稲作民俗の源流   Folk customs of rice growing
   寿 宝 寺

                                                                                      

本 尊
 十一面千手千眼観音立像

  (十一面千手千眼観自在菩薩)
   重要文化財指定

所在地 _
 京都府京田辺市三山木塔ノ島廿番地
山 号
 開運山 宗 旨 高野山真言宗金剛峯寺派

拝観:9〜17時  拝観料:300円
TEL:0774-65-3422  交通:JR三山木駅より徒歩5分


                    

 かつて寿宝寺のあった京都府綴喜郡田辺町の山本地域は,縄文時代後期(山崎遺跡)の石棒や石冠が発見され,また弥生時代前期 の田中遺跡・宮ノ下遺跡,後期の天神山遺跡・飯丘遺跡などがあり,木津川水系に恵まれた初期の水稲耕作地帯である。
『日本書紀』巻第十九の欽明天皇条に「廿六年夏五月(中略)置山背國。今畝原・山村高麗人之先祖也。」とあり「山村」が,この山本郷 である。そして,その山本に「上・下大神宮」の守護神を祈った。また,『續日本紀』巻第五の元明天皇和銅四年(七一一)条に「四年春正月丁未始置都驛 綴喜郡山本驛(以下略)」とあり,その「山本驛」に関係あると見られる道中・荒馬・垣内の地名 が残っている。
                                                  
沿 革

 開運山寿宝寺は,高野山真言宗の寺院であり人皇第四十二代文武天皇慶雲元年(704)の創建で,昔は「山本の大寺」と称し 七堂伽藍が備って和泉川(現在の木津川)ぞいの平野に梵鐘の響きを伝える大きな寺であった。しかし東方を流れる和泉川の度々 の大洪水により建造物を流失したので,それより西方に「一佛寺」を建てた。その後,正長元年(1428)八月二日の大洪水で 「佐牙・若松両社」廃壊,「一佛寺」も流水したが,永亨三年(1431)石戸村の西山を開発し,現在の「佐牙神社」境内にあ った法楽寺(三山木の廃寺)に観音堂を建立し一佛寺の残仏(十一面千手観音立像など)を安置した。
 寿宝寺は,かつてあった一 佛寺の北西およそ四百メ―トルの現在地に亨保十七年(1732)四月十七日創建され現在に至っている。なお,観音堂に安置さ れていた十一面千手観音立像は,明治初年の神仏分離令により寿宝寺へ移された。そして,昭和四十二年九月二十四日には,住職 檀家をはじめ地元の人々の発願で,前町民の浄財の上に国庫や府それに町の補助を受け,百八十万円の経費で鉄筋コンクリ―ト平 屋建て,耐震,耐火,防湿を完備した収蔵庫を建て落慶法要を営み十一面千手観音立像などを安置した。

 本尊の十一面千手観音立像(十一面千手千眼観自在菩薩)は,等身大の素木造りで左右二十の大脇手の前に,小脇手を扇状に隙 間もなく光背状に配して静的な平衡が保たれ,左右合わせて千の手には,目を印している。顔は温雅で浅い衣文の刀法に藤原中期 の様式を示し,大正二年四月国宝に,昭和二十五年八月二十五日に国の重要文化財に指定された。体内には,伝教大師四十二歳の 御作にして,厄除けの所願成就のために作られたものであるという,寛文年間(一六六一〜 一六七二年)の考証銘文が収められ ている。又,京都府乙訓郡の柳谷の観音と同じ樹で作られたものといわれ,願病治癒の願をもって参詣する人多く,霊験不思議 なることで知られる。
 この十一面千手観音立像は,大阪河内の「葛井寺」と奈良「東招提寺」の観音とともに,三大傑作の一つと して学者間に研究せられ,東招提寺の天平仏に見る手法であるが,しかし藤原期の穏やかなまとまりを見せていると言われている。  この像は白木造りにもかかわらず,虫食い等でいたんでいないのは,本堂で護摩木を焚く護摩祈祷の法要などをしていたからであ る。このため像は真っ黒に輝き,地獄の苦しみを救うて諸願を成就せしめて下さるにふさわしいお姿である。   境内には明治初年の神仏分離令により,明治八年二月廃寺となった蓮華寺(飯岡の西方南方斜面中腹にあった)から移された 聖徳太子立像(鎌倉時代の作,京都の仏師,尾の道浄信師作,太子十六才の像と伝える)と大般若経六百巻それに弘法大師,同じ く明治初年に廃寺となった恵日寺から移された本尊の不動明王尊像や五大明王の脇立二体,それに経本三百巻(残り三百巻は江津 の正福寺にある)も安置されている。
  鎌倉時代に作られたと伝える,聖徳太子像十六歳の立像は高さ一メ―トル余り,頭髪は耳で かくし,目にはガラス(玉眼)が入っており,顔は豊頬円満にして優雅な趣を持っている。又,境内の西側には慶長年間の石仏で, 五輪の中に仏像のあるもの等がある。一方,東側の現在公園となっている所は,四年前まで大池があったところで一名「鶴沢の 池」と称し,鶴が飛んで来ていたと申し伝えられている。  
 神仏習合 神仏習合については,右記の「一佛寺」は,秋祭に御輿が渡られたことが,田辺町興戸の「酒屋神社縁起」や「延喜式内佐牙神 社本源紀」に記されている。また現在の「延喜式内佐牙神社」に明治の初めまで神宮寺の「恵日寺」があったことや,寿宝寺の境 内に延喜式内佐牙神社の「お旅所」があり,毎年十月十七日の秋祭りに山本と江津の二基の御輿が渡御し,巫子による「湯立て神 楽」が行われている。これは本地垂迹説による神仏習合の行われていたことを示している。  
 十一面千手観音立像(十一面千手千眼観自在菩薩) 千手観音像は,初訳の「千眼千ぴ経」によると,七世紀初めにインドから本がもたらされたが歓迎されず,その世紀半ばに翻訳 され,観音の最高の徳をあらわすものとして信仰された。日本では八世紀半ばごろに盛んに信仰された,河内葛井寺の十一面千手 観音座像は,天平時代のものでわが国で最も古く,奈良東招提寺の十一面千手観音立像と共に有名であるが,京都府綴喜郡田辺町 大字三山木小字塔ノ島廿番地にある寿宝寺の十一面千手観音立像は,秘仏とされていて余り知られていない。一方,十一面の他に 二十七面を持った京都法性寺の「二十七面千手観音像」もある。なお,京都の三十三間堂の千手観音像は,二十八部衆と雷神・風 神を安置していて,裏側の廊下に侍者の二十八部衆を率いる像があり,菩薩を深く信仰するものを護衛している。
 観音の本願は慈 悲(仏・菩薩が衆生に楽を与えるを慈,苦を除くを悲という)を第一とする。千手千眼は,千の慈眼(衆上を慈悲の心で見る仏・ 菩薩の眼),千の慈手をして,衆上の苦海にあるのを救い出す,つまり,人の煩悩を除いて悟りを開かすことから,中国では大悲 観音として信仰をみた尊像である。
 千手とは,菩薩救済の手の及ぶ範囲が広大で,その方便が無量であることをあらわす。普通は 千手千眼でなく,中央の二手を除いて左右に二十手づつ,合わせて四十手像である。それは,一手が二十五有界の衆生をすくい四 十手に二十五を乗じて千手といい,一手ごとに一眼を持っているので千眼という。
 寿宝寺の十一面千手観音立像は,十一面千手千 眼観自在菩薩といい,実際に千の手を持ち千の眼によって人々を救ってくれるもので日本広しといえども大阪河内の「葛井寺」と 奈良「東招提寺」の観音とともに三体しかありません。四十手を大きく造りそれに持ち物を持たせ,他は扇を広げたように何層に も手を配置している。そして,持物を持たない手には,一つづつの眼を描いている。また,普通は中央に二手を持つものが殆どで あるが,この像は四本の手を持ち二本は中央で合掌,二本は中央下で定印している。
 この様に千本の手は観音の慈悲が極限・無限 を意味しており,最も強い力を持った観音と言える。十一面とは,頭上に十一の面を載せている事から付けられたものである。こ の十一の面には五種類の表情があり,中央髪の上の仏面は如来で頭を丸く盛り上げ,大乗を習い行ずるものに対して最終最上の仏 道を説く,その正面の手前三面は慈悲面でやさしく善良な衆生を見て大慈悲を生じ楽を与え,その右横の三面は忿怒面でこわい顔 をし悪い衆生を見ては一慈悲を生じ苦を抜く,左横の三面は狗牙上出面で口元に上向きの牙を出し浄業者を見て希有の讃を発し仏 道を勧進する,真後ろの一面は大悪笑面で大きな口を開けて笑い善悪雑穢の衆生を見て快笑し悪を改め道に向かわせる。このお姿 は,人間の災厄に際して十一面観音が大きい力を示して下さる事を現している。
  十一面千手観音の心  平安時代には近畿に観音信仰が行われ観音霊場三十三カ所巡りが始まり,現在でもさかんである。花山法皇に始まるという霊場 は観音信仰であり,その中でも千手観音が一番多い。観音の本質は慈悲であり,悪い衆生には怒りの相を,良い衆生にはほめてや り,いやしい衆生には己のみにくさを覚えさせ,善に向かわせねばならない。つまり,その時と場所に応じて使い分けをする人間 こそ良い人間であると言っている(「定本 仏像 心のかたち」日本放送出版協会)。頭上の十一面のうち一番後ろの大悪笑面は, 他の三面に対して一面なのは,人間をあざ笑うことはしてはならないと言う意味であろう。一方,千手観音は千の眼で人間を救っ て下さる。眼が認識を,手が実践を表し,千手は実践の力を表している。四十本の手にはそれぞれの願いを込めた物を持ち千眼で 人間の苦難を見た観音は,千手で救うのである。寿宝寺の十一面千手観音立像をじっと見つめていると,何ともいえない神秘的な 仏の心に成った気持ちになる。森竜吉氏は「観音信仰は農耕社会と関係を持っていて無限に生産し変化する自然の力,大地の力が 観音ではないかと言っている。

寿宝寺のパンフから


寿宝寺の宝物(大正拾弐年九月参拾日の古文書から)

  本尊阿弥陀如来 木座像厨子入御丈壱尺八寸 壱体
  千手観世音(国宝)木立像厨子入御丈五尺 〃   
  聖徳太子 木立像厨子入御丈三尺六寸 〃   
  不動明王 木立像厨子入御丈六寸五分 〃   
  薬師如来 木立像厨子入御丈壱尺二寸 〃   
  大日如来 木座像   御丈壱尺五寸 〃   
  十一面観音 木立像   御丈壱尺六寸 〃   
  弘法大師  木座像 御丈壱尺三寸 〃   
  伝教大師  木座像 御丈壱尺三寸 〃   
  金剛夜叉明王  木立像 御丈四尺五寸 〃   
  降三世明王  木立像 御丈四尺五寸 〃   
  地蔵尊  石立像 御丈二尺五寸 〃   
  地蔵尊  石座像 御丈二尺 〃   
  涅槃像 紙 地 縦六尺横四尺 〃   
  釈迦誕生佛  銅立像 〃   
  両界曼茶羅(破損) 紙 地 縦壱尺七寸横壱尺三寸  弐幅   
  紅波梨弥陀    絹 地 縦壱尺五寸横壱尺 壱幅   
  不動明王   絹 地 縦五尺横壱尺三寸 壱幅   
  十二天    紙 地 縦四尺五寸横壱尺二寸 弐幅   
  五部秘経  十五冊 全部   
  大般若経  箱入 六百巻   
  法華経  八冊 壱部   
  遺教経  弐部      

昭和六拾三年六月十八日 記す    


上記内容の詳細は、下記の本で御覧になれます。

 2001年2月下旬に、「稲作民俗の源流―日本・インドネシアー」

題名『稲作民俗の源流―日本・インドネシアー』
上記本の写真と内容 詳細は左をクリック!

タイトル  稲作民俗の源流 〜日本・インドネシア〜
初版発行 2001年2月20日
発行所 文理閣 図書出版
 〒600−8146京都市下京区七条河原町西南角     
定価  5000円+税

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         通信欄  稲作民俗の源流〜日本・インドネシア〜
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