社会的弱者を救済したかった


研究職になった理由を聞かれて、そう答えてしまった。たしかにそうかもしれない。しかし、それを目標にして、研究職に就いたわけではなかった。むしろまちづくりコンサルタント続けていたほうが、矛盾を感じつつも、より現実的対応ができていたはずだ。

研究職になった本当の理由は、そのころ、コンピュータのプログラミングとシステム設計という世界に嫌気がさしたからだろう。生身の人間を相手にした仕事がしたかった。でも前の会社には戻れない。しかたなく、この会社で立身出世するかと決意しかけたところに、たまたま研究職の求人があった。

しかし最近、社会的弱者の救済とは、必ずしも裕福な生活を確保するのではなく、それぞれの生活の質への満足度を高めることだと気づいた。

絶対的な貧困に対する救済は、社会的制度として必要である。居住環境整備の立場からその制度の不備を検証し整備の必要性を訴えていくことができると思った。そのためには社会資本としての、より良い居住環境を整備しつつ、それを目標に劣悪な環境を改善していくことだと思っていた。

ところが、決して物的な居住環境整備だけで生活の満足感が得られるものではない。つまり居住環境整備では貧困を救えない。かといって貧困がすべての社会悪の原因ではない。

公衆衛生的に貧困な状態は別として、貧困が諸悪の根源ではない。むしろ高度経済成長期の大量生産大量消費を前提とした中途半端な裕福さに慣れきった生活スタイルこそが、精神的な貧困を生み出しているように思う。

今思えば、幼い頃、自分自身が貧乏な暮らしをしてながら、それほど貧乏を憎まなかったは、それなりの生活をして満足していたからだろう。だから貧困ではなかった。成長して、他に裕福な生活をしている人がいるということがだんだん分かってくるに連れて、裕福になりたいとはおもった。

しかし、今、単に裕福であるよりも、貧乏な暮らしのなかでも、人間らしい生活ができることをのぞむ。

貧乏神という神がいる。一般には嫌われる神様だが、貧乏だからこそ見えてくる世界があり、貧乏だからこそ人として感謝する気持ちを抱くことができるという解釈がある。しかし、貧困な精神には神は宿らないだろう。

社会的弱者の救済とは、単に物理的な貧困からの救済だけでなく、精神的な貧困からの救済であるべきだ。

研究職になりたかった理由として、口からでまかせのように出た言葉だが、実はいま、一番そう思っていることなのかもしれない。


土 - 11 月 17, 2007   09:46 午後