

- 楔吹き:(クサビブキ)明暗流などで良く行う吹き方。クサビの様に、最初は太い息で吹き息を絞っていく。揺ったりしないことが肝心。その他の吹き方は、まず、鼓吹きは息を最初は太く、途中で絞り終わりを太くする。鼓の形のイメージした吹き方。揺り吹きは顎を揺するいわゆるビブラートである。込み吹き、息を吐きかけるように細かく繰り返し吹き込む。錦風風などで行う吹き方である。棒吹きは感心しない吹き方ではあるが場合によってはそう言う素直な吹き方も必要な場合がある。
- 黒澤琴古:江戸時代の尺八指南役。四代続くが直系は途絶え、以降その流れを汲む尺八一派を琴古流という。初代は本名幸八(宝永7年[1710]生まれ、明和8年[1771]没。。福岡黒田藩士。長崎松寿軒で、一計子から「古伝三曲」の伝授。この時19歳。「伝統古典尺八覚え書」によると、琴古が江戸から旅に出て長崎に行ったのではなく、この頃、黒田藩士として福岡にいて長崎に赴いて習ったのでは、と述べられている。
江戸で一月寺、鈴法寺両寺の尺八吹合所の指南役。二代琴古は初代実子、幸右エ門後幸八と改名する。延享4年[1747]まれ文化8年[1811]没。三代目琴古は二代目実子、雅十郎、後琴甫並び幸八と称す。安永元年[1772]生まれ文化13年[1816]没。四代目は三代目の弟、音次郎、三代目の高弟久本風陽のが後見人となるも、自ら出奔する。
- 葛原勾当:本名柳三。文化9年生71歳没。三歳で失明、箏を学ぶ。のち、松野検校に入門。
- 伎楽舞:クレノガクマイ。推古天皇の時代、百済の楽人が伎楽舞を取得し、大和の桜井で少年を集めこの伎楽舞を教えた。味摩之が伝えた伎楽を聖徳太子が採用し課役を免る。専門職である楽人(家)とした。
- 久米歌:神武天皇が東征のおり、陣中にて謡ったものがその始まりと言われる。言葉文に抑揚ある節付けをしたもの。
- 久米舞:大久米命が忍坂(オサカ)の大室の土蜘蛛を切ったときの情景を模したものと言われる。
- 国栖:(クズ)。奈良県吉野の国栖の村民が応神天皇頃より朝廷に参入、歌笛を奏し、山の幸などを献上ていたが、後年村人に代わり楽人達が節会に歌笛を奏した。このことを、国栖の奏という。
- 組歌:三味線組歌、三味線組歌は、巷に流布していた小唄を集めて1曲となしたもの。特に繋がれた小唄同志がなんら意味をなしている訳ではない。箏曲の方は、組歌の最初は「菜蕗」で、その起源は天文頃、大内義隆(山口県)に身を寄せる則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正の七人が各1曲詠い即興的に箏の手付けしたが、その後、行道は逝去し六歌となる。これが筑紫流という(この項「八葉集」より)。その後、八橋検校が築紫流に新曲を加える等をして新たに箏曲組歌13曲を作った(八橋十三組)。これも三味線組歌を真似て、歌詞を何首か集めて1曲としたものである。古来、日本には歌のために専門の作詞家がいたわけではない。よって、周りに流布していた歌詞などを物を組み合わせて、新たに作曲した。何れにしても組歌は、三味線、箏曲(俗箏)黎明期の作風である。その後、意味のない歌詞の組み合わせから、何らかの意味を持った、あるいは関連した物を集めた曲が作られるようになる。三味線は長唄や端唄が作られる。(江戸長唄に対し、上方長唄は地唄(歌)あるいは上方歌と言われる)。箏曲の方は、新組歌が作られる。
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