初めての沖縄
生々しく当時の様子を伝える米須小学校裏のガマ
バスを降りたすぐ目の前の、グランドに入る鉄製の門の向こうに大きなガジュマルの木が生えている。結構見事な木だ。夏休みでなければ子ども達の何人かはこの木の下の日陰に寄って話しているのではないか。
そこからなだらかな坂道を
10メートルぐらい上って米須小学校の校門を入る。校舎の裏手に回りこむようにしてさらに少し上ると林の中に、木は生えていないが草ぼうぼうの道のようなちょっとした広場のような所があった。校舎の裏手に行く道との境目にはハブが入って来ないように設けられた網の柵が張り巡らされている。その柵を乗り越えて草の生えているところへ入っていく。2、30メートルも行って林に入るとすぐに、糸数の壕などと違って入り口からもうほとんど直角に落ち込むようにガマが口を開けていた。案内の大城さんも、最初入ってからもう7、8年も入っていないという。大城さんに続いて何人かの人が降りて行ったが、かなり難しいらしく一人降りるのに5分くらいもかかる場合がある。一人の女性は途中であきらめて上がってきた。履いている靴が、ペタペタのすぐ脱げるモカシンだったので少し躊躇したが、ここまで来て入ってみない手はない。懐中電灯をGパンのポケットに突っ込んで、カメラを首にかけて降りて行った。昨日までの雨でぬかるんでいるのと、長く伸びた木の根っこが何本も這っていて滑りやすい。しかし、そこは昔とったきねづか、三点確保しながら降りて行けばなんということはない。4、
5メートル下ったら少し緩やかに広くなっていた。懐中電灯を手に持ってすぐに目に入ってきたものは欠けた茶碗や皿や醤油ビンのような割れた一升ビン。ここもやはり天井は黒く焼けた跡があった。火炎放射器で焼かれた跡か。右手のすみには5、6発の機銃弾らしき物が錆びついて置いてあった。皆、しばらくそこで呆然としていたが、さらに奥へと降りて行ってみようという者がいて、私もそれについて降りて行った。黒く焼けただれた着物らしい物が岩角にぶら下がっている。大城さんは、おそらく火炎放射を浴びて焼かれた住民の着物だろうという。大きさからみて大人のものではなかった。10歳ぐらいの子どものもののように見えた。軍靴らしい鉄鋲をたくさん打った靴底もいくつか朽ち果てて残っていた。この壕では70数家族が火炎放射とガス弾で全滅したという。助かったのは当時10歳ぐらいの子どもがたった一人だけだったそうだ。全ての灯りを消して皆で黙祷した。
■第一日目(7月25日)
乳白色がかった青緑の海・環礁
以前からずっと気になりながら、訪ねる機会がなかった沖縄。来年の修学旅行先が沖縄に決まったので、是が非でも一度は行っておかねばならないと思っていた。安倉中学校で一緒に勤めていた大黒さんの紹介で10数年前から沖縄修学旅行を実現してきた私立大阪高校の岡本さんを紹介してもらい、この一月におたずねしたとき是非にと勧められたのがこのツアーだった。
関西空港を飛び立ったのは午前9時半。1時間50分で那覇空港到着である。窓側の席だったので飛び立ってからずっと下を見ていた。明石海峡大橋や四万十川が見えた。なかでも吉野川をさかのぼる中央構造線がくっきりと見えたのには感動した。沖縄に近づくころになると海の上に白いしみが小さな斑点状に見える。何かなあと思っていたが下降するにつれて解ってきた。風が強い日だったので、波頭が白く見えていたのである。いよいよ那覇空港に着陸する体勢に入った。ところが、いったん着陸体勢に入った飛行機が再び上昇を始める。ハイジャックがあってすぐの時でもあり、何事が起こったのか少し不安になる。アナウンスを聞くと、那覇空港が豪雨のために着陸できないのでいったん上昇するという。幸いなことに1回旋回しただけで再び着陸体勢に入った。しかし、この間に貴重な物を見ることができた。旋回中に下を見ると、本島から少し離れた海中に白い波の輪が見え、その中が他と違って乳白色がかった青緑色になっている。サンゴ礁だ。環礁だ。よく見れば、本島に打ち寄せる波も岸の少し手前で白く崩れている。サンゴ礁の故だ。11時半ごろ那覇空港に着陸した。
まったく「うっかり」を通り越しているが、このあと初めて、今回のツアーの要項をしっかり見た。集合時間は午後1時半、まだ時間はある。集合場所の図を見て見当をつける。そのあと、持ち物に「懐中電灯と軍手」とあるではないか。当然といえば当然であるのに、このときまでまったく考えてもいなかった。せめて懐中電灯だけでもどこかで手に入れなければならないだろう。
待っている間に昼食をとろうと、空港内の軽食をとれる場所に行った。注文をしようとしてそこで働いている人を見ると、一目で「ダブル」とわかる顔をした若者である。ああ、沖縄に来た。カツカレーとオリオンビールを頼んだら、ビールと喫茶店のマッチ(今ごろそんなものない?)くらいの大きさの番号のついた黒いかたまりをくれた。これで支払いを済ませて待っていてくれと言う。言われた通りにしていると、いきなりその黒いかたまりからメロディーが流れ出した。びっくりした。これができあがった知らせなのだった。
吉浜忍さんと宮城喜久子さん・お二人の講演で始まった
1時半に集合場所に行った。「エアー沖縄」の担当者が参加者の名前を呼んで確認をしているとき、一度会ったきりで顔を忘れていた大阪高校の岡本さんを確かめておいて、点呼が終わってからあいさつをした。早速バスに乗り込む。出発。
バスが動き出すとすぐに「平和ネットワーク」の村上有慶さんの名ガイドが始まった。左手がもう那覇の軍港であると言う。ただし、水深が浅過ぎて今ではもう使用不能。したがってどこか新しいところに移転して、早くここも「返還」したいのが米軍の本音とか。基本的にアメリカが「返還」を口にするところは今のままでは何か不都合があるところというのが常識らしい。
この日のメニューは沖縄県公文書館見学と吉浜忍さんのお話。公文書館は朱瓦で覆われた見事な建物で、資料の保存のために細心の注意が払われた建物だということであった。建材にも沖縄産の石灰岩(一目でサンゴからできたとわかる)が多く使われている。白と朱のコントラストが美しい。この公文書館は琉球政府
(1952年4月1日〜1972年5月14日)が作成・収受した公文書15万簿冊余を中心として各種の公文書・行政刊行物・地域資料などを収集保存している。また、コンピュータで検索して閲覧したい資料があればコピーもしてもらえる(有料・インターネットのホームページhttp://www.archives.pref.okinawa.jpでも検索可能)。館内をざっと見学し、説明を聞いた後は(財)沖縄県文化振興会公文書管理部資料編集室の吉浜忍さんから「沖縄戦研究の原状と課題」と題したお話を聞いた。野中官房長官の発言が当初よりトーンダウンしている点、沖縄戦の評価を現政府にとって都合の良い形で決着させようとしているのではないかと懸念されるということ。それに対抗していく研究と運動、資料収集と地域の沖縄戦の掘り起こし、戦跡保存運動などの必要性などを語られた。そして、新県立平和資料館(2000年3月開館予定)の展示内容と運営、戦後生まれの二世三世に向けて沖縄戦の継承を如何にしていくか、沖縄戦を「物語り」から歴史へという3つの課題を示された。
ホテルは「国際通り」に面した「ホテル西部オリオン」。まずまずのホテルで、何と言ってもロケーションが良い。5階の部屋に入って窓から下を見ると通りをはさんで真向かいに沖縄料理と泡盛の店「
GO-YA YA」が見える。同室の方は三重県から来た川喜田さん。二人でしばらく休憩してから私は懐中電灯を買いに外へ出た。帰ってから夕食。夕食後は宮城喜久子さんの講演だ。宮城さんは、希望に胸をふくらませて沖縄県立第一高等女学校(一高女)に入学したころのことから、そこで受けた皇民化教育のこと、午前3時に校庭に集合して夕方日が暮れるころにようやく帰りついた17里
(68km)行軍のこと(後に考えればこれこそ南部へ逃れるときのためにあったのかもしれない)、1944年11月から始まった看護教育のこと、戦場への動員がかかったとき喜んで父母へ許可を得に帰ったが思いもかけず反対されたこと、その反対を押し切って動員に参加したこと、南風原陸軍病院壕内の様子、重傷を負った兵士が次々と運び込まれあっという間に壕がいっぱいになっていったこと、アブチラガマ(糸数壕)へ移ってからのさらに悲惨な様子、けが人の横たわる上を暴れまわり歩き回る脳症患者のこと、体のあちこちがしびれついには口がしびれて食べ物も入らなくなっていく破傷風患者のこと、麻酔薬もなくなった中での手足の切断手術のこと、傷口に這いまわるウジを落とすのが精一杯だった「手当て」のこと、6月18日に至って出された陸軍病院解散命令のこと(軍はこの期に及んでも投降を許さず、もはや足手まといになった少女らを、砲煙弾雨の戦場に放り出したのである。「解散命令」は少女らの犠牲を激増させた。南風原の動員からこの日までの90日間の犠牲者は21名だったのに対し「解散命令」後の僅か5、6日で約200名の少女らが死んだ。−「ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック」より−)、その後の、ウジのたかった死体に何度もつまずきながらの彷徨と目の前で死んで行った多くの友だちのこと、そして最後の喜屋武岬でのこと(証言集に譲る)…など予定をかなりオーバーしながら熱心に話してくださった。朝が早かったこと、疲れていたことなどがあって心配していた眠気を感じる暇もなくあっという間の2時間だった。川喜田さんと、前述した
GO-YA YAでオリオンの生ビールと泡盛を飲んで寝た。■第二日目(7月26日)
京都府以外の慰霊の塔は沖縄住民のことにふれていない!
次の日から2日間は朝食後バスで各地の戦跡をまわった。もちろん村上有慶さんのガイドである。嘉数高地ではときおり降る雨の中、傘をさして展望台に昇る。普天間飛行場が見える。本来ヘリコプターの離発着用の飛行場だそうだ。少し前まで旧式の耐用年数を過ぎたものが飛んでいたが、まさに「飛びながら壊れる」ヘリコプターで、飛行中にしょっちゅうドアなどが落ちてきたそうである。今新しいものに換えつつあるところだが、この新型のヘリは今の普天間では十分な機能が発揮できないので早く新しい飛行場が欲しい、これが米軍の「普天間返還」の真のねらいであるとか。
また、沖縄には沖縄県を除く日本全国の都道府県の「慰霊の塔」が建てられているが、その中で唯一沖縄県の犠牲者のことにふれた碑文を持つ「京都の塔」が、ここ嘉数高台公園に建っている。何と、この京都以外の45都道府県の「慰霊の塔」の碑文は一切沖縄県民の犠牲者のことにふれていないという。愕然とする事実である。「京都の塔」を回りこんだところには「韓民族出身の軍人軍属」として戦死した三百八十六柱を慰霊する「青丘之塔」がある。
嘉数の丘から下りる途中、狭いながらもネットを張ったゴルフの練習場があった。どう見ても個人の家らしい。聞いて見ると、軍用地地主の家だそうだ。車庫にはベンツが二台止まっていた。基地返還を言いたくない理由がわかる気もした。自分がこの立場だったら、それでも基地返還の立場に立ち切れるか?
「安保の丘」は道路表示になっていた
嘉数を出、北谷町、嘉手納町と走って、有名な「安保の丘」に登った。「登った」は大げさか、実際の「安保の丘」は「丘」とは名ばかりの道路際のちょっと高くなったところに過ぎない。しかも、道路の拡張工事で半分ほどが削り取られている。申し入れをして完全に削り取ることだけは免れたものだそうだ。道路際ににずっと続く嘉手納飛行場は少し前まで金網のフェンスで覆われていたのだが、「騒音被害を出さないため」に高い分厚いコンクリート塀で覆いなおされたそうである。しかし、これで騒音を防ぐことはできない。ただ内部を見えなくしただけだ。唯一この「安保の丘」に登れば嘉手納飛行場を見ることができる。ここでも村上さんの詳しい説明を聞いたが、内容は1回聞いて覚えられるものではない。バスに乗って移動しようとしたら、「安保の丘」と書いたきちんとした道路表示板が立っていた。「元は私たちが言い出したんだが、今やあんなものが立つようになったか。それにしてもどうせ書くならきちんと『安保条約の見える丘』と書いて欲しい」と、村上さん。
読谷は自治の里
昼食を予定より後に回して読谷村役場に入った。途中読谷高校の前を通ったが、例の「
kiroro」の出身校だということとか、金城あやのの家はすぐ近くだとか、結構今風な情報もきちんと持っている村上さんだった。偶然というわけでもないが、7月18日に前読谷村長、山内徳信さんの講演を聞いたばかりだ。基地の中に村役場を作るという奇想天外なことをやってのけた方だ。粘り強い交渉の末に村役場敷地分の返還を勝ち取り、広々とした高原に今読谷村役場は立っている。「読谷村役場」と書かれた碑の裏面には、「三代目読谷村役場/嗚呼!ついに村民の夢は実現した/読谷村の自治の殿堂として/米軍基地・読谷飛行場の真中に/誇らしく自信をもって建っている/お前は三代目読谷村役場なのだ/由緒ある座喜味城を腰当に、風水よく/鳳凰の鳥として建っているのだ/アメリカ軍にも大和政府にも/読谷村の主人公は読谷村民だ、と/訴え続け、闘い続けた村民の勝利だ/読谷村の自治・分権・参加/民主主義・平和の殿堂として/村民と共に輝き/未来へ向かって雄々しくはばたけ/一九九七年四月一日/読谷村長 山内徳信」と刻んであった。正面入り口横には憲法第9条の碑、役場内のホールではこのとき女性の権利に関する展示会が開かれていた。読谷村役場を出て少し行くと例の「象の檻」がそびえている。バスの中からの見学となったが、ここもすでに現在の高度な情報収集の役には立たなくなっていて、それが故の「返還」だという。結局このような形で新たな場所に
(しかも沖縄の中に)新たな施設が造られてゆく、いかにも沖縄県民の希望に添うのだというポーズをとりながら。しかも、その新しい施設は全て日本の予算で建設されるという。何と言うことだ。チビチリガマで偶然、知花昌一さんに出会った
「チビチリガマ」が次の見学場所だった。ここは、1945年4月1日、米軍が上陸してきたすぐ近くであり、逃げ込んだ住民が「集団自決」に追い込まれた現場である。近くにある「シムクガマ」に居た約2,000人の住民が、ハワイ帰りの、英語が理解できてアメリカ人を直接知っている人が居たおかげで全員無事に助かったのと比較して、ここ「チビチリガマ」では大陸に従軍看護婦として参戦した経験を持つ人などがいて、「皇軍」でさえ現地の人々をあんなに残酷な目に合わせてきたのだから「鬼畜米英」のアメリカ兵につかまったらどんなひどい目に合わされるか知れないと、85人の住民が「集団自決」に及んだのだ。徹底した皇民化教育と日本軍のアジアでの残虐行為があいまって生んだ悲劇であった。
そして、何と、偶然この場所で知花昌一さんに出会ったのだ。知花さんは他のグループを案内してたまたまこのときこの場所へいたのだが、「高文研」のグループだというので特別にしばらく時間をとってお話をしてくださった。現在は読谷村議会議員である。お話の後、入り口を少し入ったところにしつらえてある祭壇で合掌。
残波ロイヤルホテルで豪華な雰囲気の昼食をとったあと、辺野古の「海上へリポート建設予定地
(とされていた)跡」を見るためにバスはしばらく走りつづけた。ところが、着いたときちょうど雨が一段と激しくなってきて車内からの見学にとどめざるをえなかった。この移転計画が実施されていたら、サンゴ礁の海の上にサンゴの命の源である日光をさえぎる巨大な鉄とコンクリートの「カサ」が覆いかぶさることになるはずだった。いったんは住民の反対で消えたはずの計画であるが「『沖縄サミット』前に解決を…」というクリントン大統領の一言で、再度この場所が浮上してくるのではないかと懸念していると村上さんは言う。バスはその後、今日の宿泊地沖縄市へ向かった。ホテルへ行く途中に寄った「くすぬち平和文化館」は反戦地主真栄城さんが地主として受け取るお金を何とか有効に使えないかと考えて作った施設。一階は子どもの図書館と簡単な喫茶スペース。二階は50人ぐらい入れるホールになっていて、ここでは紙芝居の会、音楽会、講演会などいろんな平和に向けた取り組みが催されているという。ちょうどこの日ホールの前面には沖教組主催のパネルディスカッションの横断幕がはってあった。三階は資料館になっている。何と真栄城さんのところの予定表には高文研ツアー一行は27日に来るように書いてあったとかで、「突然の訪問」になってしまった。「村上さんはいつもこうだ」とは真栄城さんの奥さんの弁。
夕食後は沖縄市民小劇場「あしびなー」へ。まずは、建物の屋上へ出て沖縄市の基地状況の説明を受け、その後『海・清ら・美ら』と題した「あしびなー歌舞団」の公演を鑑賞した。屋上は、元駐車場だったのを、若者の集まる場所へという願いからスケートボード、ローラーブレード、自転車などの競技会が出来るように改装してあり、願い通り多くの若者が集まって練習をしていた。
■第三日目(7月27日)
丸木位里・俊さんの『沖縄戦の図』
3日目、まずは佐喜真美術館へ。この日は本来休館日なのだが特別に依頼して、館長の佐喜真道夫さんに来ていただいたそうだ。メイン展示物である、丸木位里・俊さんの『沖縄戦の図(縦4m×横
8.5m)』は第3室に常設展示されている。この作品は「ヒロシマを見た画家」として、1947年から36年間をかけて『原爆の図』を描かれたお二人が、アジア・太平洋戦争の真実を描くためには、どうしても沖縄戦と取り組まねば…と制作されたものだ。この絵を是非沖縄に置いておきたいというお二人の願いが佐喜真さんとの出会いの中で実を結び、普天間飛行場の一部返還がなって、まさにこの作品を展示するために建てた美術館だという。佐喜真さん自ら、この大作の解説をしてくださった。丸木位里・俊さんが沖縄の方々から直接体験を聞きながら、その体験を各所にはめ込む形で描かれている。俊さんは「沖縄戦を体験された沖縄の人々と私たちの共同制作です」とおっしゃっているとか。第3室の側面には右に「チビチリガマ」、左に「シムクガマ」の様子を描いた図が展示してあり、この3つの作品が訪れる私たちに圧倒的な迫力で沖縄戦の悲惨さと、沖縄の人たちの平和に対する願いを訴えている。
佐喜真美術館は先にも述べたように普天間飛行場の一部に食い込むように、沖縄戦にこだわって6月23日
(沖縄慰霊の日)の太陽の日没線に合わせて建っている。屋上展望台は2階部分からまっすぐ、初め6段上がって少し平面となり、さらに23段上がったところにある。6月23日の夕日はこの階段の延長線上に沈むのである。展望台から見ると、この美術館が本当に基地に食い込んで建っている様子がよくわかる。玉泉洞王国村は巨大なレジャー施設だった。もともと愛媛大学(だったかな?)探検部がこの玉泉洞
(鍾乳洞)を発見し、彼らの一人がこの施設を経営しているらしい。食事はボリューム満点。すませてから雨の降る中、玉泉洞に入ってみた。これまでに入ったことのある鍾乳洞の比ではないと思われた。巨大である。この鍾乳洞が昔から知られていたら、どれだけの人がここに避難しただろうか。もっとも、床に大量の水が流れていて生活は困難かもしれないが…。洞から出て食事をしたところに帽子を忘れてきたことに気がついた。慌てて取りに戻ろうとしたが、これがなかなか戻れない。ハブ酒を作るところ、三線工房、紅型工房など次々と沖縄の物産制作工房が続いているのだ。バスの出発時間を気にしながらレストランまで戻って聞いたら、添乗の人に渡しておいたとのこと。ありがたい。ガマと地下壕
次はアブチラガマ、いわゆる糸数壕だ。雨上がりのゆえかバスを降りるとむっと湿気が押し寄せてくる。この壕は、残念なことに入り口部分を階段にしてしまってある。危険を取り除くということでのことのようだが、あまりきれいに整備されていて当時の生々しさがそがれてしまっているように思う。これは、長野市が整備したあとの松代大本営跡・象山地下壕でも同じことだ。まだまだ残っている戦跡をいかに保存・公開するかはこの辺りのことをよく考えて決めねばならない。
壕内に入るとそれでも少し涼しい。初日に聞いた宮城喜久子さんの話を思い出しながら歩く。松代をはじめとして各地の地下壕にはかなり入ったことがあるが、ここは何か感じが違う。何が違うのだろう。入ってしばらく行くと広いところがあって、千羽鶴などが置いてあった。ここで村上さんの話を聞いて、明かりを消し、黙祷。何かひしひしとあらゆる方向から体を締め付けられるような感じがする。これまでに入った地下壕と何が違うのかずっと考えていた。そのことをこの日の夕食交流会のときに発言したら、村上さんは、以前沖縄の体験者と松代へ行ったときに彼女達が言っていたのは「ここは血のにおいがしないね」だったと言う。そうかもしれないと思ったが、やはり何か納得し得なかった。地下壕でも亡くなった人は多いじゃないか…と。このあとずっと考えていたのだが、結局次のような結論を出して、それ以上考えるのをやめることにした。それは、自分にかかってくる圧力の方向の違いということだ。ガマは血の匂いが強いというのもやはり間違いないと思う。それだからかも知れないが、ガマに入ると自分の体が上からも横からも下からさえも締め付けられるような気がするのだ。これまでに入った地下壕では、どちらかというと上から強く抑えつけられるような感じがしたように思う。時の権力が、当時特に弱い立場にいた朝鮮人・中国人を強制的に連れて来て働かせたこと、そして、人工的な壕ゆえのどうしてもぬぐい切れない落盤の危険性、これらが上からの圧迫感を強く感じさせるのではないか。ちなみに千羽鶴などはガマの中には置かないで欲しいとのこと。1年に1回ガマ内を掃除するのが大変だということだった。是非にということならば、平和祈念資料館などに置いて欲しいとのこと。心すべし。
摩文仁の丘・平和の礎
いよいよ最南端、「平和の礎」の建つ摩文仁の丘にやってきた。相変わらずの降ったりやんだりの雨模様だ。沖縄戦で亡くなった20万余の方々の名前が刻んである。しかし、その並び方は、沖縄住民の場合、地域ごと、家族ごと50音順になっていて、これではこの人たちがどのようにして亡くなっていたのかは一切わからない。「集団自決」なのか、強制移住させられた上でのマラリヤ感染の故なのか、亡くなっていった人々の思いが何も伝わってこない。そういうことももう少し考えた刻銘にして欲しかったと村上さんは言う。
海岸の崖の上に立って波打ち際を見る。左のほうに崖の様子がよく見える。あるいはこの崖から危険を冒して降り、ガマを見つけて潜んだすえに自決、あるいは追い詰められて身を投じて多くの人が死んでいった場所だ。宮城喜久子さんから波打ち際が紅く染まったという話を聞いていたし、それを描いた丸木位里・俊さんの『沖縄戦の図』も見ていた、その現場だった。空は曇っていたがそう暗くはなく、陸地から少し離れたところで波が一度砕けていて、そこより内側は例の青緑色がきれいだった。沖縄は全島サンゴ礁の島だ。
県立平和祈念資料館
右手に少し歩いて県立平和祈念資料館へ向かった。資料館入り口手前にある「礎」に「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」の沖縄戦犠牲者の名が刻んであった。どちらも、ここに刻まれている人たちが沖縄で亡くなったときには無かった国名である。どのようにして国籍を分けているのかと尋ねたら、総連が確認したか民団が確認したかだろうということだった。変な話である。韓国側のほうは1996年、97年、98年と書き加えてあったが、共和国側は1995年のままで、以後の追記は無かった。
県立平和祈念資料館に入ってすぐスクラップ兵器の山が目に入る。激しい戦がおさまって、生き残った住民が幾月か後に収容所の金網から出されそれぞれの故郷へ帰されたとき、森や丘の形まで変わってしまうぐらいに見る影もなく破壊され尽くしたムラで、高く積み上げられたスクラップとなった兵器の山だけが異様にそびえていたそうである。これを片づけることから沖縄住民の戦後は始まったという、沖縄戦を<住民の視点>で展示する姿勢のこめられたオブジェである。
以下、展示項目のみを列挙してみる。
●第一展示室・沖縄戦への道
オブジェ/決戦教育/スパイ取りしまり/防諜文書/戦時食料/学童疎開/陣地づくり/戦時態勢の強化/沖縄線の経過
●第二展示室・戦場の住民
鉄の暴風/死の彷徨/ガマ/住民犠牲/集団自決の道具
●第三展示室・証言の部屋
南部撤退/死の道連れ/ガマ/汚辱の戦場/真栄平の虐殺/シューサイド・クリフ
●第四展示室・収容所から
この現在の平和祈念資料館から、ちょうど「平和の礎」をはさんで反対側に新しい資料館の建物がほぼ完成している。これまた、白と朱のコントラストの美しい立派な建物である。来春からこの新館に移るそうである。この新資料館の展示がどういうものになるか、最近の情勢から考えてみて大変心配だというのは初日の吉浜さんも言っていたが、同じことを村上さんも心配していた。私たちがここを訪れることになるときは、すでに新館に移っているであろう。どのようなものになっているのか下見もできないので困ったものである。
ひめゆりの塔
バスで少し移動して、「ひめゆりの塔」・「ひめゆり平和祈念資料館」へ行く。南風原陸軍病院が南部へ撤退して以後の第三外科が入っていたガマの入り口に建てられた「ひめゆりの塔」は本当にささやかな祈りのこもった塔である。今、壕内へ入ることはできない。この塔の立っている場所に隣接して「ひめゆり平和祈念資料館」が開館したのは、あの日から44年目1989年6月23日のことだ。館に入ると正面に明るく大きく開けたガラス窓を隔てて美しい花壇のある中庭が見える。「ひめゆり学徒隊の展示ストーリーの冒頭は美しい花園で飾り、少女たちのみ魂に手向けたい」という願いからだそうだ。
ロビーから左の方へ回っていく。沖縄戦前夜を展示した第一展示室。朝会の冒頭に行なわれたという「宮城遥拝」の写真が不気味でもあり、痛々しくもある。今後この姿がまた、「日の丸」「君が代」の前で、どこでもいつでも見られるようになるのではないか。教職員・生徒全員が整列しているその向こうにあるのが「宮城」であるのか「日の丸」であるのかが違うのみで、その姿はまったく同じようになるのだろう。それを考えると恐ろしい。絶対にあってはならない姿である。
第二展示室には南風原陸軍病院の様子、第三展示室には南部撤退の様子が展示してある。声を失ってしまったのは第四展示室。「鎮魂」をテーマとしたこの展示室には喜屋武半島へ撤退後のひめゆりの全犠牲者206名の遺影が掲げられているのだ。ところどころに教員らしい大人の男性の写真もあるが、そのほとんどは15歳から19歳の少女たちである。一人一人の遺影を見、下に書かれた名前と当時の年齢、それに亡くなったときの状況
(ほとんどが「〜で見かけられて以後不明」というものだが)を見ていくうちに、やり場のない怒りが湧き上がってきて堪えられなくなり、途中でやめて次の部屋へ出てしまった。けれど、やはり206名全ての遺影と一度は向き合って帰ろうと思いなおしてまた戻った。生存者の証言も展示してあるが、とても読めなかったので、ロビーで売っていた資料館の公式ガイドブックを買い求めて館を後にした。魂魄の塔
また、少しバスで移動して次に行ったのは「魂魄の塔」。戦後、そこここに「転がっていた」遺骨を集めておいた、というよりも置き場所に困ってとりあえず一ヶ所にかためておいた。どれが誰の遺骨かなどわかるはずもない。そのうち、各地域の遺骨をここに集めて慰霊の塔を建てた。その最初の塔が「魂魄の塔」である。
(現在は、摩文仁の丘に慰霊塔ができたので遺骨はそこに移し、この場所にはないということだった。)この付近を中心にして、その後各県の慰霊の塔が建てられた。しかし、その碑文にはそれぞれの県出身の軍人を慰霊する文句は見られても、軍人以上に多くの犠牲者を出した沖縄住民のことにふれた碑文は先に述べた嘉数の京都府の塔以外にはないということはすでに書いた。2、3分歩けば海岸に出られるというので、皆で歩いて行った。背丈を軽く越すような雑草の生えた中に一筋下へ降りる道ができている。海岸へ行くと、まさにサンゴ礁である。再び、宮城さんの話していた海岸での惨状を思う。心地よい風にしばらく吹かれてからバスに戻った。
■第四日目(7月28日)
ヌヌマチガマ〜ガラビガマ
4日目はそれぞれの希望するコースに分かれてのフィールドワークとなった。ただし、Bコースは座間味日帰りが予定されていたが、天候のせいで変更。わたしは、少しでも修学旅行の参考になればとAコース・南部ガマ特別コースを選んでいた。このコースは、沖縄平和ネットワーク・ガマ部会の案内で南部のガマを周る。9時にホテルを出発して、第24師団司令部壕跡へ。小高い丘の頂上に分厚いコンクリート造りの構造物があって、そこから塹壕が掘られ、この塹壕が壕の入り口まで続いている。壕は急角度に下っていて降りていくと土が崩れてすべる。人工的に掘った壕だった。奥までは行かずに出て、真栄里の特攻隊艇壕へ。直接海には出られないので、何人かで艇をかついで海まで走ったそうだ。
また、マイクロバスで少し走って、米須小学校裏のガマへ行った。このガマのことは冒頭に描いた通りである。摩文仁の丘に行って弁当を食べた。Bコースの人たちもほぼ同じ時に摩文仁へ来ていて、一緒に昼食をとった。このあと、Bコースの人たちのうち一部の人と合流して八重瀬岳第一野戦病院壕へ。ここは「白梅学徒隊」のいた所だ。学徒が戦場に引っ張り出されたのは「ひめゆり」だけではなく、もう、沖縄中の学徒が男は主に通信隊、女は主に病院といろんな所、いろんな仕事に狩り出されたのだ。
その後、ヌヌマチガマへ行った。ヌヌマチガマとは修学旅行でもよく行くガラビ壕の、もう一つの入り口の側のことである。普通はガラビ壕へ入って、途中で引き返してまた同じところへ出るのだが、今回は特別にヌヌマチガマから入ってガラビ壕へ出ることになっていた。入ってすぐに地面がぬかるんで、ペタペタのモカシン靴ではとてもまともに歩けない。一足ごとに靴が地面に吸い付けられて、それをはがすのに一苦労だった。それでもやっとの思いで皆についていく。しばらく行くと広々としたところに出た。だいたいガラビ壕といえば、反対側から入って来てこの辺りまで来て引き返すのだそうだ。ここで明かりを消して黙祷した。
ガラビの出口のところに頭蓋骨をはじめいくつもの人骨が置いてあったので、大城さんに聞くと、あれはいわゆる「風葬」されたものだそうだ。ただし、沖縄戦後、いつまでたってもきちんと埋葬されず放置されたままなのは、この遺骨の遺族も沖縄戦で全滅したからではないかということだった。そうなると誰もこの遺骨に手をつけるわけにはいかない。
ガマを出たところに野球などができるスポーツ公園があって、そこの水道で靴を洗った。沖縄の青年は雨が降ってもカサをささない。それは、少しぐらい濡れてもどうせすぐに乾くからだと、初日のバスの中で聞いたが、靴だって、そのうち乾くだろう。
■第五日目(7月29日)
南風原文化センターで松代の大日方さんに出会った
7月29日は自由、後は各自で帰るだけだったが、飛行機は午後三時だったのでそれまでどうしようかと思っていたら、川喜田さんが「南風原文化センター」へ行くというので、一緒に行かせてもらうことにした。家に送る荷物をホテルの近くの郵便局でユーパックにして出してから、歩いてバスターミナルへ。ちょうどうまい具合に出るバスがあったので、急いで乗った。乗客は私たち二人だけ。5分ぐらい走ってから高校生ぐらいの女性が一人乗ってきて、それからしばらくして買い物にいくのかおばさんが一人乗ってきただけ。こんな調子で採算がとれるのか心配になってくる。途中「沖縄尚学高校」の前を通った。野球部が練習をしていた。
乗客はあと一人いたかどうかで、自分たちが降りるバス停が来た。少し歩いて、誰かに尋ねようかと言っている間もなく、「南風原文化センター」の表示があった。バス道を左に曲がって2、30メートルも歩くとそこが「南風原文化センター」だった。玄関を入って、ふと事務所の中を見ると、どこかで見たことのある人が座って話している。初日にお話を聞いた吉浜さんである。挨拶をしていると、吉浜さんが隣にいる人を紹介してくれた。なんと、松代の大日方さんではないか。10年ぐらい前に安倉中学校で松代への修学旅行を実施したとき、事前の下見のときにお世話になった方だ。まったくの偶然だった。「戦跡保存を考える全国集会
(?)」が8月4、5日と京都の立命館大学で開かれるということだったが、ここで沖縄の人たちと交流をし、その足で京都へ行くということらしかった。南風原文化センターは小さな施設だったが、南風原陸軍病院壕内のジオラマをはじめとして町内のガマから出てきた各種の遺物がいまだ整理できないぐらい収蔵・展示されていた。南米への移住を呼びかけるポスターや当時の移民の使ったパスポートなど移民関係の資料も多く集められていた。さらに、沖縄のかつての生活を物語る展示もあり、誕生から結婚そして死に至るまでの人生の節目ごとに行なわれた行事の説明が興味深かった。小学生
(低学年)ぐらいの子どもとそのお母さんらしい方に館の人(?)が説明をしていたのを横で聞いたのでよく理解できたのだが、もしかしたら大日方さんのご家族だったかも知れない。首里城
館を出てバスに乗り、もと来た道を引き返したが、途中で川喜田さんと別れ一人首里城へ向かった。首里城は、15世紀ごろに琉球王朝の建てた城で、何度か焼失再建を繰り返してきたものである。現在のものは1945年沖縄戦で完全に破壊し尽くされたものを復興し1992年から「首里城公園」として公開したものである。復元のモデルとなったものは1712年ごろに建てられた木造三階建て、高さ約16メートル、延べ床面積1,200平方メートルのものである。ほとんど残ってなかった資料を探し、古老からの聞き取りも含めて壁や屋根瓦の色など細部まで細かく気を配り、慎重に復元されたものである。
正門である歓会門から入るが、敷石、階段に用いられている石の全てが白く美しいサンゴ礁の石である。壁と屋根の朱とのコントラストが美しい。正殿の彫刻そして屋根の龍頭棟飾は見事なものだ。正面向かって右手の建物から展示物を見てまわる。琉球王朝の歴史を私たちはほとんど知らない。アイヌの歴史を知らないことも含めて、これはやはり間違っている。これからは小中学校の教科書からさまつなことをうまく省いて、沖縄とアイヌの歴史・ヤマトとの関係史を大筋だけでも扱うべきであると痛感した。
正殿に入った。内部の柱は見える限り漆が塗ってあるのだが、それでもどこからともなく心地よい檜の匂いがする。内部の装飾は金箔を多くつかったきらびやかなものだ。正殿を出て順路にしたがい北殿へ。ここには首里城そのもの、およびその復元について多くの展示がされていた。また、ビデオシアターでは項目ごとの説明ビデオが常時放映されている。一通り見て、どのような事に心を配って復元されたものであるかがよくわかった。
公園を出た後、やはり「守禮の門」も見ておくべきだと思い、少し坂道を上って見に行った。復元工事が続いていて写真を撮るにはいい場所まで入れなくなっている。仕方がないから見るだけ見てタクシー乗り場へ行き、そこから空港へ向かった。沖縄へ着いた日と同じ所で食事をとり、おみやげ物屋さんをぶらぶらしていたら、何と安倉中学校の修学旅行下見団に出会った。鈴木先生をはじめ5人の方々である。夏は難しいという旅行社の話しだったのにと思って聞くと、7月29日帰りまでは安いのだということだった。とはいうもののこの時期はやはり暑く、海に入らないのなら11月の方がかえっていいか、というのが今回行ってみての感想ではある。沖縄を後にして「第十回朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働を考える全国交流集会
inきゅうしゅう」へ参加するために熊本へ向かった。完・1999年8月19日
第10回「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会
inきゅうしゅう」に参加して宝塚市立宝塚中学校 近藤富男
昨年の金沢集会では、何人か兵庫県の教員にも出会ったが、さすがに今回の熊本では出会わなかったようだ。1990年夏に始まった朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働を考える全国交流集会も今年で第10回目を迎えた。名古屋、西宮、呉
(広島)、奈良、松代(長野)、高槻、岐阜、松江、金沢とまわってきて、初めて海を越えての開催である。私は、実行委員の一翼に加えていただいていながら病気故にやむなく欠席した西宮の集会を除いて全て参加してきた。それぞれに学ぶところの多い会であったと思う。今回の九州は炭坑をはじめとして最も強制連行の多かったところでもあり、また、肥薩線敷設工事に従事した朝鮮人がいたことが確認されてもいるので、最も古い時期からの朝鮮人労働者の足跡が残っているところでもある。さらに、豊臣秀吉の朝鮮侵略の前進基地であった九州ということから「『壬辰倭乱』と現代」という分科会も特設されていた。
この分科会では、島根県の高校生が地元に残る秀吉の朝鮮侵略の跡をたどり韓国の沙也可
(朝鮮名金忠善)の里まで訪ねていったこと、明治以降特に豊臣秀吉を賛美する風潮が意図的に作られていったこと、特に熊本県では今にいたるも加藤清正が善政をひいた英雄として存在していること、などが報告された。なかでも私には、名護屋城のある地域の小学校で今でも秀吉の朝鮮侵略をたたえる校歌が歌われていることを指摘したら校長や教育長などは検討しようという意見だったが、卒業生などからの抗議や反対にあっていまだにそのままであるとの中里紀元さんの報告、1900年ごろより、熊本から遠く離れた神戸でも新聞などを通じて加藤清正が英雄とされて行く過程を丁寧に記事のコピーを添えて提示された金慶海さんの報告が目をひいた。さて、この全国交流集会は、各地で強制連行・強制労働の調査活動を進めていた人たちが年に1度一堂に会して情報交換をしたり、新たな方法を学んで持ちかえるというまさに交流集会の豊かな内実を創り出してきた。けれども、これまでと同じ方法で今後も続けていくことは地元の負担が大きくなっていることなどから困難との理由で2000年以後は各地のいずれかのグループが主催する集会に有志が参加する形で行なうことになった。集会の案内は、便宜的に神戸学生青年センターが管理するホームページ
(http//www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/kr.html)で行なわれる。(8月1日に発表された全国交流集会世話人会の発表を要約)![]()