テグム

Profile
尺八を初めてもう何年になるのでしょうかね。
よく人から尋ねられるのですが、恥ずかしいことに、尺八を持った時から現在までの時間は非常に長いので返答に窮します。と、言うのも、この経過年数と演奏の実力は完全に一致していないからです。
一番最初に尺八を持ったときから単純に時間計算すれば、4年くらいになるでしょうか。
然し、途中かなりの空白があります。練習時間も1週間で?時間程度、延べにすれば、ほぼ1年くらいに成るか成らないかです。
一番最初に尺八の手ほどきを受けたのは、平成16年に逝去された上田佳道先生です。
阪急バスの路線に面した豊中市のご自宅の前に、大きな尺八の看板が掛かっていました。時々、バスの中からこの間盤の文字を何気なく眺めていたものです。
そしてついに、この看板に曳かれてに入門したことになります。
当時はご自宅には上田流創始者の芳憧(ほうどう)先生もお住まいでした。
稽古日に先生宅にお伺いしたとき、たまに佳道先生のご帰宅が遅かったりした時に、独りで部屋に座って先生のお帰りをお待ちしていると、芳憧先生が部屋に部屋に入って来られて、代稽古をして下さいました。優しくて穏和な方でした。
それに比べ当時の佳道先生は、性格は結構豪快な方でしたね。
天六で合奏稽古があるときには、当時としてはまだ少ない自家用車(確かコロナだったと思います)をお持ちで、その車にご一緒させていただきました。運転の方も豪快で、私などは緊張しながら乗っていたのを今でも覚えています。稽古の時、先にお弟子さんが来られていて稽古中であった時には、奥さんが声をかけて下さり居間でお茶を頂いたりしましたね。佳道先生から「佳陽」と言うお名前も頂いたのですが、結局、途中で挫折しました。と言うのも、私の周囲には結構音楽好き(洋楽)が多かったので、枯れ木も山のにぎわいと言うのでしょうかつい仲間に誘われバンドに入ったりしたもので、段々尺八の方とは疎遠になってしまいました。ドラムも少しやっていたんでその事を先生にお話ししたとき、尺八と一緒にやればおもしろいだろうな・・・なんておっしゃられておられた事を懐かしく思い返されます。
尺八を離れて十年位経った頃でしょうか、洋楽の仲間ともいつしかバラバラになり、それと共に、尺八をもう一度吹きたくなったのですが、不義理をした佳道先生の稽古場へは、敷居が高く戻ることが出来ませんので、琴古流の佐藤晴美先生に師事しました。
晴美先生も優しい先生でした。上田流を学んでいたことをお話しすると、分かりましたとだけ言われました。
稽古は、仕事を終えてから、直接三国の先生宅に伺いました。
いつも6時過ぎには着いていたと思います。先にお弟子さんが居られると、稽古が終わるのを待つ間、そばでその稽古を聴かせていただきます。
だから自分の番になると結構時間が遅くなります。晴美先生はお話の好きなでした。ま、お話を聴かせていただくのはとても勉強になるのですが、やはりサラリーマンですから仕事の後で疲れていますから、早く教えていただいて、さっさと帰りたいと思う時も間々あります。
すると、先生はその気持ちを見透かされていたようで、そういったときには、何食わぬ顔で、お話をいつもより長くされて、いっこうに稽古をお始めになりませんでしたね。
その後、私の私的なことで、子供をどうして面倒を見なくてはならない時期がありました。この時、先生に事情をはなしして稽古を休ませていただきたい旨をお願いしましたら、子どもを連れて休みには遊びに来ればいいと言われました。
子どもを連れては行きませんでしたが、お言葉に甘えて、休みの日に先生の家を訪れ、先生の製管の手伝い、尺八の継ぎ手などの漆を墨で磨く作業などをさせていただきながら、色々お話を聞かせていただきましたました。この時に製管調律方などの貴重な資料もお借りしたり出来ました。(晴美先生は休日は稽古を為されず、尺八製管を一人でされてていました)
晴美先生がご逝去された後、しばらくして、私の勤める職場近くにお住まいだった古伝尺八研究会の門田笛空先生に師事させていただきました。無竹忌(明暗37世谷北先生)にも参列させていただき、洛北の谷北先生宅で献笛出来ました。また、竹友に誘われ、岡山の国際尺八研修館で行われている横山勝也先生の合宿講習会に十二、三回ほど参加させていただきました。この間、勝也人形も頂きました。ある時は、友人と観光がてら岡山に行きその足で横山先生宅を訪問しますと先生がご在宅で、その日は先生のご厚意で、厚かましくも近くの家に宿泊させていただき、翌朝はわざわざ奥様のお迎えがありまして、手作りの朝食をご一緒させていただきました。また、勝也先生が大阪にこられたときもよく顔出しをさせていただきました。
あの阪神大震災の前日も、横山先生は茨木市に来られておられ、宿泊の茨木京都ホテル(現在の日航ホテル)で、深夜まで一緒に飲んでいましたが、翌朝に大震災が発生。当時、私の仕事は公務だったもので、すぐに仕事に向かいましたのいで、一体先生がどうされたのか判りませんでしたが、後にお聞きできたのによれば、とても大変だったようです。その後、私自身、体を壊し入退院があり、結局は岡山の合宿には参加できない体になってしまいました。今は山本邦山先生のレッスンを年数回ペースで大阪に来られて折りにご指導していただいている次第です。これも永廣真山先生のお声掛けがあったからです。
真山先生については、晴美先生に通いだした頃、某箏の先生(故人)主催の初弾きに参加させていただいたのですが、その折りにご一緒させていただいた事がきっかけでお話しするようになりました。真山先生の演奏も大したものでしたね。その真山先生宅で、邦山先生の稽古をさせていただいているのですが、また、真山先生の奥さんには一方ない御世話をお掛けしていつも大いに恐縮しています。
兎に角、邦山先生にとっては、不本意な生徒だと困惑されて居られることだと感じますが、厚かましくもいまだ押しかけてレッスンを受けています。
自分は、尺八の才能は皆無だと判っているのですが、今更、この年になって他に何をすると言っても、大したことも出来そうにありませんので、尺八にかじりついています。
邦山先生は一見気むずかしそうな感じの先生ですが、幾度か新大阪下の居酒屋にもご一緒させていただいたりして、話をさせて頂いていますが、とてもおもしろい先生ですね、実際。
何れにしろ、偉い先生というのは、寡黙、無愛想で見た目は取り付きにくそうですが、その実、優しい人ばかりですね。
自分では尺八を続けたことを、また、続けあれることを仕合わせに思っています。

令和元年になりました。
病院通いで、尺八もままに吹けません。
それでも、ホームページだけは、少しずつ書き足したいと思います。
韓国の横笛
2枚のCD写真左側をご覧ください。今から30年前に、韓国で買ったCDです。竹製の横笛(テグム)です。2尺3寸ぐらいの音でしょうか。箏のような伴奏で、禅音楽のような笛の、とてもいい音楽です。
リトアニアの竪笛(縦笛)
右側のCD写真は、ビルビネスと言う竪笛の楽器です。
CDと楽器と使い方の用紙です。
吉岡絃子年生とその生徒さんの5人の箏に、下手な尺八がフィンランドから、サンクトペテルブルクを経てリトアニアのまで国を演奏旅行をしてリトアニアに着いた時に、むこうの製作者に頼んで作ってもらつた民俗の彫り物入りの楽器です。
作るのに日にちがとてもかかるのですが、親切に作ってもらうことにしました。丁度、リトアニアの通訳の方が日本の娘さんで、向こうの方と結婚の時に、両親が来られるので、その時に持って帰る約束をして頂きました。
一節切尺八
CD写真の下は、一節切(ひとよぎり)尺八です。
50年ほど前に、大阪の5階百貨店で見つけました。
その下に、明笛の横笛があります。
この笛は、一休さんが一節切を吹いていらっしゃったころ、明から伝わったようです。(詳しいことは分かりませんが、中国の歴史の専門家に教えていただくようお願いします。)
20年ほど前に大塚竹管と言うとかろで買ったもので、中国の明時代のものかわかりません。
この頃、漢民族か権力を持つていて、官僚国家があり、六部と言う組織に典儀の様なものもあったので雅楽などもあつたのでは、と思います。一休さん(1394-1481)もその明から手に入れたのではないかと考えられます。
このころの日本の官僚は、乱れていたからです。
日本では、民族の争いというものは、北と南の国との争いがあったくらいで、(失礼な知識で申し訳ありません)あまり日本人には無関心ようです。
中国の場合は、この頃、モンゴルから漢民族になった頃です。
三味線
叔父さんは、富士芸能俱楽部と言う興行をやっていました。奥さんは、お多福さん(芸名)と呼んでいました。
女浪花節をしていましたが、いつか、叔父さんの手伝いをするためか、浪花節から足を洗っていたみたいでした。
三味線は、とても好きだったようで、袖で浪花節の伴奏や、民謡などの伴奏を仕事をかねて弾いていました。
叔母さんが亡くなった時に色んな種類の三味線をもらいましたが、私の身体も悪くなったため、箏の先生にみんなあげてしまいました。”ばち”は思い出のものとして、一部残しておきました。
その他
バラライカや月琴、アジアの楽器、縦笛等ですが、2018年の地震、台風の被害を受けて楽器もほっとらかし。
バラライカは、嫁さんに買って来るように言ったら、重たくて安いのを買ってきたそうで、そのままにしてあつたもの。
あとは、飛行機の中で久しくなったかたに貰った楽器です。

「写真」
尺八の写真の次に、
韓国の横笛のCD(韓国で寺を見学していた時、学生が近づいてきて、何か助けましょうかと言われたので、笛ことを聴くとCDなら有りますと売店を教えてくれました。傘を差した厚かましい女性はわたしの嫁さん)、それとリトアニア     の縦笛ビルビネスのCD。
そして下はビルビネス。
民俗の彫り物を彫って貰いました。
その下側、一節切(ひとよぎり)尺八。
次は、明笛です。
三味線の撥。
その下、バラライカとか月琴など。
そして、金属の縦笛。












今年は車の免許更新。認知機能の更新プログラム色々変わって、趣味どころではない。
嫁さんも、こどもの頃の元気はどこにもない。
歳は取りたくないですね。
昭和25年頃
自分の歳を考える時私がもうお別れの頃なのに・・・・・(大正3年3月妻の母の父葬儀)

一節切

明笛

ビルビネス