし国土が大いに発展したことを紹介していたが、その石油が世界中に公害をもたらし、環境破壊を加速させたということには目をつぶっている。

それでもいろいろ勉強になったのは、音楽と映像は万国共通の情報伝達手段であるということだろう。

今回入館した中でもっとも感心したのはカナダ館。長蛇の列も10分おきに200人ずつ入館するので結構待ち時間が短い。次の200人が待っている間に、事前学習として館内の展示内容をアテンダントが説明してくれる。ある程度の予備知識をもって入館すると、そこは巨大な紗幕映像のなかでに3種類ほどの映像が20個くらいの家庭用サイズのテレビ映像として上映される。ナレーションや会話はなく、音楽と効果音だけ。それが事前にどういう映像であるかという予備知識があるので、映像だけで何を訴えたいのか理解できる。カナダが自然環境との共存に真摯に取り組んでいる姿を、6人の一般人の生活を通じて描き込んでいるのだ。それを2回にわけて観るのだが、2回目の会場は、1回目の会場を紗幕を通して見通せるところ。先ほどみた映像をぼんやりと感じつつ新しい映像を重ね合わせてみる。淡々とした映像だったが、2回続けてみせられると嫌でも記憶に残る。映像作品が終わって会場を出ると、3DCGシミュレーションによるカナダ疑似体験旅行プログラムがセットされたコンピュータが十数台用意してあり、それで遊ぶ設定になっていたが、これは蛇足。

カナダは森林というイメージがあり、それにかかわる展示を期待して入ったので、おおいに期待を裏切られた感じだったが、あとからじわじわと感動がわきおこってきた。

展示内容の充実度でいうと、ギリシャ館はなかなか良かった。しかしアテネオリンピックの式典の再現に近い内容。なんか既に観たぞと思ったのはそのせいだろう。でも充実していたことは確かだ。

フランス館は映像作品までの展示に凝っていたが、はっきり言って何を展示してたのかわからない。でも、映像作品は四角い部屋の四方の壁と天井をすべてスクリーンにしていて迫力満点。ほとんどの人が床に座り込んで斜め上を見上げながら鑑賞していた。壁4面のうち角を挟んだ2面が1セットなので、どちらかの壁2面を観ていればいい。その一部しか観ることができない360度映像より効果的演出だ。


水 - 8 月 17, 2005   06:27 午後