プロフィールと雑感
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生まれた時期      1947年

とれた土地        山形県

現在の住まい       大阪府

職業            石油関係会社に勤務。07年6月から無職

家族            息子二人と妻。あんにゃ(雄猫)とミイー(雌猫)とマル(犬)とチイ(文鳥)とドン(泥亀)

撮影カメラ         FUJIFILM Finepix 40i&2800Zoom&F700 & OLYMPUS-760UZ & NikonCOOLPIXP5000&CASIO EX−ZS100

 

 今またお城ブームである。ある時間ごとにめぐるブームである。私が城郭に興味を持ったころ、ブームとは程遠く、趣味が「お城」です。などと言うと「こいつおかしいのか」と思われた。だが初めて姫路城の姿を見たときには、心が震えた。一時、城郭建築に夢中になるが、年を経るうちに石垣や濠、自然の地形に魅かれるようになった。今考えるに、原点は幼い時、慣れ親しんだ故郷の山城だったような気がする。血塗られた歴史を刻む城郭から、一度も戦乱の無かった城郭まで、数多くの城郭が存在する。これらの一部でも知っていただければという思いで、このホームページを立ち上げました。インターネットには手こずりますが、今後色々学んでいきたいと思っております。これをご覧頂き、少しでも城郭愛好家が増え、歴史遺産をだいじにしていただければ幸いです。

 私が歴史に興味(懐疑)を持ったのは、高校時代である。歴史の教師が黒板に「足利高氏」と書いた。それまでの知識では「足利尊氏」であり、当然質問もした。教師の答えは簡単なもので「ああ、どちらでもいいよ、高氏とも書くのだよ」というもの。その時、教師は後醍醐天皇から「尊」の字をもらった前後で使い分けていたわけでなく、たんに「高」の字が簡単なので、使っていたように思えるのだが。大げさに言えば、その時、それまでの歴史感が崩れさったのである。歴史とは数学のようなただ一つのものではなく、たくさんの答えがあるのだということを。たくさんの人間が生きた分だけ、たくさんの歴史が存在するのだということを。後年、歴史の裏をよむ力がついたのは、この教師がいたからなのかもしれない。城の持つ魅力もそうなのではないのだろうか。物、建造物もそうなのだが、その機能性が優れていれば、その物の美も極限になる。そんなことを考えながら、ぶらぶらと城郭を歩いている。

 最近、日本刀に興味がある。友人から「インターネットオークション」の存在を知らされた。以前は「数百万から数千万円」と聞いていたが、そこでは「数万から数十万円」で手に入る。長年の夢がかなえられ、数振り落札した。これぞまさしくピン、キリの代表だ。国宝や重要文化財に指定されている物は素晴らしい。だが、実用として使用した戦国時代、まさかそんな名刀で戦ったわけではなく、廉価で実用的なものがあったはずである。私のねらい目はそこだった。数百年の時が経ち、錆が浮き、疲れきった刀身に魅力を感じる。逆立ちしても国宝になれない彼らこそ、時代の証言者だ。鉄製品が数百年も存在すること自体が脅威である。守次・国次・祐定など銘があるものもあるが、偽銘を刻んだような感じもする。それらは既に江戸時代に盛んに行われていたという。じっと銘を見ながら、どのような人がどんな気持ちで偽銘を刻んだのか、想像することも楽しみの一つである。 残念な事に、現在は美術品としての価値であり、歴史の証言物的骨董品としては扱われることが少ない。もっともっと先祖が残した歴史の証言者としての価値を見出して、多くの人が身近に感じて欲しいものである。(2006年11月)

 先祖のことを想う。北面の武士であった佐藤義清が家族を捨て出家し、西行法師となる。彼は能因法師の歌枕を訪ね東北を旅する。兄西行を探す弟は旅の途中病に伏し、東北の村で土着する。その子孫がわが先祖。もう一つが、義経に従った福島佐藤庄司の子、佐藤継信、忠信兄弟が先祖だと言う。戦国時代、かのものたちは乱波となり最上義光の一族、天童家に仕えたが義光に攻められかの地で逼塞する。この乱波生き残りが先祖だという伝承がある。そうすると、私の先祖が忍者か?。私は別の事を想像する。平安時代の坂上田村麻呂に、東北開拓で関西からつれて来られた次三男坊だったのではと。延々と百姓で、田畑を耕してきたのではなかろうかと。その子孫の次男坊が、関西で生活しているのは先祖がえりか。(2006年12月末)

 今年の3月末で定年退職である。人生の区切りをつけるべきものが、二ヶ月間という中途半端な再雇用である。定年後はゆっくりと全国の城址を廻るのが夢である。あくまで夢に終わりそうなのだが。準備を兼ねて近所の歴史講座に通いだした。すばらしい先輩諸氏が目白押し。又聴講生の多くは年配者、まったく頭が下がる思いである。郷土の歴史を掘り起こしている地道な研究者も多い。世の中を真に支えている人々は、このような地道な人々なのではないのだろうか。それは今に始まったことではなく、長い間行われてきたことなのだろう。郷土史を知らなくとも人々は生活できる。だが大勢の研究者を見ていると、人間とは必要も無い事にこだわる生き物なのかもしれない。(2007年4月末)

 大阪の住吉神社で土佐藩住吉陣屋が奉納した灯篭を探していて、偶然ある一つの灯篭に遭遇した。太鼓橋のかかる池の北側にある、3〜4Mはあろうかという大きなものである。幕末三筆の一人「貫名苞(ぬきなしげる)」の筆になる文字で、「羽州天童 仲野半四郎」「羽州天童 相澤兵助」「羽州山形八文字屋本右衛門」などの文字が見えた。仲野半四郎は現在の地酒「出羽桜」の蔵元、相澤は呉服商、八文字屋は本屋と商売は別々だが、同じ商人である。奉納した文久二年と言えば、後六年で明治維新を迎える激動の時代である。大阪と山形両商人の関わりと、住吉神社が持つ商人との関わり。今の時代なら別におかしくもないが、文久年間に千数百キロも離れた二点のつながりとはなんだったんだろうかと考えさせられた。城址探索もこのような副産物が出てくるのでやめられない。目当ての土佐藩灯篭はいまだ見つからず。(07年夏)

 久しぶりに帰省した。主目的は城郭探訪、ついでに先祖探し。実家の兄と同級生が先祖のことで対立している。どちらが本家かが争点。両方の言い分を聞くと、元禄年間の古文書を所持している同級生の方が有利。真実はわからないと言うべきか。どちらも古い時代に分かれたもので、証拠がない。人それぞれで言い分が食い違い、水掛け論。たださかのぼれた先祖は忍者ではなく、天童頼久の家臣で石高五百石。天正12年、最上義光との合戦で華々しい討ち死にをとげている。義光の家臣、12人を討ち取った後の戦死。だがそれ以前は古文書が無く不明。天童古城の古井戸を発見した、と喜んでいた同級生の顔が印象的。夕暮れの中、案内された古井戸は、鬼気迫るものがあった。(2008年11月)

 大正9年1月25日生まれの母が、平成21年2月3日遅く永眠した。晩年記憶が薄れ、息子の顔さえ判別できず、そこにいるのは仏そのものであった。肉体より先に精神が失われた。法名釈尼豊春のとおり、怒る事の無い穏やかな母であった。遺品のアルバムを開くと、私の知らない20代の母の写真が数枚あった。そこにはツンとすました娘が写っている。母には母なりの、思いもかけない青春が存在したのだろう。青春の真っ只中に、戦争という時代を生き抜いた芯の強さ。姉が施した死化粧の顔には、その当時の顔が覗いている様に少し晴れやかで、穏やかだった。奇しくも30数年前に他界した父と同じ2月に旅立った。二人、仲良く、あの世で再会を喜んでいるのだろうか。なぜか父の死より、母の死が精神的にこたえる。(2009年2月)

 三月二十三日、母の七七日の法要と納骨をおこなった。天気は良いが、寒風吹き荒ぶ日。この世に名残惜しそうに寒風が吹き荒れた。大勢の親族、子供や孫やひ孫に見送られ、先祖代々の墓におさまった。これからは安住の場所で永遠にと祈るのみ。(2009年3月)

 六月から過去訪問した全国の城址をアップしている。当時の写真をながめるとモノクロ写真もいいものだ。当時はフイルムで、デジタルカメラのように数多く撮影できなかった。そのせいかしっかりしたアングルが確保されているように思う。当時の感想文も載せているが、文章には若い気負いが感じられ、削除訂正した所も多々ある。訪問の旅も友達だったり、一人旅だったり色々である。50年一昔とはよく言ったもの、隔世の感はぬぐえない。後、中国、四国、九州地方とあり、暑さにねをあげた、夏ばての身には絶好の機会かも。(2009年8月)

 母の一周忌の法要に帰省した。寒風が時々吹く天候で、未練を残しているようだった。母が生きている時には帰省しなく、死んでから帰省できるのも因縁か。七人兄弟全員そろったので、近くの温泉で親睦を深めた。酒も入りカラオケが始まる。姉たち配偶者の得意な持ち歌を聞きながら、数十年前父の七回忌の時、兄弟たちの前で歌っていた母の歌声を思い出していた。五木ひろしの「千曲川」だったと記憶している。澄んだ高い声で歌う、楽しそうな顔にびっくりした記憶がある。ちょうど今の私の歳であった。父が無くなってから30数年、母は自分なりの人生を過ごしたのだろう。後数年で、私も父の享年になる。(2010年3月)

 やっと暑い夏も終わり、城跡巡り活動期に入った所、義父が亡くなり、急遽帰省しました。享年88歳、田舎の頑固親父そのものでした。だが、戦前は満州国境でコサック騎兵と渡り合った騎兵でした。私の知る義父は、そんな雰囲気を微塵も見せない子ども思いの義父でした。終戦前に負傷して帰還することが出来たので、ここまで生きたのでしょう。運命とはわからないものです。戦後の混乱期を負傷した身体を引きずり、家族のために必死に生きたのでしょう。時代が落ち着いても何の贅沢もしないで、頑固に百姓を続けた人でした。子どもと孫の自慢をすることが好きな。「光岳院勇勤直道禅居士」戒名そのままの人でした。大勢の見送りの人を見て、何をおもっているのだろう。(2010年10月)

 ふとした偶然から、亡父の先祖がわかった。父は隣村の出身で昭和初頭に我が家に、婿入りしてきた人だ。父の実家は分家である。本家は延宝四(1676)年没の初代から数えて十三代続いている。本家の六代目の三男が分家し父の実家を創家している。本家初代は天正年間、最上義光に攻められ敗北し、現在地に移り住んでいる。そうすると我が家も、同じように天正年間に最上義光に敗北している。以後、同じように土着帰農している。母方の実家は未調査。もし母方もそうであるなら、最上義光は郷土の英雄より、仇となる。歴史の皮肉か。(2011年5月)

 11月中旬に、配偶者の姪の結婚式で帰省した。雨模様だったが、時々太陽が顔を出す。式で放った風船が、大空高く吸い込まれていくのを見ていたら、思わず心の中でつぶやいていた。(若い二人のこれからに幸多かれと) ついでに山形市近辺の諸城も訪ねる。秋の紅葉が真っ盛りで、思わず探索する城址から気がそれた。数年ぶりにみる天童古城も、赤や黄色の紅葉が目立つ。なんでも「松枯れ病」で松が枯れ、紅葉が目立つようになったのだとか。甥の案内で見た「奥山寺」渓谷の紅葉も見事だった。一枚の写真を撮る気にもならず、見とれるばかり。車の目前を熊が横切り、自然の中に溶け込んでいくようだった。(2012年11月)

 数年前にパソコンを買い換えた。ソフトの立ち上げががうまくいかず、ホームページの更新も出来なかった。分室を作り、そこで伝説を楽しんでいる。かつて勤めていた会社が私の誕生年に設立され、就職した年に組合が出来、今年が50周年。記念式を京都でやった。これはこれで短いような長い歴史である。ついでに駆け足で京都も廻ってきた。近場でも数年ぶりの訪問である。都だけに観光客が多い。当然ながら東洋人を含む外国人も目についた。時代は確実に流れているにを実感した京都行。文頭に紹介した家族も、マル(犬)チイ(文鳥)が死んでいない。老衰で眠るように逝ったマルに涙が止まらなかった。自分の将来を重ねたのだろうか。身近で手塩にかけただけに。(2015年弥生)

 数年ぶりの帰省、仙台空港におりた。偶然震災の国際会議も開催中であった。母の三回忌が東北の震災で取り止めたので、七回忌をおこなった。空港はきれいになっていたが、周辺はまだまだ震災の傷跡が消えない。復興も道半場と言った感じである。ついでに仙台城を訪ねたが、きれいに整備され、震災の事は無かったかのごとく。東北の中心都市として、賑わいが感じられた。(2015年弥生)

 卯月末、配偶者の姪の結婚式に帰省した。故郷の桜祭は人間将棋の真最中。楽しみにしていた桜は、葉桜に。幼いころに見上げた、全山桜色の思い出は見られなかった。でも、畑は桃花のピンク、洋梨やさくらんぼの白い花が、月山の残雪を背景に咲き誇っていた。結婚式は仙台で。行き帰りの山越へでは、たくさんの山桜が咲いていた。峠には残雪もあり、雪国の自然を見る。式もアットホームで、かしこばることなく、美味しい料理に腹は大満足。時間を割き、趣味の探訪も、夏日の暑さにバテバテ。(2015年4月末)