2023年9月10日 聖霊降臨節第十六主日
礼拝説教
「イエスの罪状」 森喜啓一牧師
聖書 アモス書第5章1−4節
ヨハネによる福音書第19章16b−27節
ヨハネによる福音書は、他の福音書と異なりイエス様が十字架の上でどれだけ残酷な目にあわれたということについては全く記していません。そのような意味では、ヨハネによる福音書のイエス様の十字架上での記述は、私たちに、イエス様のお苦しみへの同情などは全く誘うことは考えていなかったと言えるのかも知れません。むしろ、ヨハネによる福音書はイエス様が十字架に磔になられた意味を語ろうとしていたように感じられるのです。それは、イエス様ご自身が十字架刑にされた理由、つまり罪状書きについて、とても丁寧に書いていることからもうかがい知ることができます。イエス様が、どんな罪で十字架刑によって殺されねばならなかったのか、そしてイエス様の十字架が私たちにどのような意味を残したかということです。罪状書きは、決して名誉な肩書きではありません。そして、イエス様の十字架には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とありました。ユダヤの総督ポンテオ・ピラトがそう命じたのです。しかし、ユダヤ人の祭司長たちは文句を言って訂正を求めました。イエス様がそう自称したと書き添えてくれと頼んだのです。それは、ローマの権威からしても、正しい主張だったかったのかも知れません。ローマもイエス様がユダヤ人の王であると認めた訳ではないのですから。でも、ピラトはそのままにしておけと命じました。ピラトにはピラトの意図があったのかも知れません。それでも、古来、信仰にある人々は、ピラトが自ら意図せずしてイエス様の十字架の意味を語る証人として、神様によって立たされることになってしまったのです。
そこで理解された意味は、「ナザレのイエス、ユダヤ人の神に選ばれた民を救う王」ということでした。しかもこれは、ユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語の他、ラテン語、ギリシャ語でも書かれていました。ユダヤ人だけが読めれば良いというのではなかったのです。全ての人が、その罪状書きを読まなければならなかったのです。全ての人がこの罪状書きを読む時、イエス様の十字架刑の意味は、私たちにも届く意味に深められて行きます。つまり「ナザレのイエス、私たちの王、私たちを救いへと導かれる方」です。なぜなら、イエス様は全ての人にとって真の王、真に私たち愛し、私たちの先頭に立って私たちを救いへと導かれる方だからです。
なぜ十字架につけられた方が、私たちの王になるのか。先ほどお読み頂いた、アモス書第5章1節から3節はその意味を痛烈に語っています。「イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を。 『おとめイスラエルは倒れて再び起き上がらず地に捨てられて、助け起こす者はいない。』 まことに、主なる神はこう言われる。『イスラエルの家では千人の兵を出した町に、生き残るのは百人 百人の兵を出した町に、生き残るのは十人』 」神様の裁きを受けたイエスラエルの不信仰の民は生き長らえられず、誰も助けないという現実を厳しく語っています。そしてこの5節で「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」ここには、このような神様の怒りを込めた厳しい戒めと、それでも救いを与えるための最後の助言とでもいうものがありました。しかし、このような神様の怒りを込めた戒めはこのアモス書に限ったことではなかったのです。なぜ、このように神様はこのようなみ言葉をイスラエルの民に繰り返されたのでしょうか。イスラエルの民が、心からは神様を求めてこなかったからです。それでも、神様は、「私はあなた方を救いたいのだ。私を求めてくれ」と呼びかけてこられました。しかし、それは神様を悲しませる結果しか産むことができませんでした。そこで、神様は、次の大きなご計画をすすめられます。イスラエルの民でなく私たち全ての人々の救いをご計画です。それは、私たちに救いの主であるイエス様とその十字架を救いの証としてお示しになることでした。
さて、私たちは、毎週の礼拝のたびにイエス様の十字架をこの礼拝堂でも見上げることができます。皆様はその時何を思われているでしょうか。この十字架は、単にキリスト教という信仰の象徴としてあるだけではもちろんありません。皆様なら、自ら進んで十字架を背負い、ゴルゴダに赴かれたイエス様のご様子を心に描かれるかも知れません。あるいはそこに、イエス様の厳しい肉体と心の苦しみを思われるかも知れません。そして、イエス様の死を思われるかも知れません。しかし、それと同様に、私たちは、イエス様の十字架に「私たちが救われている」ことの喜びをも感じないわけにはいかないのではないでしょうか。その救いの形や、救いの時は私たちそれぞれへの神様の恵のご配慮によって様々です。その中には、家族がもっと仲良く暮らすこと、人との豊かな睦まじい交わり、年を重ねても衰えない生きる力もあるでしょう。もっと様々な救いがあるはずです。でも、どのような救いであっても、ガラテヤの信徒への手紙 第3章1節でパウロが語るように「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」のです。イエス様の救いの十字架がここにあることで、私たちの救いは確かなものになっているのです。私たちへの救いの姿が、十字架と共にあるイエス様によって示されているのです。その十字架の意味は、私たちの罪の贖いによる救いとすることができるでしょう。その十字架の意味を、私たちの苦しみの身代わりとなってくださった救いとすることもできるでしょう。
そして、もう一つ、イエス様の十字架の意味に付け加えるとするなら、それは、イエス様の十字架が私たちの中で生きていてくださっていることです。十字架と共に、イエス様のご自身の命もまた私たちの中で生きいてくださることのです。イエス様の十字架にあったお命は、イエス様を信じる私たちの中で、イエス様の喜びや、活力や、勇気や、正義や、信仰を息づかせて、私たち一人一人を豊かな神の子として育ててくださっているのです。
さらに、イエス様の十字架は、全ての福音書も物語るように、イエス様が私たちに愛を放ってくださり、その愛を私たちも同じように放てるようにしてくださるのです。「神は愛なり」と言いますが、イエス様の命が、イエス様の愛と共に私たちの中で息づいているからこそ、私たちは救われるのです。愛のない救いはありえないでしょう。そこにイエス様の十字架の大きな意味があるはずなのです。
イザヤ書56章1節では異邦人への救いとして、神様はこのように語られるのです。「 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」と。私たちが、どのような者であろうとも私たちの心の中でイエス様の十字架は生きておられるのです。
私たち一人一人の中で、私たちのこの交わりの中で、目には見えないけれども魂で感じられる
イエス様が十字架を負って、私たちと一緒に歩んでいてくださるのです。
祈り
天の父なる神様
私たちの内に十字架のイエス様の命と愛を与えてくださり、私たちを、あなたの愛も持って救い、そして生かしてくださることを感謝いたします。どうぞイエス様の十字架が、私たちの中で、いつまでも生き生きとしてくださいますように。イエス様の十字架により、私たちがより信仰を堅くしてくださいますように。その堅い信仰が、私たちの教会の豊かな霊の交わりの礎になり続けますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
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