高取城
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太鼓台櫓石垣(04年11月)

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国道169号線の高取町清水谷交差点を曲がり、県道119号線を進む。左手に壺阪寺が見えてくるが、そのまま道なりに進むと、七つ井戸の登り口で行き止まり。2、3台の駐車スペースがある。この行き方が一番楽である。全体をつかむなら、城下町から大手道を歩いてあがるのが一番。本丸跡の櫓台に標高583、9Mの三角点がある。現在は多くの石垣が残り、城の規模の大きさを偲ばせる。2万石強の植村藩にとって、いかに大きなお荷物だったのか、想像するだけで絶句する。最初に来た1968年、印象深い高取城址石碑脇にそびえる杉の木が、先端部が無残にも枯れている。こんな所にまで、大気汚染が忍びよっているのだろうか。城下町の子嶋寺正門は移築二の門である。石川医院の門は移築下屋敷門。元家老中谷家長屋門が藩主子孫植村家門として現存。児童公園には松の門が移築されている。各移築門とも、城門としての風格がある。山城を楽しむのなら、歩いててくてく登るのをおすすめする。わたしは、ついずるをして車で行ってしまった。

 

高取城沿革(現地説明板より)

高取城は別名、芙蓉城ともいわれ近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城とうたわれている。築城年代に関しては元弘二年(一三五二)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。 元弘の頃に一時小嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。   城の形態としては永正から天文(一五○四〜一五五四)の頃に、整備されたと見るべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。  越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が筒井順慶によって企画され、天正十二年二月高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。   この一国的規模での本城−出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。   その後の歴代城主は本多氏が寛永十四年(一六五七)三代で断絶し寛永十七年十月植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。   城跡は、標高五八三・三米の山頂部を本丸とし以下二ノ丸、三ノ丸、大手曲輪、吉野口曲輪、壷坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壷坂口、吉野口の入口があった。   これら主体部はかつて土塁、柵、空堀等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。   例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)とし配置されている。   その他、本丸の桝形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も確認されよう。また、本丸、槍櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきもである。   ところで廃城後の建造物については、そのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和四十七年以降繰り返し実施している。

奈良県教育委員会

 

高取城之図(現地説明板より)

一、南朝の藩屏としての高取城

 元弘二年十一月大塔宮護良親王が兵を吉野に挙げ給ふや大和源氏邦永の遺孤越智八郎邦澄は宮の令旨を奉じて城を大和四嶽の一たる高取山に構へ自らを吉野本陣の前衛として西天遥に翻へる千早の錦旗に呼応して起った。 これが即ち高取築城の最初でありその縄張は実に友軍の大智大楠公の機略に出たものと傳へらる。かくて南朝の藩屏として常に北敵の防衛に任じその代々の誠忠と天然の要害は結んで未だ敗るゝ事を知らなかった。

二、模範十二城の一としての高取城

 天正十三年豊臣大納言秀長が大和郡山に封ぜられるやこの城に嘱目しその、「控城」として大和全国三ヶ年の物成(納租)を之に充てたと傳へられる大改修を行った即ち深谷俊崖の天嶮を利用した従来の山城式に加ふるに当時最も発達せる平城式手法をもってしたのでこゝに山城平城混成と云ふ海内稀有の様式が出現したのであるその後家康譜代の剛勇植村駿河守家政が寛永十七年関東より轉封以来十四代二百三十二年を経て幕政終末と共にその六百年の歴史を閉ぢたのであるが城の建物は明治二十二・三年に取壊された。しかし石塁のみは今も昔の侭であって本丸二ノ丸の如きは高さ幾十尺の石垣が聳え立ちその他楼門の阯はもとより千六百間に亘る土塀の跡迄本図その侭を現地に見ることが出来る「巽高取雪かと見れば雪で御座らぬ土佐の城」海抜二千尺の山巓に展開隠見する名城の姿は蓋し壮

美と云はずして何であっただらう。

三、天誅組の襲撃と高取城

 只惜しむらくは文久三年天誅組がこの城を襲撃して敢えなく潰え去った一事である。  当時京師に七卿落の変なく、朝議義軍に幸して一度この城に天誅の長旗が翻る處となって居たならば、恐らく維新回天の一単はこの城を中心として一大転換を記録したであろうと考えられる。  

史跡指定  昭和三十八年三月三十一日

 

史跡 高取城跡(現地説明板より)

 高取城は、芙蓉城、鷹取城ともよばれ現在その城跡は標高五八三・三米の高取山山上を本丸とし、それを中心として二ノ丸・三ノ丸大手曲輪・吉野口曲輪・壷阪口曲輪が連なり城の形態として永正から天文(一五○四〜五四)の頃に整備されたようである。「高取御城規」によると天守・小天守は三重で本丸には、西多聞櫓・南多聞櫓・煙硝櫓・鉛櫓・鎧櫓・具足櫓・石火屋櫓・宝蔵・油櫓・未申櫓・太鼓櫓・広間などの建造物が建てられていたことがわかる。ここで城内とは本丸・二ノ丸・三ノ丸を含めて、それら外は郭内と呼ばれている。   本城は南北朝時代、吉野に通じる拠点として、南朝に属した越智氏の支城として築かれたことは疑いない。興福寺旧記には「高取城ヲ越智ヨリ攻取、城主子嶋掃部没落ス」とあり子嶋氏の居城であったことも知られ、現に地名としてのこる高取町字上子嶋・下子嶋の地名はその名残りであろう。近世山城の典型としてよく知られているものである。本城跡にたたずめば往時の姿をしのばせるものがある。

指定年月日 昭和二八年三月三一日  奈良県教育委員会

 

(高取城現地説明板より)

本丸は大小二棟の天守閣と鉛櫓・煙硝櫓を多聞櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態といっている。東西四十間余(約七三米)南北三五間(約六四米)の凸字型の平面をなしている。地型の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。 しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので築城技術の完成したころの構築とみなされる。 昭和四七、四八年度の県教育委員会の高取城修理にともない、本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測、根石の状態を調査したが、石垣のひずみの部分は後補のものであり、隅石には転用材を使用していることが明らかになった。転用石の中には漆喰の付着した石が二箇検出され、切石古墳の石を使ったものと想定されている。漆喰については、分析によると桜井付近の古墳漆喰の分析値と似ていると報告されている。 また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は、山城での遺存例として現在のところ唯一の発見例で注目すべきものである。

奈良県教育委員会

 

県文化財指定(昭和三十六年三月十四日)

家老屋敷の長屋門(現地説明板より)

この門は、高取城の旧大手門通りに面し、旧高取藩家老屋敷門である。 江戸末期文政(一八二六)の建立で門口三九・一メートル奥行四メートル、むね高五メートルの規模一重入母屋瓦葺き造りである。 近代武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。 現在は、旧藩主植村氏の住宅となっている。

奈良県教育委員会 高取町教育委員会

松ノ門(児童公園現地説明版より)

 高取町の南東部には、標高583、9mの高取山がそびえ、山頂には高取城跡(国指定史跡)があります。この城は、南北朝時代の元弘2年(1332)ごろ、この地方一帯を治めた豪族・越智氏により築かれた山城で、その後、本多氏などを経て幕末(1868)まで、植村氏の居城となりました。城は、城内と郭内に分けられ、城内は約1万u、周囲約3km。郭内は、約6万u、周囲約30kmという広大なものでした。松ノ門は城内にあった門のひとつで、切妻造・本瓦葺の建物であったと知られています。現在、城内の楼閣などは失われましたが、石塁などは昔のままの姿をとどめており、中世から近世までの高取の栄華を今に伝えています。 松ノ門は、高取城内にあった建築物のひとつで図のような門であったとされています。明治4年の廃藩置県により高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。その中のひとつ「松ノ門」は明治25年に土佐小学校の校門として移築されていました。しかし、昭和19年の火災により一部が焼失したため、解体されたままになっていました。現在の門は、地元の熱い要望と当時材を取得保管されていた臼井氏(金剛力酒造株式会社)からの材の提供により、図の朱色部分について復元したものです。   平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)

旧高取城二ノ門(現地説明板より)

年代 慶長年間

當門ハ豊臣秀長ノ臣本多利之公ノ建築ニカカル。明治維新ノ際、廃藩ト共ニ高取城拂ニ際シ当寺ニ移轉シタルモノナリ。旧城中原形ノ儘存スルハ当門ノミ也。尚、堂内ニハ数多クノ佛像安置サル是非一見アレ。

 

七ツ井戸(現地説明板より)

城ごとに標高五八三米の山城とって一番弱点である井戸については、特別の考慮が払われ、この井戸の近くに四ヶ所本丸の大井戸、二ノ丸の「中ノ井」等を設けられ、往時は清水コンコンと湧き出ていたと伝へられ、現在大手門すぐ下の井戸に於ていまも尽きず清水が湧き出ているが水を呼ぶ木として杉や水木の木立に囲まれ、水の豊かなことがこの城の価値を高めている。