勝龍寺城
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本丸隅櫓(07年10月)

その他の写真

 JR長岡京駅で降りる。東口を出て、日本輸送機工場ぞいに南下、左手に神足神社入口が見える。神社あたりが神足屋敷跡で空掘りと土塁が見られる。でも竹薮と鉄条網で立ち入りは出来ない。さらに四辻の交差点を越えると、右手に本丸の模擬隅櫓が見える。ぐるりと模擬の土塀が巡り、南門と北門がある。南門脇には櫓風休息所があり、二階は展示室。ここには於玉の肖像画がかかげられており、忠興と三年間の生活をしている。北門脇には城址整備時に出た、たくさんの石仏が祀られている。この城も例外ではなく、付近のたくさんの石仏を利用したのだろうか。本丸の西には沼田丸跡が公園の一部として整備されている。この城はそもそも神足氏が始まりなのだろうが、細川藤孝と明智光秀により、有名になる。40年前、京都大徳寺高桐院で於玉の墓に出会い、大阪での越中井戸や崇禅寺で供養塔に会い、一度は訪れたく思っていたこの城、あまりにも明るく違和感を覚える。本丸の脇の道はガラシャ通りだそうだ。あまりのも整いすぎたこの公園を見ると、このような城址整備の一つも、今後に残す歴史遺産として一つの方法かも知れないが、違和感を覚えるのは、私だけだろうか。

勝龍寺城跡(現地説明板より)

 所在地 勝龍寺・東神足二丁目地内   時代  南北朝時代〜安土桃山時代

勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(一三三九)に築いたといわれる。城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。応仁・文明の乱(一四六七〜一四七七)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えれた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(一五七一)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正一〇年(一五八二)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が一六歳で藤孝の子忠興(一六歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空掘跡が残されている。この城跡は勝龍寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多門櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

平成四年三月 長岡京市

北門跡

本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。この出入口を囲む土塁は高さ二メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。 城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。 この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。

平成四年三月 長岡京市

勝龍寺城の土塁と空掘 東神足二丁目 戦国時代

 現存する土塁と空掘は、細川藤孝が元亀二年(一五七一)に城の大改修で造営したものです。土塁と空掘の他、土橋や横矢の掛る土塁が残されています。神足神社の東側は、昭和五十九年(一九八四)に消滅しましたが、発掘調査で土塁と空掘の比高が約六メートルあること、新たに土塁下から六世紀後半の方墳である神足古墳が確認されました。 勝龍寺城外郭に位置する神足屋敷は、藤孝が国人神足氏の居館である神足城を勝龍寺城に組み込んだものと考えられます。 平成十二年の調査では、土塁の手前で止まる南北方向の堀と、土塁を開削する溝を確認しました。絵図にない堀はこれまでにも見つかっていますが、新たな堀の発見は城の細部を明らかにする上で貴重な手がかりになります。このほか、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形が空掘りから出土しています。

平成十三年三月  長岡京市教育委員会