文化財建築探訪   

 失われた建物   :                                                                        
名称 所在地 資料・記事
吉志部神社(きしべじんじゃ)


大阪府吹田市  平成20年5月23日未明に全焼。焼けた重文本殿は、三好長慶の孫、岸家次、一和兄弟の発願により、慶長15年、京都方広寺鐘楼の余った材木で完成したもの。鞘堂内にあり、豪華な唐破風屋根を載せた彩色豊かな桃山建築だった。 鎮守の森吉志部神社(発行 吉志部神社)
荒町消防屯所

八戸市荒町  大工棟梁後村三朗さんは、シベリア出兵で見たロシア正教のネギ坊主のついた屋根が忘れられず、帰国後の大正9年に実現させたのがこのネギ坊主屋根付き消防署。八戸の風物詩的存在だったが、20年ほど前に取り壊された。屯所建築は幾つかが各地に残るが、何と言ってもここのが楽しさでダントツ。文化財建築探訪家が探し求めていた建物がここにあったが、いまはもういない。近代化遺産として紹介されたほか、絵の題材にもなった。
 ここでは八戸をこよなく愛す金津匡伸日本・モンゴル民族博物館」(兵庫県豊岡市)館長に送って頂いた写真を紹介し、在りし日の姿を偲びたい。
なつかしの八戸」(八戸市博物館刊)など
増田彰久さん 雑誌「建築東京」VOL43(2007.2)P6 近代化遺産のカタチ
松岡整形外科病院

大阪市中央区北浜  昭和47年6月まで大阪中之島中央公会堂の対岸にあって、多くの画家の絵の題材にもなっていた美しい洋館。解体されて今はない。
 もとは光村合資会社(現在の光村印刷株式会社)北浜写真館として建てられたが、大正3年東京移転に伴い病院に改造された。病院は松岡道治京都医科大学教授が開業した日本最初の整形外科専門病院。
 写真館が日本最初の整形外科病院になったいきさつについて、京大整形外科創立に関する調査研究をされている廣谷速人先生からお便りを頂いた。
 それによると写真館創設の光村利藻は、趣味の写真が高じて美術出版業のパイオニアになった人。父親は周防国熊毛郡光井村(現山口県光市)出身で、25歳のとき、農業を嫌って村を出、郷里光井にちなんで以後光村と名乗り、洋銀相場で財をなし、神戸で実業家として成功している。山陽鉄道会社や大阪商船大学の発起人など、社会事業に多くの寄付をしたほか、回船問屋を創業して関西と中国、九州の定期航路も就航させている。一方松岡教授の本家は室積浦(現光市室積)で代々の回船問屋であり、定期便が寄港していることから、松岡、光村両一族には当時何らかの交流があり、写真館移転と病院開業がほぼ時期的に一致していることから(東京移転が大正3年8月、病院の開業が翌年の4月)、病院開業にさいし、松岡教授はこの建物を考えておられたと推理されている。
 病院への改造では、施設のみならず目立つ意匠への考慮もされている。そのなかで妻側の木組みの飾り、正面2階の一対の彫刻と櫛型破風が目を引く。また中央の塔部分は写真館当初のままで、初期の擬洋風建築の名残をとどめている。改造は宮廷建築家片山東熊とともに奈良博物館設計に携わった宗兵蔵があたったといわれている。
 ちなみに松岡道治教授の家系には、政治と医学に関わる人が多く、外務大臣松岡洋右は本家のいとこであり、佐藤栄作首相の寛子夫人は、別のいとこの娘さん。この系統はその後、岸、安倍家と繋がって、自民党安倍晋三議員へと続く。
菊池重郎著「明治建築案内」井上書院、
 大阪の西洋館の欄に泉布観、日銀大阪支店、府立図書館とともに紹介されている。

日本建築学会近畿支部報告
 「大阪市近代建築調査報告書」(昭和46年2月) P35に取り上げられている。本報告書は大阪の代表的な近代建築60件をリストアップしてランク付けしたもの。Aランクには日銀大阪支店、中央公会堂、綿業会館などが挙げられ、松岡整形外科病院は、和風建築の愛殊幼稚園、松竹座などとともにBクラスに選定されている。

松岡道治教授の生涯についての引用文献
 廣谷速人島根医科大学名誉教授の調査研究がある(日本医史学雑誌第51巻第3号;平成17年9月など)。

「利藻伝」
 光村利藻は15歳で父親を亡くしている。幼少で資産を受け継いだので住友総理事の広瀬宰平、伊庭貞剛が後見人になり、家訓として光村家法を残している。写真館当時の写真は利藻伝より引用。

室谷家住宅
 
神戸市須磨区  ヴォーリズ設計事務所の作品、登録文化財に指定されていたが、不動産屋に渡ったのが不運だった。老朽化と言う理由で取り壊しのはめに。登録文化財でも建物の保護は難しく、金沢湯涌温泉の白雲楼ホテルと同じ道を辿ってしまった。どこかで保存すると言う記事もあったが、須磨離宮前の松並木に沿った今の場所がよかったのに・・・。
工事用テントのかかった室谷家(2007.1.21)
醍醐寺経蔵

京都府山科区  重源上人の建てた大仏様建築。昭和14年夏、上醍醐を襲った山火事で焼失した。当時の惨状については谷重雄氏の「上醍醐の炎上」に詳しい。山には2000名近い人が結集、必死の消火活動をこころみたが、点在する建物に応援がままならず、午後3時から30分という短時間の間に経蔵は跡形もなく消滅してしまった。浄土寺浄土堂、東大寺南大門、同開山堂とならぶ貴重な遺構であったが、図面と写真を残してあっけなく失われてしまった。
 建物は正面より、縋破風と軒の組物が見渡せる側面側が断然良い。
・谷重雄「上醍醐の炎上」(『建築史1-6』 昭和14年)
古写真については、天沼俊一さんらの撮った写真が残る。
・岩波書店「醍醐寺大観」には写真と解説がある。
・図面については、文化庁の所蔵する国宝・重要文化財の実測図集(昭和44年3月)や、重要文化財醍醐寺開山堂・如意輪堂修理工事報告書(平成11年)に所収されている。
・貫の一部に中国建築に見られる短冊形の浅く窪んだ模様が見られる。今日遺例として残るのは、東福寺仁王門(万寿寺から移設)のみで、ここのものは短冊溝の間隔が広い

東福寺仁王門の
横短冊模様
ウイルキンソン炭酸生瀬工場


兵庫県西宮市塩瀬町生瀬  父が昔、ウイスキーを炭酸水で割るハイボールを愛飲していた。息子の私は瓶に残った炭酸水を飲んでみたが旨くも何ともなかったが、ウイルキンソンタンサンの名前だけは良く覚えている。社会人になって朝な夕な、この工場の前を通る鉄道を利用するようになった。工場がかなり老朽化し、ウイルキンソンの銘柄も影が薄くなっていた頃取り壊しの話題を耳にした。そのあと、あの阪神淡路大震災が起きた。地震の断層があるのに工場を取り壊してマンション建設が強行され、反対運動に対する妥協案として工場事務所が一部残されることになった。しかし、出来あがったものは古材をいっさい使わない保存とは名ばかりの代物で、内部に、ウイルキンソンの趣味であった狩猟の成果などが展示してあって、異様な空間である。 ・神戸大学の調査報告書あり。
岸和田煉瓦株式会社

大阪府岸和田市  キシレンこと岸和田煉瓦株式会社の詳細については、岸和田市教育委員会のHP「古写真から見る岸和田の文化財【4】」に詳しい。岸和田海浜部に5棟の楕円形ホフマン窯が存在し、そこで生産された煉瓦は重文山口県庁、議事堂などの建設に使われたほか、同志社大学の煉瓦造校舎にも使用されている可能性があるとのこと。写真は松田玉信氏の撮影されたものを拝借した。
阪急梅田駅旧コンコース


大阪市梅田 2005年9月13日朝刊に、改築中の阪急百貨店1階に残る梅田駅旧コンコースのお別れ記事が出ていた。取り壊しは13日営業終了時をもって開始とあり、急いで梅田駅まで駆けつけた。いつになく写真を撮る人に多く出会った。年配の男性は三脚で本格的な記録写真を撮っていたし、携帯で盛んにフラッシュをたく女性の人も多く見られた。大阪人にとってはこの駅も懐かしい思い出の場所である。 昭和4年伊東忠太設計。


 松岡整形外科病院 
                   昭和45年頃の写真。   

斜め後ろに中央公会堂
                                                                                                            

北浜写真館当時の写真

写真館開館式記念撮影

写真室内部

写真館待合室


中之島ボートレースの背景に写る北浜写真館 

 中之島中央公会堂の向こうに見える松岡整形外科病院

 松岡整形外科病院の取り壊しを報じる新聞記事(昭和47年5月30日朝日新聞 故松田玉信氏提供)
 八戸市荒町消防屯所
 八戸市博物館刊 「なつかしの八戸」ほか
正面に荒町消防屯所      昭和36年2月頃

近岡善次郎さん

 醍醐寺経蔵
 上記解説の写真を拝借しています。

苔むす建物跡

 ウイルキンソン炭酸生瀬工場    
 武庫川に沿って赤と白に塗られたきれいな工場が建っていた。この場所から下流数キロのところに宝塚歌劇場がある。

 岸和田煉瓦株式会社
 


 阪急梅田駅旧コンコース

額縁の様な彩色と
見事なシャンデリア

壁画は保存予定

写真を撮る人たち