「 ぶら〜り ひと〜り まちあるき 」 < その3 >

木曽路の宿場町

木曽路11宿と呼ばれた旧宿場町のうち、
奈良井、薮原、宮ノ越、木曽福島、上松の5つの町を、
炎天下の中、ぶら〜り、ひと〜り、汗だくになって歩いてきました。

 

奈良井宿  奈良井千軒といわれた木曽路最大の宿場町. 
薮原宿   難所鳥居峠をひかえた木曽川の源流の里...  
宮ノ越宿  木曽義仲が平家追討の旗挙げをした歴史の町
木曽福島宿 関所と代官所のおかれた木曽路の中心地..  
上松宿   木曽の木材集積地で周辺には奇観の名所...  

 

木曽路とは

 木曽とは、長野県の南西部にある一地域のことで、現在では木曽郡という名で括られる木曽福島町を中心とした3町8村からなっています。
 東に駒ケ岳を主峰とする中央アルプス、西に御嶽山を主峰とする北アルプスがあり、その谷間を木曽谷といいます。木曽谷に沿って険しい峠を越え深い谷を抜け、崖を渡り、谷間を縫うように伸びているのが「木曽路」です。この道を、かつては善光寺参りの旅人が行き交い、皇女和宮の行列や多くの大名行列が通り、俳人芭蕉などが通過していきました。

 木曽路が文献に現れるのは、大宝期(西暦700年頃)の昔のことです。古くは東山道とよばれ、東側の天竜川沿いの伊那路を通っていましたが、木曽川沿いに移ったことが記されているそうです。
 この東山道というのは、もともとは近江・美濃・飛騨・信濃・下野・上野・陸奥・出羽の8国を指した行政上の区分でした。今で言う「近畿」「東海」のようなものです。
 このように古くは国々を集めての総称だったのだが、その東山道が道の名としても用いられるようになり、時をへてその一部の木曽川沿いの街道が「木曽路」を呼ばれようになったようです。

 江戸時代に入って江戸〜京都間を結ぶ幹線として、木曽路は中山道に組み込まれ、11の宿場が整備されました。
 こうして木曽路を含む中山道は、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として発展してきました。 幕府の旗本などで大阪勤番の者は、往路は東海道、帰路は中山道を利用する例が多く、また東海道のように河留めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど、水による困難がほとんどないため、女性の道中に好まれることも多く、幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用したのはその良い例といえます。

 今回は、木曽11宿のうち、奈良井宿から上松宿までの5宿の宿場町について、その成り立ち、現在の町の様子、そして歴史上のエピソードをまとめてみました。
 宿場町間の旧街道も歩いたのですが(といっても、半分程度が国道の歩道になります。)、その道中記や町の観光案内は省いています。


木曽路11宿と今回歩いた5宿の位置