広島城
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復元天守閣西面(05年10月)               1967年11月当時の天守閣遠望

その他の写真

三十数年ぶりに訪れた広島城はきれいだった。堀に浮かんでいるゴミも、町の中のゴミも見当たらない。観光都市としても立派。城内も城外もきれいに整備が行き届き、木々の緑も格段に増えている。濠越しに眺める天守閣は、緑の木々に溶け込み、落ち着いた雰囲気を感じさせる。原爆ドームも昔は未整備で身近に感じられた。今回は、遠く離れた物のように、額縁の絵を見る感じがした。風雪が、時が、このようにも浄化させるものかとびっくりした。まさに広島も、高層建築が天守閣を凌駕し、新旧交代に驚く。二の丸馬出しの復元された各建物群を見ると、昔日の広島城を想像する手助けとはなる。

 

礎石について(現地説明より)

ここにすえ付けてある石は昭和三十三年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものである。玉石排水溝の内側が天守台の大きさである。一段低くすえてある石は今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。

昭和四十四年七月  広島市教育委員会

 

史跡 広島城跡 二の丸跡(現地説明より)

 この石垣と建物に囲まれた二の丸は島出しの機能をもつ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。  この郭は、毛利時代(十六世紀末)に築造されたもので、外側から内部は見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。  郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。

広島市教育委員会

 

史跡広島城跡二の丸(現地説明より)

平櫓・多聞櫓・太鼓櫓(復元)

 平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されています。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。  この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。

平成6年8月   広島市教育委員会

 

広島城の歩み(歴史資料館パンフより)

広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。

城地の選定と築城

 毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県高田郡吉田町)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見学し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正十七年(一五八九)四月十五日鍬入式を行いました。  築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正十八年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。

城下の整備

 慶長五年(一六○○)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ヶ国の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。  しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和五年(一六一九)に芸備二ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治二年(一八六九)の版籍奉還までのおおよそ二百五十年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めました。

明治以降の広島城

 廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治七年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿も焼失し、大天守・中・裏御門、二の丸などを残すのみと鳴ってしまいました。そして昭和二十年(一九四五)八月六日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同三十三年(一九五八)に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史資料館になっています。