神との出会いはいつ訪れるのか


ダヴィンチコードを読んだときの感動は何だったのか考えてみた。おそらく、キリストの末裔が現代にも存在するという仮説のもとに、原始キリスト教の教義を説いたところだったのかもしれない。

キリストの復活は、もうこの現代に起こりえないが、末裔がいるということを信じることでキリストを信じることができるのではないか。キリスト教の教義に触れながら、どうしてもキリスト教会のなかに踏み込むことができないのは、キリストの教えとローマカトリック教会の犯してきた独善的な教義とにギャップを感じていたからだ。

しかし、原始キリスト教は? 東方キリスト教とは?
知識として、それを知りたくなった。それがダヴィンチ・コードが面白いと思った理由だったかもしれない。

『カラマーゾフの兄弟』の冒頭で、肢体不自由児(リーズ)を連れた母親(ホフラコーフ夫人)が実践的な愛に対する報酬を求めていることを告白したとき、ロシア正教会の修道院のゾシマ長老は言った。

「あなたがそれを嘆いているだけで十分です。できることをなさればよいのです。そうすえれば、それだけの報いはあるのです。あなたはもうたくさんのことをなさっている。なにしろ、それぐらい深く真剣に自分をしることができたのですからね! あなたがさっき、あれほど心をこめてわたしに話したことが、もしも自分の誠実さをわたしに褒めてもらうためだけのものだとしたら、実践的な愛の行いという点で、むろん何も達成できないでしょう。」

チャプレンによると、東方キリスト教では、善悪を明確に限定しないところがあるそうだ。ゾシマ長老の言葉は、カトリック教会では聞けない言葉なのだろうか?

チャプレンに工藤信夫先生の本『心の目で見る世界』を薦められた。さっそく読み始めた。いまここで引用した『カラマーゾフの兄弟』の部分に対応する箇所があった。聖書のなかにあるパリサイ人と取税人の話だ。自分がどんなことをしているかを神に伝えるパリサイ人と、自分がありのままにどんな人を神に伝える取税人。自分がしていることを自慢しても神は救ってくれない。神は自分を低くするものを高める。

実践的な愛に報酬をもとめるのは、自分がどんなにいいことをしているかということを誇らしくおもっているからにすぎない。そう思わずに、ひたすら実践的な愛を行いえば、感謝の言葉をもらわなくても、いいと思えるようになるということか?

でも工藤先生の本には、ありがとうと素直に言うことが大切だとも書いてある。人に向っては、ありがとう、と素直に応じ、人からはありがとうを期待しない。そんなこと、聖人でなければ無理のような気もする。

相手からの感謝の言葉がもらえないので、感謝の気持ちを感じないと思うということは、相手を信頼していないということなのかもしれない。
信頼は担保無しで、無条件に相手を信じること。私は、ほんとうに相手を信頼していないということなのか?

相手を信頼しないで、相手から感謝の言葉をもらいたいと思い続けている自分が情けない。

工藤先生は、神に祈ったときに信仰と出会ったといわれる。コーランを唱えることでイスラム教の世界に入り込む、お経を唱えて仏教を知るのと似ている気がした。神に祈りたいという気持ちが信仰を呼び込むということだ。

現実主義者が信仰にみちびかれるのは奇跡によってではない。(『カラマーゾフの兄弟』)

奇跡は起らない。キリストはもう復活しない。トマスのように確かめようもない。パウロのように声を聞くこともない。


日 - 10 月 7, 2007   02:34 午前