彦根城
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天秤櫓入口(67年2月)

彦根の駅を出ると城下町の面影を家並みに、路地に漂わせていた。城山が緑の鞠のようにふっくらと、屋根の上に飛び出ている。表門まで約5分、二の丸の佐和口多聞櫓が見えてきた。左手には濠の上に白鳥が遊んでいる。月明の古城の名が濠に沿う松並木の間に見える。さすがに大老の城、大きい。二の丸を過ぎると左手に厩。しかし残念、解体修理中にて見ることが出来なかった。はるか山上に望む天秤櫓と天守閣、晩冬の北風に身を置きながら三百年の威厳を保っていた。内濠の上にかけてある木造の表門橋を渡る。右手に御殿跡がある。その跡はかなり広い場所である。坂道を登りきると渡り橋。戦が始まったらその橋を落としてしまえば天守閣への道は切れ、入ることは出来ない。他の城では見られない構えである。その橋の下を通って左に大きく曲がり、橋の渡り口に出る。右手が鐘の丸跡。昔はここにも櫓が立ち、ここから大手門、表門に迫る敵を、弓、鉄砲でねらい打ったのであろう。大手門、表門が眼下に眺望できる。しかし、実際闘ったのであろうか。というのも徳川三百年の太平のためかここ鐘の丸と本丸、西の丸は同じくらいの高さである。敵が表門、大手門を入ってきても渡橋や門で入れないように出来ている。渡り橋を通り、天秤櫓をくぐり、左手に三百年間、時を告げてきた鐘の所に出る。天秤櫓はその名のごとく、天秤のように左右にのびた端に、鳥が両翼を広げたように櫓が立っている。間中が門になっている。秀吉の築いた長浜城から移したもので、全部、樟の木で出来ているそうである。柱の表面はくすんで、色もはっきりしない。左手に鐘を見ながら太鼓門櫓を入る。門はもと彦根寺の門で、白河上皇を迎えるために作られた。門には太鼓を置き時報に用いたので、その名がつけられた。太鼓門櫓の中は、博物館のようになっていた。本丸に出る。その中央に天守閣がそびえていた。なんか寂しそうにその影を落としている。しかし、それらを忘れさせるように、背後には、青い琵琶湖が広がっていた。その湖を背に、白い壁、黒い窓、灰色の瓦、金色の鯱、天守閣はその孤独の中に立派に生きていた。天守閣の中に入る。天井の木組みが幾何学的に組まれている。どっしりとした重さ、ここに入っていれば何事も忘れさせる。安心できる。一階、二階と上がる。その上がる階段が非常に急である。京極高次の築いた大津城の天守閣を移したもので、窓が華頭窓であるのがおもしろい。その窓には、太い木のさんが内部の者を守るがごとく、力強く並んでいる。西の丸三重櫓の方に。本丸から、その櫓までの左手側面の石垣は、とても登ることが出来ないであろうほどに切り立っている。三重の櫓は、小谷城の天守を移したもの。三重の櫓の右手より渡橋を渡り、観音堂の跡を、ぐるっとまわって、坂道を下に降りていった。城山を取り巻いている内堀の内側に沿って、周りを巡っている道に出る。しばらく行くと、下屋敷にある楽々園、玄宮園に通じる黒門橋が見えてきた。ここが通用門なのであろうか。山崎廊に出る。そこで朽ち果てた門を見た。たぶん、内濠から船にて着くときの門であろう。朽ち果て、傾いた柱があわれを感じさせる。(67年2月)