2023年9月24日 聖霊降臨節第十八主日
            礼拝説教
「毒麦も実のならない無花果も」 市川 哲牧師
  聖書 ルカによる福音書 13章6-9節

  



 お招きいただきました、昨年春まで芦屋岩園教会牧師を勤めていました、市川哲(いちかわてつ)です。私と連合いの親3人の介護が必要になり、現在は教会を離れています。兵庫教区では25年半、その初年から震災・災害担当の委員会に属し、今も続いています。礼拝では初めてですが、こちらの教会には何回か伺ったことがあります。また、私の連合いが同じ北神の神戸北教会の出身でもあり、北六甲教会には、個人的にですが、近しさを感じています。今日の説教奉仕を務めさせていただくことに、感謝いたします。
 一応、今日の話は、完全原稿のデータを森喜牧師にお渡ししています。3年近く前、感染症拡大によって、それまでの普通の礼拝が難しくなった時、私自身の問題もありますが、教会が礼拝の同時配信が当面無理となったため、事前に礼拝を録画すると同時に、説教の完全原稿を、パソコンからメールで送ったり、FAXを使って、映像を見ることが難しい方にも直前にお届けして、一緒に礼拝が出来る工夫をしました。私はそれまで30年ほど、完全原稿を作ってしまうと、一度話が脱線してしまうと元の原稿に戻ってこられなくなるので、大学で講義をするときのように、箇条書きのメモという形で説教の準備をしていました。長年のやり方を変えるのはかなりつらかったのですが、それでも1年2年と続けると習い性になり、今回も事前に完全原稿を作って、早めにお渡し出来ました。今日は、その同じ話をさせていただきます。
 昔からの親しい友人の有森さんには、もう千度お話ししたことですが、私は牧師になる前、大学農学部で研究していました。とはいえ、農学の中でも専門は水産学でして、農業そのものには、あまり知識も体験もありません。
しかし農学部では、専門分野を学び始める際、まず最初に、農林水産業がヒトや生物の生命にとっていかに大切で、欠かせない尊い働きであるかを学びます。農学全体の思想を大切に受止めた上で、その中のそれぞれの分野を、専門的に学んでいくわけです。大学での勉強の最初に農学そのものの大切さに触れたことは、水産学の中でも、基礎的な魚の生物学を研究対象に選んだ時も、そして後に、神学校にいって聖書を牧師として勉強するようになってからも、大きな財産になっていることを思います。
 そして何より、聖書全体の中でも、とりわけ沢山の農業漁業の話が出て来るのが、福音書の中の、イエス・キリストの物語やたとえ話です。実は前任の芦屋岩園教会でも、福音書の中の農業に関わる話は、様々な機会を通じほぼ大部分、語ってきました。今日はその意味でも、自分のオハコのような話で恐縮ですが、たとえ話の中の農業に関わる話から、お話しさせて頂きます。

 イエスキリストは農業についての話を沢山残しています。イエスご自身も、そしてイエスの話を聞いていた民衆にとっても、農業や漁業が生活の中で大きな位置を占めているからこそ、イエスが重要なテーマとして取上げて語りかけていたことが、残された福音書の言葉から良く分ります。
 農業でも漁業でも、多くの収穫が得られると、手を取合って喜合い、1人では抱えきれない恵みを、皆と分ち合うお祭りになります。春や秋の収穫祭が宗教や民族を越えて共通の祝祭になっていることも、それを表わしているのでしょう。
 今回の、ルカ13章「実のならない無花果のたとえ」も、その農民たちにイエスが語りかけたからこその深みがあると思われます。もう1つ、マタイ13章「毒麦のたとえ」と合わせ、今日は考えてみたいと思います。
 まずイチジクについて、パレスチナのイチジクは、私たちの知っている日本のイチジクと比べると、大きな違いがあります。日本のイチジクのイメージだけでは、この話のミソは分らないようです。本当はイチジクの生態だけでも、進化生物学の中で、イチジクとイチジクコバチとイチジクセンチュウという生物が互いに共生関係を結んで、複雑に互いの数を調整しながら生きて行く等、生物学の教科書にも取上げられる有名な話があるのですが、脱線が過ぎると申しわけないので、大部分割愛します。もし興味のある方には、別の場所で書いた文章もお知らせ出来ますが、正直書いていて、複雑で面倒と思うことしきりの話でした。しかしそれを除いても、私自身、目から鱗だった話です。
 日本のイチジクは安土・桃山時代にポルトガルからもたらされたというのが最も有力です。パレスチナにも多い、地中海産のイチジクのいわば原種というべきものの一部は、雌雄異株で、雄株と雌株が近くに両方ないと実が生りません。それも、初夏と夏に2回実をつけて、1回目のイチジクは小さくて甘みが少なく、商品にはならないものです。ただこちらは花粉を受粉しなくても稔るのです。
 実はこのうち、1回目のイチジクが大きく甘い実になる品種が、日本に導入されたので、日本のイチジクだけを見ていると、大きい実を1回だけ付けるものと思ってしまうのです。逆に元のパレスチナでは、初夏の1回目のイチジクを、ヘブライ語でベクラーと言い、商品にならないので、聖書の時代のユダヤでは誰でも勝手に採って食べて良いことになっていました。
 マルコ11:12-14には、イエスが実のならないイチジクを呪う、という話が出て来ます。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」という話です。
ギリシャ語では区別しないので、書かれている言葉だけでは1回目のベクラーか、夏になってから2回目に実る、ヘブライ語でのテーナかは分りません。しかしイエス一行が空腹を満たすため自由に食べようとしていたわけですから、ここではおそらく、1回目の小さくて甘みの少ないイチジクと考えて良いでしょう。2回目と比べると美味しさでは劣るとはいえ、貧しい人でもだれでも自由にとって良いというのは、なかなか素敵な風習です。そしてまたこの制度は、イチジク農家にとっても、1回目のイチジクを取去る手間を省いてもらえる、合理的な方法でもあるのです。
 ルカ13章「実のならない無花果のたとえ」を見ますと、6b-7a節には「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。」とあります。こちらルカ伝の方も、ギリシャ語では区別がつかないのですが、1回目のベクラーに送れて初めて稔る、商品になる2回目のイチジクのことを言っているのでしょう。
パレスチナのイチジクは、1回目のベクラーは実った時に全部取ってしまって、先端の枝を剪定して肥料をきちんと与えないと、2回目のテーナがうまく育たないそうです。この話には直接1回目の実は出て来ませんが、先に恵みを独り占めしてしまう1回目の実を、きちんと取ってしまって木に手をかけないと、本当に大切な2回目の実が台無しになってしまう。「ある人」が「見つけたためしがない」と言っているのは、この2回目のテーナでしょう。
8-9節では園丁が話します。「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
1回目のイチジクを取去って、丁寧に剪定や肥料やりの世話をして、初めて2回目を豊かに実らせることが出来る。それをやりますから、次の収穫時まで待っていてくださいと、園丁は園の主人に執成すのです。
ここで、ある人と表現されたぶどう園の主人は神、そしてここに出て来る園丁はイエス・キリスト、あるいは預言者を指しているのでしょう。折角最初に実ったはずの実は、全部取去られてしまう。自分が実りをつけたと思ったのに、それがすべて無くなってしまう。自分の人生が、そのようにどうしようもないということも含め、ここに記されているのでしょう。
しかしその実が取去られることが大切で、その木を主イエスは神に執成してまで丁寧に育て、2回目の実が豊かに実るようにして下さる。それをずっと神は待ち続けて下さる。恐らくこのような内容がここに込められているのではないか。先ほどのマルコ11章の最後には11:20で「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。」。とあります。主の執成しがなければ、イチジクは枯れてしまうと記されているのです。
 そのイチジクの話と合わせてもう1つ取上げるのは、今日の題にも掲げた、毒麦のたとえです。こちらの箇所については、私が読ませていただきます。新約聖書新共同訳25p、マタイ13:24-30です。 「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
 先ほどのパレスチナのイチジクには、1回目と2回目の実があるという話をしましたが、実はこの毒麦にも、2種類のものがあるのです。ムギの種類の中には、確かにドクムギという名前の植物があって、大抵の説明ではこれが聖書の植物ことと記されています。私はそのドクムギを見たことはありませんが、確かにコムギと似ているとの記述があります。
 私は直接農業に携わった経験はほとんどないのですが、田圃の雑草抜きには、ある程度関わったことがあります。キリスト教関連の施設で、開発途上国の実習生に有機農業の技術を教え、本国で農業を通じて地域の生活を守る人材を養成する、アジア学院という学校が栃木県にあります。私は若い頃そこでワークキャンプとして、農業ボランティアをしたことがあります。
麦の栽培自体はなかったのですが、稲を有機無農薬で育てる時には雑草が生えるのを抜いていく作業が必要で、それをしたことがあります。少なくとも稲の栽培で雑草を抜くのは労力がかなりかかる重労働ですが、稲の苗と雑草の区別は、慣れればほとんどた易いことで、失敗無く仕事をすることが出来ます。
「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」というのは、稲なら水をためた田圃なので、雑草を抜くのは容易ですが、乾いた畑の麦の根はひげ根で横に伸びているので、隣りの苗と絡み合っていることを意味しています。ひげ根を持つ、単子葉植物というグループでは、ひげ根の植物が何株も一遍に抜けるのはよくあることが分ります。そのことが書いてあるのです。
小麦畑の雑草を見分けるのも、ある程度まで葉が伸びれば、それほど難しいことではないそうで、実らなければドクムギが区別できないということは無いそうです。そして、付けられた名前からは誤解されがちですが、ドクムギという種には毒はなく、家畜の飼料になる種類の麦で、雑草扱いだけれど食べられないことは無い穀物なのです。言ってみれば田圃の粟・稗と同じです。収穫された時に、雑草が混じるというのは、決して珍しくないことです。本当の毒麦というのは別にあるのです。
 麦のグループでは、麦の角と書く麦角菌という子嚢菌、つまりカビやキノコの仲間に感染することがあります。胞子によって感染することもあるのですが、多くは麦の種の中にいて、種と一緒に次の世代に受継がれて行きます。麦角菌には多様な種類があって、多くの種類の麦類に、生物種を越えて感染します。この麦角菌に感染した麦類は、実った種が変色して少し形も変わるので、穂が実って初めて見極めが出来るそうです。
この麦角菌の中には、麦角中毒という時に人や家畜が死ぬことさえある、神経や循環器への猛毒のある種類もあります。麦自体の成長にはほぼ悪影響を与えないので、本当は捕食する動物からムギ類の身を守る共生生物でもあるわけです。
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と聖書にはありますので、その毒麦は、実って初めてわかる麦角菌の方を指すのでしょう。
なお念のため、現在では麦を収穫する際に麦角菌を除去する技術が確立していて、ほぼ被害はないので、麦角中毒の心配は無用です。
ここで「ある人」とある畑の主人は神、そして「僕たち」は、毒麦を抜こうと言って止められているので、ユダヤ教の指導者といったところでしょう。
麦の苗を抜くとあるので、1本1本の麦のそれぞれが1人1人の信仰と誤解しがちですが、「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」とあるので、毒麦を蒔かれる麦畑全体を、1人の心と捉えることもできます。
1人1人の心を意味する麦畑に、せっかく良い麦が神によって蒔かれているのに、知らない間にその中に悪い毒麦が蒔かれてしまった。しかし自分では悪い苗を抜くどころか、気づいた時には、もうすでに悪い実を結ばれてしまっている。そのような、私たちの人生のたとえとも考えられます。 しかし神は、そのような自分を、悪い心が植えられても、あえてそのまま育てて下さっている。そしていつか、収穫の時に、悪い心を取去って下さる。そのような主の御心が、ここにたとえられていると考えて良いのでしょう。それまでは見分けることが出来ないけれど、その時にはしっかり見極め、悪い心のみを取去って下さるのだから、主なる神が育てて下さることを信じていることが大切と、ここで語られていると思われます。そしてここで実りを束にして倉に納めることとは、救いに至ることを意味する表現です。

私たちの人生は、いつも自分の思いのままにならないことばかりです。しかし主は、そのような私をも、いつも育て、導いて下さいます。そしていつか、豊かな実りを全ての者に与えて下さる、その時まで私たちを待ち続けていて下さると、聖書は教えてくれています。そしてそこには、ご自分の在り方すら犠牲にされた、主イエスの執成しさえ、私たちの思いを越えて備わっているのです。その主を見上げつつ、いつも感謝のうちに、歩み続けたいと願います。


 御在天の主なる神さま。本日はこの場、北六甲教会に集われる皆さまと共に、あなたからの恵みを共にいただきますこと、心から感謝いたします。あなたは私たち全ての者を救うため、心を配り、私たちの行ないを見守って下さっています。私たちは、あなたの御手の力があって、初めて歩みだせる小さな存在でありながら、あなたの思いに従うことの難しい者です。御前に悔改めつつ、あなたの導きを信じます。どうぞ私たちが新たに歩みだす希望を与えて下さいますように。あなたの守りの内に生きる喜びを、いつも思いつつ歩めますように。共に支え合い、隣り人と共に皆であなたの祝福に与れますように。森喜先生はじめ、今日の時を感謝し、北六甲教会の皆さまの上に、貴方の尽きせぬ恵みがありますように。主の御名によって祈ります。
アーメン。

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