

- 斎川梅翁:尺八演奏家。新潟県(明4〜昭42)
- 佐藤晴美:(さとうせいび:本名久雄):明治39年1月6日 九州小倉に生まれ。
大正7年3月小倉市堺町高等小学校卒業後芸一筋に歩む。
大正8年、琴古流師範工藤霞山門下となる。2年で師範となる。
大正11年洋楽家藤井清水に師事。ピアノと声楽について学ぶ。
大正14年吉田晴風門下となる。
大正15年平田豊広と革新音楽会を組織し日本蓄音器で大衆曲の吹き込みを行う。
昭和4年富崎春昇師(初代)とのコンビでポリドールレコード専属となりレコード録音。
同年4月東京商大(現一橋大学)の尺八部講師。
同8月大師範となる。翌年師(晴風)の許しを得て美風会創設。
昭和5年3月新日本音楽デー熊本スタジオからラジオ放送で数々の名曲を作品発表。この頃、本曲を修行するために三浦琴童師事。
昭和6年渡台。
翌7年谷狂竹師の紹介により台北在住の青木心月師に師事。
その後、新日本音楽の先端芸術を鋭い感覚でもって追求し、日本国内はもとより芸術使節として台湾政府、各文化団体、その他学校などの援助により日中親善演奏旅行を行い台北、台中、台南、高尾の各市で演奏。
台北市長より感謝状を受ける。
昭和55年アメリカ合衆国東部、ノーフォーク市及び大学よりの演奏要請により10月2日より10日間、演奏旅行。
州知事、市長、大学、海軍司令官より各感謝状を受ける。また、その功績により合衆国より星条旗と記念品(杯)を賜る。
関西作曲家協会会長、大阪三曲協会常任理事などを歴任。
私財を投げうって尺八楽譜を出版(現琴古社)。
N・H・Kで、関東は納富寿童師、大阪は佐藤晴美師が尺八を10年余り放送。
文化振興に寄与し、大阪府、市より感謝状を受ける。
昭和53年頃より体調を崩す。
療養の甲斐なく、昭和58年10月25日逝去。
- 三絃(三弦):-->三味線の項参照
- 三曲:「曲」は、音楽あるいは、楽器の意味があるようです。”曲名”と言えば、音楽の題名ですし、”曲手”と言えば”楽器を弾く人”ですから、”三つの楽器”と言う意味に解釈すれば良いのではないでしょうか。
[現代三曲名鑑]によると徳川時代にも通用していたそうで、その頃の三つの楽器は、筝、三絃、胡弓ですが、明治以降は筝、三絃、尺八そして現在は、その延長上にある音楽形式を言うようです。
「俗曲評釈」(佐々醒雪:博文館)の記述によれば、八橋検校が作った組歌(箏曲)は全13曲で、当初は組分けされてはいなかったが後、新しい組歌が加えられ、教授上の理由により段分けされたようで、時代によって含まれる曲の組み合わせが違っています。おおむねは八橋検校の作ったものを表組・裏組にわけ、さらに中許(組)・奥許(組)等に分けられましたが、この区分には三曲という区分もあり、ここには秘曲とされる3曲がはいっていました。この曲は実際にはあまり謡われなかったようです。この三曲と言う区分名を語源とする説も有ります。ほかにも、八橋検校の組歌を表組7曲、裏組6曲に区分し、裏組を三曲ずつ区切りをしたのでこれを三曲の語源にしたとする説もあります。元々、三という数字ははよく使われる数字で、尺八音楽でも古伝曲の中、霧海じ、真虚鈴、虚空の三曲を古伝本曲あるいは古伝三曲と言う場合もあります。しかし、曲の数を指し示す意味と、音楽のジャンルを指す意味とでは随分かけ離れているようです。
元々、”三曲”と言う言葉自体に、特に決められた概念があったわけでは無かったようですが、地歌等の歴史的なことを考えてみると、三絃の伴奏で歌を唄っていた曲に、箏が加わる、また胡弓が加わって合奏曲にとなる、あるいは箏の伴奏で唄う曲に三絃の手付けをする、また、胡弓が加わると言ったことが行われるのですが、一般に洋楽と私たちが称している合奏形態では、各パートが組み合わされて一つの曲となる、即ち、各パートだけでは曲にはならないもので有るのとは大いに違い、各の楽器の曲は、合奏もできるが、独立した曲として各々の単独楽器で演奏しても完成された曲であるように作られています。このことから、合奏することは、三つの独立した曲でありながら、一つの合奏曲ともなるのです。この合奏することを、三曲合奏と言ったのかもしれません。
明治以降、胡弓に代わって尺八が入りました。
現在はたんに箏(琴)と三絃(三味線)、それに尺八の三つの楽器を通称「三曲」合奏と言うが、場合によっては、ほかに十七絃箏が加わった場合や、逆にいずれかの楽器が欠けている場合、洋楽器が加わっている場合にも”三曲”と言い、日本の伝統楽器によるアンサンブル形を広く三曲と称しているようです。また、現在は洋楽器も含まれるようになりましたがこれらの楽器は、一つの合奏曲のパート分けされた部分を演奏するのであって、その楽器だけで独立した曲の旋律を持っているわけではありません。ゆえに、これを曲数に加えるのは適当ではないでしょう。
- 三谷:(サンヤ。)讃抑、山谷、山野、産安(サンヤスとも言う)、三谷菅垣(清攪=セイランとも言う)あるいは、○○三山と、寺名や土地名を冠する三山もある。この曲は法式の曲という説や、三つの谷(過去・現在・未来)の事であるとも言われる。産安は尺八を通したお米を炊いて産婦に食べさせ、子の曲を聞かせると安産になると言われる。-->一寺一律曲。
- 三虚霊:古伝三曲、霧海じ、虚空、嘘鈴のこと
- 酒井竹保(竹翁):明治25年10月15日生まれ。藤田松調(松調流)の門下であったが、師弟対立し大正6年独立し創設した。-->竹保流
- 座頭:盲人の当道座(職業共済組織)の私設職位の一つ。最階位の階名納金等によって昇進。座頭の場合、いち名(市・都・一、と言った文字)が付く。
- 西園流:-->セイエンリュウ
- 三韓の楽:日本記に、允恭天皇崩御の年に新羅王から、楽人80を貢ぐとある。また、欽明天皇の頃、百済、楽工を献じ、同じ頃、高麗楽も伝わる。これら朝鮮半島からの音楽を三韓楽という。その後、唐から音楽が伝わることになる。外来音楽は宮廷に取り入れられ。古来の大和楽は漸次消滅することになる。
- 猿楽:大陸から伝来した、唐散楽のこと。田植えの際の豊作祈願などに行われた雑芸で曲芸的な物、物真似等を含んだ歌舞。田楽とともに平安時代に大和の結崎次郎こと観阿弥とその子、世阿弥が現れ、足利義満の庇護もあり、猿楽が完成を見る。この時に滑稽物をわけ、その滑稽物が狂言となる。このほか、手猿楽、女猿楽、松拍子、幸若の舞なども派生したが、消滅する。
- 催馬楽:(サイバラ)。奈良、平安頃の路頭巷に謡われていたもので、唐楽が伝来するとその影響を受けて変化し、宮廷にも取り入れられるようになった。語義は、諸国より貢ぎ物を馬に積んで納める時る道々、馬を催がすように口ずさむ歌の意、ともいう。また、吾駒の歌がと言う物があり、歌詞に馬を急かせる様な部分があり、そこの意味が転じたものとも言う。朝廷の遊宴に、唐楽とこの催馬楽を奏したがこの二つのことを御遊という。
これとは別に、古代の神楽の締めくくりに行われる催馬楽がある。
- 左方の楽:仁明天皇頃、雅楽の整理があり、左右の二つの楽に分けられる。左方は唐楽、右方は高麗楽と言われ、三韓楽(朝鮮)をいう。
- 三分損益一:(三分損一or三分益一)基準音に対して三分損益を繰り返したことにより得られた音を並べて十二律と成す。三分損とは基準の音の振動数を三分割してその一を減ずる。三分益一とは基準となる音の振動数を三分割してその三分の一を加えることである。
たとえば、基準音がわかり易いようにハ長調で説明すれば、ハ音に対して、三分損の音はソの音(完全5度)になる。
ハ音の波長を3/3として、ここから1/3(3分損)を差し引けば2/3の波長の音はソである。
ソの音を3分益すれば、2/3×4/3=8/9になる。この数字は波長であるから、振動数は基準の音であるハ音に対して、逆数である、9/8の振動数を持つレ音になる。さらにこの音を3分益する・・・・と繰り返して派生する音を整列すれば12律(半音程)が出来る。
もとにもどり、基準となる音について考えれば、大陸(中国)から渡来した音楽では黄鐘(レ音:またはハの音と説く書もあり)が用いられているが、和音階の黄鐘(ラ音:ソと説く書もある)ではない。即ち、現在日本の邦楽でよく使われている”一越”である。
これと関連して、順八(あるいは順六)、逆六(あるいは逆八)と言う言葉がある。
これは日本の3分損益と言うべき考え方であり、ある音と別の音との距たりを言う。
【計算例】基本の音(中国の黄鐘)の笛の長さを基準にして、その笛の2/3(三分損)の音、次にその笛に、その笛の長さの1/3を加えた音、今度はその笛の長さの2/3の長さの音・・・を繰り返す。
基音=1とした場合、三分損一
笛(1)の長さ=1×2/3 よって笛の振動数は音は笛の長さに逆比例するから
音程=3/2
笛(2)の長さ=笛(1)+笛(1)×1/3=2/3+(2/3)×(1/3)=8/9
∵三分益一
音程=9/8
笛(3)=8/9×2/3=16/27 ∵三分損一
音程=27/16
以下同様を繰り返す
ざ