普化宗:普化宗は、むかし中国の、西定(鎮州)にいた、普化禅師を始祖とした宗教集団を言います。
ここで普化と臨済の関係について延べる。
達磨の法系は八代孫、馬祖で別れ九代孫は盤山宝積から普化に続く。また臨済は、九代孫の百丈懐海から、黄檗、そして臨済義玄と続く。
鎮州にすこぶる奇人であり、街中をたえず鐸杖を振り
明頭来也 | 明頭打 |
暗頭来也 | 暗頭打 |
四方八面来也 | 旋風打 |
虚空来也 | 連架打 |
と唱えながら徘徊していた和尚がいて、街の人は彼を普化と綽名した。
普化は鎮州に移り住み臨済院を構えた義玄を助力する。
「伝統古典尺八覚え書く」(値賀笋童著)によれば中国で広く信仰されている道教の最高神である玉皇上帝の脇侍の一つに雷声普化天尊と言う神様があって上帝の近衛司令官だといわれる。風の神・雨の神・雷公等を大勢従えて天高く雲に乗っていると言う(躡雲普化)この普化天尊の普化を綽名として奉ったと思われる。云々。尚同書では普化は禅師ではなく和尚であると言われている。
さて、この普化禅師を慕う張伯なる人物がいて、禅師の響かせる鈴鐸音を尺八の音に模して吹奏したのが普化尺八の始めとされています。普化宗の名はとは普化禅師からきています。
禅師の錫杖の音を、尺八の音に模して伝えたとも言われています。
(実際のところ、普化禅師と、張泊が緊密な関係にあったのか、それも、単に張泊だけの片思で、普化禅師からすればまるっきりの赤の他人であった、かどうかは定かではありません。解釈によっては、本当は尺八の始祖は張泊である、と言う風にも読めるのですが・・・?)
日本には覚心(後の法燈国師=和歌山県由良・興国寺)が、その張泊の16代孫から教えをうけたと言う四居士を連れだって帰国したのですが、その中の宝伏と言う人物が宇治の里に庵を構え手いたときに悟るこのときのことを「一天清光満地金龍躍波」と記す。弟子にきん先、活聡、法義がいて、きん先が一月寺、活聡が鈴法寺、法義が根笹派の流れになります。
明暗寺系では始祖(開祖)について諸説があってはっきりしません。
学心(覚心)が寄竹に尺八を教える。寄竹が勢州(伊勢)朝熊嶽で夢の中で聴いた妙音を「霧海じ」「虚空」とした。この寄竹は後に宇治に住む「廬庵」だとか「虚竹」であるとかの説があり、さらに楠正勝に尺八を教えたと言う。
(古来、社会の混乱期には結構自分にとって都合の良い、眉唾の家系などが作られていたようで、当事者が、後世に編纂したものほどそういう確率が高いように思います。このホームページをご覧の諸氏は、思いこみのない研究をされて真実に少しでも近づける新たなる研究成果の発表を期待しております。)
何れにしろ、普化禅師が尺八の祖であるとか、覚心(法燈国師)が尺八の祖であるという説は尺八愛好家の中では根強く信じられている尺八史ではあるが、信じるにしては大きな疑問が残されています。
ただ、なぜこのような伝承話が必要であったかが重要な点です。
江戸時代も時代と共に安定してくると、居場所を失った浪人たちの安住の場として、その体裁を整える為に考え出されたものではないかとも思えるのです。
また、この普化宗と普化尺八と言われる尺八の結びつきも、あまりはっきりしません。
さて、普化宗は明治4年に廃宗となり以降、宗教から解放された尺八は先輩諸師の工夫改良の結果、各方面に活躍するようになる。