新・武士道 −いま、気概とモラルを取り戻す−   
 岬 龍一郎著(講談社+α新書)

  


   「序章 日本人の魂はどこえ消えた?」の抜粋

地に堕ち果てた日本人のモラル  
    いらだちと得体の知れない不安がいま、日本の社会に渦巻いている。  
    日本はどうなってしまったのか。 
    われわれはなにを求めて、ここまで来たのだろうか。
    そして、これからなにをめざして、どこへ行くのだろうか-。
 戦後五十余年、われわれは新世紀のニ十一世紀を迎えたというのに、いまの日本は「第ニの敗戦状況下」にあるといわれている。 たしかに戦後、われわれ日本人は、文字どおりの献身的な努力と勤勉なる働きにおいて、この国を廃嘘から経済大国へと復興させた。 とくに一九八○年代は、「ジャパン・アズ.ナンバーワン」といわれたように、 明治以来の 「欧米諸国に追いつき追い越せ」 とかかげてきた近代国家の目標を達成した。 
 ところが、その繁栄に浮かれたのもつかのま、 どこでどうまちがったのか、 それはバブル崩壊となってうたかたのように消え去り、その結果として、 日本は未曾有の経済不況におちいった。 金融機関には大量の不良債権が残り、あまたの企業は倒産の影におびえ、中高年はリストラの名のもとに解雇され、若年層の就職率は戦後最悪となっている。 「第二の敗戦状況下」といわれる所以である。
 そして、その“敗戦”の光景をあぶり出すかのように、人の心は荒廃し、これまで予想だにしなかった少年犯罪やわけのわからぬ変質的な事件が多発している。また一方では、国民の安全と生命を守るべき職業の政治家やキャリア官僚たちが考えられないような不祥事を起こし、 本来、倫理の担い手とされる弁護士、医療従事者、警察官、教育者までもが犯罪の片棒をかついでいる。日本人のモラルもここまで低下したのかと驚かざるをえない。 
 こうしたモラルの崩壊は、未来を担う子どもたちの世界ではいっそう顕著にあらわれ、不登校はあたりまえとなり、いじめの問題はさらに深刻化し、自殺者も急増している。 潜在化する不満のためか、 学校は「荒廃」から「崩壊」へと進み、 中学生がヤクザ顔負けの恐喝事件を起こし、あげくのはては小学生が覚醒剤事件で補導されるといった事態である。 また目を大きく見開けば、異常気象は日常語となり、空からは酸性雨やダイオキシンが降りそそぎ、地球の環境汚染問題は連日のごとくマスコミを騒がせ、いまや”宇宙船・地球号”は瀕死の重態となっている。 
 日本は、世界は、地球はどうなってしまうのか。もしかしたら、豊かさと便利さだけを追い求めてきた”天罰”が下ろうとしているのではないか……。 いまや多くの国民は、未来に対して得体の知れない不安を抱き、このままで政治はいいのか、これまでの価値観をもちつづけていいのか、と迷っているのが現状である。だが、こうした事態に対して、リーダーシップをとるべき政治家や官僚たちは「改革」を叫ぶものの、ただ右往左往するだけで、なにひとつ適切な対応も指針も示すことができないでいる。 すでに近代国家の目標を達したというのなら、ニ十一世紀に向けての新たなる「新・国家目標」たるものが必要であるにもかかわらず、政治家たちは相も変わらず私利私欲の権益だけを考え、官僚・役人たちはただの“税金食い虫”となって、わが身の保身だけに動きまわっている。そこには指導者層としての自覚も責任も感じられない。 なにかがおかしい。ビこかが狂っている……。こうした思いは、けっして私ひとりの思いではないだろう。
神話の終篤を告げた一九九五年…省略
”キレる”若者は誰が作ったのか…省略
世界に類を見ない「援助交際
 そしてこの戦後五十年という年に、私がもっとも日本の危機を物語るものとしてゆゆしき問題と感じたのは、精神的価値観の崩壊すなわお戦後日本人のモラルの喪失だった。 …以下省略
抹殺された「修身」「道徳」 
  それにしても、どうしてこのような社会になってしまったのだろうか。 戦前と比較して、われわれ現代人は、なにをなくしてしまったのだろうか。私はそれを、個々人の「自律心」のなさだと思っている。 すなわち、「かくあるべし」という志のもとに、自分の心を律して生きる「意志力」のことである.もっと端的にいえば、 現代人の心から、人が人としてまっとうに生きるべき 「気概の精神」とか「道徳律」とか、いわゆる 「身を修める」 といった自分を磨くための教育が、家庭からも学校からも社会からも消えてしまったことがその最大の原因ではないか、と考えている。そのツケがまわってきたのだ。
 「修身」や「道徳」などといった言葉を聞くと、あの忌まわしい戦争に駆り立てた精神主義を思い出すので嫌いだとアレルギーを示す人がいるが、本来の “人の倫(みち)” である修身や道徳がまちがっていたわけではない。それを利用した軍国主義国家が誤っていたのであり、どのような時代でも、いかなる国家でも、動物としての人を人間たらしめるには、自己研鑚としての修身や道徳は不可欠のはずである。 …以下省略
「武士道」は過去の遺物ではない
  かつてわが日本には、先の「自律心」を「気概」という徳に高めた精神があった。「かくあるべし」のきびしい自己規律をもって、それを行動の美学とした精神文化があった。それが「武士道」といわれるものである。 
 武士道などといえば、いまの人には封建的な過去の遺物としか見なされないだろうが、はたしてそうなのか。たしかに武士道は、特権階級の武士が守るべき道徳律として誕生したが、その崇高な精神は、時代の変遷にともない、 さらには社会の状況に呼応しながら研鑚され、 武士のみならず広く一般にも普及し、日本人の普遍的な倫理道徳観となったのも事実である。  そして、もっとも武士道論議が活発となったのは、江戸時代より明治になってからのことで、この国民的精神があったればこそ、 日本は欧米列強に伍する近代国家を創ることができたのである。 このとき日本人を鼓舞したのが、 「明治武土道」 といわれる『新・武士道」だった。 したがって今日、武士道といった場合、 それはこの明治期になってあらためて体系化された新渡戸稲造の「武士道」をもって理論的支柱とする、というのが通説である。…中略
  のちに福沢諭吉は「痩我慢の説」という論文のなかで、この武士道精神を 「国家国民の要となった精神」と評価している。 たしかに、その“痩せ我慢"があったからこそ、日本はアジア諸国に先がけて明治維新を成り立たせ、 西欧列強の植民地にもならずに、近代化に成功したのである。
新たなる「平成武士道」を築け! 
  では、ふりかえって現在の荒廃した日本人の現状を見るとき、われわれはこうした国民的精神といったものをもちえているのであろうか。 答えは「ノー」である。 われわれ日本人がなくしたもっとも大切なものは、じっはこのバックボーンたる精神ではなかったのか、と私は思うのである。 バックボーンたる精神を捨てれば、それに代わるものとして登場するのは、目に見える物質主義となるのは必然である。いわば戦後の日本が、経済至上主義のもとで効率主義だけを追い求め、私利私欲のエコノミック・アニマルと化したのは、当然の帰結だったといえる。そして、その結果として“拝金教”のみを信じ、社会人として守るべき公徳心を捨て、人情をなくし、心はささくれだち、住みづらい世の中を作ってしまったのだ。いかに物質的に豊かになったとしても、人間が感情的動物である以上、精神的な豊かさがなければ、人はけっして幸せなど感じられないのである。 賢明なる明治の先達たちは、それを知っていたがゆえに、開国によって怒涛のごとく押し寄せてきた文明開化の嵐のなかでも、日本人の伝統的精神を忘れないようにと、「和魂洋才」なる思想でそれに対抗したのであった。じつは、この「和魂」こそ、武士道精神であったのだ。 それは武士道が、 長い歴史のなかでつちかってきた日本人のバックボーンだったからである。 だが、戦後の日本人は、この「和魂」すら捨ててしまって、「顔のない日本人」と評される国民となってしまっている。 日本人の誇りと気概を取り戻すためには、どうすればいいのか。かっての日本人がそう呼ばれていたように、いま、ふたたび「美しい日本人」といわれるためには、どうすればいいのか。 こうしたことを考えるとき、私は、かっての日本人が築き上げてきた武士道精神を、いま一度、国民の精神として想起すべきではないかと思うのである。 …以下省略