2024年1月21日(日)降誕節第四主日
牧師館だより
私たちの背負うべき十字架
マタイによる福音書第16章24節で、イエス様が「自分の十字架を背負って私について来なさい」とイエス様がおしゃっています。これは、私たちそれぞれが神様から与えられた働きと生き方を大切にしながらイエス様に従っていくこと、イエス様は、それが私たちの信仰のあり方だと言われているのではないでしょうか。ある、キリスト教主義の老人介護施設の担当者から伺ったお話ですが、そこの多くの入所者や介護サービスを受ける方々のうち、クリスチャンはほんの2割程度でしかないと嘆いておられたことがあります。その方は、キリスト教会のように、そこにいる方々のほとんどがクリスチャンであれば良いのに思われていたようですが、なかなか難しさがあります。それでも、日本全体のクリスチャンの割合と比べれば、随分と多い割合なのですが、それは今の日本でのクリスチャンの現状を考えさせられるお言葉でもありました。
しかし、これもイエス様が私たちに与えてくださった十字架なのかも知れません。この状況を私たちは生き抜かなければならないのですから。それに、それは神とイエス様と私たちが働く余地が、8割も残されているという恵みとして、考えることもできるのではないでしょうか。その施設におられる方々にも、それぞれのご事情がありクリスチャンではなくても、祈る心は旺盛におありかも知れません。それに、主の力は、私たちには思いもよらない計り知れないものがあります。多くの素晴らしい出来事を期待しても良いのではないでしょうか。もしそうだとしたら、私たちに課せられている十字架は、純粋な信仰によって、その方々への慈しみを憶え、祈りによって、その方々をイエス様に取り次いでいくことのように思えるのです。
ヨハネによる福音書6章37節では、「父がお与えになった人は皆、私のところに来る。」とイエスはお語りになっておられます。父なる神が、主にお与えになった人はすべて、主のもとに来て、主の赦しと恵に預かることが出来るのです。ただその時、主イエスから課せられていることは、主を信じ、人を信じ主を愛し、人を信じることだけのように思うのです。
アーメン
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