
平和セレモニーの様子
大久保南小学校平和宣言
1945年8月6日
私たちは、あの日の出来事を忘れない!
1発の爆弾が多くの命を奪いました。
もう戦争は、やめましょう。
もう核兵器を作るのは、やめましょう。
そうすれば私たちに平和がおとずれます。
これは、私たちの叫びです。
これは、私たちの祈りです。
世界に平和を、きずくための・・・。

原爆の子の像の前に立ち代表の人が平和を宣言しました。
私たちも祈りを込めて平和宣言を心に誓いました。
原爆の子の像は原子爆弾が落ちて3年後、
さだこさんの友達が原爆で亡くなった人のためにと、力を合わせて作ったものです。
あなたも広島に行ってみてください。
平和資料館では、さだこが折ったつるを見ることができます。
そして、原爆の子の像には今日もつるが送られ続けています。

みなさんは、原爆の子の像を知っていますか
ぼくたちは、原爆の子の像の前でセレモニーを行ってきました。
そこには、ぼくたちの小学校だけでなく、全国各地から小学生が集まっていました。
セレモニーで歌った歌は、「青い空は」という歌です。
青い空は青いままで、子供らに伝えたい。
燃える八月の朝。
影まで燃え尽きた。
父の母の兄弟たちの。
命の重みを肩に背覆って胸に抱いて。
みんなで、平和を祈りましょう。

原爆の子の像は佐z々木さだこさんをモデルとして作られました。
原爆の子の像を作るために全国からたくさんの募金が届きました。
そして、原爆の子の像によって世界中にヒロシマとさだこさんのことが伝わりました。
そして世界中から折りづるが届くようになりました。
しかし、核兵器は減るどころかどんどん増えています。
しかし、平和の願いは消えていません。
これからも平和であっていてほしいです。

上の写真は、原爆の子の像です。
原爆の子の像は,佐々木禎子さんや原爆で亡くなった多くの人たちのために作ったものです。
今から佐々木禎子さんの説明をします。
〜原爆の子の像ができるまで〜
1943年、佐々木家に元気な赤ちゃんが生まれました。禎子さんです。
禎子さんが2才になった頃、アメリカの飛行機が爆弾を落としました。
禎子さんは奇跡的に生き残りました。しばらくすると黒い雨が降ってきました。
これが、禎子さんが病気になった原因です・・・。
禎子さんは、元気でやさしくてカケッコが得意でいつも一番でした。
けれど、もう走ることはできなかったのです。禎子さんは入院をしました。
ある日、すてきなプレゼントが届きました。折鶴です。
「鶴を千羽折ると病気が治るよ」
友達がそう言ったのを思い出しました。
天井は、色とりどりの折鶴でいっぱいでした。そして、千羽できあがりました。
けれど、もう鶴を折ることはできず、私たちの知らないところへいってしまったのです。
さだこの家族、クラスの友達は悲しみました。
さだこの死をきっかけに、クラスの友達は立ち上がりました。
ピカのために死んださだこのため、
この戦争で亡くなった人たちのために原爆の子の像ができました。

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