「 ぶら〜り ひと〜り まちあるき 」 < 番外編1 >
近江国 賎ヶ岳
豊能町主催の歴史探訪ツアー参加し、
賎ヶ岳の戦いは、秀吉がライバル柴田勝家を破り、天下人への階段を駆け上がる出発点となった戦いですが、豊能町高山出身の高山右近は、秀吉側の武将としてこの戦の最前線で活躍しました。
天正10年10月、羽柴秀吉は、信長の四男で秀吉の養子である秀勝を喪主にして、信長の葬儀を独断で強行します。これが秀吉と勝家の対立を決定的なものにしたといわれます。 同年冬、北陸を本拠とする柴田勝家が雪のために動けない間に、秀吉は伊勢の滝川、美濃の信孝を攻め、柴田を孤立する作戦に出ますが、両者とも落ちないまま春が近づきます。雪解けを待たずに柴田軍が北国街道を南下してくると、秀吉は伊勢の滝川攻めから急ぎ帰り、近江平野で合戦を挑むべく長浜に本陣をおきます。このとき秀吉軍4万、柴田軍2万といわれています。 ところが、柴田軍は近江平野へは出てこず、その手前で強固な陣を築き居座ってしまいます。兵力的に優位な秀吉軍とは平野部で戦わず、山間部に陣を敷くことで秀吉本隊を釘付けにして、滝川、信孝らと挟み撃ちにする作戦でした。 一方の秀吉軍も、柴田軍が平野部に出てこれないように、余呉湖東岸に防御ラインを敷いた上で、弟の秀長に軍を預け、自らは本隊を引き連れ、挟み撃ちの先手を打って滝川、信孝を討ちに転戦していきます。
今日のルートとしては、まずリフトにのり、賎ヶ岳山頂(421m)に向かいました。山頂からは、北は余呉湖を挟んで秀吉の敷いた防衛ラインや柴田軍が陣を敷いた尾根、そして北国街道が一望に見渡せます(上写真)。また、南は北国街道の先に長浜の町がみえ、天気さえよければ近江平野が一望できたと思います。 ここは桑山重晴が砦を築いた場所で、戦の後半では、秀吉が自ら陣取り、戦いの行く末を見守ったといいます。現在は展望広場が整備され、当時城郭があったことはほとんど窺い知ることができません。
賎ヶ岳山頂から、この戦いで全滅した中川清秀の陣跡(立派な墓がある)と高山右近の陣跡を通り、余呉駅付近までの約5kmほどの行程でした。
ところで、賎ヶ岳の戦いですが、秀吉軍は味方の裏切りにより、本隊の不在と軍の陣立てが柴田軍にばれていしまいます。そこで、柴田軍の猛将佐久間盛政が、余呉湖西岸を夜陰に紛れ進軍し、賎ヶ岳東方の大岩山に布陣する中川清秀と、その先の岩崎山に布陣する高山右近の砦に襲いかかります。中川清秀軍は壊滅し清秀自身も闘死します。また高山右近も窮地に陥りますが、このとき、後方に控えていた羽柴秀長は再三の援軍要請にもかかわらず、一兵たりとも援軍を差し向けることはしませんでした。
この戦いにおいて、中川清秀や高山右近からの再三の援軍要請にも、藤堂高虎などの家臣たちの出陣願いにも、一切耳を貸さなかった秀長の行動は、後年の歴史研究者達の様々な憶測を呼ぶこととなります。 賎ヶ岳山頂は、余呉湖側、近江平野側、琵琶湖側とそれぞれ違う3方向の景色を楽しめる、「パノラマ展望台」のような場所です。今日は小雨ぱらつく曇り空でしたが、天気のいい日にもう一度登りたくなる「お薦めの絶景スポット」でした。
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