虚無僧:普化宗と言う宗教団体で、天蓋(てんがい)と言う編み笠を被り尺八を吹く人達を言います。
尺八は法器として、長い間大切に扱われていました。
しかし、お坊さんのように剃髪していたわけではなくまた、お坊さんでもなく
、徒として所属していたようです。そして、基本的には武士(浪人)が虚無僧に なれる条件でした。
だから、適当な仕官口が見つかると、再び還俗したようです。
中には、黒沢琴古のように指南役として尺八を教えることを専門に、江戸など で、一般のお弟子を取っていたようです。と言っても、これは、庶民の音楽とは 無縁でした。
明治4年の太政官布告で普化宗が廃止され、寺と共に虚無僧集団も無くなりました。
明治以前、尺八は普化宗の関東総本山の一月寺、鈴法寺やその末寺、関西では明暗寺、博多の一朝軒と言った、虚無僧寺の独特の組織の中で伝承された尺八曲を今日、本曲と呼んでいます。 註)尺八の流派によっては、創始者などが創作した尺八だけの曲を本曲と呼んでいる場合もあります。虚無僧の虚無僧についてもう少し詳しく調べると次のようなことがわかります。
起源については、吉田兼好の「徒然草」に
<しら梵字という暮露、師の仇なる、いろおし坊という暮露と互いにつらぬき合いて死にたる・・・>
とある。この暮露なる者の語源は、”ぼろぼろ”の紙衣を着ているその容姿からくるものとも言われる。
この暮露が後に薦(菰・こも)僧と言われるようになる。薦は藁(わら)の筵(むしろ)を抱えた姿の乞食僧であり、薦(こも)僧-->虚無(こむ)僧と変化したと言われる。
何れにしても、両者共に室町頃までは尺八を吹いたとの記録はないが、室町から江戸初期にかけて、尺八を吹く薦が現れる。
この薦は江戸時代になり、鉢巻きに紙衣姿から編み笠に白衣の姿になります。さらに元禄頃にいたり、袈裟をつけるようになる。しかし、服装、袈裟共に鼠いろか白の地味なものであった。琴古流の祖黒沢琴古が活躍する明和(1764-)になってやっと現代人がイメージする深編み笠、錦の袈裟や笛袋と言った虚無僧が出現することになる。(この項、「琴古流尺八史観」参考)
このように、元禄にいたり薦僧が袈裟をつけるようになったと言うことは、ここで初めて薦僧が宗教と結びつけられ、ここに、普化宗と言う宗教がうまれた。また、そのために色々と宗教組織としての体裁が整えられたのではないかと考えるのである。かくして、薦の吹く尺八と、普化思想とが結びつけられることになる。
確かに薦の生き様が、古く中国の普化禅師の伝説に非常に似通っている。そして、何よりも、正統に法嗣を引きついだ者がいない、絶えた宗教思想であったと言うことである。この普化思想を引き継いだとする為に、多くの歴史が作られることになった。