竜岡城
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  本丸の石垣(68年8月)                本丸の石垣(2011年8月K氏撮影)

 城跡の本丸五稜郭は、半分くらい堀が埋められて、小学校が建っていた。その学校の周りに少しばかりの民家や商店が散らばっており、いくら昔一万六千石の大名の城下町であったといっても、この城跡がなかったら、信じることが難しいであろう。北海道の五稜郭と、信州の五稜郭とは、どう結んだら、明治維新の変動期へつながりが出てくるのであろうか。一万六千石の小大名が、四万両もの大金を費やして、十字砲火もできるという、新式の城を作る必要があったのであろうか。外郭は完成しないまま、内郭も一度も戦火も受けないうちに、維新開城。松平乗謨とは、どのような人物だったのであろうか。内郭正面入口、今も学校の門に使われている。堀の幅は2〜3メートルもあろうか。水面からの石垣の高さも2、5メートルくらいだろうか。真にこぢんまりと出来ている。更に石垣の上の跳出しなど、敵の登るのを防ぐ工夫などもある。百年近く経った今でも、石垣の崩れを見せていない所、石積みの技術の優なる事を、我々に教えている。校庭の片隅に台所櫓が、がっしりと鎮座していた。校庭を横切り、そこに近づく。側によると想像以上に大きい。太い柱が白い壁に、美しく映えている。さらに大手門跡へ。石垣の崩れ落ちている所に出会う。大きな鳥居がその石垣の前に、門の替わりをする様に立っている。ここが城の外郭としての大手とすると、ここから本丸を中心にして四角形を地形に描いて見る。だいぶ大きな城の姿が、頭の中に浮かんでくる。一万石にしては、過ぎた大きな城である。陸軍総裁までなった松平氏、凡人ではなかったらしい。とてつもなく大きな夢を持っていたようである。ただ時代の波に乗れなかっただけか。(68年8月)