大和郡山城
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復元された追手門、追手向櫓(02年12月)     天守台石垣の転用石仏群(02年12月)

近鉄「郡山駅」でおりて線路沿いを少し歩くと、線路沿いに城址が見える。最近、写真のような立派な門や櫓が復元されており、遠くからでも場所がわかるようになった。本丸の天守石垣には、たくさんの転用された石仏がある。土地柄、石仏にはことかかなかったのか。天守台石垣は豊臣秀長時代に築かれたものであり、まだまだ戦国時代の名残りが色濃くあったものと思われる。何もここ大和郡山だけの現象ではなく、広く全国各地であったことである。戦国乱世における人々の信仰心が、現世の損得に負けたのかもしれない。はたまた敵対していた宗教団体の石仏を利用したのかもしれない。以前来た時には石仏に線香も手向けてあったが、寒い風に揺れる前掛けの極彩色の布だけが寂しげに見えた。石仏と反対側の本丸広場では、元気な幼稚園児が遊び回っているのが対象的である。

 

県指定史跡     郡 山 城 跡  (説明板より)

  郡山城は、天正六〜七年(一五七八〜一五七九)に筒井順慶が縄張りをおこない、同八年の一国一城令に基づき拡張、同十一年には天守閣も完成を見た。同十三年、豊臣秀長が入部しさらに拡張され、文禄五年(一五九六)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。  関が原戦後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保九年(一七ニ四)以降、幕末まで、柳澤十五万石の居城として栄えた。  現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。  なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。    指定年月日  昭和三十五年七月二十八日   奈良県教育委員会

柳 澤 神 社 (説明板より)

現在の柳澤神社の境内は元お城の本丸です。この神社は明治十三年創建、御祭神は柳澤美濃守吉保公です。柳澤吉保公は五代将軍徳川綱吉に仕え側用人を勤め元禄七年川越城主宝永元年甲府城主として十五万石を与えられ宝永六年綱吉公の死後東京駒込(六義園)に移り隠退後剃髪して保山と号す。吉保公の御子吉里公が柳澤藩の大名として入城以来明治維新まで六代続きました。御祭神吉保公の英智は群をぬき歴史上稀な出世をされたため妬を受けて悪い噂の主にされ善行を消され歴史を歪めて伝えられた事は残念な事です。どうか本日お参りの御縁により出世神の御徳をお受けになるようお祈りいたします。拝殿ご本殿の後方に天守閣の跡があります。

追 手 向 櫓 (説明板より)

  追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多時代(一六三九〜一七ニ三年)は大手先艮角櫓(おおてうしとらすみやぐら)と呼ばれていました。追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(一七ニ四年)のことです。  櫓は明治6年に取りはらわれましたが、記録によると、下重(一階)は4間2尺に5間、上重(二階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。      昭和六ニ年三月吉日    大和郡山市教育委員会

追 手 東 隅 櫓 (説明板より)

  この櫓が今の名に替えられたのは、柳澤氏入城後で、それまでは「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)と呼ばれていた。  豊臣秀長入城時(一五八三年)に筆頭家老で五万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の屋敷が、この曲輪に構築されていたのでこの曲輪を法印郭(曲輪)または一庵丸と呼ぶようになった。  古絵城図によると櫓は二重で、下重が二間五尺に三間ニ寸五分、上重が二間ニ尺に二間五尺、(このときの一間は六尺三寸(一五七センチメートル))郡山城の櫓のなかでは一番小型に属している。  構造として窓が五ッ、石落しがニヵ所、鉄砲狭間が六ヶ所設けられていた。  古絵城図のなかに、この櫓の図の肩に「今太鼓櫓」と註記されているのがある。   これは当時櫓に太鼓を据え付けて、刻を知らせたり、変を知らしていたためである。    昭和五十九年十一月吉日    大和郡山市教育委員会

郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来(説明板より)

  筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業をなし遂げて、天正八年(一五八○)十一月十二日郡山にはいり築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は、天正十三年(一五八五)九月に、大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって築城してからのことである。そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。秀長なきあと養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦が起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物のすべては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守○○、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預かっていた。  慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎は十月二十三日郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た。翌元和元年(一六一五)四月大阪夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遇い、福住に逃れた。五月八日大阪落城を知った定慶は、士道に恥じず切腹して果てたといわれている。  戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成が、六万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や塀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。しかし、在城わずか五年で備後福山城に移され、かわって戦功第一の論功を受けた大阪城主松平下總守忠明が、元和四年(一六一八)十月、十二万石をもって郡山城主となった。そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った。追手門もその一つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。その後、本多内記武勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、之助忠村、○○○忠烈と続き、忠烈嗣なく本多家は断絶となった。  享保九年(一七ニ四)三月十一日、禁裏守護の大任を帯びて、十五万石余をもって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を、梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復原された。(○は不明文字)     昭和五十八年十一月二日   大和郡山市