三原城
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隆景広場から見た天守台石垣(05年10月)

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新幹線の駅構内から行ける所はここだけだろう。よそからは行けない。それだけここの天守台は、新幹線に飲み込まれている。地形的に言ってやむをえないのかもしれない。舟入櫓跡はよく残っている。石垣の基礎の岩盤を見ると、ここが海城として、海岸に築かれていたことを教えてくれる。現在の三原港も直ぐそば、町全体が城址にあたるのだろう。近くの寺には新高山城移築門が現存する。どっしりとした風格を持つ門だ。これだけの門は、全国的に見ても数少ない。ゆっくりと町の中を散策するに適当な町である。

天守台石垣(館町)(現地説明板より)

 日本一の規模を持つこの天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。三原城が造られた一五六七年より約十年後に信長によって安土城が造られ、初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。   この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積み形式を四百年経た今日まで立派に伝えております。   一七○七年の大地震では、城内を役夫二万五千人を動員して修理した。しかし破損箇所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。

史跡 三原城跡(現地説明板より)

三原市館町・本町・天守台跡・大櫓及びこれらをめぐる濠、濠外六尺まで城町・五番櫓並びに船入跡・船入外六尺まで     昭和三十二年十二月十一日指定

小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後にして、沼田川口の三原の小島をつないで城郭を築きここに移った。 三原城は海に向って舟入を開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時には、あたかも海に浮かんだように見えたので「浮城」と、呼ばれている。 小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城になっていたが、国鉄山陽本線が本丸を貫き、今は天守台とそれをめぐる濠、及び五番櫓と舟入り跡が残るのみである。

三原市教育委員会

史跡  三原城跡  

 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄十年(一五六七)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで築いた城で、天正十年(一五八二)前後と、慶長元年(一五九六)のころ偉容を整えたといわれる。 城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。 小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治二十七年(一八九四)六月には三原駅が開業し他。 今では、市街化がすすみ天主台とそれをめぐる濠、船入り櫓跡、舟入り跡及び本丸中門跡を残すのみである。昭和五十六年十一月八日

隆景広場にある小早川隆景銅像裏説明より

小早川隆景公は天文二年(一五三三)毛利元就の三男に生まれ幼にして沼田竹原両小早川家を継がれた永禄天正年間三原湾に海城を築き内海の統治と地方産業の興隆に尽されその治績は筑前福岡と山陽道三原が中心であった天正十年以来豊臣秀吉公の帷握に侍り隆景公が慶長二年(一五九七)病没するやその訃報に接した太閤は「天は何ぞ我が隆景公を奪うや」と大いに慨歎されたここに隆景公を三原の開祖として仰ぎその遺徳を永く顕彰するためこの銅像を建てる  昭和四十一年三月  三原市

国重要文化財  宗光寺山門 一宇(現地説明板より)

昭和二十八年十一月十四日指定

所在 三原市本町一九七二番地

宗光寺山門は、小早川隆景の居城であった豊田郡本郷町の新高山城の城門で、隆景によって当寺に移築されたものと伝えられ手いる。 四足門の切妻造り本瓦ぶきで、桃山文化の趣を伝えるすぐれた蟇股の彫刻類、木割りの未確立のとき建てられているなど、桃山時代の特色をもつ建築物である。 中世に沼田荘の経営にあたっていた小早川氏は、毛利元就の三男隆景を養子を迎え、瀬戸内海の水軍を手中に収め、毛利氏の一翼をになって中国統一に乗り出したが、本郷の地は海岸より離れているので、水陸交通の要にあたる三原の地に三原城を築城した。 この際、沼田地方から移築されたと伝える寺院は少なくない。宗光寺・香積寺・正法寺・成就寺・中台院(以上本町)・大善寺・寿徳寺・釜山寺(以上西町)・極楽寺・観音寺(以上東町)などがそれである。              三原市教育委員会

聖トマス小崎少年について(現地説明板より)

「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう。人からいかなることと受けようと耐え、すべての人に、大いなる慈悲を掛けられますよう。陰暦十二の月二日安芸の国、三原城にて」  一五九七年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎西坂の丘で処刑された殉教者二十六人の中に、14才のトマス小崎がいた。京都から長崎へ護送される途中三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。 処刑後父ミゲルの襟元から発見され、その訳はローマに保管され日本二十六聖人の一人として、世界の人々にあがめられている。 このけなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に碑を建立した。   一九九三年一月十七日    三原カトリック教会