


- 菊岡検校:夕顔、茶音頭、深山獅子、かしの花、笹の露など、三曲を勉強した方なら大概の人が習う曲を作曲。弘化4年11月没。
- 菊原琴治:本名布原徳太郎。明治11年生、昭和19年没、67歳。生田流箏曲家。4歳で失明両親に死別、菊植検校の養子となる。二世菊仲検校に学ぶ。
- 菊塚検校:初代、本名与市。弘化2年生、明治42年没。生田流筝絃家。初代菊仲検校に学ぶ。大阪、豊中市。「明治松竹梅」、「住吉詣」、など多くの名曲を作曲。
二世本名捨次郎文久3年生。58歳没。初代の姪の婿養子となり二代を継。現在は5世千秋師。
- 琴古流:黒沢琴古の芸を伝承する流派。本名黒沢孝八[1710-1771]が虚無僧で全国を巡り集めた本曲(表18曲、裏17曲)を整理して、江戸一月寺、鈴法寺両寺の吹合せ所で指南番を務め、教えた。
十九歳の時に長崎の一朝軒で一計子に「古伝三曲」の教えを受けたと言う。
福岡、黒田藩士。この後、二代目(実子、孝右エ門=孝八に改名)、三代目(琴甫)、と名手が続くが、四代目(琴甫の弟)は、技量拙く、自ら出奔する。
その後、4代目の後見人だった久本風陽らが伝えた。琴古流の本曲として、「鹿の遠音」が有名。
黒沢琴古の属した普化宗には、関東に普化宗総本山として一月寺、鈴慕寺という二つの寺とその派に属するもの、関西にはやはり普化宗総本山とする明暗寺系の寺がありました。このうち明暗寺系の記録書、「三虚霊譜弁」に、三虚霊とは一に霧海じ、二に嘘鈴、三に虚空を古伝三曲と言う。元は、普化宗明暗寺系の伝承話に、寄竹(虚竹)が朝熊山にて霧の中で聴いた妙音を纏めて作曲したのが霧海じと虚空の二曲のことであったのに、何故か嘘鈴の曲が増えて、古伝三曲と言うことになっています。
さて、この普化宗の一月寺に属し尺八指南役をしていた黒沢琴古という人物がいたのですが、彼は全国を虚無僧で行脚し、各地の普化寺に伝承している曲を集めこれを纏めたのが、今日琴古流と言われている流派の本曲です。
元々、尺八は普化宗曲であり、寺に曲が伝わっていたはずなので、琴古流などと言う流派は無かったはづです(琴古系列にある宮地一閑のグループが一時、一閑流を名乗ったときに、琴古の本流グループを総じて琴古流と称した、とも言う)。しかし、明治になり普化宗が廃止され尺八も吹奏が禁じられた時期がありました。その後、尺八の吹奏禁止が解かれた復興期、関東では一月寺、鈴法寺系の尺八は、関東に広く影響力のあった黒沢琴古の系列のに収束しその集団を琴古流と称したようです。
竹友社、童門会、美風会、玉川社、日本竹道学館、銀友会、鈴慕会、竹明社、竹心会ほかがある。-->黒沢琴古
- 京極流筝曲:創始者鈴木鼓村(那智俊宣)師。(明8〜昭6)宮城県生まれ。京都に出て(明治34)筝曲家として活動。
- 虚竹禅師:(了圓虚竹禅師)明暗寺の開祖と言われている(永仁6年[1298])。寄竹ともい言う禅師からきています。
学心(覚心)が寄竹に尺八を教える。寄竹が勢州(伊勢)朝熊嶽で夢の中で聴いた妙音を「霧海じ」「虚空」とした。この寄竹は後に宇治の「廬庵」だとか「虚竹」であるとかの説があります。また、楠正勝に尺八を教えたと言うおもしろいはなしも伝わっています。
- 錦風流:錦風の名称は吉崎好道が一月寺の虚無僧、錦風に学んだことによるとも言われるが定かでない。普化宗尺八根笹派とも言われる。東北、弘前に伝承。乳井月影師が有名。調、下り葉、松風の調、通りなどの曲有り。昭和47年「錦風流尺八曲伝」を、内山嶺月師が出版、平成元年復刻版。「コミ」「チギリ」と言う独特の吹き方がある。
- 虚鐸伝記:京都明暗寺の文献の一つ。普化の系譜、普化禅師のこと、張伯から張参を経て、法燈国師を経て寄竹に至る伝承について述べられている。「虚鐸伝記」本そのものは不明であり、唯一の手がかりになるのがこの虚鐸伝記を書写したと言われる、寛政7年に著した山本守秀の「虚鐸伝記国字解」(上巻、中巻、下巻)が唯一の手がかりである。しかし、元々から、「虚鐸伝記」と言う本無かったのではないかとも言われ、疑問が多い本である。では何故この本が出されたのかと言えば、当時は幕府から、虚無僧寺に対して、かなり不審の目で見られていたたので、これらを払拭するために、いかにも古い歴史ある宗派で有る、ということを演出する目的で作られたと言う説もある。
【概説】 普化禅師が鐸を振って鎮州市内を巡っていた。張伯なる者が一緒に廻ることを請うたが断られたので、笛を作り、師のふる鐸の音を模して吹いた。このことから、この笛のことを”虚鐸”という(音曲を吹いていた訳ではない)。
その後、16世孫の参が護国寺に学んでいたとき、日本の学心も学んでいた時の雑談で虚鐸のことを知り、教えを請う。妙音を学び日本に帰国。日本では紀州西方寺に住んでいた頃、弟子に寄竹なる者がいてこの者に虚鐸を教える。他に国佐、理正、法普、宗怒の四人も学んでいた。この四人を四居士という。寄竹は後年になり、旅に出るが、道々戸ゴトに笛を吹いた廻った。そして、勢洲朝熊山虚空蔵堂に至り、うつらうつらしているときに、夢中に、海上の小舟に独り月明かりを眺めていた。霧がかかりその霧の中から笛の音が聞こえてきた。またこの霧が一箇所に集まり、その中から再び妙音が聞こえてきた。これらの妙音を虚鐸によって模して二曲にして、師(学心)に聴かせ、名付けてもらう。先にものを”霧海じ”、後者は”虚空じ”と言う。この二曲は世人が強いて請う場合に吹いたのである。また、虚鈴というのは、この虚鐸の鐸の意味が解らずに鈴と言い、また、曲名と勘違いしたものであり、大いに古義を失したことである。等々と書かれているのである。
- 伎楽舞:--->クレノガクマイ
- 吉志舞:(キシマイ)。古代、阿部氏の先祖が新羅を征し、凱旋の折り、たまたま大嘗会(ダイジョウエ)の日であったので舞を献じた。この舞のことをいう。
- 逆六:基準とする音を含めて、音の低い方に数えて6律目の音(完全4度)を言う。日本音階(五音階)を導き出す方法で、-->順八と一対で用いられる。-->三分損益
- 君が代:最初は薩摩藩の鼓笛隊の指導をしていた、英国海軍の楽長フェントンが明治3年頃作曲した天皇の礼式曲である。後には海軍軍楽隊に用いられるが、明治9年海軍楽長が「君が代」改訂の上申をする。理由は、この旋律は、日本人が歌うには適していないと言うことである。
そこで、式部寮雅楽課の有志から作品を募る。そして、林広守(奥好義との共作と言う説もある)の作品が採用されることとなる。そして、最初に演奏されたのが明治13年に天皇節の宴においてである。明治26年文部省が「祝日大祭日歌詞並楽譜」を制定し「君が代」を採用する。歌詞は「古今和歌集」のほか、複数の出典本が言われている。この歌詞の採用を誰が決めたかについては多くの説がある。薩摩では古歌としてよく知られていたので使われたとも言う。
- 虚空:普化宗、琴古流尺八古伝本曲(三曲)の中の一曲。残り二曲は”霧海じ”と”嘘鈴”である。、霧海じの”じ”とは、竹で出来た横笛の一種のこと。
一説に寄れば法灯国師の弟子の寄竹がこの霧海じと、虚空鈴慕を地方行脚の折り、朝熊山にて仮眠中、湖畔の霧中から聞こえてきた音曲を纏めた曲と言われる。この曲の名付け親は覚心(法燈国師)。ちなみに古伝三曲はこの二曲と嘘鈴(虚礼、嘘霊とも書く場合)の三曲のことを言うが、嘘鈴とは曲ではなくて、虚鐸のことを取り違えて嘘鈴と称したものであると言われる。そもそも虚鐸とは尺八の別称であり、虚鐸で錫杖の響きを模して吹く音を、いつしか曲と取り違えたもの。
- 嘘鈴(虚霊、虚礼):虚空の項参照。
- 虚鐸:尺八の別称。鐸の響きを笛で吹いたので、この笛のことを虚鐸と言った。
ぎ