シーラス31(昭和39年〜?)





シーラス31は小豆島、岡崎造船で建造した(建造費は20万円強)もので、スナイプ、A級デインギーが全盛の頃でしたが、レースよりもクルージングと部員の技能修得を目的に選ばれました。何度も神戸、中突堤から加藤汽船の夜中の便で小豆島へ渡り、出来具合を見学しながら合宿したものでした。完成すると直ぐに、須磨沖まで100トンくらいの機帆船(当時の内海輸送に使われていた木造船で、エンジンの出力が弱く、逆潮では明石海峡が超えられないくらいで、帆を張って走っていました)で運び、海上で、時刻を合わせて待ち、受け取りました。(たしか?この後のシーラスも同様でした。)みんなの涙ぐましい努力で、手に入れたシーラス31は、将に「みんなの宝物」でした。大事に、大事に扱われ、何処で合宿しようとも一緒でした。琵琶湖の堅田での合宿も、2トンのロングボデー車を借りて夜中に陸送しました。とにかく、クラブ所有の艇はシーラス31しか無いのですから・・・。因みに写真に写っているのは須磨の海岸(今のように埋め立てられる以前)での進水式の様子で、人物は左から、塩塚(42卒)、田村(42卒)、シャンペンをかける岡本(41卒)、向う側は奈良山(42卒)、平野(40卒)、腕組みは安田(41卒)、全員、今年で60歳を超えます。
(投稿者匿名)

3月合宿などは、風が強く、シーラスは練習の度に、故障が発生し、最大45日間連続でハーバーに通いました。通算でも、練習より整備の回数の方が多かったように思います。実家が須磨から近かったせいでしょうが。でも3世以外は、木造艇であったので、整備が終われば、真っ白の船体!(よーく見ると、ペンキがたれてたりするのですが)嬉しかったな〜!
(島田宏氏)

31を購入した年の秋、淡輪レース(須磨から淡輪まで)で24ftクルーザーに混じり、一歩も引けを取らず、31は2時間弱で帆走しました(この時、初めて大阪湾を渡ました)。台風が近づいていたのですが、今のように気象情報も詳しいものではなく、各艇が気象通報による天気図を作成、午前5時スタート。直後は無風、紫かかった日の出前の海面が蒼色に変わったとたん、東風が吹き出し、やがて北寄りに、波頭が吹き飛び、砕けた浪が斜面を滑り降りる様は、まるでサーフィンのパイプラインか、広重の絵のような浪に、後ろを見上げれば、浪が天から襲いかかってくる様な恐ろしい光景でした。横を帆走る24ftを見ると、浪の頂点に持ち上げられた時は艇の前半分、キールの部分までが見え、次の瞬間、浪の斜面を砕ける波頭と競争しながら駆け下り、浪と浪のあいだに隠れたかと思えば浪の頂点に。31はセンターボード、ラダーが唸り、艇全体が震え、当て舵のタイミングが一瞬でもズレようものなら、下る浪をプレーニングしながら切り上がってしまう事に。モーターボートのようにプレーニングを繰り返しながら、一滴のアカも入れずに、かっ飛んでいました。今、あの時の光景を思い出すとゾッとします。台風を避けて多奈川漁港へ避難は正解でした(運良く、西田42卒、のお父さんが漁業組合長だったので、1週間保管をお願いした)。西田は今も元気に釣り船の営業をしてます。機会があればどうぞ。
(アルデイラVの匿名の方)