中野城
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中野城址パームシテイ駐車場より(03年5月)    中野城址石垣と堀跡(03年5月)

その他の写真

戦国時代の血塗られた戦いのあった城。大阪から国道26号線を南下、和歌山市に入り狐島手前交差点を右折、パームシテーと貴志南小学校の中間あたりが中心地。和歌山市の説明板がある。その説明板も根元から引き抜かれ、塀に立てかけられた状態である。城址木標も同じように並んで立てかけられている。民家の塀基台石垣が城址の石垣と推定しているが、私には疑問である。写真の民家を含め、隣の民家の塀基台にも同じような石垣がある。パームシテイの駐車場が城址を侵食している。過去は信長、現代はパームシテイに敗けて落城か。まもなく消滅しそうな城址である。

中野城跡     和歌山市

戦国雑賀党の支城で天正五年(1577)怒涛のような織田信長の大軍を迎え撃つための前線基地となった。が激戦ののち開城、信長の陣所となる(「紀伊続風土記」「諸国廃城考」「畠山記」)。城がまえは、土入川の支流を取り入れた平城で軍用物資や兵員の輸送などの水運に恵まれていた。城跡は今も八十センチほどの台地にあり、城の遺構と伝えられる石垣や堀跡(南西側に内五メートル)が残されている。(右写真の説明板全文)

「貴志南小学校の学校の紹介より抜粋」

戦国時代の中野城の遺構が、学校の東南部に残存している。この城は、天正5年の織田信長の雑賀攻めをむかえうった雑賀党の出城と言われ、今でも石垣や堀跡が見られる。本校の建設に伴った発掘調査(1980〜1981年)では、人為的に掘削された大溝が検出され、その中から多量の瓦、朝鮮王朝の白磁、刀の切っ先と見られる鉄器片が土出(原文のママ)し、周辺には城館があったと考えられている。

所在地 → 和歌山市中野