太田城
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大立寺にある移築太田城大門(03年5月)    太田城大門があったとされる推定地(03年5月)

 

来迎寺東に移設された小山塚(03年5月)    太田第一公園南側にある太田城想定図(03年5月)

その他の写真

秀吉の水攻めで有名な城。今でも雑賀党の中心地なのか、わりあい良く保存されている。だが、区画整理事業により、本丸の跡といわれる来迎寺を始め、碁盤の目状に道路がきられている。むしろ周辺部の大門跡とされる辺りに、当時の道路の片鱗が残っている感じである。来迎寺、小山塚の石碑は一見の価値有り。今まで見てきた城址で、これだけ立派な石碑を見たことが無い。でも来迎寺墓地にある、太田左近妻「砂女」の墓を探すことは出来なかった。同じように移築大門のある大立寺墓地の、吉宗の祖母「冷香院」の墓も探せなかった。なにがしかの標示が出来ないものであろうか。写真の太田第一公園にある看板も、いたずら書きがあり、色あせしており、せっかくの看板が泣いている。県庁所在地和歌山市の文化としては、残念なことである。関連して、来迎寺南側に位置する日前、国縣神宮も一見の価値がある。この神宮と耕月寺間に太田城支城の秋月城があったとされる。神宮の森の静けさが、太田城で散った将兵の魂を慰めてくれている。

 

大立寺山門

和歌山市指定文化財(建造物)   昭和四十四年十二月十一日指定

大立寺は文禄年間(安土桃山時代)の創建と伝えられる。山門は医薬門型式で、高さ五、八メートルある。材質は欅を主体とし、栂を混えている。この門は室町時代末期の紀州在地勢力のひとつである「太田党」の居館であった「太田城」の大門を移築したものと伝えられている。太田党は、天正十三年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻略の際に最後まで抵抗した集団として有名であるが、最後には水攻めにあって滅亡した。その後大門のみが市内吹屋町の功徳寺に移され、さらに第二次世界大戦後、大立寺の山門として移築されたものである。 昭和五十九年十一月  和歌山市教育委員会(大立寺山門前の説明板)(門の一部が隣のブロック塀に挟まれて見苦しい、お隣の某医院も少し配慮が出来なかったものか)

 

太田城跡

ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられている戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西二百五十メートル、南北二百メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。天正十三(1585)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗正を大将として、約五千人が太田城に立てこもり、十万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長五〜六キロメートルにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。攻防一ヶ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。ここから北東約五十メートルには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約二百五十メートルには太田城の大門があった場所とされる大門橋、北東約七百メートルには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。なお、西約一キロメートルの市内橋向丁の大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は、この太田城の大門を移したものと言われている。(来迎寺山門脇の説明板全文)(だれが設置したのか署名がない)

 

太田城趾碑

太田城は往昔日前神領保護の為に築かれし者也織田氏の興るに際し城主太田左近信長に應じて畫策する所あり信長歿後遺子信雄東照公輔翼の下に秀吉と事を構えるや左近亦義に因て之を援く和成るに及び秀吉の怒を買ひ天正十三年三月その包圍を受く左近善謀奮戦肯て降らず秀吉依て長堤を造り紀川の水を灌き之を攻むること益急なりしも城兵猶克く防戦に努めしが左近は士卒の救命を請ひ同年四月十十二日遂に開城し部将等と倶に自刃せり今茲此土の有志相謀りて碑を建て以て其義烈を表し之を後昆に傳へんとす乃ち事の梗概を叙すること如此

大正十年九月

和歌山縣立海草中學校教諭 正七位 吉田寅蔵 撰

和歌山縣立海草中學校教諭        中田保久 書

發起人  太田亀太郎  太田萬之助  谷口勝次郎

(来迎寺本堂前の石碑裏面)(表面は従三位侯爵徳川頼倫 染筆とある)

 

小山塚碑文表面

太田城水攻遺蹟

小山塚

参議院議員徳川頼貞謹書

 

 小山塚碑文裏面

 碑文

天正十三年三月下旬豊臣秀吉大軍を率いて太田城を水攻したが太田一党は勇敢に克く戦い一ヶ月余奮斗四月下旬遂に落城した主将以下潔く自刃したと傳う小山塚は當時戦死の勇士を埋葬した塚で士俗四十八塚という墳墓の一つである茲に有志等相謀り建碑を行い武勇典型の霊魂を慰むると共に其の遺蹟を保存して後世に傳えるものである  昭和二十七年四月二十二日

和歌山縣史蹟名勝天然記念物専門委員  田中敬忠 撰

和歌山縣立桐蔭高等学校学校教諭        天石 弘 書

発起人    和歌山市警察署 宮巡査駐在所勤務 和歌山市巡査 山本治郎一   太田嘉一郎   山田利二

世話人    谷口勝次郎   楠見久太郎  川端常三郎  太田亀稱  太田隆次郎   太田壮太郎   太田誉雄   川端廣吉   秋月利一   川端尚雄   太田繁一   太田教造   出口徳次郎   太田重雄   速見正文  藪一繁男

土地寄贈    伊藤貞雄   太田豊雄   谷口真保    

当小山塚は昭和二十七年和歌山市太田五三八番地の塚跡に建立されましたが昭和六十年東和歌山第一地区区画整理事業により現地に移転したものである   昭和六十年七月二十六日

太田城史跡顕彰保存会(小山塚左手にある)

所在地 → 和歌山市太田