


- ツ:運指(指遣い)記号。琴古流、都山流、上田流とも同じ。1尺8寸管ではF音。連音は第二孔の押さえ。
●|●●●○ 甲、乙音あり。第1孔の塞ぎ方により、メリ音、中メリ音の半音階の変音を発生。
- 津田寛青:本名甚之助。明治15年生、昭和21年没、65歳。4歳で失明。井上福栄、松阪張る栄に師事。生田流筝絃家:明治から昭和期に活躍した名手。十九絃筝を考案。「小夜砧」等を作曲。
- 筑紫箏:この筑紫箏はどうして伝わったかと言うと、三韓、が伝来したあとの唐楽伝来の頃、遣唐使藤原朝臣貞敏が伝えたとも言い、また内教坊の妓女が筑紫の彦山で、あるいは、宇多天皇の時命婦色子が豊前の彦山で、同じく唐人から学んだと言う説がある。
西の京と呼ばれる山口県の大内文化が開花した。大内義隆は享禄元年(1528)に家督を継ぎ守護職を得る。京都から多くの公家や僧侶を招いて中国地方に京都文化が伝播するが、この大内年の滅亡とともにその文化(箏等も含む)も、九州などに分散したのではなかろうか。
この他、京都の箏曲が、平家滅亡の折り、西へ逃れたのに従い九州に広がった、あるいは、それらと、九州方面に流罪となった公家達の琵琶等の雅楽とが一緒になり築紫箏になったとも言う。
その後、16世紀後半から17世紀頃、九州、久留米の善導寺に賢順なる僧が独自の箏曲を完成した。これを筑紫流という。善導寺にはそれまでに雅楽が盛んあり、善導寺楽と言った。「八葉集」によると、天文年間、大内義隆に身をよす則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正の七人が一首詠い即興的に箏の手付けをしたこの曲が「菜曲」で、行道が逝去し六歌になったものが築紫流(曲)という。築紫流の流れをくむ賢順の弟子玄恕(正定寺。別に法水と言う説もあるが、この場合法水が江戸に出て八橋検校(山住勾当)に教える。その後に、玄怒に学ぶことになる。何れも賢順の弟子である)より筑紫箏を学んだ八橋検校が八橋箏を草案。現在の筝曲の原型。作曲した組歌には表組(菜蕗、梅が枝、心づくし、天下泰平、薄雪、雪の晨、雲の上)晨、裏組(薄衣、桐壺、須磨、四季の曲、扇の曲、雲井の曲)がある(八橋十三組)。八橋の箏曲以降を俗箏といい古来の箏曲と区別。
昭和40年代北摂地方紙、「奥さま新聞」にこの筑紫箏伝承者井上ミナ師(当時77歳・人間国宝)の記事がある。新聞発行当時、吹田市藤白台の住まわれていた。大正6年日本女子大卒。佐賀県伊万里市に行ったとき、筑紫流の伝承者、野田聴松さんに会った。このとき見込まれて後継者になった、云々、と掲載。
- 鶴之巣籠:(ツルノスゴモリ)。鶴の親子の愛情を表した曲。子鶴が誕生し巣立てそして親鳥の死までのスケールの大きい情景描写の曲。鶴の啼き声などを特徴のある吹き方で表している。
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