観音寺城
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城址の石垣(73年10月)

 観音正寺の表参道から登っていく。急な石段が続いている。最初一気に登ろうとしたが、途中でダウン。それ以後はいっちらこっちらゆっくりと。観音正寺の鐘突堂の前に出る。そこから社務所をとおり、本堂へ。その左手脇を回ると、本丸に続く道があった。左手の眼下には、稲穂が黄色に実り、綺麗な碁盤の目模様を作っていた。右手に登り道が現れる。そこを登っていくと、パラボラアンテナのある無人中継所に出る。地形から見て、郭跡に違いない。ここが最高所のようである。そこを下りて小道を進むと、前方がひらけ、綱の張ってある発掘跡に出る。その向こうに、燃えて黒くなった石垣も見える。平井、池田邸の跡であり、この辺が本丸跡だという説明板もついている。礎石だけしかないため、建物は想像するしかないが、これだけのものならば、相当の建物が建っていたことだろう。発掘前までは、土の下に眠っていたという石段も、初秋の陽の中で揺らいでもいるかのように、何となく力弱く見える。群れ飛ぶ秋茜のしっぽの赤さだけが、昔日の佐々木氏の城、観音寺城を偲んでいるかのように。(73年10月)

観音寺城跡(現地説明板より)

当観音寺は佐々木六角氏の本拠であって、中世の代表的な大山城である、築城年代は定かでないが、永い年代を経て応仁年間に大城郭が完成したのである。  永禄十一年九月織田信長は観音寺に入城したが元のごとく佐々木一族に守らせていたが天正十年安土城とともに滅亡した。今もなを全山に雄大な城郭の遺構が残っている。

観音寺城跡(別の現地説明板より)

観音寺は、近江の守護佐々木六角氏の本拠であって中世の代表的な大山城である。築城は永い年月を経て応仁二年(1468)に完成しさらに弘治年間鉄砲に備へて大々的に石塁が改修されている。永禄十一年九月織田は当城に入城したが城は元のまま残し、佐々木氏に守らせたが天正十年安土城とともに滅亡した。昭和44・45年近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調し当時の遺物や遺構が発見された。なを全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。