京都地方自治ネットレポート20060814
京都市職員の不祥事と自治体労働者
 最近の新聞テレビで京都市職員の逮捕、不祥事に関する報道がたて続きに行われている。いったい京都市はどうなっているのか。なぜ、こうしたことが拡大しているのか。職員の不祥事・犯罪の連鎖がどのようにして起こっているのか。大阪市の職員厚遇問題に端を発する公務員批判の拡大、ヤミ専攻撃などにますます拍車をかけるのではないか。などなど様々な意見が出されている。
 不祥事は京都市に限ったことではないが、この問題と自治体労働者の現状がどうなっているかについて、若干の論評を行ってみたい。いま社会的に公務員批判が蔓延するなか、自治体労働者とはどうあるべきなのか、自治体労働者像の追求も労働組合などは市民団体とも協力して議論を活性化すべきであろう。
 同じく、岐阜県の行政組織ぐるみの裏金づくり(年間4億円を超える)も報道されている。が、なんと労働組合の組合活動費にも裏金が使われていたという。また裏金を労働組合の組合の金庫に保管?との報道もある。本来、行政の腐敗などのチェックは、労働組合の役割として住民からも期待されるところである。にも関わらず、「同じ穴のむじな」的な存在としての労組の存在など、あらためてまともな自治体の発展を願うものとして見過ごすことができない問題が、存在しているように感じる。

 そもそも「自治体労働者とはなにか」ということは、60年代後半から70年代にかけて、革新自治体運動が全国に広がる中で大いに論議されたものである。「住民の繁栄無くして、自治体労働者の幸せはない」という大阪衛都連の行動スローガンはあまりにも有名である。革新自治体が広がる中で、当時の自治体財政の困難な実態をとらえ、自民党などが職員の人件費攻撃を集中的に行った。「革新自治体では労組の言い分がとおり、自分たちの賃金を引き上げることに熱心で、自治体財政を顧みない」という攻撃である。これに対し日本共産党が1975年に「住民本位の行政を効率的な機構で−地方自治体の人件費問題その他をめぐる日本共産党の見解」というのを発表、当時の自治労と大論争を繰り広げた。
 日本共産党の主張は『住民本位の行政を効率的な機構で』ということである。具体的な内容は、「その機構、職員組織、給与、勤務条件などは、国民本位に組織され運営されるべきものである。」「人件費をふくむ自治体の行政費用は、住民負担の点からいっても、なるべく少ないのがよいのは当然である。しかしそれは、行政機溝の関与ができるだけ少ないのがよいという旧来の大資本横暴放任の立場ではなく、住民の生活擁護、大企業の民主的規制などのために行政機構が積極的に活動することの重視を前提としたものである。」「自治体の職員定数などは、全体としてできるだけむだのないものであるべきだが、住民福祉に直結するような部門とそれに必要な職員数は十分確保し、事実上大企業や一部の特権勢力への奉仕をおもな業務とする部門や職員の統制管理を主任務とする高級職員などをなるべく少なくするべきである。」「職員の給与、労働時間その他の労働条件は、その生活と労働者としての基本的権利を守り、住民への奉仕のため積極的に働きうるのを保障するものでなけれはならない。しかし、それによって住民へのサービスを低下させ、あるいは一部の高級職員に特権をあたえるようなものであってはならない。」「住民の側からみて、行政のそれぞれの機構や手続き、その責任者などがわかりやすく、また住民の意見を反映しやすいものでなければならない。行政の機構や手続き、それらこかんする内規等は、金権、暴力、不公正を許さず、公正で民主的に住民に奉仕する立場をつらねいたものでなければならない。」「公正で民主的な行政を効率的に執行していく見地から、機構や運営の改善がたえずはかられるべきであり、必要な幹部職員の登用や適時の人事異動なども積極的におこなわれるべきである。」など、今からみれば普通の行政論である。
 自治体労働者像については、自治労と袂を分かった自治労連が1994年に発表した「自治体労働者の権利宣言(案)」にこう述べている。「住民自治を基本とする地方自治体は、こうした基本的人権(憲法の言う)を保障するための『住民のいのちと暮らしを守るとりで』として重要な役割を担っています。また地方自治体は、この国の民主主義の重要な土台でもあります。」と地方自治を位置付け、「私たち自治体労働者は、この憲法の要請に応え、すべての住民の健康で文化的で平和な生活のために、仕事をつうじて努力することを責務とし、誇りにしたいと願っています。」「住民生活の繁栄と地方自治の発展が、自治体労働者の生活と権利を守り、誇りと生きがいをもって働くことのできる道です。私たち自治体労働者は、すべての住民とともにこの道の実現のためたたかう決意」と自治体労働者の責務と決意を明らかに宣言している。

 こうした本来の姿を追求する運動の流れと、実際に起こっている職場での荒廃などについて、具体的な議論が必要だと感じられる。なお、情報の公開や「説明責任」などのシステムが強調されだしているが、最近、本来の自治体の職務・機能が低下し、職員にも民主的な姿勢を維持するゆとりがますます無くなっている。これは、政府や財界が日本の国のシステムとしての競争主義などが広がり、効率化と称する労働強化が蔓延しだしていることが大きな原因だ。こうしたことが職場の荒廃の大きな背景であるとは、多くの自治体労働者の証言からも明らかである。

 さて、こうした背景や問題意識を飲み込んだうえで、京都市職員の不祥事について概括してみたい。まず今回の京都市職員の不祥事は、職員のミスや程度の行きすぎとか言う問題ではなく、明らかな犯罪行為の連続だと言うことである。このモラルの低下は、すでに市民的道徳すら逸脱していると言える。政令他市との比較でも、「ダントツのトップ」(京都新聞報道)だそうだ。この際、京都市は状況をすべて明らかにし、原因や背景をも究明したなかで対応策を市民に示す責務があると思う。

(1)京都市での連続した不祥事は「同和選考採用」が原因の一つと市長も認めている。このことは、職員であれ、記者であれ京都市政に関われば誰でも分かることであるが、これまで事件の度に指摘はされても、市長も含め表面上明らかには言わなかった。
 採用について、「職員の任用は、この法律の定めるところにより、受験成績、勤務成績その他の能力の実証に基いて行わなければならない。」「職員の採用及び昇任は、競争試験によるものとする。但し、人事委員会の定める職について人事委員会の承認があつた場合は、選考によることを妨げない。」という定めが地方公務員法(第二節 第十五条以下)にある。京都市の同和採用問題は、1969年11月京都市の「同和対策長期計画第一次試案」に「同和地区住民の京都市職員への採用を促進」と書いてあるのが最初である。それまでも、一般的には縁故採用などと言われる採用も広く見られていた。これ以後京都市は、現業職をこうした選考採用の職として、同和雇用を拡大していったのである。
 縁故などの採用は、決して京都市だけの問題はないし、同和採用も規模の大小にかかわらず他の自治体でもある話であり、大なり小なりの問題を抱えているのではないかと推察される。したがって、京都市のこととするだけでなく、自治体の採用などのあり方についての問題であると考え、教訓化し、制度化することも必要である。
 ここで、京都市の選考採用問題について、大きな弊害を生んだ原因として、解放同盟など同和団体に一定の採用枠を与え、その推薦で雇用していた京都市の特別なやり方が指摘される。同時に特別指定職という制度をもうけ、現業から一般事務への転任を容易にした。一定期間指定職に勤務すれば事務職への転任が出来るというものであった。こうした特殊な採用制度の中でなにが起こってきたのかを見てみたい。なお、これらの制度は、この数年の間に縮小ないし廃止されたという。

(2)選考採用のなかでなにが起こってきたのか
 京都市職員のなかでは、「○○部局は200万円、○○部局だと300万円。まっ○○部局は100万円」というように、同和採用で金品の授受が行われていることなどが、日常会話になっていた。しかもこのことが職場での規律の乱れの大きな原因でもあった。服務規律について注意された職員は「わしは、○○に○○払って入ってきたのや。金払っているのに文句言われる筋合いはない」と。まったく市民社会では通用しない言い分が、職場で飛び出す状況があった。
 同時に注意した職制や管理職が暴力をふるわれたが、上司になだめられ泣き寝入りなどの事件も多発してきた。また「校長先生より偉い用務員さん」というような言い方がささやかれる実態もあった。行政が同和団体に屈服し、採用などの重要な任用行為をも同和団体に丸投げした姿の帰結である。1970年代後半から顕著になった同和雇用の弊害、団体対応主義の同和行政の弊害(つけというべき事態)がいよいよこうした形で現れてきたと言える。京都府内にも行政の主体性を失った「同和」行政が残っていないだろうか。この点では、あらためて点検が要求される。
 また、京都市は他自治体にない特別指定職制度という制度で、現業職から一般職への転任を容易に進めてきた。これも職場での不具合を促進している。一般事務についていけない職員なども増えている。職場での非正規労働者の増大と正規職員との待遇の乖離。正規職員の中での労働能力の違いや労働規律の乱れ。などなど、現場からの職員の訴えは深刻である。

 こうした採用で就職した職員も加入する京都市職労は、労働組合としてなかなか正すための動きをとりきれない実態も振り返れば反省すべき点であった。しかし、職員有志の中では同和問題の学習会を組織し異常で不正常な事態を浄化するために立ち上がった人たちも少数ながら存在した。またこうした状況の中で、職員の中にはマスコミに情報を流すものもいたが、同和タブーがマスコミを支配しており報道はおろか事情を調査することも最近までなされなかったのではないか。

 こうした同和問題における相乗的な閉塞感のなか、同和採用で雇用された職員の一部の者が、「何をしてもエェにゃ」と思い、市民的な道徳や自治体労働者としての責務などかえりみない考えや行動へと陥ったのではないか。このような職場規律を失わせる「同和」問題への屈服とタブーの体質が今回の事件多発のおおきな原因である。「選考採用、特別指定職制度は、市政にとってボディブローのようなものだ」とずい分以前から指摘されてきたが、その「マイナス効果」が集中的に現れてきたように思える。あらためて、早急に「同和特別」あつかいと市民的道徳に反する行動の調査と公開、および毅然たる改革が必要である。

(3)一部とはいえ公務員である京都市職員の荒廃ぶりはどうしたことだろう。あらためて警鐘を鳴らす必要を感じる。それとともに、政府の意図的な公務員攻撃のかっこうの材料を提供している自治体労働者の現状を打開する、本当に必要な労働組合運動の活性化、職場で悩む労働者を激励し立ち上がることを促進できる、階級的民主的な自治体労働運動が求められていると感じる。
 京都市の場合、労働組合の分裂も大きなポイントであったのかもしれない。京都市職労から脱退した職員が結成した自治労京都市職は、部落解放同盟が結成の最大の後ろ盾であった。同和地域に「自治労市職に入ろう」という桂冠旗の解放新聞号外が配布された。同和地域での公務員、なかんづく京都市職員の比率が異常に高い中でおこなわれた行動であり、これ自体が就職の異常さをも物語っている。以後、採用前から自治労市職の加入書をもらった職員が採用されることが続くのである。当然、自治労市職はこうした「同和」特別施策の解消に否定的・消極的であり、京都市職労は積極的になる。京都市は与党宣言をする自治労市職のご用組合体質を擁護し、庁内では昇進や異動にも所属組合の陰があるのではという話すら出ることもある。
 岐阜での裏金問題の全容は明らかではないが、内なる惰性が生む荒廃は、労働組合の正職主義・企業内主義の弊害の一側面でもあることを証明している。自治体労働者が組合運動などを通じて、地域の民間労組、市民団体などの人々との交流が促進されることは、こうした職場の荒廃を打開する、重要な学習の場でもある。(当局の廃止すべき同和研修などとは比べものにならない)これは、民主主義を職場に活かすこととも連動している。職員の中には、自らの仕事を批判されるのは当然いやなものである。しかし、激しい行革攻撃の中だからこそ、知恵を活かし民主的に協力した仕事の仕方が求められる。そうでないと住民生活擁護などの課題は吹っ飛ぶからである。これが出来なければ、自治体は住民生活からますます無用の長物となり、そこに働く公務員=自治体労働者も、住民から見れば不必要で税金の無駄遣いに写る存在でしかなくなるのである。さらに言えば、労働組合の存在もますます重要である。行革の中で「上位下達」の仕事の仕方が蔓延している。職場でも個人の意見は尊重されない。しかし、現場からの意見抜きにまともな行政は推進できない。だれが意見を言うのか。行政の暴走をだれが止めるのか。JR福知山線の事故の教訓からも労働組合の役割は重要である。
 自治体労働者はいかに行動すべきか、現在の情勢からも非常に明らかで、「資本からの独立、政党からの独立、一致する要求での共同」という労働組合の行動指針が、あらためて求められているのである。

(4)もう一つ言わなくてはならないのは、「同和」として行ってきた雇用もふくめた施策が同和問題の解決に逆行している点である。現場での荒廃の状況はすでに述べたが、自立ができない子どもたちの状況も深刻だ。多くの現場教師や保育士などが子どもたちをみて心配する事態を訴えている。センター試験で良い成績を取るために学習センターの授業があり、結果試験は良くとも、入学後の高校での学習にはついていけないという事実。学校の先生が、「どうせ、京都市に就職できるんやから勉強などする必要ない」という子どもがいる、とこぼしていたこともある。こうしたことは子どもの成長にマイナスであり、同和問題の解決にもつながらない。利権あさりの運動団体はともかく、京都市などの対応を考えると本当に同和問題の解決を考えているのかと筆者も疑問に思うことも多々あった。
 この点での市長を始めとした行政責任は大きいと言わざるえない。水平社宣言から始まる、自由と民主主義実現を大目標とする部落解放運動の神髄は、「自分さえ良ければ」などという狭隘偏狭な制度や行動を排除する人間宣言でもあった。先達は、部落差別の解消を求め自由と民主主義に満ちた社会の実現の先頭車たらんとしたのである。こうした「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」とする思いから、今の現実がいかにかけ離れているかということをハッキリと言わなければならない。

 京都市職員の反社会的な事件と逮捕者が続出している状況は、最近始まったものではないが、最近ますます状況は悪くなっている。思い切った改革を行っても十数年かかるという職員も多数いる。しかし、改革を行わなければ市民を裏切るような実態はますます増長されることになる。市民から大きな批判が広がるなか、正義感を持ち勇気ある職員の方々が立ち上がられることを大いに期待する。

※「もうやめへんか『同和』」(同和行政・同和教育を考える会編)(1996年8月かもがわ出版)などを参考

日向誠ひゅうがまこと(自治体問題研究家)

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