- 光崎検校:幕末ごろ活躍。五段砧、夜々の星、七小町等を作曲。
- 宮城道雄:本名菅。生後すぐに角膜炎を患う。4歳で母家出。7歳頃から目が悪くなり9歳頃には完全失明。箏を中島検校に学び中菅を名乗る。その後、父の事業が失敗し朝鮮に渡るが父暴漢に襲われ、11歳で一家を養うことになる。19歳で障害のある娘を持つた喜多仲子と結婚し妻方の生家、宮城姓となる。朝鮮半島(旧京城)のささやかな長屋で箏の師匠をしていた不遇の折りに、生涯の朋友、吉田晴風に巡り会う。(晴風は昭和25年6月30日病死)
この晴風の招きで東京に活躍の場を移すことになる。この時、晴風26歳、宮城23歳、同年妻病死。大正7年吉村貞子と再婚。活動を初めてまもなくのこと、とある盛大なおさらえ会の催し場で、自作曲「水の変態」を披露することとなったが、その斬新な演奏ゆえに、酷評を受ける。しかし、彼の天分が徐々に評価を得るようになる。新日本音楽を旗印に近代三曲の礎を築く。「春の海」は最もポピュラーな作曲の一つである。名声も得て、絶頂期の昭和31年6月25日事故死。
- 明暗寺:虚霊山。普化集関西の総本山。明治4年太政官布
告で廃寺。最後の住職は34世昨非士。その後明暗(あけくれ)覚昨と改名、普化虚無僧と絶縁、日蓮宗に改宗。
その後、元明暗寺系の虚無僧達が、樋口対山師を擁し、明暗協会を設立する。35世小林師の折り、昨非住職が34世であることが判明。このため、しばらく世代継承が絶える。昭和24年になり再び谷北無竹師が明暗寺を継ぐこととなり現在の明暗寺に至る。昭和25年宗教法人普化正宗明暗寺(東福寺内・善慧院)設立。
古明暗寺系の尺八は尾崎真龍-近藤宗悦、勝浦正山に次がれる。樋口対山からの新しい明暗寺系尺八は宮川如山-谷狂竹、小林紫山、谷北無竹などに引き継がれる。
明暗寺の表門はその後、京都の小学校の門として売却される。後、戦災で焼失。
関連書類:虚鐸伝記、虚霊山縁起並三虚霊譜弁、明暗寺世代録など。(写真は現在の明暗寺)
- 宮川如山:(ミヤガワニョザン)熊本生。布袋軒最後の住職長谷川東学や勝浦正山に学ぶ。九州鈴慕を基にした「阿字観」を作曲。弟子に谷狂竹。
- 水野呂童:本名栄之助。明治13年生、昭和7年没、53歳。琴古流尺八家。三浦琴童に師事。洞風会創立。
- 三浦琴童:本名純一。明治8年生、昭和15年没、65歳。琴古流尺八家。荒木竹翁に学ぶ。