「 ぶら〜り ひと〜り まちあるき 」 < その2 >

長州 萩  

〜"時代"を動かした志士たちの故郷は、今もその"時代"の中にある〜

 

「おもしろき こともなき世を おもしろく」
こんな辞世の句を残した幕末期の長州藩士 高杉晋作
彼は「この世」を十分に「おもしろく」して29歳の若さでこの世を去りました
晋作を始め明治維新の人材を数多く生み出した萩の町は
城下町としての"骨格"を今もしっかりと残しています

だからこそ、町中に残る土塀、石垣、運河や武家屋敷、長屋も
現代都市の名所旧跡として細々と生き長らえるのではなく
今も生き生きと当時の息遣いを伝えてくれるのです

萩は、今でも江戸時代の古地図をたよりに歩くことができる町です

 

 関が原の合戦において西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元(元就の孫)は、敗戦後、徳川家康によって、西国8ヶ国120万石から防府、長州の2ヶ国36万石に所領を削られ、その藩都を交通の不便な山陰の萩に移すことを命じれられます。
 文久3年(1863)には、藩庁は山陽道沿いの山口(現在の山口市)に移ることになりますが、その後、萩の町は、戦乱や大災害に遭うこともなく、急激な時代の流れに歩調を合わせることもなく、今も建設当時の姿をよく残しています。

 萩の町は、阿武川が松本川と橋本川に分かれ、日本海に注ぐ三角州に建設されました。
 町の一番奥、日本海に突き出た指月山の南麓に萩城がありました。標高143mの山頂に詰め丸を置き、本丸、二の丸、三の丸、その外側(東、南側)に城下町が広がる構成になっていました。
 今日、堀内と呼ばれ、家老の周布(すふ)家、益田家をはじめ、上級武士の屋敷が残っていいるところは昔の三の丸跡で、当時の武家屋敷や土塀がいくつか残っています。
 堀内のすぐ外側には、高杉晋作や木戸孝允ら中流武士の家屋があり、城から外に向かうにつれ、順に下級武士の住まいとなっていたことが知られています。

 町の"骨格"が当時とほとんど変わっていないことは、江戸時代の古地図と現在のものとを比べてみるとよくわかります。
 現在国道262号線が通る道は、建設当時からの町のメイン道路であり、当時は、この道から南下する山口街道が、山口そして山陽道を通り日本各地に通じる主要街道になっていました。


現在の萩市街地図と旧跡


慶応元年(1865)作成の絵図

 山陽道からは大きく外れ、天然の良港を持つわけでもない、"陸の孤島"ともいえる地理的特性が、この町を当時のまま"保存"する大きな要因になったと思います。
 また、城下町の中心部(つまり本丸)が、現在の萩にとっては"町はずれ"に位置することが、城跡から堀の内付近の昔の雰囲気を残すことにつながっているのでしょう。城跡付近が、綺麗に公園化されることもなく、かといって廃墟となることもなく、ついさっきまで城があったような雰囲気をもっているのは、こんなところに起因していると思います。
 また、山陰本線は中心部を大きく迂回していますが、このメイン道路との交点に萩駅を配置し、街中を通さなかったことは、とてもいい選択だったと思います。


萩城天守閣跡  つい最近まで天守閣があったような雰囲気があります。

 この城下町萩から、維新史の人材を数多く輩出した秘密については、多くの書物の中で書かれています。村田清風の藩改革による財政再建の成功、明倫館建設に見られる教育制度の充実、「航海遠略策」を著した長井雅楽などの思想家たち、そしてなによりも、数多の維新の志士たちを育てた吉田松陰の存在がありました。
 松蔭は、その言動のすべてが強烈な影響を周囲に与えていくタイプの人物であり、彼が人と接することそれ自体が革命的行動につながっていると言われます。

 これらの"秘密"以外にも、歴史的背景や地理的要因もあったものと思われます。

 関が原において毛利勢は徳川方と一戦も交えず兵を引きましたが、戦後の毛利家に対する処分は極めて厳しかったようです。和睦の際の120万石安堵の約束を反故にされたばかりか、藩都を三角州の湿地帯に移さざるを得なかったのです。
 石高の大幅減にあわせて家臣団の多くを削り、交通要所で広大な平野をもつ広島から本拠を移し、一から藩都を建設しなければならなかった毛利家にとって、「関が原の恨みを忘れるな」が藩の合言葉でした。この思いを幕末まで200年以上も保ちつづけられたのは、"陸の孤島"の萩の地だからこそできたともいえます。


 

お勧めの名所と迷所

涙 松 (下左写真)
 萩から山口に通じる旧山口街道は当時の主要交通路でした。涙松があった地は、この街道を下る旅人にとって、最後に萩市街が見られる場所であり、ここで見送りの人や萩の町に最後の別れする場所だったそうです。安政の大獄により、吉田松陰が江戸伝馬町の獄に送られるとき、高杉晋作や久坂玄瑞などの弟子を前に、
 「かえらじと 思いさだめし 旅なれば 一入(ひとしお)ぬるる 涙松かな」
と呼んで一躍有名になりました。

公衆電話ボックス (右下写真)
 こんなものもありました。

萩史料館
 二の丸跡にあり、江戸期の萩市街地図や写真などの面白い資料が展示してあります。
 ・左下写真  高杉晋作(中)と伊藤博文(右)
 ・右下写真  一時期、指名手配された晋作や西郷隆盛の人相書きなるもの

 

萩には、15年程前に夫婦で一度、2年前に単身で一度、訪れています。
15年前は「常茂恵」(ともえ)という高級旅館に宿泊しました。
それはそれはリッチな旅でした。 (^。^)
それに比べ、2年前の訪問は日帰りで、レンタサイクルでの町巡りでした。
萩の町は変わっていませんでしたが、私の懐具合は大きく変わっていました・・・ (ToT)/~~~