仏塔のお話-4

室生寺五重塔

     

              五 重 塔(室生寺)   

 「室生寺」は奈良県宇陀郡室生村という村に存在するだけに、喧騒の都会とは違い秘
境の世界です。ただし、春の石楠花(しゃくなげ)、秋の紅葉、雪景色のシーズンなど
は一変して人々で大変な賑わいとなります。私は石楠花、紅葉の僅かな時期だけは避
けることをお勧めいたします。
 「五重塔」は室生寺では最古の建造物と言われておりますがどうして本尊を祀るお堂
より先に建立されたのでしょうか。
 高さは16.2メートル、屋外の五重塔では我が国最小の塔で、弘法大師の一夜造りと
の伝えがあります。塔高は通例の五重塔の高さの三分の一で設計されております。 

 
    相輪(室生寺)  

  女人高野ゆえ女性の拝観者が圧倒的に多いようです。鮮
やかな自然と渾然一体となった堂塔が自然の一風景となっ
ており、この室生寺の象徴的な景観が女性にとってたまら
ない魅力となっているのも要因の一つでしょう。
 真言密教では「多宝塔」ですが、女人高野では五重塔が似
合っております。
 石段が仏像の裳懸座のように見えます。石段を上がりな
がら眺める塔は最高に美しいです。
 裳階がないので女人高野らしい優しさがあります。   
 水煙の代わりに「受花付き宝瓶(赤矢印」)で、その上にあ
るのは「八角形の傘蓋(さんがい)(緑矢印)」と珍しい形式の
ものです。インドの傘蓋が我が国では輪と変わりましたが
インドの傘蓋の面影を残したのがこの八角形の傘蓋と言え
るでしょう。 

 

興福寺五重塔 三重塔


    五 重 塔(興福寺)

 「興福寺」は藤原氏の氏寺として威容を誇った広
大な境内地が、今はこじんまりとなって奈良公園
の一角にあるように見えますが、そうではなく奈
良公園が興福寺の境内だったのです。廃仏毀釈は
興福寺にとっては大変な災難でしたが世界に誇れ
る庶民の憩いの場「奈良公園」が誕生したのであり
ます。
 鎌倉時代に制作された国宝彫刻24件のうち11件
が興福寺にあり「慶派の博物館」の様相を呈してお
ります。こんなことを書けばお寺から敬虔な寺院
であって博物館ではないと怒られることでしょう。
しかし何といっても、運慶、快慶などの慶派とい
えば興福寺です。
 「五重塔」は焼失と再建が繰り返されて室町時代
の復古建築です。塔高50.1mは五重塔としては
「東寺五重塔」に続いて我が国二番目の高さを誇っ
ております。
 「仏塔」は天平時代には伽藍内から外に出る新形
式の伽藍配置となった最初の塔で、これ以降は

この形式で寺院が建立されるようになります。しかしまだ塔(釈迦)崇拝が残っていた
のか伽藍の東側に回廊で東金堂と五重塔を囲む塔院という区域を設けておりました。
塔は時代とともに色んな場所に建立されるようになり、ますます装飾的な建築となっ
ていきました。
 西塔は建てられずじまいでしたが東が上位ですので最初に東塔が建立されたのでし
ょう。
 建築と言えばその時代の趣向、技法が採用され「南都焼討ち」後の復興が、東大寺で
は大仏様の技法が用いられましたが、興福寺は平安時代の約300年が藤原時代と言わ
れたことを重要視してか何時の場合も和様建築で再建されました。塔の形態は時代が
下ると寸胴に近い形になり重々しくなりますが、当塔は創建時のスマートな古代の姿
を踏襲して見栄えの良い塔となっております。
 奈良公園のシンボルである五重塔も廃仏毀釈時代には売りに出され、「相輪」をスク
ラップにした程度の金額で売買が成立しました。というのも購入者はただ相輪の金物
だけを欲したからです。そこで、五重塔に火を付けて相輪の金物だけを回収しようと
計画しましたが、近くの人家に類焼する恐れがあると反対され、無事に残されたとい
う嘘のような本当の話です。
 近世に階段が設けられ最近まで上れることが出来たそうです。


   三 重 塔(興福寺)

 平安時代に創建された「三重塔」は和様化の現われ
で初重に周り縁が付くようになった初期の建築です。
再建も平安時代の建築様式で施工されています。
  各重の間口の逓減率は、「五重塔」の初重、四重、
五重が、この三重塔の初重、二重、三重に採用され
ており、初重と二重目の間口の逓減率が大きくなっ
ていますのが、図でお分かりになるでしょう。
このことは、裳階を意識したのかそれとも初重を出
組にして初重内部を広くとるための工夫だったので
しょうか。法起寺(ほうきじ)三重塔も法隆寺五重塔
の初重、三重目、五重目の形をそのまま用いて造ら
れております。  
  この三重塔も五重塔と同じように廃仏毀釈時代に
は売却されかかったようです。
  南円堂の西側の低い土地にあるため人目につきに
くいので見過ごさないよう是非お訪ねください。 

 

薬師寺三重塔  

   
    東 塔(薬師寺)

  西塔(さいとう・昭和56年再建)

  「薬師寺」は従来の慣習では都が移るに従って寺院も移築するのですがその場合、寺
院造営には伽藍配置、建築、仏像などはその時代様式に倣うのが慣行であります。し
かし、本薬師寺の様式を踏襲して着工されると言う前例のないことを実行しました。
すなわち、
天平時代、寺院の形式は「仏塔」を回廊外に建てますが薬師寺は藤原京に建
てられた本薬師寺の双塔を伽藍内に配置する建築様式を踏襲して建立されました。

のように伽藍内に「双塔」がある形式を薬師寺式伽藍形式や白鳳伽藍形式と言います。
  金堂を伽藍の中心に設置し、三重塔を南北の基本軸よりずらさなければなりません
が、塔を後の時代のように装飾品扱いには出来ず塔の処遇に苦慮されたことでしょう。
そこへ韓国から本来一塔でよいのに双塔形式の情報が持たらされましたのでその情報
に飛びついたのは当然でしょう。この双塔形式は天平時代には原則となりますが、天
平時代の双塔は伽藍外に建立されます。

  「東塔」「西塔三重塔であるのに屋根が六つあり、一見六重塔に見えますが、屋
根の三つは
裳階(もこし)という庇状のことです。各層に裳階があるのは東南アジア
にも存在しません。

  木造塔は、間口が方三間のうち中央の間が両脇間より広いものが普通ですが、当塔
は方三間が等間隔です。しかし、裳階の方では中央の間を脇間より広くしてあります。
また、三層目は方二間と異例ですが同じ形式が
法隆寺五重塔当麻寺三重塔
法起寺三重塔にも見られます。
  東塔は730年建立で創建時唯一の遺構です。しかも天平時代の官寺の重要な建物の
中でも唯一の遺構という貴重なものです。
 高さは34.1m、相輪の高さは10.3mです。
  非常に均整のとれた美しい東塔を「竜宮城」と称されたことは納得出来、当時の人が
描いた乙姫様のいらっしゃる華麗な竜宮城とのイメージと合ったのでしょう。
ただ、竜宮城は名の通り竜王の住まいです。

 
         水煙(薬師寺・東塔)


  天童   天女       天男
  この三体の飛天は子供の天童、母親の
 天女、父親の天男であると闊歩された方
 がいらっしゃれ大変感心いたしました。
天童は坊主頭で蓮の蕾を両手で捧げており
ます。
 天女は頭が小さく、右手で刹管を支え左
 手で散華のための華盤を捧げております。
 天男は跪き変わった頭巾を被り横笛を奏
 楽しております。健康的な家族の飛天と
 いうことであれば親しみが湧いてまいり
 ます。

 天平創建の東塔の「水煙」は年代ものだけに画像では不鮮明となりましたが価値ある
東塔のものを掲載いたしました。水煙の大きさは高さ193p、下辺の長さ48pです。
 果てしない空間の零芝雲上に雄飛する東塔の飛天が、1300年も前から今日まで天空 
で散華奏楽をし続けてきたことは奇跡としか言いようがありません。

 「裳階()」を取り除いた三重塔の断
面図です。「初重の間口()」の42%
が「三層の間口()」です。そのため、
とんがり帽子のようですが、裳階があ
るため安定感のある美しい姿となって
おり
多くの人に感動を与えております。
 これとは逆に
浄瑠璃寺の三重塔
「初重の間口」の84%が「三層の間口」で
す。   

 お寺では修学旅行生に対して東・西
塔は裳階が三重に付いたものであり、

「六階建て」ではなく「三階建て」ですので「誤解(五階)」のないようにとの解説をされて
いるとのことです。結論をいえば屋根の数ではなく柱が何本あるかです。図のように
一重ごとの
積上げ式建築で縦の柱が三本しかないので三重塔ということになります。

  

 

当麻寺三重塔 東塔・西塔

 「当麻寺」は古代の双塔が存在する唯一の寺院で極めて貴重なものです。
 当麻寺では左右対称の伽藍配置の原則を気にせず通常考えられない伽藍配置となっ
ております。
 さらには、中世、当麻寺は基本軸が南北から阿弥陀信仰の東西に変わりますが「本
堂」の東西軸より「東大門」は南にずれております。東大門は本堂の東西軸に建設でき
る地形ですがずれているのは何か深い訳があることでしょう。


  東塔       西塔

 「東塔」「西塔」は金堂より離れた台地に
あるうえ、双塔は向かい合わず東西軸が
一直線でなく少しずれているうえに両塔
の地盤にも高低差があります。両塔は遠
望出来ますが近くでは樹木が遮り塔の全
景を眺めることは難しいです。    
 山が迫った丘陵地に建つ両塔は約50m
離れているだけですが障害物があって東
塔から西塔へはぐるっと回らなければ行
けません。天平時代建立の東塔に比べて
平安時代建立の西塔の方がず
んぐりしており100年の年代差が感じら
れます。 
 塔頭「西南院」池泉回遊式庭園の「みは
し台」からの撮影です。西南院を訪れま
すと両塔が眺められる最高の眺望が味わ
えしかも西塔を借景にした庭園で抹茶が
いただけますのでどうぞ。

 「東塔」は天平時代の創建です。
 写真撮影が出来るところは東側のみで、し
かも樹木の遮蔽が少ない僅かな空間に限られ
ます。
 通常、初重から三重目まですべての面の柱
間を、三つの方三間としますがこの東塔は構
造上大変不利であるのに、二重、三重ともに
方二間で特異な構造です。「薬師寺三重塔」
「法起寺三重塔」は三重目だけが方二間です。    
 東塔の四面は中の間が扉口、脇間は連子窓
でその窓の下は白壁です。通常、塔の四面は
同形式で造られますのでどの面でも正面にも
ってこれます。ということは、正面は仏像、
須弥壇の状況で決まることになります。


    東塔(当麻寺・東側面)


      西塔(当麻寺・西北側面)

 「西塔」は25.2mで東塔より0.8m高く
なっております。
 平安時代の創建ですが、東塔創建から
百年も経っているので再建説もあります。
 我が国の場合、仏舎利は塔の地下に安
置されるのに、後に奉安された舎利は心
柱の頂上に安置されております。塔の地
下に安置するには差しさわりのある何か
があったため避けたのではなく舎利を心
柱か相輪に納める時代であったからでし
ょう。
 それとなぜか、舎利が奉安される塔は
白鳳時代なら東塔で、天平以降なら西塔
となり西塔をまず最初に建立すべきとこ
ろですが東上位で東塔が先に建立された
のでしょう。
 北側が正面となります。他の三面は立
ち入り禁止です。北側も樹木があり塔の
真下まで行かなくては全景を見上げるこ
とは出来ませんので写真撮影は不可です。

それゆえ、撮影は塔頭「西南院」の池泉回遊式庭園の「みはし台」から少し回遊した場
所からです。

 

法起寺三重塔

  「法起寺」は“ほっきじ”ではなく“ほうきじ”
と読みます。      
 「三重塔」は現存最古の遺構で、飛鳥様式であり
ます。飛鳥時代造営のままか、それとも白鳳、天
平時代の再建かは分かりません。と申しますのも
伽藍配置が塔が東側、金堂が西側で、現法隆寺の
伽藍配置とは逆になっており、塔が東側にある方
が古い形式です。ところが、法起寺塔が少しすら
りとしていないのは、現法隆寺五重塔の初重、三
重、最上層をそのまま法起寺塔の初重、二重、最
上層に採用しているからです。ですから、法隆寺
五重塔とはどちらが新旧か迷います。ただ、法隆
寺塔にある裳階がありませんので柱のエンタシス
がはっきりとご覧頂けます。 
  初重の脇間に連子窓がないのに二重、三重の脇
間は連子窓が設置されております。


     三重塔(法起寺)

 

法隆寺五重塔 


  鐘楼前からですと均整のある
 五重塔を眺めることが出来ます。


     五重塔(法隆寺・南正面)

 我が国の国宝指定の建造物の年代は近世が大半という中で「法隆寺」の建造物は、白
鳳、天平時代の建造物であります。ただ古いということだけでなく所有する国宝建造
物は18と驚くべき件数であります。
 当時、寺院の「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」です
が古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは法隆寺だけです。世界に誇れ、
歴史の重さを感じさせるのが法隆寺です。
 「五重塔」は現存最古の塔で、塔高は31.5mです。
 塔内の「塔本四面具」が和銅四年(711)に完成したとの記録があり、当然五重塔はそ
れ以前に建立されていたことになります。

 仏塔は各層の間口(桁行)の逓減率で見栄えの良しあしが決まります。当塔の間口で
すが初重の丁度半分が五層目というすこぶる安定感に富んだ見栄えの良い塔となって
おります。中国の仏塔は各階に仏像を安置して礼拝しながら上層階まで登るようにな
っているので、上層階のスペースは広くなければ用途に叶いませんので仏塔は寸胴に
近い形状となります。が、我が国では塔内は僧といえども立ち入ることは出来ません
ので居住スペースを確保する必要がなく見栄えの良い壮大な五重塔を作ることに専念
しました。中国の塔は軒の出がありませんが我が国の塔は軒の出が大きいのが特徴で
ありどっしりとした安定感を醸し出しております。
  塔高の約3分の2が塔身、約3分の1が相輪という比率で均整のある外観となって
おります。
 古代の我が国では仏舎利は塔の地下に安置されており当塔も同じ形式です。

 

慈眼院多宝塔 


     多宝塔(慈眼院)



       初 層 部 分

 「慈眼院(じげんいん)」は「孝恩寺」とそう
遠くない位置関係にあり、大阪では南の関
西空港に近い場所にあります。

 予約制とは露知らず訪れたのですが住職の奥さんらしき方が出て来られどうぞと招
き入れていただきました。
 基壇が高く、塔身が小振りな塔ですが中央の間は扉を設けるため広くとっているの
で安定感のある良い姿となっております。
 裳階部分が本来、面取の角柱であるのに丸柱となっているのは裳階が付随的な建物
と言う考えが希薄になったからでしょうか。それとも二重塔(前述の切幡寺大塔)の考
えが取り入れられたのでしょうか。室町時代から多宝塔の裳階の柱が丸柱に変わって
参ります。
 垂木は初重、上層共に平行垂木です。
 石積基壇は無いほうがバランス上良かったのではないかと思われますが基壇があれ
ばこそ建物を湿気から守れ今日まで保存できたのでしょう。
 塔の前庭には苔が植えてあり手入れがよく行き届いておりました。苔を踏むことの
ないよう注意をしながら撮影するのは初めての経験でした。
 周辺には後述の「根来寺大塔」「金剛三昧院多宝塔」「長保寺多宝塔」があり多宝塔の
メッカといえる地域です。

 

一乗寺三重塔


        三重塔(一乗寺)



      蟇 股

 「一乗寺」は鬱蒼とした山岳寺院
で、階段を上がっていくと山の中
腹を切り開いた狭い空き地に「三
重塔」が建立されておりました。
さらに階段を上がると「金堂」です。
 燃えるような紅葉の季節は最高
の眺めでしょう。訪れた時は、空
気も澄み目の覚めるような新緑で、
自然豊かな清浄さの中にある寺院
でした。

  三重塔は平安末期の建立で平安時代の貴重な遺構として著名です。塔は金堂の後方
になる筈が前方で金堂(本堂)より低い位置に建立されていると言う珍しいものです。
 塔は下からも上からも眺めることが出来ると言われておりましたが金堂は修築中
(2008年春頃まで)で残念ながら三重塔のある台地から金堂への上がり口で閉鎖されて
いたため上からは拝むことが出来ませんでした。塔の姿は見上げて眺めることしかで
きず全体像の魅力は分からずじまいでしたが二重、三重目の柱間を等間隔にしていて
安定感のある優美な姿でした。中備に蟇股が付けられた最初の仏塔で蟇股は初期のシ
ンプルな形状です。 
 初重に縁を設けた現存最古とも言われる遺構です。心柱が初重の天井から立ってお
ります。

 

根来寺多宝塔 


        大 塔(根来寺)

     大 塔(根来寺)

     根本大塔(金剛峰寺)

 「根来寺」は歴史書が伝えるように多くの鉄砲
隊を有した根来衆で知られ、豊臣秀吉に歯向か
い滅ぼされました。勇猛な戦士が全山に駐屯し
た軍事基地とは思えないほど歴史は変わり桜、
紅葉の名所で庶民の憩いの場となっており平和
そのものでのどかな境内でした。
 ただ、大塔に残る豊臣秀吉による根来攻めの
際の鉄砲の弾痕を見れば壮絶な闘いの一端を垣
間見る思いがいたしました。その意味で大塔は
歴史の重みを背負ってきたと言えます。


       弾 痕

 「大塔」は多宝塔ですが裳階は方三間が標準であるのに裳階が方五間もあります。そ
れが大塔といわれる所以で塔内はとにかく広いです。大塔形式では唯一の遺構という
価値ある塔で優美な佇まいを見せております。
 塔内は12本の円柱を円状に配置する円形内陣です。塔内に入れていただけますの
で珍しい円形内陣を是非ご覧ください。創意と工夫をこらした引違戸、連子窓は円形
に造られております。
 多宝塔の場合は仏像舎利ですので仏像の安置に邪魔となる心柱は初重天井から始ま
ります。
 四、六、八葉(受花)から鎖で多くの風鐸を吊るし隅棟と結んでいます。
 亀腹が大きく大塔をしっかりと支えております。