花隈城
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城址にある古い石仏(04年1月)        天守閣跡の石碑がある福徳寺(04年1月)

  

城址石碑(04年1月)       昭和40年代の石碑写真(「名城名鑑」人物往来社より)

JR元町駅でおり、山手を線路沿いに西へ300Mほど行くと、石垣が見える。ここが現在、残されている城址である。もともと小高い丘であり、その地形を利用して花隈城があった。現在は神戸市の地下駐車場となり、石垣はその壁面をかざっている。地下駐車場の上を利用して公園がつくられており、城址の雰囲気を感じさせるような公園である。南側の海のほうは高いが、北側は峰続きであったことがうかがわせる地形である。写真右上の石仏は地蔵さんと共に、荒木一族の子孫により祀られている。近くにある福徳寺は天守閣跡といわれており、石碑のある山門が城門のように新築なり、境内の建物も、天守閣風建造物である。現在の花隈町を中心に、かなり大きな城郭であった。公園からは神戸港が眺められ、高層建築物がなかった当時は、絶好の城郭であったことが想像できる。このような現代の都市と共存できる利用の仕方も、今後に城址を残す、一つの方法なのかもしれないと、妙に感心してしまう花隈城址である。  城址石碑は平成7年1月17日の兵庫県南部地震により倒壊破損、新たに模造復旧したものと説明されていた。新旧の石碑写真をのせたので、見比べるのもおもしろい。

 

花 隈 城 跡 (現地説明石板より)

  花隈城は、永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。 のち天正6年(1578)村重が信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて、天正8年(1580)8月2日ついに落城した。   城の地点は海に面して突き出たハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。 城の規模は古図によると、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しくわからない。城の西には花隈町があった。   現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で、東西約350メートル、南北約200メートルであったと思われる。          昭和44年3月

 

円柱石碑(上の写真)碑文

花 隈 城 跡    侯爵 池田宣政書

室町幕府ノ末期ハ綱紀頗ル紊レ所謂戰國時代ニ遷リ群雄割拠シ兵○○○○○○○○○○○○喉要衝タリシヲ以テ大阪石山城ニ籠レル一向宗ノ門徒ノ織田信長ニ攻○○○○○○○○○○○○○○利氏粮米ヲ運上スルニ當リ先ツ之ヲ花隈城ニ貯フ紀州雑賀ノ門徒野口與一兵衛之ヲ守ル信長○○○○○○○城將野口戰死ス永禄十一年信長荒木攝津守村重ニ命シテ城ヲ修セシム村重ノ弟志摩守元清之ヲ守ル蓋シ花隈ハ伊丹ノ支城ナリ天正七年五月村重信長ニ叛キ伊丹城ニ遽ル信長大擧之ヲ攻ム同年十二月伊丹城陥ル信長池田信輝ニ命シ花隈ヲ攻メシム城兵固守ス信輝父子城外ニ附壘五箇所ヲ設テ包圍攻撃ヲ翌年六月城終ニル信長此地方ヲ信輝ニ領セシムルヤ花隈城ノ舊材ヲ兵庫ニ移シテ築城シ池田城ト呼ビタリ而シテ花隈城ノ故址ハ高○○稱シ明治ノ初年迄ハ一幹ノ老松亭々トシテ聳ユルモノアリシモ廢墟空シク叢中ニ埋マレリ只地官有タルヲ以テ地勢ニ劇甚ナル變化ヲ見又明治三十四年四月神戸港務局カ表時球地下工事ヲナスニ當リ地下六尺ニシテ五輪塔ヲ發掘セリ之レ築城以前ニ在リシ建武年間創立ニ係ル吟松庵ノ遺物ナルヘシ昭和二年十月此所ニ電信ノ校舎ヲ建築スルニ際シ愈舊城地タリシ證跡歴然タルモノアルヲ見ル神戸郵便局長水野比呂文舊蹟壊滅センコトヲ慨キ之ヲ地方有志ニ謀ル偶新潟縣人後藤文司之ヲ聞キ其擧ヲ賛シ工費ノ全部ヲ支出シ茲ニ建碑シ以テ史蹟ヲ不朽ニ傳フト云爾      昭和三戌辰年二月    會丁山人  福原潜撰    華 城  小島 錬書(○は判読不明文字)