和歌山城
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岡口門(01年12月)                  追廻門(01年12月)

 

岡山の時鐘堂(01年12月)             銀明水脇にある転用石、石仏群(01年12月)

その他の写真

和歌山市のほぼ中央にある虎伏山を利用してつくられた。豊臣秀長、浅野幸長、徳川頼宣各時代の積み重ねのような城址である。それぞれの時代に築かれた、石垣を見て歩くだけで楽しい。天守郭石垣には、転用石の石仏がある。また直ぐ下の銀名水の脇にも、たくさんの転用石仏が祀られている。ここは一年中、日陰になるせいか、転用石仏の涙がしみこんでいるようである。車で行くなら不明門から入り、駐車場に車を止めて、道路反対側にある岡山時鐘堂を訪れるのも良い。観光客もいなく、森閑としている。電車なら駅から城下町を見ながら歩くのも良い。JRでも南海本線でもどちらも同じくらいの距離か。復元なった大手門から入るか、重要文化財指定の岡口門から入城してもよい。修復なった追廻門が砂の丸にある。かつて城内にあった公共建造物が立ち退き、西の丸、二の丸も広々としている。昭和33年に復元された天守郭建物群も、自然とうまく溶け合うようになってきた。残るは本丸御殿跡が公開されるのを待つばかりである。

 

本 丸 御 殿 跡 (現地説明板より)

この地の上段を本丸御殿跡という。本丸御殿は天守閣随建物として元和年間に創建されたもので、中央に「七福の庭」を配していた。当御殿には文久三年(一八六三)三月十日から翌年十月ニ十六日まで十四代藩主徳川茂承(もちつぐ)公夫人(倫宮則子)(みちのみやのりこ)が住まわれたので、時「宮様御殿」とも称された。ここに正室が住まわれたのは実に始祖徳川頼宣(よりのぶ)公以来のことであった。廃藩後この御殿の一部が移築され市内小倉光恩寺の庫裏(くり)(御殿の御台所)は現在唯一の建造物である、本丸御殿跡には大正十二年(一九ニ三)上水道貯水池が設置され現在に至っている。(○は不明文字)

銀 明 水 (現地説明板より)

この井戸は「銀明水」といわれ天守台地北方丘腹の「金明水」と共に日常用水ならびに籠城時の非常用水であった。城内にはこの外、四十余ヶ所があります。

岡山の時鐘堂(県指定文化財)(和歌山市パンフより)

三年坂通り南の丘陵上にある鐘撞き堂。正徳2年(1712)、吉宗が5代藩主時代に完成した。時間をしらせただけでなく、火事などの非常事態をも知らせた。

岡 口 門 (和歌山市パンフより)

岡口門は、元和7年(1621)、徳川氏が搦手門(裏門)として建造したものであり、和歌山城内に残る数少ない江戸初期の建造物である。門は櫓門形式をとり、土塀を含めて昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定された。昭和35年(1960)、解体修理が行われた。

追 廻 門 (和歌山市パンフより)

門外に馬術の稽古場があり、この付近で馬を追い回したためこのように呼ばれた。冠木門(かんきもん)の様式で、当初から殿様御座所の裏鬼門を封じるため、赤い顔料が塗られていた。